No.100 「付き合う」という新興宗教 〜付き合えないあなたへ〜
[Mar, 2007] by 九折
最近はずっと文章を書いて過ごしている。
夜遊びしたり砂浜を歩いたり旨いものを飲み食いたりもしているはずなのだが、なぜか自意識としては文章を書いているというところにとどまっている。
不健康な気もしてくるが、今はこれが楽しくてワクワクしてしまうのだからどうしようもない。
文章を書くということの、「本質」に最近触れ始めているから、今はもうこのことにしか興味がいかないのだ。
もし今、ラスベガスで一億ドルのジャックポットを当てたとしても、さあこの快楽を書いてやろうとだけ、今の僕は思ってしまうだろう。
本質に触れ始めている、だからワクワクすると言ったが、何事であれ、物事の本質に触れたときというのはそういうものだ。
そのワクワクは、快楽と言っていいぐらい、気持ちがいいものだ。
そして、こういう快楽こそ、金で買えない大事なもののひとつである。
本質に触れるためには、高い精神性が必要だから、そこに小銭を持っていたりしたら妨げになるばかりだ。
物事の本質に到達するには、高い精神性がいる。
それでいて、ひとたび到達してしまえば、そこで得られる本質は実にシンプルだから面白い。
例えば、
指揮者は、演奏する者ではなく、演奏をさせる者でしかない。
マジシャンは、トリックを見せず、マジックを見せるものである。
天皇は日本の象徴である。
文章作品は書き手と読み手の共同作品である。
誰が勝つかわからないギャンブルで勝利できる者が強者である。
豊かな者は使おうとし、貧しい者は貯めようとする。
これらの「本質」は、シンプルなのに、そこに届いていない人には何のことやらわからない。この本質が、何を意味し、何を示していて、何に役立つのかわからない。
わからないということは、何も生み出せないということだ。ワクワクできないということであり、快楽が得られないということであり、さびしいということである。
本質ということで言うと、今回の話は、まずこのように言うことができる。
「付き合う」人は、恋愛ができない。
このことは、間違いなく恋愛の本質であり、シンプルなことなのだが、やはりこれも、わからない人にはまったく意味がわからない。
そしてやはり、残酷なことながら、わからない人は逆に「付き合えない」し、何も生み出せないし、快楽が得られないし、さびしい。
「付き合う」を求める人は、恋愛的に自殺しているのだ。そしてそのことに、無自覚で、「わかっていない」のである。
あなたはどうだろうか?
「付き合う」は、ひとつの新興宗教なのだ
恋愛するということ、同性愛はひとまず除くとして、オトコとオンナが愛し合うということは、いったいどういうことだろうか。
このことは、別に難しく考える必要はなく、難しく考える人は、たいてい恋愛的に生命力を失っている。
例えば、お肌つるつるのお嬢さんが、ハダカで僕の上にまたがって必殺技を披露してくれる、何十分もそうしてくれて、色っぽい汗を流してくれる、そしてウフフと幸せそうに微笑んでくれること、それが恋愛だ。
恋愛は、セックスだけで構成されているわけではないが、まあ恋愛の大事なシーンのひとつは、やはりこのあたりにあるだろう。
このことに反発を抱いてしまう人は、ベッドを睡眠の器具だと思ってしまっている、要するに枯れ果ててしまっているので、まあなんというか、もっと元気になろうね。
「必殺技をやってもらうだけなら、風俗でもいいだろう」という話も出てくるかもしれない。
そこは、恋愛と風俗は何が違うかということになってくるわけだが、そこの違いは、そのオンナのコが喜びを感じてやっているかどうか、ということになってくる。
ここで言う「喜び」とは、プレイに対する興奮とか、そういうことではない。
ただ、相手が快楽を味わっている、そのこと自体に覚える「喜び」だ。
人は人を愛すると、快楽を与えることに喜びを覚えるのだ。
快楽の優先順位において、自分より相手が上位になってしまうのである。
無私になれる、と言ってもいい。
すなわち、僕の上で汗を流す彼女は、自分のことをどこかに置き忘れて、ただ僕に快楽を与えることに没頭し、幸せを感じているのである。
こういうと、僕が猛烈に傲慢なように聞こえてしまうが、これは実際にそのように愛されてしまったら、もうどうしようもない、認めて感動するしか誠実な道は無いのだ。
相手に快楽を与えることが、自分のことより優先されてしまう、それが愛の現象なのだが、この現象は、別にきれいごとの抽象概念として言っているのではない。
サイエンスとして成立するぐらい、事実明瞭に発生する現象で、一度でも経験すれば誰でも了解できる現象だ。
この現象は、あまりに貴重で価値があるから、風俗のオンナのコも、さすがに愛は売れない。
繁華街で万札を使えば、ヌルヌルの気持ちいいことはできるが、愛の現象に触れることはできないのである。
(当たり前の、とてもいいことを言ってしまった)
あなたは、オトコを愛しているだろうか?
ここで、愛という現象が、実感としてまだわからない人もいるだろうけど、そういう人も、愛を疑ったりしないでいようね。
僕のことは、いくらでも疑っていいけど、愛を疑うのはよくない。
愛を疑って、人生を暗くしている人、最近よく見かけるけど……
愛という現象は、実際にあるからね。
あなたがまだ、経験していないだけだ。
あなたがまだ、その現象を経験していないのは、あなたがまだ人生で無私の状態に至ったことがない、要するにまだ自分のことだけしか考えずに生きているだけのことだ。
だから、愛を疑ったりせず、「ああ、わたしはまだ未経験だな」とだけ思っておくことにしようね。
自分のことしか考えない、こんな人生はもうイヤだと、どこかで自分を吹っ切ったとき、あなたも必ず愛の現象を体験するからね。
さてそんなわけで、恋愛、愛し合うというのはそういうシンプルなことなのだが、一方で「付き合う」というのはどういうことなのだろう。
今回は、このことを考える話なのだが、この「付き合う」というのは、シンプルどころか、こんがらがってめちゃくちゃである。
まず、「付き合う」ということは、二者間の取り決め、という形態をしている。
その内容は、西洋思想の「伴侶」を模したような形で、お互いに貞操独占権を設定する、そしてお互いを愛することを誓う、というような具合になっているのだが……
いかんせん、この取り決めは、あいまいだ。あいまいが極まって、輪郭が無い、というかもう初めから崩壊している。
この取り決めは、なんなんだろう? まず、「伴侶」を模してはいるのだが、その取り決めにおいて、神聖さは要求されないのである。西洋思想における「伴侶」は、その誓約を神の名において成立させるわけだが、「付き合う」というのはそうではない。
今までに、誰かと「付き合う」となって、神社に行ったり、教会に行ったりした人はいるのだろうか?
「付き合う」というのは、取り決めではあるが、御神職に儀式をお願いすることが無い。また、誓約書を作って署名することもなければ、指輪の交換もしない。
ただ、「取り決め」なのだ。
まったく意味がわからないのだが、それでも今のところ、この「付き合う」ということにやたらにこだわっている、そういう男女が僕たちの周りにはひしめいている。
そして、お互い愛し合える手ごたえも得ないままに、ただ「付き合う」ということだけを先行させて、「付き合っているから」という理由だけでちんちんをしゃぶったりしている。
あるいは、「わたしたち付き合っていないから、ただのセフレよね」と言いながら、その相手と長年仲良くしたりして、一方では「付き合った人」と二週間で別れたりして、その悲しみと涙をセフレの前で訴えたりしている。
うーん、気が狂っているのではないだろうか?
「付き合う」という、この不気味な取り決めの慣習、またそれに対する執着は、もうこのように結論付けるしかなさそうだ。
すなわち、「付き合う」は、ひとつの新興宗教なのだ。
新興宗教ということで、改めて現象を眺めてみれば、まあなんとなく納得がいく。
筋道の通らない理屈を大事にして、神聖さのない取り決めを尊び、不明瞭なのに形式に執着してしまうところ、そのあたりはなるほど、新興宗教にハマっちゃった人に典型的な症状だ。
僕は、人と愛し合うこと、オンナと恋愛することが好きなので、遠慮したいところだけど……
あなたの場合は、どうだろうか?
あなたの求めるのは、恋愛か、それとも「付き合う教」か?
「付き合う」とその周辺の言葉を徹底的に排除して
再構築するしか解決策はない
「ボクと付き合ってください」を英語で言おうとすると、こんな感じになる。
Are you gonna be my girl?
これは、意訳としてこう言うしかないわけだが、当然ながら、「付き合ってください」という意味には厳密には引き当たっていない。
「付き合う」なんて表現は、日本にしかないのだ。
日本にしかないし、さらに言うならば現代の日本にしかない。時代を少しさかのぼっただけでもう通用しなくなる。
あまりここで、そのことの論証に紙面(?)を費やしたくないのだが、例えば「彼氏」「彼女」という言葉にしたって、使われだしたのはごく近代に入ってからである。
「彼女」は「彼の女(かのおんな)」が変形した言葉で、使われだしたのは明治二十年ごろからだ。英語の流入に際して、she/herに当てる訳語がなかったので、無理やりに創出された。
「彼氏」はもっと時代が浅く、使われだしたのは昭和の五年ごろからである。使い出したのは、無声映画の活動弁士をしていた徳川夢声氏だ。
「彼女」も「彼氏」も、当時はshe/her,he/himの意味だけを持つ言葉だった。恋仲の二人を指す意味で使われだしたのは、本当に最近になってからだろう。
「付き合う」という言葉にいたっては、それよりさらに時代は浅いのではないかと思われる。明確な資料は見つけられなかったが、しかし僕が小学生のころでさえ、恋仲の関係を「付き合う」とは表現していなかったような気がする。
今僕たちが取り付かれている「付き合う」という概念は、それぐらい歴史が浅いチンケなものなのだ。まさしく新興宗教と呼ぶにふさわしいだろう。
「彼氏」「彼女」という言葉にしたって、品の無いスラングである。だから例えば品性のある年配の人は、あなたに「彼氏いるの?」と訊いたりしない。品性のある人は「好い人はいるの?」と訊くだろう。訊くだろうし、実際にその言葉のほうが本来的な恋愛に近い。
僕たちの求める恋愛とは、好い人と、好い仲になることなのだ。
「彼氏がほしい」とか「付き合いたい」とか、そういう言語体系に住んでいるうちは、あなたは永遠に恋愛ができないだろう。言語とはそういうものだ。あなたの使う言語は、あなたの思想と概念の全てを否応なく形成してしまうものなのである。
まともな恋愛をしたければ、恋愛についてまともな考え方をすることだ。
まともな考え方をするということは、まともな言葉を使うということでもある。
これは当たり前のことなのだが、すでにこの「まともな言葉を使う」というところで、単純な脳みその不能に陥っている人が多い。
脳みその不能なんて言うと、もうただの悪口なのだが、僕としては悪口を言わざるを得ないぐらい、状況は深刻だ。
例えば、こんな話があったとする。
「彼とは、流れでエッチしちゃったんですが、その後で好きになってしまいました。今も週一で会って、会うたびにエッチしてます。でもこのままじゃセフレだし、かといって付き合ってくださいっていっても逆に縁を切られそうで怖いです。どうしたらいいでしょうか。セフレから彼女になるのってやっぱりムリなんでしょうか。アドバイスをお願いします」
こういう話は、こういう言語体系のまま僕のところにメールで届いたりするのだが、実際にこういう話を、正しい言葉に翻訳出来る人はほとんどいない。
あなたはどうだろうか?
(いや、翻訳できたら、ホントに最近レアな人だよ)
たとえば、これを僕として翻訳すると、次のような具合になる。
そして不思議なことに、恋愛の手がかりは、正しい言葉の中に勝手に現れてくるのだ。
「その方とは、初め求め合うままに情を交わしてしまったのですが、いつのまにか私のほうは、その方を本心から恋い慕うようになってしまいました。今も逢瀬を重ねて、深い仲でいます。しかしこのままでは、情人としての不埒な仲に落ち着いてしまうのではないかと思い、胸の内を打ち明けたものかどうかと当て所なく煩悶しています。むろん打ち明けたとしても、その方のお心に何かを強いるのは本意でなく、誤解のゆえに疎遠になることのないように振舞いたいのです。今更ながらで、虫のいい話ではありますが、あの方と好い仲になりたいというこの望みに、もし何かあればお知恵をお貸し頂けないでしょうか」
こうして翻訳してみると、一目瞭然だ。
前者と後者、状況は同じはずなのに、前者のセフレはおそらく不毛、後者の色恋沙汰は恋物語の可能性を含んでいる。
状況が違うのに、結果に差異が出てくるということは、そこにある人格、思想が違うということだ。そして思想というのは、世界を捉えているその人の言葉のことである。前者の言葉には希望も美徳も品性も無い。後者の言葉には人の情と機微がある。
いやあ僕もそうだし、日本中の知能ある全男性がそうだと思うのだけれど、言葉遣いのきれいなオンナと、交わるなら交わりたいものだね。
お互い求め合って肌を重ねて、切ない情事に明け暮れた末に、「セフレ!」って言われたら興ざめもいいところだもんなあ。
そういうオンナとは、本当にさっさと縁を切るしかない。
まっとうな恋愛をするためには、まっとうな考え方をすることで、まっとうな言葉を使うことだ。
ここに使った言葉だけでも、あなたにとってたぶん丸暗記する価値があるだろう。
彼→あの方
流れで→求め合うまま
エッチした→情を交わした、肌を重ねた
本気で→本心から
好き→恋い慕う
カラダの関係がある→深い仲
会ってエッチする→逢瀬を重ねる
セフレ→情人
割り切り→不埒な仲、アバンチュール
告る→胸の内を打ち明ける
怖くて迷っている→煩悶している
迫る、押す→強いる
そういうのはイヤだ→本意でない
縁を切る→疎遠になる
付き合う→好い仲になる
アドバイスがほしい→知恵をお借りしたい
こういう言葉を使えている人は、別にアレコレ考えることもなく、自然に恋愛を生きていけるものだけどね。
「A君にはアピって見たけど脈ナシっぽくて、B君とは付き合っても遠距離になるし、やっはりC君と元カノが切れるのを待ってから告ってみようかな、束縛されそうだから続かないかもしないけど」
こういう言語で生きている人は、もう何をいじくっても、恋愛はできない。
オトコとうまく付き合えない、そのことに首をかしげているあなたへ。
「付き合う」と、その周辺の言葉を、徹底的に排除して再構築するしか解決策はないと思うよ。
名前が出てこないということは、相手と話していないということ、
独り言をぼやいてるということだ
十八歳のナミちゃんは、写メールを見る限りくっきり系の美人だった。看護士になるために勉強中という彼女から、先日電話受けたのだが、いきなり彼女が泣いていたので、僕はびっくりしてしまった。その電話は、僕としてはじめて彼女から受ける電話だったからだ。
彼女は福島県に住んでいて、その日東京に住む元カレに会って、その帰りに電話をかけてきたのだが、その内容に、僕はもう驚くというか、唖然呆然としてしまった。
「あの、さっき元カレに会ってきたんですけど、なんかひどいこと言われちゃって、ショックで、その、元カレとは今日初めて会ったんですけど」
この話を聞いて、なるほどねと速やかに了解できる人は果たしているだろうか?
「……元カレと、今日初めて会ったって、なに? それってどういうこと?」
僕としては当然、そう聞きただすしかなかったわけだったのだが、この後の話は僕にとって仰天だった。
ナミちゃんは、ネットを経由するオンラインゲームでそのオトコと知り合い、そのオンラインだけでそのオトコと「付き合い」、そしてオンラインだけで「別れた」のだ。そして、別れてから数ヶ月、その日に初めてそのオトコと会って、セックスをして帰路についたところだったのだ。
僕はこの話を聞いて、新人類、という言葉を想起せずにはいられなかった。連想の仕方がいかにもおじさんくさいが、もうこの点については自分が違う世代であることを否定する気もしてこない。僕から見ればその恋愛、恋愛というか「付き合う」は、はっきりいって正気の沙汰とは思えなかった。
ナミちゃんは、電話で話している間、その元カレがどうのこうのと、垂れ流すように話した。いきなりの電話で、泣きながらである。僕はわけがわからなかった。
それでも、ナミちゃんの声にはどこか健気なところがあって、僕としてはすさまじい違和感の中、その声の感触に一縷の望みをかけて話し始めたのだったが……
「正気の沙汰とは思えないよ」
どこから話していいものか、僕は途方にくれる気分だったが、もうどうしようない、僕は僕として感じる正直なところをぶつけるしかなかった。ナミちゃんの「付き合う」は、まったく正気の沙汰ではない。正気の沙汰じゃないよ、僕はそのセリフを、いっそナミちゃんを洗脳するつもりで、繰り返し投げつけた。
数十分の会話の後、驚いたことに、ナミちゃんは一気に「正気」を取り戻すことになる。そのことについては引き続き話すが、その前に、僕としては「付き合うという思想は新興宗教」ということを、このときに慄然とする気分で生々しく感じたことを言っておきたい。
ナミちゃんのようなオンナこそ、「付き合う教」の犠牲者だと思う。現実世界から逃避して、偏屈な美意識に閉じこもることを決め込んでしまったいわゆるアキバ系のような人なら話は別なのだが、ナミちゃんはそうではなかったからだ。ナミちゃんは、人格の中心に健康で健気な魂を持っていて、本当のところは人間として正しいコミュニケーションを望んでいた。切望していたと言ってもいいだろう。
ナミちゃんはおそらく、そういうコミュニケーションを、生活の中で与えられなかったのだと思う。
「なあ、ナミちゃん、話はひとまず置いておいて、はじめましての挨拶しようか」
僕がそう呼びかけると、ナミちゃんは奇妙な素直さで、「あ、はい、そうですね、すいません」と答えた。
僕はそこから、お互いの名前を名乗ること、突然のお電話失礼しますと挨拶すること、天気と時候の話をすること、そういう「様式」をナミちゃんに強制した。相手に呼びかけるときは名前で呼びかけること、また名前の出る文脈で話すことを強制した。強制も強制、それはもう体育教師のような横暴さで強制した。
「ナミちゃん、文脈に相手の名前が出てこないってことは、相手と話していないということ、独り言をぼやいてるってことなんだよ。それは失礼なことだし、聞き流してあげられない」
そのような横暴さで、僕はナミちゃんの話を何度も寸断し、「やり直し」を強制したのだった。なぜ突如、僕の中でそのような横暴さが発動したのかはよくわからない。そのときは、僕自身の内部の動きに僕自身も驚いてしまっていたが、それ以上に驚いたのは、ナミちゃんがそれらの横暴を全て受け入れたことだった。
ナミちゃんは、僕の横暴のひとつひとつを受け取った。そして、すいません、とひとつひとつに謝罪して、ひとつひとつをやり直した。
そこから、ものの数十分のことである。先ほどまで垂れ流しになっていた、「元カレ」のどうこうの話は、水門が閉まったように止まってしまった。ナミちゃんはいつの間にか泣き止んで、きょとんとしてむしろ明るい声を出している。
「九折さんは、東京のどちらにお住まいなんですか?」
そういう話が出てきたときには、すでにナミちゃんは、人と一対一で対話する、ごく当たり前のオンナのコになっていた。控えめで、心配りも礼儀もある、愛嬌もあるオンナのコだった。
「……なんか、一気に、お話できるようになったなぁ」
「……あは、そうですね。ごめんなさい、わたしどうかしてました。どうかしてました、ほんとに」
ナミちゃんは、もうオンラインゲームはしない、元カレにも会わない、と僕に約束した。そして、名前で人に、呼びかけます、ということも約束してくれた。
ありがとうございます、とナミちゃんはさわやかな声で言ったが、その声には、性根としてのやさしさ、素直さがにじみ出ていた。
そういう強さ、それを養う経験、鍛える機会……
「付き合う教」の害毒は、今現在、まったく恐ろしいまでに蔓延している。
全てがこの新興宗教のせいではないのだろうが、とにもかくにも、若い人たちの一部でコミュニケーションが死滅していることは確かだ。
自分こそは、そういうのに無縁と、そう思い込んでいる人がおそらく一番危ない。
ナミちゃんの話が、あまりに驚きだったので、僕はオンラインゲーム等に詳しい友人に電話で聞いてみた。
「オンラインの中だけで付き合って、その中で恋愛したり、別れたりってするものなの? いや、オンラインをきっかけとするんじゃなくて、オンラインが生活になるというか、オンラインに精神の重心を入れ込んでしまうというか……」
この友人は、高校からの友人で、僕のことをよく知っているやつだ。そしてこの友人は、こともなげにこう答えた。
「うん、あるよ。よくあることだし、自分はそうでなくても『気持ちはわかる』っていう人ばっかりだぜ?」
僕はそれを聞いて、そんなバカな、オンラインなんて、所詮チャットで、顔も体温もたたずまいも気配もわからない、そんなのコミュニケーションになんかなるわけがないじゃないか、と大声を出さずに居られなかった。
その友人と、僕は久しぶりに話したのだったが、その友人は何かを懐かしむような気配で一拍沈黙し、かえって淡々とした声で続けた。
「ああ、そうだな。そのとおりだし、それはみんなどこかで分かってるんだよ。けど、もうオンラインしかないんだよ、おれたちが正直に話せる場所は。お前はたしか、前に言ったよな? オンラインはその匿名性で、本音で話せるというよりは、本音がじゃじゃ漏れになってるって。そして、じゃじゃ漏れになることは意味がないって。面と向かって、言いにくいことを言う、障壁を突破して、大事なことを伝えようとする、そのことが大事なんだって、お前は言ってたよな。そのことも、おれはわかってる、わかってるし正しいって知ってるんだけど、もうダメなんだ。オンラインの交流なんて、いかがわしいんだけど、ここに流れ着いちゃうんだ。これに頼ってしまうんだよ」
「んな、バカな!」
ずいぶん久しぶりに、僕は怒鳴ってしまった。何に向けるでもない、ただ受け入れてたまるかという意志の爆発。自分の中で、なつかしいどこかの発條が弾けたような感覚だった。それを受けてか、あるいは単なる可笑しさからか、友人もまた懐かしい、アハ、ハハハハ、という笑い声を上げた。
「お前は、元気だなあ。相変わらず、いい声をしてるし、その気迫、うらやましいぜ。お前は本当に、人と、なんていうか、精神の波動でつながれるんだろうな。そのことは、お前が正しいし、お前の精神から見ればオンラインで恋愛なんてウソっぱちもいいところだと思うよ。ただな、それでも言うなら、お前が持っているその気迫っつーか、人とつながれる力、血液に流れてるパワーみたいなやつ、それは今はもう誰でもが持ってるものじゃないんだよ。むしろお前が特殊なんだ。それはもう、自覚しろよ。おれから見ても、お前はうらやましい、でも、マネしろって言われてもできない。そういう強さ、それを養う経験、鍛える機会、そういうものにおれとかはまったく触れないまま生きてきた気がするよ」
彼とはもう長い間、直接は会っていない。何年か前、知り合いと起業するという話を聞いて、そしてそれが成功しているという知らせを聞いて、それからもずいぶん久しぶりの会話になる。
そういえば最近仕事はどうなん、と僕が尋ねると、ああ、うまくいってるよ、万事、と彼は答えた。そして、
「でも、去年、お母んが死んだな。ずいぶんがんばったけど、回復しなくてな。お父んも、結局最後まで家に戻ってこなかった」
と、まるで報告する義理があるように、言いにくそうに言った。
電話を切る際、彼が僕に向けて言い残したことが、やけに重々しく耳に残っている。
「なあ、お前はさ、これからも懲りずに、繰り返し話してくれよな。おれに対してってことじゃなく、もっとなんていうか、全体に向けてさ。おれの知る限り、お前の話すこと、他に話すやつはもう誰もおらんから……」
縁のある人と出会い、見初めたならば、お近づきになり、
情を交わせばいい。
ああ、なんか暗い話になるなあ。
暗い話になるけど、事実としてこういう状況があるのだから、もうしょうがないのかもしれない。
僕はつい最近まで、なんだかんだいってもマトモなやつのほうが過半数、血潮と血潮でつながれるヤツのほうが過半数と、勝手にそう思っていたのだが、これは幻想だったのだろうか?
会ったことも無い十八歳のオンナのコに横暴な説教を垂れたり、友人の退廃に怒鳴り声を上げたり、そういうことをしている僕は、時代遅れの熱血マイノリティなのだろうか?
うーん、わからない。わからないし、結局僕は、僕の信じる正しい振る舞いのまま、生きていくしかないのだけどね。
ナミちゃんは、きっとあの時の話、あのときの約束を大事にして、人に名前で呼びかけてくれているだろう。
……ナミちゃん含め、みんな本当は血潮でつながれる、どうも僕はそのことを、いまだに信じ続けているなあ。
恋愛の話に戻る。恋愛とは、お互いに快楽を与え合う営みのことで、快楽の優先順位が自分と相手とで入れ替わってしまう現象を二人でムフフフフと味わうことである。快楽の優先順位において、自分のことが置き去りになってしまう、すなわち無私に至ってしまう、その現象を愛と僕たちは呼んでいるわけだが、恋愛とはこの愛と恋心が錯綜する非常にアツアツな営みなのだ。
一方で、「付き合う」とはどういうことか。どういうことかといわれても、どういうことなのかよくわからない。よくわからないのに、ただ僕たちの中に根を張ってしまっている。すなわち新興宗教である。その教徒たちは、付き合っていれば愛に至らなくてもいいし、セックスもテキトーにやっていい、そして何か都合が悪ければそのときはさっさと別れてしまえばいいと信じているようだ。そのようなデタラメさで、それでも自分たちは清潔で美しいと信じているのだから、もうそういう教徒にはつける薬が無い。
付き合うというのは、新興宗教であり、僕たちの中に根を張って、僕たちの恋愛を破壊する。すなわち、僕たちから愛と快楽を奪う。そしてさらに悪化すると、コミュニケーションそのものを破壊する。破壊された人間は、インターネットの中で代償行動を求めるようだ。
この新興宗教から、根本的に逃れるにはどうすればいいか。それは、「付き合う」という言葉自体を封殺し、「付き合う」という概念そのものを拒否することだ。「付き合う」を拒否し、恋愛を求める。恋愛にふさわしい言葉を使って、正しい概念を再構築するしかない。
オトコと付き合って、そのオトコを彼氏に設定する必要は無い。その発想は、新興宗教の教義、ドグマであって、あなたを豊かにしないどころか、あなたを殺すだろう。
あなたはただ、好い人と出会って、好い仲になればそれでいいのだ。縁のある人と出会い、見初めたならば、お近づきになり、情を交わせばいいのである。その交歓が、徒情けになるか好い仲になるか、そんなことは誰にも分からない。ただ、そこに愛し合うことや慈しみあうこと、睦みあう可能性は確かにあって、その先あなたはその人のところへ嫁入りするかもしれないし、子を育んでのち一生を添い遂げるのかもしれないのだ。
彼のことを、彼と呼ばず、「あの方」と、せめて心の中では呼ぶようにしよう。「アピール」と言わず「お近づき」と言い、「ゲットしたい」と言わず「思いを寄せている」と言おう。必要なのは、彼との「コミュニケーション」ではない、あの方との「語らい」だ。
付き合いたいのに、彼と付き合えないあなたへ。
付き合っても、うまく付き合えないあなたへ。
まず、「付き合う」から離れよう。
「付き合う」人は、恋愛ができない。
冒頭に言ったように、物事の「本質」はシンプルで、そこに触れることが出来たとき、あなたは力を得る。
では、あなたの恋愛の本質、あなたの心の本質は、どこにあるか?
あなたの心の本質は、情と機微にあるのだ。
……ではでは、そんなわけで今回の話はおしまい。
好い人と、好い仲になってね。
じゃ、またです。