No.096 いつまでも臆病なあなたへ
[Jan, 2007] by 九折
あなたは、自信が足りない、のではない
「もっと自信を持たなきゃ」
このフレーズは、相変わらずよく聞く。
よく聞くし、よく取り扱うので、いささか飽きてきた。
でも、テーマとしては有効だし、人気があるので、しつこく取り上げてもまあいいだろう。
自信、についての話。
このテーマが、しつこく繰り返されるのは、そもそも先の固定フレーズが、役に立っていないからだ。
「もっと自信を持たなきゃ」を連呼して、解決するのなら、このテーマはすでに消滅しているはずである。
要するに、もっと自信を持たなきゃという、その発想自体、あまり有効でないというか、無意味だということだ。
今回は、このことについて、別の方面から考えてみる。
おそらく、この方面から考えるほうが、実際的で有効だ。
あなたは、自信が足りない、のではない。
ひょっとしたら、自信は過剰でさえあるかもしれない。
あなたは、自信が無いのではなく、単に「臆病」なのだ。
臆病というのは、「病」という字が当てられいているように、病気である。
あなたは病人なのだ。
わかりにくければ、オクビョウ病と言ってもいいし、あなたはその罹患者だと言ってもいい。
あなたに必要なのは、その治癒である。
治癒というか、矯正である。
オクビョウ病は、乱視と同じように、元あるものを歪めて見てしまう病気だ。
あなたは、パスのボールを「ぶつけられた?」と感じるし、握手の手を「手錠?」と感じる。
そんなバカな、と思えるが、そういう病気なのだから、これはいたしかたない。
まず、その病気を治さないと、自信のどうこうを考えてもあまり意味が無い。
意味が無いどころか、ときには、別の病気を誘発することさえある。
このあたり、まったく具合の悪いことに、オクビョウ病の人に限って、その内部では、こっそり自信肥満が進行していたりもするものなのだ。
臆病者とは想像力のシステムが極端にネガティブなヘボのことを言う
少し、難しいことを言う。
難しくて、一見抽象的だが、大事なことだ。
臆病は、想像力によって発生する、ということだ。
想像力の無いものは、一切の臆病を発生しない。
メスのヤブ蚊が、死の危険も顧みず、巨大な人間の血を堂々と吸いにこれるのは、ペチッとやられたら死ぬ、ということの想像力が無いからだ。
犬に拳銃を向けても、犬はその先を想像しないので、きょとんとして尻尾を振っている。
臆病は、想像力によって発生するのだ。
恐怖映画を観た夜、一人でトイレに行けなくなるのは、ドアの向こうにジェイソンが斧を持って立っていたらどうしようと、荒唐無稽な想像力を働かせる結果である。
想像力は、そのようにか弱く、非合理に荒唐無稽に働くくせに、強力である。
その想像力が、恐怖を生み、人を臆病にするのだ。
すなわち人は、か弱く非合理で荒唐無稽な理由であっても、臆病になりうるということだ。
もちろん、この想像力のシステムは、生きものにとって必要なものでもある。
このシステムで、生きものは、危険を回避して命をつないでいる。
車でコーナーに突っ込むとき、減速するのは、このスピードでは曲がりきれない、ぶつかる、痛い、死ぬ、そういう想像を働かせるからだ。
だから、この想像力のシステムは、あって当たり前のシステムなのだが、これが必ずしも健常に、有効に働いているとは限らない。
「初めまして」と、普通に挨拶されているだけなのに、その時点ですでに臆病な人というのは実際にいる。
就職の面接で、「今まで何に一番力をいれてこられましたか」と問われて、それだけで難詰されている気分になる人は、実際にいる。
「お前を抱きたい」と言われただけで、この人はわたしを蹂躙し傷つけようとしている、と勝手に緊迫し始めるオンナは、実際にいる。
臆病とは、そういうものだ。
臆病とは、想像力のシステムが、何でもかんでも危険とみなしてしまう病状のことを言うのである。
車でコーナーに突っ込むとき、減速しすぎるのは、慎重でも安全運転でもない。
単に、運転がヘボなのだ。
臆病者とは、想像力のシステムが極端にネガティブな、ヘボのことを言う。
ヘボの運転する車に乗ると、車酔いするから、乗りたくない。
同様に、ヘボのオンナに乗ると、精神が悪酔いするから、オトコはあまりそういうオンナに乗りたがらないのである。
(あれ、下品になった。失礼)
臆病なんて、想像力でしかない
僕の友人に、大きな犬が苦手なやつがいる。
そいつは、「遊ぼ〜」という気配が丸出しの、毛並みピカピカのゴールデンレトリバーが走り寄ってきても、逃げる。
別に襲い掛かっているわけではない、とわかってはいるのだが、怖いらしいのだ。
聞けば、幼いころ、大きな犬にさんざん追いかけられた恐怖体験があるらしい。
その原体験が、彼の想像力を、犬イコール危険と決定してしまい、修正を受け付けないのだ。
臆病の、典型的な例だと思う。
臆病は、想像力によって発生するわけだが、もちろんその想像力も、何かしらの体験や情報があって支えられるものだ。
体験も情報も持たない、例えば生まれたての嬰児は、想像力を持ち得ない。
だから、臆病になっている人は、その想像力をネガティブな方へ決定する、何かしらの体験や経験を持っているのだ。
オトコに臆病なオンナは、あるいは、人間そのものに臆病なオンナは、そうなってしまうだけの体験をどこかでしてきている。
その体験の第一は、両親、家族との体験だろう。
極端な話、母親が、笑顔で子供を殴り続ければ、その子供は人の笑顔に恐怖する、そういう臆病を患うはずである。
それはまあ、極端な例だが、仕組みとしてはそういうことだ。
最近はもう、両親の愛情に恵まれずに育った子供は、大きくなってから神経症になるということが常識になったが、このことも、はっきりいって愛がどうこうと難しく考えるような話ではない。
両親の、未熟なり冷血なり暴虐なりが、子供の想像力の方向をネガティブな方へ偏向・固着する、というだけのことだ。
実際に、そういう経緯で、臆病を患っている人は少なくない。
父親に嫌われて、小学校でいじめられて、美人なのに臆病になった、みたいなオンナは世の中にたくさんいる。
ただ僕は、そういう人を、気の毒だなぁ、とは別に思ったりしない。
気の毒なのかもしれないが、そこに同情してもあまり意味が無いことだからだ。
大事なのは、そんなことではなく、ただ臆病を構成するのは想像力である、という事実だ。
臆病は、体験や情報が構成するのではない。
臆病を構成するのは、どこまでいっても、今このとき、現時点の想像力なのだ。
臆病は、想像力である、と言っていい。
それは同時に、臆病なんて、想像力でしかない、ということでもある。
臆病な人というのはどうしようもない
アホでガンコな人だということなのである
お気に入りのオトコに、話しかけてみる。
このコート、かわいいでしょう、安かったんだよ、とたわいない話を投げかけてみる。
お近づきになりたいな、という気配で、メールアドレスを交換したりする。
どこにでもある、当たり前の営為だ。
でも、この程度のことでさえ、臆病に阻害されて、ままならない人がいる。
あるいは、いちいち「勇気」を必要とする人がいる。
そういう人は、自分の想像力のシステムを、バカバカしい、故障している、と放棄しなくてはならない。
よくよく考えろ、その営為は、ただ話しかけているというだけの、すさまじくささやかなコミュニケーションに過ぎない。
そんなささやかなことで、破滅も奇跡も起こらない、それはもう百パーセント起こらないのだから、警戒も緊張も勇気もまったく必要ないのだ。
もしあなたが、そういうときに、臆病になってしまうオンナだったとして。
あなたの想像力は、どうなっているのか?
何を根拠に、そんなに力んで、警戒しているのか?
その荒唐無稽な、知性も合理性もなしに暴走するだけの、イカレポンチな想像力を、あなたはいつまでほったらかしにしておくつもりなのか?
自分には自信が無い、と思っている人は、思い違いをしている。
自信なんて関係ないのだ。
あなたが臆病になるとき、そのシーンは、別段に自信など必要としていないシーンだからだ。
問題は、臆病という一点にある。
臆病ということは、何度も言うが、想像力のシステムが歪んでいるということだ。
想像力のシステムが歪んでいるということは、物事の進みゆきをちゃんと想像できないわけだから、要するに、アホ、と言ってもいいかもしれない。
幸せそうに、元気に走り寄ってくるゴールデンレトリバーを見て、恐怖し、逃げる、そういうことにエネルギーを無駄遣いして、人生を暗くする、どうしようもないアホだということだ。
しかも、そのアホは、その無駄なシステムにしがみついて、離れることもできないのである。
どういうことかというと、要するに、臆病な人というのは、どうしようもない、ひたすらアホでガンコな人だということなのである。
僕たちは実際そういう根拠の無い想像力の世界で生きている
臆病な人は、まず自分で、自分のアホさ具合を認めなくてはならない。
自分で自分をアホだと認めるのは、プライドの高い人にとっては苦行だが、それでもそこから始めるしかない。
アホさを認めることから逃げて、一足飛びに自信を手に入れて解決しようと、そんな都合のいいことを考えてはならない。
アホさを認めて、自分の想像力と、そこにまつわる情緒反応を、疑って捨ててしまうしかないのだ。
その、捨てる、ということが出来ない人は、アホな上にアタマが固く、ガンコである。
アタマが固いというのは、例えば竹刀を振り回して生徒にうさぎ跳びを強要し続けるクラブ顧問の先生、みたいな人であって、恥ずかしい人だ。
そういう人は、自信が無いと言っている割には、自分の考え方にしがみついて手放さない、結局自分の考え方に圧倒的な自信を持っているのだから、もう何というか、取り付く島が無い。
何度も言うが、臆病というのは、所詮が想像力にしか過ぎないのである。
想像力というのは、形而上の存在で実体の無いものなので、そんなものに縛られるのはまったくバカバカしいことだ。
このことについて、もう少し突っ込んで言ってみよう。
実は想像力というのは、そもそもからして根拠を持たないものなのだ。
このあたり、哲学論議にならないよう、バランスを取って話すのが難しいけれど……
例えばだ、あなたの目の前に、妻夫木クンのような優男がいたして、あなたに笑顔を向けていたとする。
そして、笑顔のまま、君が好きだ、とあなたに言ったとしよう。
そのときあなたは、やった、この人はわたしを好きになってくれたんだ、うれしい、しめしめ、と思うだろうが、実のところ、そのときのあなたの情緒反応も、正確には想像力の賜物でしかないのだ。
なぜかというと、ここは日常の常識から離れないと理解できないところなのだが、笑顔が好意を示すものというのは、物理的に決まっていることではないし、好きだと口で言っていても、それはウソかもしれず、あるいは単にS・U・K・I・D・Aと発音してみたかっただけかもしれず、また「君」というのがあなたのことでなく天皇陛下のことかも知れないからである。
笑顔を見せられると、好意を持ってくれているのだと判断してしまうのは、僕たちの想像力が、一般にそのように方向付けられているからに過ぎない。
笑顔は、好意によって生まれるものだろうと、僕たちは社会的に学習していて、それを確からしさの根拠として、「おそらく」好意を持ってくれていると、「想像」しているに過ぎないのである。
だから、サルとか野犬とか、別の生きものに対しては、笑顔を見せても効果が無いのだ。
動物の場合は逆に、歯をむき出すのは威嚇と闘争のシグナルだから、好意どころか敵意と受け取られさえするかもしれないのである。
想像力には、もともとそういう性質がある。要するに、先の現象を手がかりに、今回の現象も同様に進行する「だろう」と推測する性質があるわけで、それはよくよく考えると不確かで根拠の無いシステムなのだが、これは何も、非現実的な思索遊びとして言っているわけではない。
僕たちは実際、よくよく考えれば、そういう根拠の無い想像力の世界で生きているのだ。
だから世の中には、「好きだって言われても、何だかうれしくないし、信じられないの」と、実際に混乱している人もいるのである。
例えば、インドに行ったことのある人は、初め混乱しただろうが、インドでは「首を傾げる」というボディランゲージが、「イエス」の意味になってしまう。
だからインド人に、「君はオレとセックスしたいよね?」と訊ねられても、「は? アタマ大丈夫?」と首を傾げてはいけない。
イエスの意味に取られて押し倒されて、ややこしいことになってしまう。
ウソみたいな話だが、このテのトラブルは、実際インドでよくある話なのである。
首を傾げて、NGを表現する、そんな僕たちにとって当たり前のことでさえ、実は根拠のない想像力にあやふやに支えられているのだ。
このあたり、少し踏み込めば、話はいわゆる哲学そのものになる。
アルトゥル・ショーペンハウエル的に言うなら、あなたが目の前の人から受ける色んな「印象」というやつも、「自分という現象」の一部でしかないのだ。
まあ、別に僕はデカンショでもなし(古っ)、それ以上突っ込むのはナシにして……
あなたは、このあたりまで考えて、本当に「確信」できるだろうか。
自分の想像力のシステムが、目の前の人について本当に正しく働き、確認しようの無い「実際」を印象から正しく演繹し、妥当な情緒反応を自分にもたらしていると、確信できるだろうか?
(うわ、難しくなっちゃった)
やってみて失敗しても
たいてい大したことにはならないものだ
この、想像力のシステムということについては、学問でもビジネス分野でも、取り扱いがたくさんある。
大きなところでは、心理学がやはりあって、心理学ではこの周辺を、「信条体系」とか「スキーマ」とか呼んだりする。
しかし、こういうことはたいてい、緻密に考えすぎても役に立たないだろう。
僕は、この想像力のシステムこそ、要するに、その人の「世界観」なのだと思う。
人間に対しての話なら、「人間観」ということになるだろう。
臆病になっている人は、要するに、この世界観がヘンなのだ。
世界観がヘンなので、敵じゃない人を敵だと思ったり、偉くない人を偉いと思ったり、まあたいていその偉い人ってのは自分だったりするのだけど、とにかくそういう具合の悪いことになっているのだ。
そのあたり、ヘンな世界観にしがみついているということで、個人的なカルト宗教にハマっている人(しかも自分が教祖)、と見てもいいかもしれない。
だから、臆病な人が、臆病から脱出するのは大変だ。
カルト宗教にハマっている、偏執の極みにイッちゃったような人を、こちらの世界に引き戻す、それぐらいのエネルギーが必要になる。
でも、それを投げ出したら、本当にその先は、もう一人でカルトな世界に生きていくしかなくなるだろう。
臆病というのは、いわば「思い込み」の病だ。
しかし、人間にとって、そういう「思い込み」の克服ほど、エネルギーを要するものはないのである。
まあそんなわけで、ウダウダ話してしまったが、今回の話、結論は簡明だ。
気に入った人には、どんどん接近して、どんどん仲良くなってしまえばいい、ということだ。
(話が一気にアホになった)
自信なんて要らないし、どうせあなたには、今後もしばらく自信なんて手に入れる見込みは無いのである。
大事なのは、臆病を断ち切ることだ。
根拠もないくせに、ひたすらネガティブに偏っている、そのイケてない想像力を見つめなおし、そのシステムを抱え込んでいる、アホでガンコな自分を放棄することだ。
臆病を断ち切れば、人生は百八十度変化する。
変化するし、たいていの物事は、臆病であったときよりも上手くいくようになるだろう。
以前は、何にビビってたんだろう、バカバカしい、と過去の自分を鼻で笑うようになる。
何か失敗しても、失敗自体にダメージを受けないから、気にならなくなるだろう。
だから、何かに挑戦することは倍増する。
ワクワクすることが圧倒的に増える。
そして、ワクワクしていなければ、生きている意味が無い、そのことも自明のこととして理解するだろう。
そうして、輝き始めたオンナは、もうオトコの方が放っておかなくなるね……
もちろん、全てのことが上手くいくとは限らない。
熱烈にアプローチした挙句、ウザいと思われて、フラれてしまうこともあるだろう。
が、それは単なる未熟というか、器量不足なので、嘆いても仕方ない。
そういう、残念な体験を経ることなしに、世界観、想像力のシステムが美しくたくましくなることはありえないのだから、そのあたりは現世に生きている一人の人物として、責任を持って受け止めていくしかない。
なお、そういうときも、臆病の侵入を受け付けないことが大事だ。
フラれた、みたいなことがあると、人間の想像力は、すぐに具合の悪いほうへ暴走する。
今頃、彼は「あのオンナ、マジ最悪、マジにウゼー」と友人たちにこぼしているのじゃないか、自分は彼にとって最強に迷惑な存在だったのじゃないか、とそんなことまで想像されてしまうが(特に夜中は)、そんな想像はただの暴走なので、受け付けない、浸らない、ということが大事だ。
フラれたら、後は相手が忘れていくだけ、別にウザいともウザくないとも思っていないので、気に病むことはない。
あなたがもしウザかったとして、そのウザいあなたを、いつまでも覚えておくほど、彼はヒマではない。
あなたは、そんなに大きな存在ではないから、とにかく大丈夫なのだ。
ついでに言うと、想像力が暴走するとき、たいていはこの「自分は大きくない」という視点が抜け落ちているので、気をつけよう。
想像力の暴走は、たいてい自意識の肥大を伴い、またその肥大が人間にとって快感だったりするので、タチが悪いのだ。
想像力の暴走、自意識の肥大、その快感に浸っているうちに、臆病に罹患してしまう。
だから、フラれた夜も、浸るのは一晩だけにして、想像力のシステムがゆがめられる一歩手前で立ち止まり、臆病の侵入を許さないようにしようね。
臆病は、所詮、想像力でしかない。
そういえば、多分、自信というやつも、所詮は想像力でしかないのだろう。
両方とも、想像力、本当は根拠の無いものだとして、どちらを求めるかはあなたの自由だ。
僕は、とりあえず、実りの多いほうを選ぶけどね。
まあ、そんなわけで、今回はこの辺で。
色々言ってみたけど、どうかな。
あなたもそろそろ、老け込む前に、思い切って、やりたいようにやってみてはどうだろう。
何を想像して、怯んでいるのか、知らないけど……
やってみて、失敗しても、たいてい大したことにはならないもんだよ。
じゃあ、またね。