恋愛小説のコラム









風が強い中、西に歩いた





神戸の町で、女医に出会った。2年前の、ソメイヨシノはもう散りきってしまった頃。夜、風が強くてやや肌寒い、まだそんな季節だったが、出会ったとき、彼女は上着を着ず、姿勢を正しくして、電車を待っていた。背の低い彼女だったが、誰もいない駅でまっすぐ立っている姿が美しくて、僕はぼんやりと彼女を見ていた。見とれていたのかもしれない。彼女は視線に気づき、怪訝な目で僕を見た。

じろじろ見すぎてしまった。僕は、失礼、姿勢がいいっすね、と居心地悪そうに言った。彼女は、そう?ありがとうと笑った。彼女は、ごくわずかにためらったあと、視線を逸らして、身体動かしてるからかな、と言った。彼女は、表情がよく動いた。僕は、その彼女の良く動く表情から、演劇とか、ダンサーとか、そういうイメージを持ったので、ダンサーかなんかですか、と聞いてみた。彼女は驚いて、そのとおりよ、なんでわかったの、と、関西の地元の発音で答えた。彼女の雰囲気が、ソシアルダンスをしていた僕の祖母に似ていた。

誰も乗っていない電車の車内で、僕と彼女は、ドアに寄りかかるように立って、無駄話をした。彼女は、医者だということだった。見た目には、二十代の真ん中ぐらいに見えたが、実際にはもう少し、いやかなり、年を食っているとのことだった。彼女は、医者ではあったが、医者という仕事が好きになれず、ソシアルダンスをつづけ、プロダンサーの資格をとったのだ。「だって医者って、毎日会う人がみんな病人なんだよ!?」と、当たり前ではあるが盲点でもあるコメントをした。今は、同じくプロダンサーの彼氏がいて、結婚したいと思っている、と、やや暗くなった声音で言った。表情がよく動くので、その結婚話は何か複雑なことになっているのだな、とわかった。何かあるわけですか、と聞いたら、強い目をこちらに向けて言った、親が猛反対だからね、そりゃもう、すごいよ。

彼女の家は医者の家系らしく、親としてはどうしても一人前の医者として、家系を継いでもらいたいらしかった。また、年代に相応の考え方で、ダンサーの男と結婚するなんてとんでもない、水商売の男じゃないか、という意見だった。妊娠でもしようものなら、薬を盛ってでも堕胎させるぞ、それぐらいの気迫をもった反対ぶりらしい。彼女と一緒に、彼女の実家を訪問したこともあるが、実際、彼女の家はわかりやすい豪邸で、庭にはセコムのシールが貼られており、威勢のいいメスのドーベルマンが放し飼いにされていた。全然別の話だが、このドーベルマンは、私と異様に仲良くなった。僕の帰り際、彼女は、今までに飼い主も聞いたことがない猛烈な遠吠えをして、私を呼び止めようとした。今までの一生の中で、僕にこんなに強烈な一目惚れをしてくれたのは、彼女が初めてだ。

彼女は僕の無駄話によく付き合ってくれたので、一応、彼女の独り暮らしのマンションまで、夜道を送っていった。風はどんどんつよくなっている。
彼女は、あの親何とかならんかなぁ、と、風に負けないように、大きな声で繰り返しぼやいていた。彼女は気が強い人であったが、親と、家と、そこにあるものを全て捨ててしまうことはできないようだった。それはそうだと思う。それが、親であり、家であると思う。彼女は行き詰まってしまっている。僕は、夢を追うということは、悲壮なことでもありますからね、と言った。

「悲壮・・・そうなの?」と彼女は立ち止まって、真剣な目で僕を問いただした。立ち止まる動作も、ダンサーとしての訓練が染み付いているのか、律動的で目を引くものがあった。

悲壮です。そりゃそうですよ、停滞に満足できない業でもあるんですから。情熱的で、感動的でもあるが、悲壮なものでもある。夢を追うというのは、そういうものでしょう。

彼女は歩きはじめた。歩きながら、しきりに感心していた。あなたは若いのに、すごくすごく深いことを言うね。うーん、なんかすごい納得したよ。僕は照れくさくて何とも言葉が出ない。悲壮か、そうか、そうだよね、と、彼女は独り言をこぼしながら、自分の中の何かを急速に整理しているようだった。

彼女のマンションの前に着いた。マンションは国道に面しており、深夜貨物を運ぶトラックの音が、風の音に加えてあまりにうるさく、お別れの挨拶をするには不適当だったので、ガレージのほうに回った。できる限り風のあたらないように、柱の陰に立った。風と車の音はかなり遠ざかった。柱の陰で、僕と彼女は、お互い正面を向き合った。彼女は、きょうはどうも、ありがとう、といって、姿勢を正しくして、かわいい笑顔とともに、照れくさそうに右手を差し出した。握手。お互いの目を見ながら、握手をした。彼女の握手は、力みや、骨ばったものをまったく感じさせず、丁寧に、ひんやりとした彼女の手の皮膚という皮膚を、僕の手にやさしく押し付けるような握手だった。それはとてもセクシーで、その小さな手で、ささやかな愛撫をされているような感じだった。素敵な女性だ、と、僕は思った。同時に、男性としての気持ちがせりあがってくるのも感じた。彼女の着ているシャツは、やはり品質のよさそうなものだが、飾り気が無く、身体のラインをそのままアピールするようにデザインされていた。彼女の胸は、大きくはないが、正された姿勢に支えられて、肩からその胸の先端まで、なめらかな形を浮き立たせていた。

「もう電車ないけど、どうやって帰るの?」と、彼女は、手をつないだまま、目を逸らさず、言った。このまま抱き寄せても、彼女は拒絶しないだろう。今この場所で、左手で彼女を抱きかかえて、キスをして、彼女の肩から胸の形を、右手でじっくり確認しても、彼女は怒りはしないだろう。それは、強烈な誘惑だった。しかし、せっかくこんな夜だ、他にやりたいことがある。「車で途中まででも送ろうか」と、彼女はよく磨かれた、やや小型のベンツを指差した。

私は、握手をしていた右手を離し、そのまま、敬礼の形をとった。帰ります。歩いて。自分に言い聞かせるように、僕は言った。
彼女は、だって、すごい距離あるよ、着く頃には朝になっちゃうよ。風がすごく強いしさ、遠慮しなくていいよ、といった。私はふと、おかしくなった。僕は歩きたかった。その理由が自分でわかっていなかったが、彼女の言葉で、僕は気づいた。

風が強い中、歩いていってるのは、あなたのほうですよ。あなたを応援するため、せめて今日は、着くまで、歩きます。

彼女は、数瞬の後、意味を汲み取った。何もいわずに、この日最高の笑顔を見せてくれた。彼女の目が潤んでいることに、私はかなり強いときめきを覚えてしまったが、これはきっと今日の強風のためだろう、と内心で自分をたしなめた。



過積載のトラックが騒音を立てる国道を歩きながら、風になぶられていた。風は、はっきりと新芽の匂いを含んでおり、肌寒い中に初夏の予兆を感じさせた。そのときに初めて気づいたが、先ほどまで、彼女の身体から出ている健康的な香りを、うっとりと楽しんでいたようだ。僕は、彼女に愛された右手の感覚を反芻しながら、何時間かかるのかも考えることなく、西に向かって歩いていった。







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