No.094 お礼一つで愛される方法
K子は金持ちのオンナだった。
金持ちで、僕を気に入ってくれていた。
彼女は小石川のマンションに一人暮らしをしており、ときどき、思いついたように僕を呼び出した。
その日も、イベリコ豚のいいやつもらったから、食べに来ない? とK子は僕を誘ってくれた。
K子は、金持ちのくせに、オトコからモノをもらうのが上手な、生意気できれいなオンナだった。なぜか六本木のハンバーガー店でアルバイトをしていて、そこでオトコを引っ掛けてきていた。
髪の毛をタテ巻きにして、派手と清楚のバランスの取れるオンナだ。
カンタンに、部屋の中に入れてくれるのに、抱かせてはくれない、そういうオンナでもあった。
K子いわくは、エッチしちゃうと、わたしけっこう執着しちゃうの、ということだったが、僕はあまりそれを信用していなかった。
何にせよ、彼女は僕に抱かれる気はないようだった。
それでもK子は、わたしはあなたに、おいしいもの飲み食いさせたいの、なんでもいいから、あなたに豊かになってほしいのよ、と、不意に力の抜けたあたたかいことをいつも言ってくれていたのである。
その日は、家庭用のサラマンドルで二時間炙ったサラマンカ産のイベリコ・デ・ベジョータのステーキと引き換えに、スコッチのテイスティングをさせられた。
例によって、オトコにもらったものらしいのだが、ハーフボトルに詰め替えしてあるため、銘柄がわからないとのこと。
テイスティングだけで、銘柄なんてわかるわけがない。せいぜい、生産地方の推測ができるだけだ。僕はマスターソムリエでもなければ、ブレンダーでもないのだ。
そう、言ってはおいたのだが、まあそれでも、そういう類のことができるのは僕しか知り合いがいなかったので、僕がその役目を仰せつかったのだった。
スコッチは、ドライでピーティな味わいだった。あっさりしていて、味のフィニィッシュがはっきりとスパイシーだ。香りには華やかさもあるが、それよりもヨード香が強い。アイラ島のスコッチであることは、ほぼ間違いがなかった。そして、フィニッシュのスパイシー感から、多分ポートエレンだろう、と僕は言った。色味は薄いイエローで、おそらくはオーク樽熟成のものと思われた。熟成年数は、わからないが、そう長くはない。度数は高くなく、カスクストレングスではなく加水調整のものと思われたが、ポートエレンがカスクストレングスでないということに僕は少し違和感を覚えた。今流通しているポートエレンは、ほとんどがボトラーズのカスク物ばかりであるから。
「これって、ポートエレンなの?」
「うん、多分。K子はあれだろ、ポートエレンはUDのやつしか飲んだことないだろ。あれはシェリー樽熟成のカスクストレングスで、パンチがあって有名なやつなんだけど、実は本来のポートエレンの味とは違うんだよ。この軽さ、ドライでスパイシー、これがポートエレン本来の味なんだ」
そういう話をすると、K子はいつも喜んだ。実のところ、このポートエレンを特定するのはスカッチドリンカーにとっては特に難しいことではなかったのだが、そのことはせっかくなので伏せておいた。テイスティングさせられるなら、スペイサイドの安定感のあるスコッチのほうが断然難しい。難しいというか、不可能だろう。
「何にせよ、いいモルトだし、貴重なモルトだよ」
僕はそう言って、改めてK子のチューリップグラスにポートエレンを注いだ。スコッチを飲むうちに、僕はグラスに注ぐ動作がずいぶん上手くなってしまったのだったが、その動作を見てか、あるいは何かしらの言葉を受けてか、K子は、
「やだ、今のちょっとかっこいい」
と言った。
K子はオトコをおだてるのが、本能的に上手なオンナだった。
チューリップグラスのふちを濡らさず、ポートエレンが注げたら、その瞬間は誰だってかっこいいだろうな。僕はそう茶化して、K子に乾杯を促した。ボトラーズは不明だが、上質なポートエレンの―――といっても、正直に言うならば、そこそこに上質という程度だったが―――一杯を、アペリティフにできるのは贅沢な時間だ。
K子はキッチンに立ち、イベリコ豚から流れ出た豊穣な脂に、慎重にビネガーを注いだ。
僕は、イベリコ豚が焼きあがるのを待ちながら、ポートエレンを舐めるように飲んで、ふと、銀座の地下のとあるモルト屋を思い出していた。
―――あれ、このモルト、昔に飲んだことあるなあ。
僕は不意に、そう感じて、すぐにそれを確信とした。このモルトは、過去に飲んだことがある。ポートエレンの、加水調整もの。オフィシャルではなく、ボトラーズのものだったはずだ。
しかしさて、どのボトラーズの、なんというシリーズであったか?
それを思い出せないまま、イベリコ豚のステーキは、笑えるぐらい大きな皿に笑えるぐらいのサイズで乗っかって運ばれてきた。K子がそこに、ジブラルタルの海塩をまぶし、僕はホールの黒胡椒を挽く。
そんな食事が、おいしくない、わけがなかった。
イベリコ豚のステーキに、イベリコ豚の脂にビネガーを足したソースをかける。
野蛮で罪深い、最高の食事だ。
そのうまさといえば、噛むたびに、旨みが舌から喉から脳みそに直接届いてきて、それはもう、目を開けていられないぐらいのうまさだった。
僕とK子は、意識がチカチカと明滅するまでイベリコ豚を喰い尽し、さらにはポートエレンを飲みつくして、朝方までげらげらと笑って過ごしたのだった。
彼女らのコミュニケーションには「祝福」があった。
その日の帰路、僕はショートピースを咥えたまま、明けの明星を見ながら歩いていた。気温は低かったが、イベリコ豚の脂のせいで、身体はかっかと火照っていた。そういうとき、人は上機嫌になる。不機嫌になるやつがいたら見てみたいものだ。食欲にも、性欲に似た「いく」という現象があって、僕はその意味で「いった」直後だった。もう何もいらない、いるわけがない、という満足感。僕はその満足感に浸りながら、ぼうっとして歩いていた。
K子と遊んだ日は、なぜだろう、いつも上機嫌に終わるなあ。僕はそんなことを考えながら、やっぱりお金持ちというのは悪くない、トクだ、などと考えて、すぐにそれを打ち消したりした。
お金持ちでも、気分の悪いやつはいくらでもいる。お金というやつは、なぜだろう、持ち主の品性にゼロを付け足して拡大する性質があるように思う。下品な金持ちは下品な貧乏より圧倒的に目障りになる。高級なダーク・スーツさえ、貧相で涙ぐましいものになってしまう。タクシーを捕まえるのが上手いオトコはかっこいいが、いちいちハイヤーを用意するオトコはジジ臭い。
K子がそうならないのは、やっぱりK子の個性と才能だよな、などと思いながら、僕はこれからもK子と友達でいたいなと思った。そのあたり、K子は金持ちのくせに、オトコからあれこれと貰い物をするわけだが、そのこともなんとなく、僕としては合点のいくことでもあったのだ。
K子には、なぜだろう、贈り物を受け取る資格がある、と僕は感覚のどこかで知っていた。僕自身、S駅のFというバーで(宣伝や公開は禁止されているバーだ)、百年以上前のものかもしれない正体不明のラム酒の複雑極まる味の深みを知ったとき、なくならないうちにと大慌てで彼女を呼びつけてオゴったりしたこともあった。
そのあたり、一言で言うと、K子は単純に、愛されるオンナなのだ。それがなぜなのか、ということは巨大なテーマだったが、そのときの僕は考える気になれなかった。満腹すぎるときは、そんな高尚なテーマに取り掛かる気になれない。
また、僕としてその思案に取り掛からなかったのは、そのとき目の端に、二人組のオンナのコを捉えたからでもあった。
二人とも、髪を派手に脱色し、なんというか、原色が基調の、元気のいい若さの格好をしている。二人は、原付の後輪あたりをいじっていた。
どうやら、寒さで原付のエンジンが掛からなくなって、キック・スタートを試みようとしているようだった。
彼女らは、慣れない手つきでキック・バーを引き出し、ブーツの底でそれを蹴った。エンジンは、掛からない。掛からないのも当たり前だった。彼女らは、ブレーキを引くのを忘れていたのだ。
「ちょい、貸してみ」
上機嫌だった僕は、咥えタバコのまま(ガラが悪いな)、そう言って彼女らの間に押し入った。ブレーキを引いて、キック・バーを蹴ってみる。ブルルル、とエンジンは一鳴きする。が、やはり寒さのせいか、一鳴きしては沈黙した。
2サイクルの、おんぼろの原付だ。もうそろそろ、寿命なのかもしれない。
僕は、そのやり方が正しいのかどうか知らないけれど、経験から、強引なエンジンのかけ方をした。セル・スターターを回しながら、そこにキック・スタートを重ねる。キック・バーはスカスカの手ごたえになるが、それでもかまわない、そのままやたらめったら蹴りつける。
数秒後、ブルルル、ルルルル、と、ようやくエンジンが掛かった。二人組は、あー、すごーい、と歓声をあげた。僕は面目がつぶれなくてホッとした。しゃしゃり出て、役に立たなかったら恥ずかしすぎる。
二人組のうち、ショートパンツに網タイツを履いたほうのコが、僕にお礼を言った。
元気で、苦笑したくなるような言い方、そして声だった。
「てゆうか、超ありがとー。親切、ってか、マジ超やさしいしー」
彼女は、お礼の後半はなぜだろう、僕に向けて言うというよりは、連れに同意を求めるふうに言った。照れくさい、のだろうか。
僕は機嫌がよかったので、うん、オレは超やさしいので、そのことを覚えておくようにな、とわけの分からないことを言い放って、その場を後にした。親切をすると、どうしても居心地が悪くなる。親切の後は、さっさと立ち去るほうが気分がよろしい。
二人組は、原付に二人乗りをして(もちろん違法)、プトプトと白い排気ガスを吐きながら、僕を追い越して行った。左折し、その間際に、後ろのコが僕に手を振ってくれた。気分がいい。
まったく、何もかも気分がいい、そういう一日だった。
東の空が、透き通った赤紫色になるのを眺めながら、てくてくと歩いて、僕は考えた。K子は、愛されるオンナだ。では、先ほどの二人組はどうだったか。
彼女らもやはり、愛されるオンナのコたちだ。なぜだろう、タイプも環境も才能もまるで違うが、そのことは僕には確信されたのだ。
目に見えない何かが、K子と彼女らに共通しているんだろうな。そんなことを僕は考えながら、ある単純な発見に思い至った。もう二度と会うことのない、二人組のオンナのコのことについてだ。
―――そうか、彼女らは、僕にお礼を言ったが、そのお礼の言い方が正しかったんだ。
このことは、言うまでもなく単純な発見だった。なぜなら、僕と彼女らの間にあったコミュニケーションは、その一点しかなかったからだ。一点しかないのであるから、そのことを考えることはシンプルであり紛れが無い。
あのお礼の、何が正しかったのだろう? そのことを、僕はしばらく考えた。
その結論が手に入ったのは、それからずいぶん先のことになったのだが、その経緯は取り立てて語る必要もあるまい。
―――彼女らのコミュニケーションには、「祝福」があったんだ。そしてもちろん、K子にもそれがあるんだ。
僕はこのことを、コミュニケーションの「祝福主義」と呼んでいる。
お礼、ということに、そのことの典型が表れるのだが、そのことについて、今回は話したいと思う。
お前は本当にやさしいオンナだ
今日のお前のことを、オレは一生忘れない
「人に何かをしてもらったら、ちゃんとお礼を言いなさい。」
ということは、誰でも親御さんから教わっているはずだ。
このことは、常識で、学校の先生でも知っているし、十年前のマナーブックにさえ書いてある。
すなわち、「ちゃんとお礼を言いなさい」は、常識であり、世間のモットーであるということだ。
そして世間というやつは、常に僕たちを、愛と快楽からこっそり遠ざけようとする。
ちゃんとお礼を言う、そのことで満足していると、あなたは愛と快楽から遠ざかってしまうのだ。
「祝福主義」について話をしよう。
先に言ったように、このことは、「お礼」ということにあまりに典型的に表出する。
これは、気づいてしまえば、ものすごく単純なこと。
例えば、あなたがお礼を言われる立場だったとして、次の二つのうち、胸にグッとくるのはどちらのほうだろうか?
「ありがとう、本当に助かった。恩に着るよ、このお返しは必ずするよ」
「ありがとう、お前は本当にやさしいオンナだ。今日のお前のことを、オレは一生忘れないよ」
これで、前者のほうがグッとくるという人は、もう総合病院に行ってもらうしかない。
まあ、そんな人はいないと、僕は信じて生きているけど。
後者のほうが、グッとくるのはなぜか。
それについては、あまり説明する方法が無い。
ただ、そこに単なるお礼にとどまらない、「祝福」が込められているからとしか説明できない。
後者のほうは、お礼を言うというよりは、あなたのすばらしさ、その存在を全身で肯定し、神様に報告しようとさえしているのだ。
大仰な言い方だが、「祝福」とは本来そういうことだ。
これが、まあ極端な例示ではあるけれど、僕の主張する「祝福主義」であって、人と人とが愛し合うためのコミュニケーションになる。
言わずもがなだけど、「ちゃんとお礼を言う」という世間のモットーは、不十分であり、まやかしだということだ。
「人に何かをしてもらったら、感謝して、ちゃんと祝福しなさい」
これが、祝福主義としての主張になる。
祝福しなさい、なんてことは、おそらく誰も言わないし、聞いたことがないだろう。
でも、僕は断言できる、こちらのほうが、愛し合うことに絶対に近い。
「ありがとう」はお礼であり、「感激しました」は祝福である。
先の例は、ちょっと極端なので、もう少しリアルな話で考えてみる。
先日、僕があるオンナのコと、レストランにいたときだ。
僕と彼女は、向かい合わせてのんびり話していたのだったが、隣席に新しく来たグループが、アルコール入りで騒がしく、ちょっとまともに話せなくなった、という状況だった。
そのとき僕は彼女と、これはダメだな、出ようか、と話していたのだった。が、そこに、おそらくはまだ二十歳そこそこのウェイトレスさんがやってきて、
「あの、よろしければ、奥のお席に案内しましょうか」
と言ってきてくれたのだ。
実に気の利く、というか、思いやりのある提案だ。
こういうセンスは、人としてのセンスだから、レストランで十年働いてる店長でも、気が利かない人はやっぱり利かないままなんだよな……
まあそれはいいとして、僕たちはウェイトレスさんの機転に救われて、奥の静かな席に座りなおすことができたのだった。当然、僕は彼女にお礼を言う。お礼を言うわけだが、先に言ったように、お礼を言うだけではダメだ、それでは愛と快楽から遠ざかってしまう。
僕はそこで、どのような言葉で、何を彼女に伝えたか?
ここで、少し野暮な話になるが、あなたなら、ということを考えてみてはどうだろうか。あなたなら、彼女に何をどう伝えるだろう? そのことを、少し考えてみてもらいたいと思う。祝福主義、という主張については僕はもうあなたに伝えた。それに基づいて、あなたなら、そこでどういう言葉を紡ぐだろうか。
ここで、考えても結局言葉が出てきませんという人は、なんというか、ヤバい。それは、ボキャブラリーが少ないとか、そういうことの問題ではないのだ。
ここで、考えても出てこないという人は、なんというか、新しい発想を取り入れて、その発想から言葉を紡ぐということができなくなっているということだ。新しい発想を、知ったようでいてそれを機能させられない。要するに、旧来の発想が固着して、もうそれから逃れられないという状態なのだ。
そういう人は、本気で焦る必要がある、と僕などは思う。
新しい発想を、取り入れられないということ、それって要するに、根本的な若さの喪失、老化、すなわちオバサン化完了ってことなんだから……
そんなわけで、一通りあなたにも考えてもらったとして、ここでは僕としての回答。
引っ張ったけど、そんなに大した回答があるわけじゃない。
「お心遣い、感激しました」
僕はそう言って、彼女の目をじっと見て、頭を下げた。
と、話はそれだけなのだが、このやりとりに内包される「祝福主義」のニュアンスを、あなたは汲み取っただろうか。
汲み取ってもらえないと、話にならないんだけどね。
説明するのも、もはや野暮の骨頂という気がしてくるが、それでも説明するならば、「ありがとう」と「感激しました」では性質がまったく違うということだ。「ありがとう」はお礼であり、「感激しました」は祝福である。
と、説明はこれまでで、というかこれ以上説明のしようがないので、次は少し角度を変えた話をする。
祝福主義的に発想していくための、ある一つの具体的な方法について話そう。
この方法は、以前オンナ友達に説明して、涙目で「ステキですね」と賞賛をもらった方法だ。
少し、かっこつけたやり方で、僕としてはこっ恥ずかしくなるのだが、そこはガマンして話すことにする。
あなたは最近、心の中で、誰かに花束を贈っただろうか?
祝福主義的な発想に到るための、具体的な方法。
それは、いついかなるときも、心の中にひとつのイメージを持つことだ。
そのイメージとは、「花束を渡す」イメージ。
このイメージは、的確で有効で、このイメージ自体、祝福主義そのもののイメージと言っていい。
今までの話、どこに当てはめても、そのことは矛盾しないはずだ。
「ありがとう」で花束を渡すと、なんだかヘンだが、「感激しました」で花束を渡すと、しっくりくる。
すなわち、心の中で花束を渡してしっくりくるときは、祝福できているのだ。しっくりこないときは、祝福できていない。
僕はウェイトレスさんに、「感激しました」と、花束を渡した。
原付に二人乗りして去っていったオンナのコは、「超やさしいー」と言って、僕に花束を渡してくれた。
K子は、「あなたに豊かになってほしいの」と、僕に花束を渡してくれた。
僕が、二度と出会えないラム酒を慌ててK子にオゴったのは、祝福を返報したかったからだ。
この、花束を渡すというイメージは、カンタンで、しかも正確に祝福主義を実現する。
このイメージにおいて、あなたはどうだろうか?
あなたは最近、心の中で、誰かに花束を贈っただろうか?
(心当たりがなければ、あなたは最近誰とも愛し合っていない、断言していい)
K子は贈られた花束にどこまでもよく似合うオンナだった。
祝福主義、ということについて話した。その本質は、花束を贈るイメージにあるということ。
ただそれだけのことだが、このことはなんだろう、ものすごく重要で、またカンタンなくせに、知らない人はずっと知らないまま生きているような気がする。
コミュニケーションは、キャッチボールだとよく言われる。
が、たまにはボールでなく、整えた花束を渡すほうが、愛と快楽に接近もできようというものだ。
そんなわけで、今回の話はおしまい。
おしまいだけど、なんだかキリが悪いな。
最後に少し、K子の後日談を話して終わりにする。
K子は、今はもう結婚してしまったんだけど、本当にいいオンナだった。
最後の最後まで、抱かせてくれなかったことが、僕としては無念極まりない笑。
ではでは、そんなわけで。
またね。
***
「ポートエレンで、合ってた。ポートエレンでしょ? って言ったら、向こうはびっくりしてたよ」
電話口で、K子は楽しそうに話していた。
彼女から、婚約の話を聞くのは、これから数分後のこととなる。
「ポートエレンの、なんていうボトラーズの、なんていうシリーズ? ポートエレンの加水調整は珍しいんだけど……」
僕は、スコッチ好きの心性から、やや前のめりにそう訊ねた。
「ええっとね、そう聞かれると思って、覚えてたんだけど、なんだっけな……。えーと、ボトラーズは、忘れちゃった。えへへ」
「えへへ、って、老化現象をごまかさないほうがいいぞ」
「老化って……。まあ、わたしもそろそろね、そのことが否定できないんだけど。あ、シリーズ名は思い出したよ」
「お、なんていうやつ?」
「花と動物、っていうシリーズらしいの。有名なシリーズだって、向こうは言ってたけど」
僕はそれを聞いて、ああそうか、と指を鳴らした。なぜ、そんな有名なシリーズを思い出せなかったのだろう。高級ではないが、バランスのいいシリーズだ。希少価値という意味から、もう二度と口にできない一瓶であるには違いない。
「なるほどね。花と動物シリーズも、UDのシリーズで、そこはボトラーズかオフィシャルか業界的には表現が難しいところだけど……。まあ何はともあれ」
「うん」
「もう希少なものだ、いいもの贈ってもらったね」
「うん。花と動物、っていうのも、なんだかかわいくてステキだし」
「アタシにふさわしい、ってか」
「あはは、まあ、そうね」
「なあ、K子はさ、花と動物シリーズと、本当の花束とだったら、どっちのほうがもらったとき嬉しい?」
僕がK子にそう訊ねたのは、まったくの偶然であって、さしたる意味を込めてのことではなかった。ただの、話の流れだ。
しかしK子は、なにそれ、と、ギョッとしたような声を出したのだった。
なにそれって、言われても、と僕がきょとんとしていると、状況を理解したK子は、何かに感心したようにため息をついた。
このとき以来、僕はもう、K子とは会っていない。
今でもたまに、K子のことを、最後の話と共に、思い出す。
K子は、贈られた花束に、どこまでもよく似合うオンナだった。
―――あいかわらず、勘がいいというか何というか……。ね、改めてなんだけど、きみは本当に、不思議な人だったね。実はね、今日わたし、本当の花束を、ある人からもらっちゃったんだよ……