恋愛小説のコラム









一人相撲に苦しむ、あなたへ





指揮者というのは、コンサートホールにおいて、唯一お客さんに尻を向けている存在だ。そんな失礼な存在であっても、指揮者抜きにしては、演奏は成立しない。テレビなどで、その映像を見ていると、指揮棒と演奏がまるであっていないように見えるものだが、一度でも演奏する側になるか、あるいはせめてライブで聴きにいくようになると、演奏が寸分の狂いなく、指揮棒の指示にシンクロしていることが分かるようになるはずだ。指揮棒が振り下ろされると同時に、プレイヤーが音を出すのではない。指揮棒が、打点を叩いたその刹那、プレイヤーは、その打点にあるニュアンス、すなわち、強さ、緊張感、レガート、リズム、その他諸々の印象を受け取り、その後、自分の楽器においてその印象を再現するのだ。何十人も参加する演奏において、表現を統一するには、それが唯一にして最高の方法なのだ。余談だが、この指揮棒による指揮が生まれる以前の中世ヨーロッパでは、指揮者が、杖のようなもので、地面をダン・ダンと突いて、テンポをとって演奏していたというのだから面白い。中でも、リュリという音楽家は、この杖を足に刺してしまい、それがもとで死んでしまったという。

さてそのように、指揮というのは、見た目よりはるかに専門性のある仕事である。僕は、大学のクラブで、60名余りが所属する合唱団の指揮者を勤めたが、その僕でさえ、週に一度、プロのレッスンに通っていた。指揮棒の技術、バトンテクニックというものは、よっぽどのセンスがなければ、独学やカンで身につく類のものではない。プレイヤーは、指揮の打点を見てから音を出すのであるから、指揮者は、まず無音の中で、自分の内に音楽をイメージできなくてはならない。そして、演奏のイメージを、一つ一つの打点に置いて、プレイヤーの前に並べていく。この基本を身につけるだけでも、僕は丸々一年はかかった。

その技術を学ばんとする十数名が、レッスンの教室にいて、僕は、その中で指揮台にの上に立っていた。先生が、ジロリと僕の右手を睨む。青き美しきドナウ、を振っているのだが、ピアニストが僕の指揮に忠実に奏でるその音は、まるで壊れたオルゴールのようだった。6/8のリズムの端っこが、指揮棒に乗っていないためだ、と分かっているのだが、一度混乱すると、脳も腕も硬直してしまい、あとはその壊れたオルゴールの音量が、いまいましく上がるだけだった。

先生が、右手を大きく振って、演奏を中止させた。だめだ、だめだ、お前、それのどこがドナウなんだよ、無駄にブンブン振り回すな、お前はただでさえ身体がデカいんだから、まるで、相撲取りがパンチしているみたいな演奏だ、と、意味が分からない上に立ち直れないコメントをした。打ちのめされた形で指揮台から降りる僕を、先生が呼び寄せて、加えてこう言った。

「棒振りは」

先生は、指揮者のことを、棒振り、と呼ぶ。

「棒振りは、プレイヤーに、ベストの棒を示すことしか、できないんだからな」

その言葉は、当たり前のように聞こえたが、妙に重々しく、僕の中に刻まれた。

複雑な顔をしながら、教室の隅に戻ってきた僕の肩を、リエがやさしく叩いた。リエは、いつもどおり、場にそぐわないほど、ドレッシーにきめこんでいる。黒のタイトミニの上に、白のブラウス、そしてピンクのジャケットを着ている。ピンヒールに網タイツがちゃんと似合う女として、僕は彼女以上の存在を知らなかった。彼女の使っている香水が、ジバンシーの、すでに生産終了したものであることを、つい先日聞きだしたところだ。その時にリエは、「香水つけてるのは、首筋だけなんだけどね、ほら」、と言って、髪をかきあげて、僕の鼻面に、無防備なうなじを寄せてきた。リエは、自分をプロテクトすることと、開示することが、アンバランスだった。その頼りなさは、19歳という年齢にしては幼すぎるもので、セクシーだった。僕は白いうなじの香水の香りと、それ以外の香りをかぎつけながら、しばらくは彼女のことを想いながら、自慰をしてしまうのだろうな、とおぼろげに思ったのだった。

リエが、指揮台の上に立ち、棒を振り始めた。リエは僕より一学年下で、僕の参加よりちょうど一年後に、このレッスンに参加してきた。レッスンの進行のペースは、かつての僕のそれより速かったが、彼女にはまだ、指揮者としての気迫が宿っていなかった。彼女は度胸がよく、また本質的に勤勉であったので、カリキュラムを突破していくことには優秀だったが、不十分な自分で未熟な何かを表現してやろうという、あつかましさ、ずうずうしさが欠けていた。そういう生々しさから逃げて、上品に振舞うところは、典型的な女子大の女の子にはありがちなことだったし、彼女の繊細な心は、そういうことを何より苦手としていた。彼女がいかに、普段から気丈を装い、強がりをいう性格だったとしても、僕は彼女のその弱さを知っていた。彼女も、あなたには全部見透かされてるもんね、それだけはなんとなく分かるわ、と言い、僕をことあるごとに相談役に仕立てていったのだった。僕は、すでに色んなものを捨て、あきらめてきたので、捨てきれないものが多い彼女から見ると、大人、に見えるようだった。

リエは、先生に何点かアドバイスをもらった後、指揮台から降りてきた。全然だめだね、と僕に笑いかけてきたので、僕は、うん、いつもどおりぜんぜんだめだね、と言った。彼女は、僕のみぞおちを拳で軽くこずいた。そのしぐさにも、どこか、相手に嫌われることを恐れる、繊細さがあった。彼女は、弱虫になることを精一杯拒否していたが、その心は、いつも張りつめていて、内側は苦しそうだった。僕が、たとえ絶世の美女でも、深刻に悩むことがあるのだということを本当に理解したのは、彼女のことを知るようになってからだった。僕は、彼女の頬骨がごくわずかに高すぎることを除けば、彼女はアイドルと水商売の中点をいく完璧な美人だと思っていたし、実際、彼女と一緒に街を歩いたときは、彼女がものすごい数の男性の視線を集めることも体験した。おまけに、それぐらいはあるよ、と彼女自身の証言を得たEカップ以上のバストを、無遠慮にアピールする服装をしていることが多く、それはどんな男性が見たって息を呑むものだった。僕は彼女の隣を歩きながら、彼女は金無垢のロレックスをはめたとしても、決して下品にはならないのだろうな、と嘆息していたものだった。

一方で、このレッスンのある木曜日の午前中、彼女が神経内科に通っていることも、僕は知っていた。通院の主な理由は、不眠症だった。彼女は、寝る前になると、彼女が頑なにビルドアップした自分、気丈で、人当たりがよく、前向きな自分が、全部作り事で、自分の弱さを認められない弱虫、八方美人で、実は誰にも心を開いていない奴、というように思えてくるらしい。そしてその眠れない夜、深夜に、しばしば彼女は僕に電話をくれた。こんばんは、元気?と。あくまで気丈に振舞うことしかしない、苦しむ彼女の声は、毎回、僕の胸を打った。弱音を吐くのが苦手な彼女、夜中三時に電話をかける非常識が苦手な彼女が、電話をかける相手として、僕を選んでくれたことは、うれしいことだった。僕は、そういうとき彼女に、どうしたの、とは聞かない。どうしてしまっているのか、それはきっと彼女自身にもわかっていないのだから。いつも、無駄話をして、最後には、ようし、じゃあ今から会いに行ってやろうか、友達をたたき起こして、原付を借りて、そっちまで行ってやるよ、と、僕はそう言うだけだった。彼女はいつも、もう夜遅いから、またの機会にね、と言う。僕は引き下がらず、つまらないな、この雨の中、ポンコツの原付を何時間も飛ばして会いに行く、このロマンが分からないか?よし、分かった、じゃあエッチは無しだ、添い寝して、朝まで、僕は勃起したまま、ベッドの中でリエの話を聞き続けよう、それでどうだ、ロマンティックだろう、と迫る。彼女は、だめだよ、そんなことしたら、あたしのほうが我慢できなくなるから、と、半分以上本気で、言う。彼女は、何も考えず身体ごと愛し合うことが、本質的に好きだった。彼女の揺れやすい心は、この言葉遊びの中のNGゾーンにまで振れてしまって、声色がしっとりと湿ってしまっている。僕は、自制しようとして、軽いめまいに襲われる。彼女を勢いにまかせて抱くこと、そのために深夜、信号無視をしながら原付のエンジンをガリガリ回して突っ走るのは、この世で最上級の悦楽であり、それと戦うのは、なかなか苦しい作業だった。なぜ自制するのか?リエを、勢いにまかせて抱くのはいい。でも、彼女が弱っているときに押し込むのは、卑怯だからだ。彼女が今苦しんでいるなら、少しはそれに付き合ってやれよ、男なんだから。

僕は彼女と一緒に、レッスンの教室を出て、帰り道、神戸の高台から駅に下る道を歩いた。神戸の夜景は、僕の知る限り、日本で一番美しい夜景だ。無数の光点と光点が寄り合って、一つの大きな光の帯になっている。急峻な六甲の山、そしてそのふもとの街という、この地形があってこその、この神戸の夜景なのだ。

彼女は、一人のときは、バスで駅まで下るのだが、僕と一緒の時は、僕の泣き落としに同情して、しぶしぶ、ヒールでは歩きにくい下り坂を一緒に歩いてくれる。僕は、僕の左手で、彼女の右手を握った。彼女は、あわてるそぶりもなく、まあ、今日はがんばったし、許してあげようか、と言って、僕の手を握り返してくれた。僕は、世間一般から見れば、強引なやり方でリエと接していた。僕は彼女を魅力的だと思っていたし、その彼女を身体ごと愛したい、という気持ちに、全くためらいはなかった。そんなことを恥じたり、ひた隠しにする必要はない。恥じるとするなら、もし、身体で愛し合うことが妄想と化し、彼女の人格、その一瞬一瞬の心の拍動が感じられなくなり、身体のみを求める妄執に理性を奪われたときだろう。それは、妄想に支配されてしまう自分の器量の小ささを露見するとともに、彼女の人格に対して、深刻な侮蔑を与えることになるから。

僕とリエは、手をつないだまま、歩いた。僕はそれ以上のことは、今は望まなかった。それには理由がある。彼女はこの間、僕が他の女性と2人で三宮を歩いているところを、目撃してしまった。その後しばらく、彼女は、僕を罰するかのように、僕を避けた。話しかけようとしても、それはもう走って逃げてでも口をきかない、というぐらいの決意のオーラを出して、僕を避け続けたのだ。僕は、もちろん僕をさける理由がわからず、十数回のメールを出して、ようやく、僕の軽薄をなじる彼女の返信をもらい、その後も時間をかけて僕を好きなだけ罵ってもらい、今の状態にたどり着いたのだった。

僕が他の女性と歩いていたからといって、その態度の豹変は、極端すぎるものだっただろう。それは、彼女の繊細さ、もろさ、危なっかしさの、堰を切ったような表出だった。僕は、目の前にいる人に、常に真剣な気持ちを向けていたい。だから、三宮を一緒に歩いた女性に対して、真剣な気持ちを向けていたか、と問われれば、Yesと答えざるを得ないだろう。それは恋や性欲と、まだ無縁のものだったとしても。だからといって、リエに向けている気持ちが、他の誰に向けるものとも同じ、コピーしたような、チープな気持ちだったか、と問われれば、もちろんNoだ。それが当然、当たり前のことだったが、リエの、過敏で激しいその心は、その当然のことを許さなかった。だから、僕たちの間にはそのような急速な氷河期がおとずれたし、今こうして手をつないで歩いていても、それ以上のことを望むには、氷で刻まれた溝はまだまだ深すぎたのだ。そんなわけで、彼女に対してずっと強引にやってきたようでいて、結局僕はまだ彼女と寝ていない。彼女とは、お酒を飲みにいった帰り、雑居ビルの階段の踊り場で、挨拶ではないキスをしたこと、片方の乳房とその先端に直接触れたこと、そこまでだった。

僕は彼女を、駅の改札口まで送った。彼女が改札を通り抜け、彼女が階段を上がり、ピンヒールの先も見えなくなって、そのまま5秒が経過するまで、僕は彼女に手を振り続けた。彼女は、その途中何度か振り返り、手を小さく振りながら、照れくさそうに頭を何度も下げた。僕は、その足で、駅前にある貧相なラーメン屋にいって、おそい夕食を食べた。また、無駄なメールを送り、深夜の電話を待とう。来週の木曜日のこの時間まで、そうしてすごそう。

しかし、翌週のレッスンに、リエは来なかった。その翌週も、翌々週も、リエは姿を現さなかった。僕は、三日に一度ぐらい、彼女の携帯にメールを送っていたが、何度目かのメールでついに、undelivered,という無機質な通知を受け取ってしまった。僕は、リエが何らかの理由で出てこないだけかもしれない、という、不安をねじ伏せて作り上げた楽観的な考えをもって、レッスンに出続けた。何週目か、先生が、僕とリエの関係をどこまで知っているのか、あえて何も知らぬ口調で、リエなあ、体調のこともあって、大学辞めて、引越ししたらしいな、と教えてくれた。それ以上のことを言わず、そのまま楽譜に視線を落としてくれた先生に、僕は感謝した。きっと僕は、とんでもなく醜い、みじめったらしい顔をしていたに違いないから。

リエは、僕の生活から、突然ぷっつりと消えてしまったのだった。

それから数ヶ月の間、僕は、自問自答と煩悶の、誰も褒めてくれぬ日々をすごした。リエはどこにいってしまったのだろう?そう思いつめるうちに、周りの音が、リアルには聞こえなくなり、どこかふわふわした感覚で、さまようようになった。国道の横断歩道を、赤信号で渡って、数台の車に一斉にクラクションを鳴らされたりした。なぜ、リエは、何も言わずに、消えてしまったのだろうか?僕の何かが、いけなかったのか?あの三宮での目撃事件?あのことはもうさんざん僕をののしったはずだが、やはり僕にこういう罰を与えなくては解決しなかったのか?彼女自身の理性が、その不合理を認めていたにもかかわらず?それとも、僕がなにかと強引すぎたのだろうか?いくら考えても、僕自身で解答を導き出せるわけはないのだが、僕は考え続ける。そもそも、彼女にとって僕は、その程度の存在でしかなかったのか?僕と彼女の間にあったと思われる関係は、全て僕の思い込みに過ぎなかったのか?だとすれば、僕はなんて迷惑で、うざったい奴なんだ。いやしかし、僕は僕なりに、彼女と、よしみを、縁を、きずなを、築いてきたつもりだったのだ。それがこんな扱いをされるのか?友人に借りた消しゴムを返し忘れるように、僕に別れを伝えることなんか、忘れてしまっていたのか?なんにせよ、バカバカしい。僕は世界で最もバカバカしい存在だ。バカバカしいから、いっそのこと、さっさと死んでやろうか。そして僕が死んだとして、リエに僕の死が伝わることはないだろう。それが、このバカバカしい世界にあてつけるものとして、最高の死だ。ああ、バカバカしい。この不毛に悩む僕の、僕なりの最重量級の陰鬱が、誰と共有できるものでもなく、僕の一人相撲だというところが、一番バカバカしい。彼女は今頃、新しく買ったペディキュアを塗って、その色合いについて、お気に入りのミュールとの組み合わせでも考えているのではないか?

その陰気な数ヶ月の間も、レッスンに通い続けた。クラブに出ること、指揮者として練習をリードしていくことも含めて、それらは習慣の力で惰性的に継続していた。レッスンにおいて、ピアニストが弾くグランドピアノの音は、僕のふわふわした耳には決して音楽として聴こえることはなかったが、シンプルな音の集合として聴こえたため、逆に、プレイヤーに音を出させるタイミング、その基本的技術を、技術として習得することができた。僕は、底まで腐っている心でも、技術を習得できてしまう人間という生き物の機能に感心した。そして、僕は以前より信頼できるようになった、僕の右手と指揮棒をもって、本番まで残りわずかとなったクラブ練習に望んだ。コンサートは、もう来週の金曜日に迫っている。

暗譜した60人の団員が、楽譜を持たずに並んでいる。それに相対するように、僕は彼らの前に立つ。相変わらず、演奏は情感を伴って僕の耳に入ってくることは無かったが、技術的な優劣は、逆に冷静に判断できた。バトンテクニックの向上で、以前より意図どおりのタイミングで音を出させることができた。八分音符アウフタクト、シンコペーション。カノンの、各パートのアインザッツ。しかし、それができるようになると、プレイヤーの集中力の無さが目に付くようになってくる。棒振りがいくら血管を浮かせても、プレイヤーがあくびをすれば、演奏もあくびをする。僕は、いいかげんにしろ、やる気あるのか、と言うべきだと思った。棒振りとは何をするもので、プレイヤーとは何をするものか、それを言わなくてはならないと思った。

「・・・棒振りは・・・」

そこまで言ったとき、僕は、僕の視界に薄暗いフィルターのようなものがかかるのを感じた。そして、頭の中を、何かがぐるぐる回り始めた。僕は、何をやっているんだ?僕は、失恋をした。そして、その失恋の理由は、永遠に分からない。僕が白骨となり朽ち果てるまで待ち続けたとしても、その解答はやってこない。そこまでは、分かったはずだ。では、そこまで分かったなら、次に何をどうしていくか、もう分かっているんじゃないか?

「棒振りは、プレイヤーに、ベストの棒を示すことしかできない。だから、僕は」

僕は鼻から息を吸い、その空気が自分の身体の芯をまっすぐ通り抜けていくことを確認した後、息を止めて、全て吐き出すように言った。

「僕の持つ、ベストのものを、みんなに示します。これからずっと、そうします」

僕は、僕のベストの棒を、示し続けよう。そうしたとして、プレイヤーがどのような音を出すのか、それは僕には分からない。ただ、願わくば、プレイヤーも、ベストの演奏で答えてくれんことを。

ここから僕は、前に進めるのだろうか。僕は新しい演奏を開始するため、指揮棒を、高く振り上げた。






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