恋愛小説のコラム









きらわれちゃったかな、知るかよそんなこと





もう三時を回っているはずだ。まあ、楽しければ時間のこととか明日のこととかはどうでもいい。エジソンは言ったらしい、「決して時計を見るな」と。

ホラー映画のグッズを敷き詰めるように展示した、埃っぽい店内で、僕は安いバーボンを安いショットグラスで飲んでいる。イッコーは、僕の隣で、テキーラをすするように飲んでいる。テキーラを飲むならそのネクタイは外したほうがまだいいし、第一、そのテキーラはライムを入れすぎだと思う。そう思うが、まあ好きにすればいい。誰も彼も好きにするのが、一番いい。そのほうが、西田幾多郎の言うところの、善、というやつに近づく。はて、そういえばカントは、「目的の王国」という言葉を残したが、それは、この落ちこぼれのはきだめと化した、この店内のことを指したのだったか?そろそろ頭が回らなくなっている。まあいい、とにかく、今、僕とイッコーにとって、怖いものなど何も無い。大して友達でもない僕たち、すごくちっぽけな僕たちだが、何も怖くない夜があるものだ。そうでなければ生きていけない。地べたに置かれた、風呂場で使う用途の、樹脂製のチンケな腰かけ、そこに座ってウォッカトニックを飲んでいる女、赤い胸の開いたドレスを着た彼女も、その無敵の夜を味わうためにここにいるに違いない。彼女はすでにうつろな目をしていて、それが酔いのためなのか、ダウナー系のドラッグでもやっているのか、僕にはわからない。だけども、彼女がその美貌を武器に日銭を稼ぐ種類の人であること、そして、僕たちと会話をすることなどないが、ただ僕たちと同じ、何も怖くない時間を共有していることは、たまに交錯する視線と、男を惹きつけるかすかな笑顔、それだけで十分わかるのだ。彼女は、静かに飲んでいるが、心の中はカッカとほてってきているに違いない。何も怖くないから、楽しんでいる自分をデモンストレートするのがバカバカしくなっただけのことだ。普段は、そのデモンストレートのプロなのだろう。それが完全に開放されている姿を見ると、自由だ、という感覚が身体を貫く。この快感は、何にもとって代わられることはない。彼女はドレスをはだけて、なめらかな太ももに空気を吸わせていた。なまめかしい自由の快感が、足の間から漂っていた。

イッコーは、カウンターの奥に手を伸ばし、冷えていないテキーラを自分で継ぎ足した。バーテンは、冷蔵庫の横にあるプレイヤーにしゃがみこみ、古いマイケルジャクソンのCDを入れて、アンプを独善的にチューンした後、そのまま回教徒の祈祷のような姿勢で眠ってしまった。そのせいで、さっきから店内には、Black or Whiteがえんえんとリピートで流れている。イッコーは、この期に及んで、3つボタンのスーツの、上二つのボタンをきちんと留めている。左手の袖は、さっきひっくり返したチェイサーでずぶぬれになっているというのに。ボタンをはずして、上着を脱いで、楽になるという発想が、酔えば酔うほどなくなっていくようだ。イッコーはその個性の中に、紳士であるという個性をもっているのであろう。それは尊敬に値した。


さっきまでは、渋谷センター街の老舗バーの明るい店内で、上品に酒を飲んでいたはずだ。イッコーが、最初のオーダーを決める前から、惚れた女の話を切々と語りだした、今日は確かそういうスタートだった。

―――気になっている女の子がいてさ、それでここんとこずっと、そのことメールとかしてたんだよな。

―――ふうん、で、その話し方からすると、なにかダメになっちゃったのかい。

僕はイッコーの話の色に合わせたモルトをオーダーすることにした。Ardbegの、若めのやつ、あまりスウィーティになってないやつがあれば、それで。

イッコーは、最近になって突然、その彼女からメールが帰ってこなくなったこと、その原因についてあれこれ憶測し、反省したり、不満を覚えたりと、煩悶を繰り返していることを告白した。彼は長々と語ったが、要約すればそれだけのことだった。イッコーは自分で、その話が同じところをいったりきたりしていることを聡明にも自覚した。自覚した後、数拍おいて、僕に回答を求めるような悲しい声で、

―――きわられちゃったかな、

と言った。彼のいったりきたりは、この壁の前で泥み澱んでいたのだ。
僕は、次は何を飲もうかと考えた。イッコーの心は、数日間の煩悶を経て、重くじっとりとしめっていた。そして、この迷妄は、吹き飛ばすしかないと思い、僕はTaliskerをオーダーすることにした。そして、口に出して、彼にはこう言った。

―――知るかよ、そんなこと。

僕が誰を好きになり、誰を嫌いになるか、それは僕の自由だ。それは、石臼引きの奴隷だって持ち合わせている自由だ。それを管理しようというのは、おこがましいといわざるを得ない。

―――きらいになったかどうかなんて、相手にしかわからないよ。あるいは、相手も、わかってないかもしれない。いずれにしろ、not sureだよ。でさ、お前のその、なけなしの情熱とか誠意とかは、そのささやかなnot sureで消し飛んじゃうのかい。

その後僕が言ったことは、残酷にすぎたかもしれない。

―――彼女に迷惑をかけるのがイヤだからとか、そんなウソは、やめろよ?今は、きらわれたくない、きらわれたらどうしよう、っていう自分のことで頭がいっぱいなんだからな、お前は。


そんなことを話していたはずだった。その後の会話は、いよいよ酔いのせいで、覚えていなかった。だが、今、自由という快感に浸っているということは、徐々にイッコーが、恋とエゴの迷妄から自由になりつつある、ということに違いなかった。そう思ったとき、こいつはいい友達だ、と僕は思った。

イッコーがバーボンの瓶をひっつかんで、おい、と、僕に向けた。僕は、ショットグラスからあふれるまで、その酒を受けた。さんざん言ってくれやがって、このやろう、という言葉も一緒に、勢いよくグラスに注がれたようだった。

―――きらわれちゃったかな、

と、イッコーは、もう一度言った。僕は、最後のバーボンを一気に飲み干して、食道の焼ける感覚に耐えながら、さあ、その続きを言ってみろよ、と強く念じた。その先に、純粋なエネルギーが沸いてくることを、僕は経験から知っていたから。

―――知るかよ、そんなこと。

イッコーはそう言って、正面を見据えたまま、唇をつよく結んだ。

いつのまにか、バーテンはエサにありつけなかったヒルのように伸びきっていたし、赤いドレスの彼女は、コカコーラのロゴのはいったベンチの上で、仰向けになって寝ていた。僕は泥酔者用に用意されている毛布を棚から引っ張り出し、伸びきったバーテンにかけた。彼女の方は、ベンチの上で白い清潔な下着を丸出しにしていたので、一応ドレスの裾をあわせて、毛布をかけた。彼女はうっすらと目を開けて僕を見たが、寝てろよ、と言うと、そのまま目を閉じた。こげ茶色のエナメル靴も脱がせてやろうかと思ったが、なんだかお人よしのような気がしたのでやめてしまった。店内を見渡すと、水死体のように毛布をかけられた者が2体、カウンターに突っ伏していびきを立てているイッコーが1体。店も客も、まるごとホラー映画になってしまった。どうすんだよこれ、と思いながら、私は便所に入ったが、そのひんやりとした空気の中で、遠くなったスピーカーから聞こえてくる、turn it off, too lateという下品な声を聞いているうちに、抗えない暗闇に吸い込まれていった。自由の快感と、知るかよそんなこと、という、今日の物語のモチーフを噛みしめながら。






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