恋愛相談のコラム









自分を変えられない、あなたへ







小学校のときの通知簿で、毎回最低評価になる項目があった。僕の小学校では通知簿は三段階の評価で、「よくできる」「ふつう」「がんばろう」のそれぞれが評価として与えられたのだったが、僕の通知簿には必ず二つ、不動ともいえる「がんばろう」があったのだった。

整理整頓をする……がんばろう
忘れ物をしない……がんばろう

結局六年間、その二つの項目は「ふつう」にさえ改善されることがなかった。僕は自分を変えられなかったのだ。今はどうだろうか? 今はもちろん通知簿をつけられる機会がないが、もしつけられたとしたらあいかわらず「がんばろう」のままだと思う。僕はあいかわらず整理整頓をちゃんとしないし、忘れ物をしょっちゅうする人なのだ。僕は自分を変えられなかったし、今もまだ変えられないままでいるということになる。

自分を変えるのは難しい。

自分を変えるにはどうしたらいいのだろう?

「かわいいオンナになる……がんばろう」の人が、それを「ふつう」「よくできる」にしていくにはどうすればいいのだろう?

自分を変えなきゃ変えなきゃと言っている人が、実際のところなんにも変わっていないとき、その人はいったい何をしているのだろう?

今回は、そのことについて考えてみようと思う。

最近、コラムが長くなりすぎだから、今回は少し気楽な感じでね。

(僕は本質的にお気楽な人間です。最近勘違いされている気配アリ)



■自分を変えるということは、新しい発想を手に入れ、古い発想を放棄するということなのだ。

小学校五年生のとき、クラスに面白い友人がいた。笑いをとるのが上手いやつだった。「マクドナルドって何て省略する? マック? それともマクド?」と女子に訊かれると、「マックド、って省略するよ」と答えるようなやつだった。僕はその彼を面白いやつだと思い、一種の憧れと尊敬を持つようになった。

その友人は荒木という名前だったのだが、僕なりにその荒木を観察しているうちに、荒木は何についても人の予想しない受け答えをする、そしてそれが面白いのだということに気づいた。相手の予想を裏切るから面白いのだということだ。それは今の僕の感覚でいうとウィットというジャンルにカテゴリされる。

僕は荒木から、ウィットという発想を教わったのだった。

僕はそれから、受け答えにおいて相手の予想する答え方、常識範囲の答え方をまずひととおり思い浮かべ、それを裏切るというようなやり方をすることにした。今でもそれは変わっていない。「オトコってやっぱりああいうコとヤリたいとかって思うんですか?」と訊かれて、「うん、僕意外はみんなそうだね」と答えるようなやり方だ。これをウィットというといささか正しくないかもしれないが、発想の方法はウィットのものだ。それで笑いがとれるというほどではないが、会話の空気をほぐす、というような効果はある。センスのある人がやれば、いくらかは気の利いた会話もできるようになるだろう。

オトコであれオンナであれ、好きな人の前、あるいはステキな異性の前では、それなりに気の利いた会話がしたいと誰しも望んでいるものだと思う。僕はそれができますというわけでは決してないが、それでも僕が小学校のころ手に入れたウィットの発想を、二十代後半になっても手に入れていない人がいるのはわかる。そしてそういう人は、どうも会話が上手くない、相手を退屈させてそうに思えて息苦しいし、相手と親しくなるにも潤滑油が無いと、そのことを否定的に思って自分を変えたいと望んでいるものだ。そしてまた、そういう人こそえてして自分を変えられないものでもある。

そういう人が自分を変えられないのは、反省と努力が足りないからではない。単にウィットという発想を手に入れてないからだ。新しい発想を手に入れてないのに、新しい発想をする自分になれるわけがない。合コンで「彼氏いないの?」と不意にたずねられて、内心で「きゃあどうしよう、コレって少しはアタシに気があるってことなのかな!?」と舞い上がりつつ、実際には「はぁ、まあそうですね」としか答えられない人は、そういう発想しかできないからそうなるわけだし、新しい発想もないから今の発想を放棄することもできないでいるのだ。そして後になって、なんでアタシはあんなダサい答え方しかできないんだろうと自己否定する。しかしそういう自己否定も残念ながら自分を変えることにつながるわけではない。自己否定はただの自己否定にすぎない。わかっちゃいるけど、自己否定するという発想しかもっていない、だから自己否定するのだろうけれども。

自分を変えるというのは、今の自分を否定することではないし、気合で作り笑顔を振りまくことでもない。

自分を変えるということは、新しい発想を手に入れ、古い発想を放棄するということなのだ。

「彼氏いないの?」

不意にそうたずねられたとき、あなたはどう答えるだろうか。

自分を変えたいと思っている人は、そこに「新しい発想を持ち込もう」と考えるべきだ。

「好きになってくれる人がいないんですよ〜」

と、そうやってしまうのも芸が無い。

指折り数えて一二三四、

「……今はゼロ人だね」

と片眉を上げて答えるほうがおもしろい。

(ってもこれじゃまたお笑い方面だな)

もう少し色気のある答え方はあるかな。

そうだな、彼の服の裾をグッとつかんで、

「今捕まえたぜ」

と笑うのもいいかもしれない。

んん、僕が考えるとどうしても、お笑い方面のオンナになってしまうな……

(僕はお笑い方面のオンナがけっこう好きです)



■新しい発想を手に入れるには柔軟性が要るのだ。柔軟性が無い場合はあきらめるしかない。

「彼からメールが返ってこないと、不安になって苦しくなって、だんだん『なんでメール返してくれないのよ!』って気分になってくるんです」

そういう話をするオンナがいる。そしてそういうオンナは、基本的には善良で情が厚く、たいていは十分にかわいいコだったりする。性格が歪んでいるわけでは決して無いから、そういう心の働きを、自分としても苦しいし、自分としてもみっともないと思うと、そうある種の健気さで悩んでいたりすることが多い。

そういうコは、そういう自分を変えたいと思い、またそのための知恵を集め努力を重ねてそれこそ健気にやっているわけなのだが、それで自分が変わるかというと残念ながらそうでもない。不安になるのをやめよう、などと強引な抑圧を自分の心に課そうとするが、それは初めから自分にムリを強いているだけなので結局は長続きしない。翌朝目覚めて、まだメールが返ってきていないと、その日は朝からネガティブなため息をついてしまうわけだ。

自分を変えるためには、新しい発想が要る。新しい発想を手に入れて、なるほどと思い古い発想を放棄する、それが自分を変えるということだ。彼からの返信でヤキモキしてしまうなら、ヤキモキしない人の発想が要る。それが手に入らない限りは、一時的なごまかしはできても根本的に自分を変えることはできない。

さてでは、たとえばこのような場合の新しい発想とはどのようなものだろうか。それについて人それぞれ意見があるところだとは思うが、僕として答えるならたとえば次のようになる。

「彼からの返信について忘れてしまおうとするんじゃなく、自分の送信について忘れてしまおうとするべきなんだよ。送信したことをずっと意識にとどめてるから返信を待ってしまうんだ」

「メールなんて待つものじゃないよ。携帯電話をトイレに置いて、トイレに行くたびにメールチェックするものだ」

「メールってのは受け取った時点で返信する時間がなければ返信しなくていいものなんだよ。仕事の休憩時間にメールを読むじゃない、そして返信しようと思ったけどもう時間が無いなってなって、そのまま何時間もたったらもう返信しないものなんだよ。返信がくるのは、受信したときたまたま時間があった場合のみなんだ」

「電話でも、通話中のときってあるじゃない。それと同じように、メールでも通話中ってのがあるんだよ。メールをやり取りする脳みそのチャンネルが、別の回線でブロックされてるようなときがさ」

「返信という概念がそもそもとして間違ってる。返信が来たように見えても、それは返信じゃなくて新しい一通なんだよ。メールの一通一通は独立ってことだね。自分の送信に返信があるものだというのは根拠無き思い込みだよ」

こういう発想は簡単に思いつくだけでも百個ぐらい出てきそうだが、こういう発想を新しいものとしてナルホドと思い、自分のものにできれば自分を変えられるわけだ。自分を変えるにはそうするしかないし、自分を変えるというのはそういうことでしかない。

ここで、百個の発想を並べたとしても、「でも……」と言って全てを拒絶する人もいる。そういう人を僕はデモ病の人と呼んでいるのだが、そういうデモ病の人は精神に柔軟性が無い。旧来の発想を放棄するつもりもないし、自分の発想に未熟があるということを考えないため、自分の発想を正しいものとしてそれを疑うことを一切せず、新しい発想をそもそも検討しようという姿勢がないのだ。今の発想でカチコチ、すなわち柔軟性が無いということである。それでは自分を変えることはできない。デモ病の人は、それが収まるまでは永遠に自分を変えることはできない。

新しい発想を手に入れるには柔軟性が要るのだ。柔軟性が無い場合はあきらめるしかない。

新しい発想を手に入れる柔軟性は、オバサンになれば誰しも失うものだと思うが、それを失ったらたとえ年齢が若くても立派なオバサンだと言えよう。

念のために言っておくが、ナルホドと言えるだけの百一個目を出せ、などと思わないように。

それは本来、自分で探し出すものなのだから。



■「そのままでいいよ」というのはウソだ。

セックスのときに、カラダに思い切り力を入れるオンナがいる。それもカラダを色っぽくのけぞらせるとかではなくて、足を閉じる方向にばたつかせたりとか、頚骨をヘシ折る勢いで相手に抱きついたりとか、そういうタチの悪い力の入れ方でだ。経験が浅いうちはカラダがびっくりするのでそれはしょうがないのだけれども、いくら経験を重ねてもそういうカラダの使い方しかできないオンナがいる。それでは残念ながら、ステキなセックスはできない。できないし、彼氏も徐々にセックスすることにくたびれてくるかもしれない。そういう人は、ぜひ自分を変える必要があるだろう。愛撫の最中に側頭部をゴンと蹴られるのはかなり不愉快なものだ。ベッドの上で総合格闘技をやっているのではないのである。

「そのままでいいよ」、というような言葉がある。癒し系というか優しい系というか、そっち系で使われる言葉だ。事実やさしい言葉だと思うし、それを否定するつもりもなければ否定しても野暮になるばかりだとは思うのだけれど、それでも「そのままでいいよ」なんてことはそのまま鵜呑みにしていいことではないと思う。セックスの最中に最愛の彼氏を蹴飛ばしてしまうオンナはそのままでいいはずがない。変えていかなくては、彼も自分も傷つけていくばかりになる。

そのままでいいことなんて、誰も初めから変えようと思わないものだ。自分を変えなくてはいけない、その思いは往々にして切実なものである。僕はそれを応援するし、応援しないということは相手に対して冷ややかに諦めているかあるいは興味がないというように感じられてならない。

「そのままでいいよ」というのはウソだ。

(あ、やっぱり否定してしまった)

「じっくりでいいよ」というのがホントのところだと思う。

オトコとオンナがステキに愛し合うのはそう簡単なことではなく、まして愛し合い続けるのはさらに難しいことになるのだから、その中で自分を変えなくてはいけないことはいくらでも出てくる。しかし、初めにいったように自分を変えるというのは存外難しいことであり、それも単純なことについてこそ難しいことであったりするから、それにはあわてずじっくり取り組めばいいと思う。

そのことをじっくりやれる、そのゆとりが恋人たちのやさしさだと思うし、そのことをお互い励ましあえるのが恋人たちの営みだと思う。また、そのことにお互い真剣になれるのが恋人たちの誠実さなのだとも思う。

ただし、じっくり取り組むといっても、それは「やったりやらなかったり」ということではない。それは単なる手抜きであって、自分を変えるということにはつながってこない。

「じっくり」というのはまた別のことだ。

星のごとく急がず、しかし休まず、ということだ。

(ゲーテからの剽窃です)

(ステキな言葉だと僕は思っているんだけど、みんなはどうだろうね)



■自分を変えていくことができないときにこそ、僕たちは陰鬱な疲労に打ちのめされるのだ。

「自分を変えたい」「変えなきゃ」「変えてみせる」、そのことは誰でもいつでも思っていることだと思う。僕たちにとって、自分を変えるというのは一時のことではなく常のことだからだ。誰も見上げることのない街路樹として植えられたケヤキの木でも、その枝葉を常に伸ばして強く大きく明日こそもっと陽に照らされようとしている。一秒たりとも停滞はしていない。生きものにとっては変化こそが常のことなのだ。

だから僕たちは、自分を変えていくことに決して疲労はしない。

疲労するのは逆の場合だ。

自分を変えていくことができないときにこそ、僕たちは陰鬱な疲労に打ちのめされるのだ。

(でしょ?)

「自分を変えよう」という意気込み、その背後に「わたしってダメ」という疲労気味の自己卑下を持ち込んでいる人がいたとしたら、僕はあなたに偉そうに説教しておきたい。自己卑下はできたらやめたほうがいい。あなたは自分で自己卑下しても平気だったりむしろ快感だったりするかもしれないが、あなたを大事に思う人があなたの代わりに傷ついている。だからできたらやめてほしいのだ。まして、そのことが自分を変えていくことにつながるわけでもないのである。むしろ自己卑下の習慣は、単純に自分から活力を奪い疲労させ、今の自分をそのまま固く閉ざしていくばかりになる。排気ガスを吸ったケヤキは梢を枯らしていくわけで、あなたは自分に精神の排気ガスを吸わせてはいけない。

そんなことよりもっと直截に、あなたはあなた自身に問いかける、その作業から始めるべきだろう。

―――自分を変えるにして、そのためにある「新しい発想」は?

まずはそこから始まるべきだし、それ以外にはもともと始めようもないのだ。

彼に話しかける、彼にメールする、彼とデートする、彼とセックスする、彼と恋人になる、そのいろいろなシーンにおいて、あなたは自分に行き詰まりを感じ、そのたびに自分を変えたいと思うことだろう。

あなたはそのたびに、新しい発想を必要としているということなのだ。

僕たちはいつだって、新しい発想を考え、模索し、発見しなくてはいけない。

そのために、人と話したり、本を読んだり、映画を観たり音楽を聴いたり、あるいはこっそり泣いたりする。

そのこと全体が、ステキなことだなと、僕は思っていたりもするのだけれど……


そんなわけで、今回の話はこの辺にしておきます。

ちょっとお部屋のお片づけ、整理整頓でもしようかな。

僕はこれから、整理整頓を「よくできる」人になれるだろうか?

そうなりたい、とは常々思っている。

でも、そのための新しい発想を、まだ僕は手に入れてないんだよな……

(自分を変えるというのは、ホント難しいね)

じゃあ、またね。


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