No.095 強くなりたい、あなたへ
(20th-Dec, 2006)
愛されるオンナというのは美しいオンナのことだ
愛されよう、と努力すると、人は弱くなる。
弱くなるし、みじめになるし、みっともなくなる。
もちろん、愛されることが悪いわけではないし、愛されないというのは寂しいことだ。
ただ、愛されたいという動機から、愛されようと努力するということ、それはみっともないことなのだ。
愛されようと努力すると、たいていは、単に「気に入られよう」というだけの、みみっちい態度の構築に堕してしまう。
内心でビクビクしながら、表面的には元気でひょうきんなフリをして、相手の顔色を伺いながら、何とか取り入ろうとしてしまうのだ。
要するに、ビクビク・ヘコヘコしてしまう、ということになる。
そういう態度は、相手に本能的に見透かされてしまう。
相手からすれば、ものすごく弱々しいものに見えるし、世の中には善良な人が多いから、やさしくしないと傷つけるんだろうな、と相手は察知して、うっとうしく感じてしまう。
そして、その相手の気配を本人も感じてしまうから、ますますビクビク・ヘコヘコしてしまうという、悪循環が始まってしまう。
愛されたい、と誰しも願うのは当然だが、愛されよう、と努力するのは大間違いなのだ。
愛されよう、と努力して、ビクビク・ヘコヘコしてはいけない。
愛されたければ、美しくなろう、とすることだ。
美しいオンナが、当たり前だが、愛される。
外見的にも、内面的にもだ。
(内面的、というのはヘンか。精神的にも、だな)
愛されたいオンナは、美しくなるべきで、一方、愛されたいオトコはどうかというと、タフでやさしくなるべきだ、ということになる。
美しいオンナと、タフでやさしいオトコが、必然として愛し合うものなのだ。
(すげえ当たり前だ)
ところで、タフという言葉は、よく勘違いされて「スタミナがある」的に使われるが、本来はそういう意味ではない。
頑丈な、とか、手ごわい、とか、デキる、とか、そういう意味で使われる言葉で、例えば"tough weed"は「雑草」になる。
その他たとえば、「あのヤクザじみた不動産屋から敷金を全額取り返してこい!」という仕事があったら、「タフな仕事だなぁ」とぼやいたりする、そういう使い方をする言葉なのだ。
タフでやさしいオトコが、オンナに愛されるし、それ以外にオトコが愛される方法はない。それ以外に愛されることがあるとすれば、愛され方がそもそもフェイクか、あるいは例外として、芸術家として愛されるかだ。(そんなオトコは百万人に一人しかいないけど)
最近は、笑いを取れるオトコや、おしゃれのセンスがあるオトコが、オンナたちに愛されているようだが、これも実際は「笑い」や「おしゃれ」でモテているわけではない。
笑いを取れるぐらい、余裕があって勢いがあって頭の回転が速い、そういう「デキる」オトコとして、オンナはそのオトコを愛するし、おしゃれで自分を見栄えよく出来るだけ、裕福で頭が良くてセンスがある、「デキる」オトコとして、やはりオンナはオトコを愛するのだ。
だから、おしゃれで笑いの取れるオトコが、「それだけ」だと露見すると、オンナに激しく幻滅されてしまう。
おしゃれオトコが、デートをアレンジして、そのアレンジにセンスがなかった場合、「ただのナルシスト?」というふうにオンナに軽蔑されるし、お笑いオトコが、緊迫感のあるミーティングでとんちんかんな発言をすると、「ただのバカ?」とオンナに軽蔑されるのだ。
そのあたりのことは、オンナであるあなたには、実感として了解されるところだろう。
オトコは、タフでやさしくなるしか、オンナに愛される方法はない。
そこをごまかして、本当にタフになること、本当にやさしくなること、そのことから逃げ回っているオトコがいたら、あなたはそういうオトコと決して寄り添いたいと思わないはずだ。
オンナは、そういう逃げ腰のオトコを尊敬できないし、そういうオトコはあなたにとって、「弱くみじめでみっともない」と映ることだろう。
そのへんの感覚と同じように、やはりオトコも、美しくないオンナとは寄り添いたくないのである。
本当に美しくなろうとせず、逃げ回っているオンナは、やはりオトコにとって「弱くみじめでみっともない」のだ。
だから、あなたがもし、十分にオトコに愛されていないと、そのことが不満だったとして、「愛されよう」と努力してはいけない。
愛されようとする努力は、出発点がすでに切羽詰っていて美しくなく、弱々しいから、すぐに弱気に流れて、単なるビビりのビクビク・ヘコヘコオンナになってしまう。
あるいは、ビビりのビクビク・ヘコヘコを隠蔽しようとして、むやみにゴーマンを装った、声のデカいうっとうしいオンナになったり、相手のやさしさや誠実さを勝手に自己都合で高邁に審判して相手を非難したりする、自意識暴走オンナになったりしてしまう。
(そういうオンナにはつける薬が無い)
繰り返すが、愛されたければ、美しくなろうと努力することだ。
美しさ、ということについては、無論のこと外見も含まれる。
このあたりのことを、誰もはっきり言わないのは、まったく卑怯極まりないことだと思うので、僕は敢えて言わなくてもいいことを言ってしまうわけだが、外見上の美しさも、愛されるオンナになるための大きな要素のひとつである。
要するに、美人のほうが愛されやすいのだ。
(ただしもちろん、家族に愛されるとか、アラブ種の名馬に愛されるとか、そういう愛については外見は関係がない。ここで話しているのは、あくまで世間的な異性愛についてのことだ)
このことは、例えばオトコの場合、体格が良いほうが愛されやすい、ということと似ているだろう。
いくら良心が咎めても、自分より二十センチも身長が低いオトコはちょっとねえ、と思ってしまうオンナの感覚がきっとあなたにもあると思う。
そういう感覚を、罪深いとして殺すべきなのか否かは、個々人の世界観によると思うから、ここでは議論しない。ただ、そういう事実はあるよね、ということだけ言っておきたい。
ドブスのオンナと、ドチビのオトコは、残念なことに、愛されるということについては苦難の中で生きていくしかない、それが僕たちの生きている世界の実際である。
ただまあ、それでもなお、僕の意見で言うならば、オトコはタフでやさしくあろうとするしかないし、オンナは美しくあろうとするしかないわけで、そのことは変化しないのだ。
自分が生きていく中においては、自分という主人公以外はありえないのだから、その主人公を他人と比較してもしょうがないので、与えられた条件の中で精一杯やっていくしかない。
与えられた条件自体を恨み、世を呪い、他の人をうらやんでもしょうがない。
それでも、ネガティブに陥ってしまう人はいるのだろうけど、まあそういう人に掛ける言葉を僕は持っていない。
ただ、そういうネガティブに陥る人は、オトコであればタフでもないしやさしくもない、オンナであれば美しくない、どうしたって弱くてみじめでみっともないよと、そのことだけは、僕として勇気を持って言っておきたいと思う。
愛されるオンナというのは、美しいオンナのことだ。
それも、外見的にも精神的にもである。
ここでゴネても、しょうがないし、ゴネるとそれこそ美しくなくなる。
人が、愛されたいと願うのは当然のことだ。
オンナが、オトコに愛されたいと願うのも、これまた当然のことである。
ただ、愛されたいがゆえに、愛されよう、と努力するのは間違っている。
愛されようと努力すると、人は臆病になり、ビクビク・ヘコヘコとし始めて、みっともなくなる。
そしてますます、愛されるということは遠のいてしまって、オンナは所詮外見だとか、世の中のオトコどもはバカだとか、世界を呪う怨嗟だけがあなたの中を巣食い始めるのだ。
世間では、愛というものは、いつも美しく、やさしいものとして語られている。
だが、これはウソなので、だまされてはいけない。
愛というもののは、本当は、もっとシビアで、抜き差しならない、スリルに満ちたものだ。
確かに、人は愛によって、もっとも美しくなるものだ。
しかし、取り扱いを間違えると、人は愛によって、もっとも弱くも醜くもなりえるのである。
自己愛のカタマリですと自白しているオンナに
まともなオトコは言い寄らない
愛ということについて、取り扱いがずさんな、うかつな話を聞くことがよくある。
典型例としては、これだ。
どんな人と付き合いたい? というような話で、しょっちゅう出てくる。
「うーんやっぱり、わたしだけを愛してくれる人がいいです」
というやつだ。
この言い方は、テレビ等でもよく聞かれるし、キリスト教的な伴侶との永遠の結合をモチーフにしていることもわかるし、実際女性の幸福と恍惚がそこに定義されているということもわかるし、一夫多妻制の国の人を全否定していることに無邪気に無頓着なだけだとも思うのだが、それでも、あまり聞いていて気分のいいものではない。
わざわざ、僕が言うことでもないような気がするのだが、その「わたしだけを愛して」という部分は、あまり広言しないほうがいい類のものだ。
言っている人は、自分で気づかないのだろうか?
「わたしだけを愛して」というのは、百パーセントの「自己愛」で、それを広言するということは、「わたしって自己愛のカタマリなの」と、どっかーんと自白しているということなのだ。
わたしだけを愛してほしい、という欲求があるのはわかる。
わかるし、それを否定するつもりもない。自己愛が無い人間なんて、気が狂っているに等しいとも思うし、僕にだってもちろん自己愛はある。
ただ、その自己愛の部分は、大っぴらに言うことではないし、最優先として持ち出すのは相当に恥ずかしいことだ。
自己愛の、切ない欲求については、心のうちでひそかに願うものだろう。
「やっぱり、僕だけを愛してくれる人がいいです」
オトコがそう言うと、途端にマザコン扱いされて、キモい人扱いされるのだから、その辺から推して知るべしだ。
マザコンは、何もオトコ特有の現象ではない。
マザコンのオンナだって、世の中はたくさんいるし、そういうオンナはそういう自分をかわいいと思っていて処置のしようが無いので、オトコは無言でそういうオンナと関わらないように逃げ回っているだけなのである。
こうやって考えてみると、わかりやすいかもしれない。
百人のオトコの前で、あなたが、
「わたしだけを愛してくれるオトコがいいです」
と言って、ニコッと笑うのだ。
一方で、別のオンナが、
「わたしは、タフでやさしいオトコがいいです」
と言って、ニコッと笑うのだ。
その後、百人のオトコは、どちらに言い寄ってくるか。
あなたに寄ってくるオトコと、もう一方のオンナに寄ってくるオトコ、そこにある種の差が生じるのは、想像に難くないだろう。
少なくとも、タフであろう、やさしくあろうとしているオトコは、あなたでなくもう一方のオンナの方へいくはずである。
自己愛のカタマリです、と自白しているオンナに、まともなオトコは言い寄らない。
一人のオンナだけを、生涯愛しぬこうと心に決めているオトコでも、そんなことを「広言」するオンナには、決して接近したがらないものなのである。
韓流スターにぞっこんのオバサンたちは
秋葉原のアニメ・オタクと同種の生きものだ
自己愛の高い人、というか、自己愛が最優先になっている人には、今流行りの韓流映画が向いているかもしれない。
韓流映画の恋愛モノは、何と言うか、ベッタベタのゴッテゴテだ。
僕は、胃もたれがして、とてもじゃないが最後まで観ていられないが、とにかく韓流の恋愛モノは、状況設定のリアリティなどそっちのけで、ひたすらオトコがオンナのことに没頭するだけの話になっている。
「わたしだけを見て、わたしのことだけ考えて、わたしだけを愛して」と、そのことにしか興味の無い人は、韓流スターの男前が、トイプードルのように一人のオンナだけを溺愛する、そのイメージにハマるに違いない。
韓流の恋愛モノは、要するにアレだ、「うる星やつら」と同じ構造なのだ。
「うる星やつら」のヒロイン、ラムちゃんは、主人公のオトコ(名前は「諸星あたる」だったか?)をダーリンと呼んで無条件に溺愛する存在であり、そしてそれ「だけ」の存在だ。
もちろん、状況設定にリアリティなどないし、表現のモチーフも不明なのだが、もうそんなものはどうでもいいのである。
宇宙から来たラムちゃんが、ダーリンだけを無条件に溺愛する、その溺愛ぶりを「だっちゃ」という語尾で田舎者の純朴を匂わせて演出さえする、本当に「溺愛」しか存在しない、そういう構造なのだ。
そして、この「ラムちゃん」が、現在のオタク・ブームの火付け役、パイオニアとなった。
オタクたちの原点は、ラムちゃんに無条件に溺愛される、アホオトコの「ダーリン」に、自分を投影し同一化したり、あるいは嫉妬したりするところにあるのだ。
韓流映画の恋愛モノは、この「うる星やつら」の男女をひっくり返して、むりやりにメロドラマの味付けをし、オバサン向けにしただけの作品である。
要するに、韓流スターにぞっこんのオバサンたちは、秋葉原のアニメ・オタクと同種の生きものだということだ。
韓国まで行って、スタジオの出待ちをしているオバサンたち、あの百鬼夜行に渦巻くエネルギーのおぞましさを見よ。
オタク、そのものではないか。
あのオバサンたちを、アキバ系になぞらえて、プサン系と呼称しても、何らの差し支えもあるまい。
韓国の側は、この現象をどう見ているのかわからないが、とにかく彼らは、作品で外貨を稼いでいるので、その一点において立派なものだろう。
日本では、あまり外貨を稼ぐということの感覚がないが、諸外国では外貨を稼ぐものは英雄だ。
韓国には例の、悪名高き、キーセン観光の歴史もある。
これからもし、韓国が本腰を入れて、日本のオバサンたちから外貨を巻き上げようとするならば、韓国人によるホスト・クラブ、韓流ホスト、みたいなものが出てくるかもしれない。
オバサンたちは、韓流スターのイベントでキャアキャアと茶色い歓声を上げた後、焼肉を食べビールを飲んではガハハハハハと笑い、夜な夜な韓流ホスト・クラブに繰り出しては、美しい肌の若者の、そのカラダの香りを嗅ぐわけだ。
そうなると、これはもう、本当にネオ・キーセンである。
想像すると、笑えてくる話だが、もし実現したら、きっと笑えない話になるだろうな……
(話が逸れてしまった)
美しくあろうとせず
自分だけを愛するオトコの出現を夢見るオンナは
根深いオタク人間になっていっている
話を元に戻そう。
自己愛、についての話をしていた。
逸れた話の中で、何が言いたかったかというと、自己愛にしか興味が無いオンナは、アキバ系・プサン系と底でつながっており、オタクの心性を持っている、ということだ。
いわゆる、世間的な意味の、狭義としてのオタクは、その心性からある種のメディアに逃避を完成させた、というだけであって、広義の意味では、その心性を持っている人はみんなオタクである。
その「心性」とは、自己愛の取り扱いにある。
自己愛の欲求と向き合う際、オンナは美しくあろうとすること、オトコはタフでやさしくあろうとすることが必要なのだが、そのことから逃げた者たちの心性が、今大流行の「オタク」なのである。
このことは、このように考えてみればわかる。
「うる星やつら」を全巻持っていると、オタク扱いされる。
しかし、「ドラえもん」を全巻持っていても、オタク扱いはされない。
それはなぜかというと、「ドラえもん」の主人公であるのび太は、自己愛を満たされていないからだ。
同じマンガ・アニメというメディアでも、作品の性質が違うのである。
のび太は、象徴的なダメオトコとして、乱暴なジャイアンに虐げられ、金持ちのスネ夫に小バカにされている。ヒロインのしずかちゃんにも尊敬されていない。そこでドラえもんの道具に頼るわけだが、話の結末は「道具に頼ってもロクなことにならないね」という形で締めくくられる。
すなわち、のび太は劣等な存在として描かれていて、そこから脱出するには、タフでやさしくなるしかない、そこに便利な道具などありえない、ということが表現の柱になっているのだ。
その世界観が、現実の自己愛のルールと合致しているので、オタク的にはならないのである。
「うる星やつら」に限らず、オタク的な作品は、自己愛についてドラえもんの真逆を表現している。
主人公は、一切の格闘を経ることなく、特権的に自己愛を満たされるのだ。
オタクと呼ばれる人たちが、なぜ本能的にキモいのか、その理由も実はこの一点にある。
自己愛のルールを歪曲している、そのことが「キモい」のだ。
自己愛、愛されたいということについて、ルールは先に示した。
オンナは、美しくあろうとすること。
オトコは、タフでやさしくあろうとすることだ。
いわゆるオタクの中に、美しくあろう、とひたむきなオンナはいるだろうか?
タフであろう、やさしくあろう、と格闘しているオトコはいるだろうか?
そう考えれば、構造はますます明らかになってくる。
美しくあろうとせず、自分だけを愛するオトコの出現を夢見るオンナは、本人も自覚せぬうちに、特定のメディアを持たぬ、しかし根深いオタク人間になっていっているのである。
その先生の口調は
淡々とした、まるで一介の職人というふうものだった
僕の知っている医者で、患者の自宅の電話番号を教えてしまう人がいる。
自宅が留守のときは、携帯電話に転送されるらしい。
以前、やっかいな腸炎で、いくつかの病院をたらい回しにされた後、僕はその先生に救われたのだ。
「なんとか、入院なしで処置してみるけど、具合悪くなったら連絡して。留守のときは、携帯に転送されるから」
僕はそう言ってもらったとき、救われた、と心底から思った。身体的な意味だけではない。もっと深い、全体的な意味で、救われた、と感じたのだ。
症状が一段落した後、僕はその先生に、思わず訊ねてしまった。
自宅にまで電話が掛かってきたら、大変じゃないですか?
すると先生は、そっけなく答えた。
「うーん、まあね、でも僕は医者だからね。動けないときでも、電話で指示するだけで、できることは色々あるし」
その先生の口調は、誇るでもなく、語るでもなく、淡々とした、まるで一介の職人というふうものだった。
僕はそのとき、何も答えられず、ただ頭を下げたように記憶している。
オトコは、自分とレベルの違う器に出くわしたとき、ただ頭を垂れて、自分の矮小を恥じるものだ。
タフでやさしいオトコというのは、例えばその先生みたいなオトコなのではないか、と僕は思っている。
結婚記念日に、食事中、妻をほったらかして、急患の知らせに家を飛び出す。
そして、お詫びに花束を買って帰って戻ってくる。
そういうオトコが、タフでやさしいオトコであって、オンナに愛されるものだと僕は思っているし、僕は不肖の身ながら、そういうオトコになりたいと、一応は心に決めて生きているのだ。(なれるかどうかは不明)
また例えば、別の話として、大東亜戦争の時の、特攻隊員として死んでいった方たちの遺書からも、タフでやさしいオトコの見本を見つけることがある。
特攻隊員の遺書は、靖国神社で「英霊の言ノ葉」という冊子になって売っているから、参拝した人は是非全巻買って帰るべきだ。
(ちなみに僕はこの冊子こそ世界遺産だと思っているが、それが一冊500円で手に入るのだからサイコーである)
その遺書の中には、例えばこんなものがある。
全文を書き写すのもアレなので、要約してというか、僕がテキトーにリライトするが、こんなことが書いてあるのだ。
―――妻へ。はっきり言っておく。俺はお前を愛している。それでも俺は、お前を置いて出立するのだが、そのことについて聞いてほしいのだ。兵営所の前のすすきの原に、子供らが遊んでいた。子供らは無邪気だ。やさしくかわいい子供たちだ。俺はこのかわいい者らを守るため、この者らを生み、これからも育んでいく、この国の文化と風土を守るため、戦いたいのだ。この思いは俺の中で、お前への思いより優先されてしまう。こんなことを言うと、お前は怒るだろうか。いや、きっとお前はわかってくれると、俺は信じている。さらば、いってくるよ。子供らの養育頼む、健やかに、元気でやってくれ……
こういう美しい遺言に出くわすと、また僕は頭を垂れるしかすることがないわけだが、こういうことを堂々と言えて、戦いに死ねるのも、やはりタフでやさしいオトコだと思う。
最近はどうも、顔のキレイなオトコに、ただただ溺愛されたい、そういうオンナが多いようだけれども……
それでもどうだろう、ここはひとつ考えを改めて、本当にタフでやさしいオトコを愛して、身も心もささげる美しいオンナになろうと、そう志してみるのも、逆に新しくていいんじゃないかな。
(と、他人事のように言ってみる)
M子ちゃんは自己愛の欲求に打ち克ち
自己愛よりも恋愛を求めた
タフでやさしいオトコ、について話したとして、じゃあ美しいオンナとは? という話になる進みゆきだが、正直なところ、美しいオンナ、のほうがタフでやさしいオトコより描写が難しい。
美しいオンナには、ステレオタイプが無いし、美しさというのはたいてい瞬間的なものだからだ。
それでも話すとなると、僕の個人的な体験から、切り取って話すことになる。
例によって、自分のことを話すと恥ずかしくなるのだが、まあしょうがない、そこはガマンして、いくらかかいつまんで話そう。
昔、僕にはM子ちゃんというセフレがいた。
セフレと言うと、すごく語弊があるのだが、ひとまず簡便な説明としてはそう言うしかない。
セフレという関係では、本来ルール違反なのだが、彼女は本気で僕のことを好きになってくれた。そして、僕はまったく罪深いことに、僕としても彼女を手放せなくなってしまっていて、彼女を何回も泣かせた上に、何度も本気で抱いてしまっていたのだ。
(ああ、また犯罪を自白してしまった)
その彼女は、ある日の夜中、電話を掛けてきて、突然こう言った。
「あのさ、わたしの、イヤなところ教えて?」
当時、彼女はまだ十八歳だったので(おお、ますます犯罪が明らかに)、その声は生きものとして元気である。また、僕はあまり電話にこまめに出てあげないので(あああああ)、彼女は電話がつながったことだけで相当うれしそうな声になる。
イヤなところ、と訊かれて、僕はしばらく考えたが、特に無いな、と答えるしかなかった。そして、強いて言うなら、ちゃんと受験勉強しないところかな、と付け足した。
彼女は、わかった、勉強する、でもイヤなところがあったらちゃんと教えてね、と言った。
そして、深夜に一人、何を考え抜いたのかわからないが、唐突にこんなことを言い出したのだ。
「あのさ、わたし、わかったんだ。わたし、あなたのセフレとして、がんばるね。わたしたち、最高のセフレとして、そこいらの恋人たちがうらやましがるぐらい、輝こうね」
彼女は、全てが解決したよ、というような無垢な声で、そんなことを言ったのだ。
僕はそのとき、こいつはなんてやつだ、天使みたいだ、と思った。
このときの彼女は、本当に無邪気で、かつ物怖じせず真剣な、美しいオンナのコだった。
この話における、僕の振る舞いは、ただのゲスというか、いわゆるオンナの敵なので、そこはもう好きに非難してくれて結構だ。
しかし、ここで伝えたいのは、ある一人の美しいオンナのコのことであって、その点についての非難は受け付けないのでよろしく。
M子ちゃんは、自己愛の欲求に打ち克ち、自己愛よりも恋愛を求めたのだ。
そんなオンナのコは美しくない、と非難する奴がもしいたら、お前は気が狂っているし治癒の見込みはない、重しをつけてマリアナ海溝に入水自殺しろと言わせてもらうので、誰一人として、髪の毛の先ほども、彼女の美しさについては意義を差し挟まないように……
(僕はオンナの敵ですが、気に入ったオンナのことは、ゲスなりにいちおう庇護したくなってしまうのです)
美しいオンナの話なんかすると、どうしても自慢話のようになってしまい恐縮である。
た、だこの自慢話みたいなものも、自慢だとして、あくまで僕の「オンナ運」についての自慢だ。
別に、僕はこんなにもモテるし、こんなにいい思いをしてるんだよ、みたいなイタい自慢をしているわけではない。
これは、謙遜でもなんでもなく、僕は本当に、モテないくせにオンナ運だけが最高にいいのだ。
だから、僕はいつも、釣り合わないべっぴんさんにフェラチオされながら、実は内心でどこか不安だったりする。
なんでこんなことになってるんだ、こんな都合のいい話があるか、狐に化かされてるんじゃないか、と、半分本気で不安なのである。
逆に、その不安に負けて、傷つけてしまったオンナもたくさんいるのだけど……
まあそれはいいとして、美しいオンナの話。
これも昔の、Rちゃんの話。
Rちゃんは、当時二十二歳、車の運転が上手な、やんちゃなオンナだった。
顔がバツグンに美人で、身長があればトップモデルになれる、というレベルだった。少し、不良系の迫力がある顔であり、このコに睨まれたら、カタギの者はとりあえず全員謝るよね、という感じだった。
彼女は、湖のある町から、車を飛ばして会いにきてくれた。
新しい彼氏ができるまで、僕のことを好きでいてくれたのだが、そのことを僕が知ったのは、全てが終わってからのことだった。
彼女は、二人でいるときは、割合と無口なオンナで、その内心は逆に、感性のカタマリみたいなオンナだった。
彼女が車に乗る、その理由の半分は、カーステの音楽に没頭するためだったのじゃないか、と僕は思っている。
彼女は昔、友達にレイプまがいに犯され、バージンを失った、という過去を持っていた。
彼女は、僕がカラダに触れるとき、まったく拒絶はしなかったが、それでも触れ方によっては、意志に関わらず、ビクッとカラダのほうが拒絶反応を示すことがあった。
彼女は、その自分の反応から、逃げるでもなく、いつもただ受け止めるというふうで、そして人よりもはるかに、繊細でやさしい、心を打つセックスをするオンナだった。
夜中の二時に連絡してきて、三時間掛けて会いに来てくれて、駅前に車を止めて僕のことを待っていてくれたりした。
真っ赤なボディ、フォルムがグラマラスな車だ。
会うなり僕は、抱いてもいいの? とせっかちに訊いたりしたが、彼女はおだやかに、かすかにうれしそうに、いつも黙って頷いてくれた。
その仕草が愛しくて、僕はかっこつける余裕を失ってしまう、同時に、車中は純粋にエロい空気に満たされる。
ブラウスのボタンを、ゆっくりゆっくり外しても、彼女のカラダは、ピクッと震えて少し怖がった。
僕は、その反応を他所に、目の前に現れた真っ赤な下着に目を奪われて、これかわいいな、と無神経なことを言ったのだが、彼女は僕の無神経をやさしく受け止めるのみだった。
そしてRちゃんは、下着褒められるのって、うれしい、と小さな声で言うのだ。
真っ赤な車の中で、はだけた胸元に真っ赤な下着、そのイメージに矛盾しない、Rちゃんは本当の美人だった。
僕が彼女と最後に会ったのは、もうずいぶん前の、蒸した空気の粘りつく、ある夏の夜のことだ。
彼女は僕に、久しぶりに会いに来てくれたのだったが、彼女はそのとき、僕にある報告をしにきてくれたのだった。
―――すてきな彼氏が、愛する人が、できたの。色々、あなたのおかげだと思う。ありがとう。
彼女は三時間掛けて、そのことを、わざわざ伝えに来てくれたのだった。
彼女が、本気で僕のことを好きでいてくれたということ、そのことをはっきり聞いたのも、このときが最初で最後となった。
僕は、彼女の突然の報告と告白に動揺し、祝福と喪失に混乱した。
どうしていいかわからず、市民病院の駐車場で、ずいぶん長い間、しがみつくように、僕は彼女に抱きついていた。
蚊の多い、夏の夜で、彼女がミニスカートであることに、僕は気を回す余裕を失っていた。
彼女は、だめだよ、わたしも切なくなっちゃうよ、と、感性のカタマリから、一番やさしい響きの声を取り出して、僕をなだめた。長い時間、飽きもせず、諦めもせず、なだめた。
ようやく、僕が彼女を解放すると、彼女は、
―――足、蚊に刺されちゃったよ。
と笑った。
彼女はやさしかった。
彼女は僕に、平静を与えようとしていたのだ。
セクシーな腰のクラバーオンナに
「お前はサイコーだ」と
オトコは親友の握手を交わすだろう
うつくしいオンナを描写するのは、難しい。
タフでやさしいオトコは、ハリウッド映画でも描写できるが、美しいオンナはそうはいかない。
うつくしいオンナのほうが難しいのだ。
いやもちろん、実現するにおいては、タフでやさしいオトコも難しいのだけれどね。
うーん、何て言えばいいのだろう。
美しいオンナのほうが、文学的ということだろうか?
いや、うつくしいオンナのほうが、主観的ということだろうか?
そのあたり、まだ僕自身としても、よくわかっていないのだ。
ただ何となく、タフでやさしいオトコというのは、やさしい理由でタフに戦えるオトコということであり、美しいオンナというのは、戦うということでなく、受け入れることで輝けるオンナ、ということにある気がする。
まあ、ここの説明は、おそらく完結しないだろうから、みんなそれぞれに、勝手に美しくなってくれ。(なげやりだ)
ところで、オンナの美しさについて話がしにくいということについては、もうひとつ心当たりがある。
最近、オンナたちが、美しくなろうとせず、強くなろうとしているということだ。
最近、とは言ったが、このことはもう、二十年以上前から始まっているだろう。
ただ最近は、このことがあまりに顕著だということだ。
倖田來未あたりの、エロカッコイイ思想などを引っ張ってくれば、説明の手間が省けるが、「エロカッコイイ」の主体は美しさにはない。
主体は、あくまでカッコよさ、強くクールだということで、その強くクールな中でも、メスを失わない、それどころか補填的に強調さえする、という思想だろう。
だから、倖田來未を見て、「ああ何と美しい」とため息をつく人はいないし、若者は「かっけー」と喝采するわけである。
僕は個人的趣味として、倖田來未みたいなオンナと愛し合いたいとは思わないが、そのことはおいておいて、うらやましい、と思う。
倖田來未がうらやましいのではなく、オンナ全体がうらやましいのだ。
エロカッコイイとか、小悪魔とか、一部ではルールズとか、ちょっとバカバカしいけれど、それでもなんというか、「思想の潮流」みたいなものがある。倖田來未とか大塚愛とか、スターもいる。
オトコには、無いのだ。
オトコには、思想の潮流もなければ、思想の体現者、代表者、スターもいないのである。
一瞬だけ、ホリエモンが台頭しかけたが、文化英雄になる直前、旧時代の残党に殺されてしまった。
オトコたちには、現代のというか、今このときの思想の潮流もスターも存在しないのである。
だから、「尊敬する人は?」と訊ねられると、未だに坂本竜馬や宮本武蔵を引っ張り出してきたりする。
よくよく考えれば、これは時代錯誤もはなはだしいことだ。
今これを呼んでいる女性で、尊敬する人は? と訊ねられて、樋口一葉とか与謝野晶子とか答える人はいるだろうか?
オトコたちは、時代に置いてけぼりを食らっている。
要するに、日本のオトコたちは、巨大な全体として、現代をぼんやり生きているのである。
だから、あなたの周りにも、残念ながら、あなたを心底からときめかせるオトコはほとんどいないだろう。
ナカタやイチローをモチーフにして、職人として栄達せんとしているオトコいるかもしれないが、そんなのは特殊な極少数派だ。
ナカタもイチローも、あまり語ってはくれない人だし、なにより外国に行っちゃってるしね……
大塚愛を見て、かわいいオンナであろう、と思いなおすオンナはいても、レミオロメンを見て、自分をどうこうしようと思うオトコはいない。
オトコたちは、とにかくちりぢりのバラバラ、行方不明になっているのだ。
僕にしてからが、自分の思想を、自分でひとつひとつ手作りしているようなものだ。
こんな今の日本で、いいオトコを探すのは、本当に骨が折れるというか、相当に運が良くないとムリかもしれないね。
いかん、どうも愚痴っぽくなってきた。
とにかくだ、今日本のオンナたちは、スターを豊富に得て、思想的に活発なのだ。
ただ、その活発さは、強さ、クールさ、という方向へ偏っている。
美しさを、無視してはいないが、順列がつけられていて、その順列に基づいて言うなら、強くクールに美しく、というような具合なのだ。
しかし、強くクールになっても、それだけでオトコに愛されるようにはならない。
強くてクールなオンナは、オトコにも尊敬されるが、愛されるという点においては、美しいだけのオンナに負けるのである。
ちょっと頼りなくて、スタイリッシュでもなくて、それでも美しいオンナがいたら、オトコの大半はそっちのオンナを愛してしまう。
ヘソピアスを見せびらかして、セクシーな腰とドレッドヘアを振り回しているクラバーオンナに、「お前はサイコーだ」と、オトコは親友の握手を交わすだろう。
そしてぬけぬけと、「そろそろ帰らないと、あいつこっそり泣いちゃうから……」と言って、美しいオンナのところに帰ってしまうのである。
まあそんなわけなので、オンナたちは、だまされてはならない。
強くクールになる、それはそれでカッコイイけれども、それによって愛されるというのは全くの勘違いだ。
ブームに乗って、競って、ギラギラしすぎないように。
どこまでいっても、愛されるのは結局、美しいオンナなのだから。
自分を防御してツンツン
崩壊させてデレデレ
そんなオンナが美しいわけがない
「ツンデレ」という言葉が、最近使われるようになった。
普段はツンツンしているのに、彼氏と恋人モードになると、デレッデレになるオンナのことを言うらしい。
しかし、ツンデレという言葉が流通し、そういうオンナはひとつのタイプとして承認されたような気がしてくるが、そのことにだまされてはいけない。
その雰囲気は、世間が醸成したウソだ。
オトコたちの正直な感情は、ツンデレオンナを承認などしていないのである。
そもそも、ツンデレという言葉自体、例によってオタクのファンタジーから生まれた、出所がイタい言葉だし……
僕は今までに、ツンデレってかわいいよな、というような話をマトモなオトコの口から聞いたことが無い。
そんなややこしいものを好きになるのは、よほどのヘソ曲がりか、あるいはオンナと付き合った経験がまともにないオトコだけだろう。
ツンデレオンナを好きになる、マトモなオトコなんていない。
なぜなら、ツンツンもデレデレも、まったく美しくないからだ。
特にギャルのコたちには、落ち着いて考えてほしいと思ったりしてしまうのだが、ツンデレは単なる「トレンド」であって、思想でも個性でもない。
ツンツンしているオンナは美しいか?
デレデレしているオンナは美しいか?
美しいわけがない。
二十歳を越えてなお、ツンデレの自覚がある人は、大至急、そのあたりを修正しなくてはならないだろう。
あなたがツンツンしてしまうのは、うつくしくなろうとする勇気がない上に、ビクビク・ヘコヘコを隠蔽するために、強気なふうを装っているからだ。
あなたがデレデレしてしまうのは、あなたがマザコンで、彼氏が無条件に自分だけを溺愛してくれると、ファンタジーに逃避しているからだ。
そうやって考えると、ツンデレというのは、今回の話で表現した、NGウーマンの集合体のようなオンナである。
自分を防御してツンツン、崩壊させてデレデレ、そんなオンナが美しいわけがない。
そういうオンナがいいと言うオトコがもしいたら、そのオトコは大方、「オレの前だけで、気を許して本当の姿を……」みたいなことを思っているのであって、そういうオトコはどういうオトコなのか、もう話の流れでだいたい分かるだろう。
ツンデレ、なんて自分で言って、悦んでいてはいけない。
ツンデレというのは、侮辱用語、ぐらいに捉えておくのがよろしい。
僕の知る限り、いいオンナというものはみんな、普段から元気で気さくで、気が利いて柔和である。
そして、二人きりでもどこか凛としているし、ベッドの上で乱れていても、ちゃんとどこかにマナーがある。
いいオンナは、ツンツンなんかしてないし、デレデレなんかもしていないのだ(当たり前だ)。
素質のあるオンナは、だまされないように、早く目を覚ましてくれ。
素質の無いオンナ、ツンデレだもんと居直っているオンナは、実家に帰ってお母さんにデレデレしましょうね。
(お母さんは喜ぶよ、母親だから)
美しいオンナだ
とオトコに抱きしめられる
ただそのことにあなたは向かいたいのだ
強くなりたいあなたへ、というタイトルで、長々と話してきた。
そろそろ締めくくりたいが、何を言いたいのか僕もよくわからなくなってきた。
とにかく、強くなりたいなら、愛されようという努力をしてはいけないのだ。
愛されようとすると、みじめったらしくなるので、美しくあろう、と努力しなくてはならない。
あなたは、根拠なく溺愛されることはないし、あなただけを見つめる王子様なんて永遠に現れないので、美しさという根拠を得て、相当に愛されようとしなくてはならないわけだ。
そして、ここで同時に、強くなりたいと思うあまり、単純に強くなろうと直進すると、今度は愛されなくなってしまう、ということだ。
僕が思うに、このあたりで行き詰っている人が、世の中にはけっこう多い気がする。
強くなろうとすると、愛されたいという欲求が邪魔だし、愛されたいと思うと、今度は弱くなってしまうのだ。
その行き詰まりを解きほぐすのは、おそらく「強くなりたい」を「美しくなりたい」に修正する、そのことにあると僕は思う。
美しさは、もちろんある種の強さも、その内部に含有するだろう。
しかし、美しさと強さは、本質的に別のものだ。
美しくあろうとするオンナは、愛されたいという欲求を生かしたまま、むしろそれを原動力とできるし、一方でしなやかな強さも身に付けることができる。
だから、強くなりたいより、美しくなりたいのほうがバランスがいいのだけど、なぜだろうね、美しくなりたい、とはっきり公言するオンナは、強くなりたい、と公言するオンナよりはるかに少ない。
強くなるからね、という歌はあっても、美しくなるからね、という歌はあまり聴かない。
なぜだろうね。
美しくなろう、という方向は、あまりにリアルすぎて、女性にとってはプレッシャーがありすぎるのかな……
(まあでも、そういうプレッシャーに立ち向かった人から順に、美しくなり、勝利していくものです)
強くなりたいと望むあなたは、今まで何度も、自分に向けてこう思ったことだろう。
「もっと強くならなくちゃ」
この、自分に向けるメッセージを、こう変化させることは、無意味ではないのではなかろうか?
「もっと美しくならなくちゃ」
だんだんと、話が僕の個人的な趣味になってくるが、実のところ、僕はあなたに、強さにプライドを持つオンナになんかなってほしくないのだ。
美しさにプライドを持つオンナになってほしい。
そして、こう言ってはなんだが、強さという部分については、然るべきオトコに、いくらかは委ねてもらえないだろうか?
強さというのは、究極的には、否定すべき存在と戦い、勝利することにある。
「敵」の心臓に銃弾を撃ち込み、屈服させ、凱歌を上げるのが「強さ」だ。
冷酷さ、に近いところがあるかもしれない。
ただし、残虐さ、ではない。
残虐さは、強さによる気質ではなく、むしろ弱さによる気質だから、強い人は決して残虐ではない。
このあたりのことは、強さということについて、深く考えたことのある人には分かるはず。
そして、僕としてはオンナに、古めかしい考え方ながら、そんな野卑なテーマを追求してほしくないのである。
第一、本当に敵の心臓に銃弾を打ち込んで、誇らしく胸を張れる、そこまでの覚悟が出来ているオンナなんて、実際にはほとんどいないわけだしね……
オトコは究極的には、戦い、勝利する、そのためだけの役割を背負った生きものだ。
そのために、僕を含め、オトコたちは子宮を持たず、骨格と筋力を与えれられている。
本当は、オトコなんて、優秀な一人が九十九人を倒し、その一人が百人のオンナを妊娠させれば、生きものとしてはグッドジョブなのだ。
生きものとして、オトコは強くなくてはならない。
そして同時に、文化的に、オトコはやさしくなくてはならないのだ。
オンナはどうだろう?
オンナは、美しくあるべき生きものだ。
美しくあり、オトコに力を与える、そういう役割を背負っている。
美しくあるということは、さらに言えば、天使になる、ということでもある。
こっ恥ずかしい言い方だが、これは真実だ。
オトコは、美しいオンナを愛し、つま先から髪の毛の先まで愛しぬいてしまったとき、そのオンナを「天使」と感じるのである。
オトコはバカだから、「天使」と出会ったとき、神に誓ってしまう。
オレは、このコのために戦います、勝利し、このコを慈しみ続けます、と誓ってしまうのだ。
そのときオトコは、オンナに力を与えられて、全ての戦いを聖戦とすることができる。
だからオトコは、天使のための戦いぬいて、笑って死ぬことができるのである。
もちろんこれは、理想論だが、この理想を、慌てて捨てる必要は無い。
おそらく、オトコが天使のために聖戦へ向かえる可能性は、一生に一度あるかないかだが、それでも、その一瞬を捨ててかかることはないだろう。
むしろ僕たちは、そういう一瞬へ向かおうとする、長い長い助走を生きているようなものだから。
あまり、くどくど言ってもしょうがない。
あなたはオンナだから、とにかく、美しいオンナであってくれ。
強いオンナだな、とオトコに尊敬されても、ぶっちゃけしょうがないだろう。
美しいオンナだ、とオトコに抱きしめられる、ただそのことに、あなたは向かいたいのじゃないのかな。
ではでは、そんなわけで、今回はこのへんで。
オンナの美しさとは何か、ということについては、あまり踏み込めなかったけど、そのあたりは、またいつかアイディアが出たら話そう。
じゃ、またね。