恋愛小説のコラム









大きくて滑稽なモップ





この、軽薄な打ち込み系の音、音楽とは呼びたくないBGM、止めてもらえないものかな?むしろ、すぐ近くに通っている国道、そこを行き来するトラックの騒音があるのだから、それだけをBGMとするほうが、いくらかはお洒落なんじゃないか?僕などには、そう思われてならないのだけど・・・。

僕は深夜、24時間営業のファミリー・レストランのテーブルに肘をついて、そのようにぼんやり考えた。レジ脇の壁に掛かっているアナログ時計は、丁度3時を指していた。

僕はこの、近所にあるファミリー・レストランによく来る。しょっちゅうといっていい頻度でだ。たいていは、本を読んだり文章を書いたりするために来るのだが、その日は少し事情が違っていた。つい先程、一つの小説―――大江健三郎の「新しい人よ目覚めよ」というやつなのだが―――を読み終わって、それによって活性化された気分を持て余し、何やらじっとしてはいられぬという具合で、このファミリー・レストランに来て、特に飲みたくもないアメリカン・コーヒーを注文したのだった。小説、特によく出来た文学というのは、無闇に人を活性化しないか?その内容が、ハッピーか、アンハッピーかに依らず・・・。

オーダーから一分と経たないうちに、アルバイトのウェイトレスが、小気味良い歩調で、そのアメリカン・コーヒーを持ってきてくれた。彼女は両手でカップとソーサーを滑らかにテーブルに差し出し、僕はそれに意味のない会釈を返した。僕はしょっちゅうこの店に来るので、彼女とは、言葉を交わしたことのない顔見知り、といったような間柄になっていた。

―――そういえば、ハセキョーに似てるよな?

僕は、僕自身唐突と思える具合に、そう彼女に呼びかけてしまった。彼女は僕の呼びかけに顔を上げ、きょとんとした無防備な顔を見せた。僕の視界の端では、レジを操っている店長と思しき男が、ちらりと僕のほうを伺いもした。

彼女はそのまま、どのように応えるべきかと逡巡した様子を僅かに見せたが、それでもすぐに、はっきりと笑顔―――少々、強張ってはいたけれど―――を作ってみせ、愛想よく応えてくれた。

―――そうなんですよ。成人式で髪を黒く染めたら、そう言われるようになりました。

彼女の声は、やや低めの、響きにツヤのある、現代風に凛々しい声だった。それはただちに僕を、さわやかな気分にさせた。

ハセキョーという名前を思い出せたのは、すでにおじさんの気配が濃厚な僕としては、珍しいファインプレーだった。彼女に対して呼びかけを行ったこと自体も合わせて、僕は確かに活性化されていたに違いなかった。そして、彼女に与えられたさわやかな気分もあって、僕は単純に、愉快だな、と感じた。彼女のほうが愉快に感じてくれたかどうかはわからなかった。彼女はすぐに業務に戻り、その体と比較して滑稽に大きなモップでもって熱心に床を磨き始め、それからは僕に一瞥もよこさなかったから。あの少し強張った、それでいて上品さは増すようですらあった笑顔が、実はいやいやながら僕に向けられたというものでなかったなら、いいのだけれど。

僕は、ごく平凡に淹れられたアメリカン・コーヒーを、実際以上に美味しく飲みながら、考え事をした。普段考えないようなことをことさらに考え出したのも、やはり僕が活性化していたことによるのかもしれない。

僕が、ウェイトレスの彼女―――ここでは、ハセキョーと呼ぶことにしようか―――ハセキョーとそのように言葉を交わし、僕としてそれは愉快なことだったのだが、それについて改めて考えてみれば、果たして一体何が、愉快に感じられたのだろうか?それは、精密に考えていくと、じつは正体の見えない、奇妙なことなのではないだろうか。

一般的に言って、恋愛とかセックスとかは、愉快なことだ。ユカイというと語弊があるが、まあ大分類的には愉快なことといって差し支えないだろう。それについては誰も、異論は無いように思われる。そして僕は、ハセキョーみたいに綺麗で上品な女性が好きだから、もし僕がハセキョーと恋愛したり、セックスしたりしたら、それはきっと僕にとって、非常に愉快―――強烈な甘やかさと陶酔を伴う―――に感じられるだろう。それは、自明のこととして了解される。

しかし、先程僕がハセキョーと交わした、ごく短い交流は、果たして恋愛と呼んでいいものだろうか?あるいは、セックスを予感させる何かであると、みなしうるだろうか?それはいかにも間違っている。だってそうだろう、それを恋愛と呼んだら、僕は週に5回ぐらい恋愛をしていることになる。あるいはそれにセックスを予感していたら、僕は毎月一回、避妊具をダンボールごと買ってこなくちゃならないことになる。

要するに、僕とハセキョーの間にあった交流について、恋愛とかセックスとかの概念で考えることが、根本的に不適当なのだ。僕が愉快に感じたものは、もっとイージーで、単純な仕組みのはずだ。僕は、ハセキョーのように綺麗で上品な女性が好きで、そのような女性と言葉―――ちょいとだけ、色気の混じった言葉ではあるけど―――を交わすのが好きなのだ。それが満たされたとき、僕は愉快に感じる。ただそれだけのことだ。

さてここで、「それだけのこと」とは言ったが、僕はそれを何と呼べばいいだろう?そう考えると、実は僕は―――あえて、僕たちは、と言おうか―――、それをそれとして呼ぶにふさわしい言葉を、持っていないのだ、ということに気付く。僕とハセキョーの間で交わされた交流。僕を愉快に感じさせたささやかなもの。僕たちはそれをうまく捉えるための言葉を持っていない。また僕たちは、それをもっていないから、すぐに恋愛という言葉などを持ち出そうとするのでもあるだろう。それが不適当だとは、薄々感じながらも。

ある出来事があったとして、それを意識して捉えるためには、それをよく言い表している言葉が必要になる。僕たちは人間として、言葉で考えざるを得ないのであるから。そこで僕として、そのようなことを、最も疑いようの無い言葉として、「セクシャリティ」と呼ぶことにしたい。僕がハセキョーと交わした短い交流、それによって生まれた僕の愉快な気分。僕はそれを、僕のセクシャリティ、それが充足されたことによる愉快な気分、と捉えることにしよう。そうすれば、どこにも疑わしいところはない。

セクシャリティと、その充足。僕として、その言葉と概念を導入すると、色々な発見があることに気付く。

極めて容易に見出される発見の一つとして、まず「歪んだ恋愛」という考え方の、不適切さと誤り、というのがあるだろう。

僕たちの周囲には、ストーキングとか童女性愛とか、そういった恐ろしい言葉があり、またそれにまつわるおぞましい事件がたくさん起きている。マスメディアを中心として、僕たちはその事件を引き起こす元となった衝動について、「歪んだ恋愛感情」と呼びがちなわけだけど、実のところそれは不適切じゃないか?それはどちらかというと、「歪んだセクシャリティ」「凶悪なセクシャリティ」と呼ぶほうが妥当だ。第一、そういったものまで「恋愛」のカテゴリに入れてしまうと、僕たちの恋愛が、しっちゃかめっちゃかになってしまうではないか。

彼氏がいなくて淋しい、という言葉をよく聞く。クリスマス前なんかは特にそうだ。でもこれも、実のところ正確ではないのだ。そういってぼやく人はたいてい、出会いが無く、口説かれることがなく、デートに誘われることもなくて、そういった状況を全てひっくるめて、淋しいと感じている。だから単に、彼氏(=恋愛の対象)がいなくて淋しいと感じているのではないのだ。これについて正しく言い直すなら、セクシャリティ全般の飢えがあって、そのことを淋しいと感じている、ということになるだろう。

一年以上誰ともセックスしてなくて淋しい、という場合もある。でもこれも、やはり正確ではない。これについては、男性の場合を考えたほうがわかりやすい。男がそのように淋しく感じていたとして、そういうお店にいって、とりあえずセックスについて満たしたとしても―――実は情けないことに、僕はそういうお店に行ったことがないので、想像でしかないのだけれど―――やはりその淋しさは根本的には癒されることがない。女性の場合でもたいていは、セックスしていないことよりも、「こんなに誰にも求められないなんて、女として欠陥品みたい」といったような感情をもって、淋しいと感じているものだ。こういう場合、セックスをしなくても、例えば男子高校生に突然ラブレターを手渡されたりしたら、その淋しさはかなりの割合で消えてしまう。だから、これについてもやはり、セクシャリティの飢え=淋しい、と捉えるほうが正しいといえる。

セクシャリティという言葉と概念は、そのように色々な発見をもたらしてくれると、僕は考える。またさらに言うなら、その言葉と概念は、力強さと、進むべき方向性すらも、僕たちにもたらしてくれるのではなかろうか。

セクシャリティという言葉によって生まれる、力強さ。それについて考えるには、まずありがちな、恋愛という言葉、それによって生まれるその力の貧弱さを考えるべきだろう。次のような言葉は、実に陳腐で、貧弱じゃないか?

―――すてきな恋愛をして、生きていきたい。いつも胸がドキドキしてしまうぐらいに。

それと比較して、例えば次のような言葉は、どのように感じられるだろう。僕などには、実に力強いものとして、感じられるのだが。

―――セクシャリティを充実させて、生きていきたい。いつも顔が赤くなってしまうぐらいに。

僕としては、後者のほうが圧倒的に力強く、また華やかにも感じられるのである。また、それに共感なり同意なりしてくれる人にとっては、それは僕たちが進むべき方向性を、実に分かりやすく示しているようにも、受け取られるのではないか?

「すてきな恋愛をしたい」という意思は、方向性の持つのが難しいが、「セクシャリティを充実させたい」という意思は、方向性が明らかだ。僕とハセキョーの交流が、そのささやかな例の一つであるわけで、そのような方法と機会を、直截に模索していけばよいわけだ。それはかなり具体的であるから、やはり後者については、力強く、明らかな方向性があるといってよいだろう。僕などには、そのように受け取られるのである。

「セクシャリティと、その充足」という考え方と、それによって生じる力強さと明らかな方向性。このことを、僕自身、これからの支えにしてゆきたいと思う。即ち、僕自身これから淋しさに直面することがあったとして、それをセクシャリティの飢えであると捉え、それを打破していこうという態度を取るということだ。もちろん、恋愛やセックスも大事なもので、それらもセクシャリティの一部、むしろ最もインパクトのある要素であるということを、忘れるわけではないにして。もちろん一方では、すでにおじさんである僕にとって、今さらの発見、今さら何を充実させようとしているのだ、と自嘲する感覚はあるのだけれども・・・。

さて女性にとって、ここまでに示した考え方は、どのように受け止められるだろうか。肯定的にか、否定的にか、あるいは共感的にか。共感してもらえたら、もちろんそれが僕にとって一番嬉しいことだ。そのような人が、「あたしのセクシャリティ」について考えるようになって、生活をより溌剌としたものにしていくことがいくらかでもできたなら、僕にとっては何よりの励ましになる。僕自身としても、そういう人と、これから友達になってゆきたいし、そのような人に、その人のセクシャリティがどのような個性をもっていて、どのように輝き潤っているか、またどのように飢え乾いているか、そういった話を力強く聞かせてもらえるならば、きっとそれは楽しい時間になるだろう。そのように共感してくれる人がいたとしても、もちろん一方では、僕の示した考え方に、否定的である人もいるだろう。頂点の概念として、恋愛しかありえないと、やはり感じる人もいるだろうと思う。僕はそれを説き伏せるほどの力はないし、またそうするべきだとまでは思えない。その人はその人で、自身の考え方に支えられて溌剌とあれるのであれば、僕のような差出口はまったく無用のものとなるのだから・・・。中には、単にセクシャリティという言葉の語感から、セクシャリティ=性欲じみたもの、としか感じられない人さえいるかもしれない。そういう人たちには、僕は縁がないことになる・・・。そういう人たちから見れば、僕は性欲のカタマリに見えるだろうし、僕としてもそれをいちいち誤解だといって訂正していくような、面倒臭いことをする意欲はないのだ。

僕がここで提示した、「セクシャリティ」という言葉と、その充足にまつわる考え方について、これから一般的なものになってゆけばいいのにな、などと僕は夢想したりもする。もちろん、マスメディアなどが絡めば、もっと聞こえの良い別の言葉を当てはめてくるだろうけど、それで全然構わない。ただ考え方さえ、そのように進んでいってくれればいいのにな、と思う。そうなれば、僕が綺麗な女性に呼びかけたとして、威嚇じみた嫌悪の視線を向けられることも、少なくなるだろうから。僕としては、しばしば単純な呼びかけに対して、過剰に恋愛やセックスを予想して、あるいは例の「歪んだ恋愛」を予想して、極端に強張った警戒の態度を示す人に、うんざりすることが結構多いのであるから・・・。

コーヒーを二回おかわりして、352円の会計。僕は店を出てすぐ、誰でもがやるような背伸びをした。空は僅かに白んでいて、せっかちに目覚めたスズメの鳴き声が聞こえてくる。

そのファミリー・レストランは、外から店内が見渡せる具合に、外側がガラス張りになっている。僕は、そのガラス越しにふと店内を見、ハセキョーがまだ床を磨いているのを見つけた。彼女が抱え持っているモップはやはり、彼女の体と比較して大きすぎ、滑稽だった。

僕の視線に気付いたのか、ハセキョーが床を磨きながら、顔を上げて僕のほうを見た。僕の視線は、ハセキョーのそれと正面から重なった。ハセキョーは、今度はきょとんとした顔を見せなかった。ハセキョーは、作業の手をひとまず止めた。

ハセキョーは、視線を素早く左右に動かした。それは、周囲に誰もいないこと、特に店長が近くにはいないことを確認した、といったふうに見えた。ハセキョーはモップを左手に持ち、その柄を垂直に立てる具合に支えた。そして、体ごと僕の方を向き直ると、上品な笑顔―――むしろ僕が驚かされるぐらい、こわばりの全く見当たらない―――を見せてくれた。そして、空いた右手を胸元で、小さく、じゃあまたねと挨拶するような具合で、振ってさえくれたのだった。

ハセキョーの顔は赤く染まっていたが、それは単に、熱心に床を磨いた、その作業の火照りによるものだろう。僕は同じように小さく手を振り返し、やはり愉快に感じている自分自身を、改めて確認したのだった。





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