No.102 コミュニケーションの手ごたえ
21st-Mar, 2007 九折
空自体が光るような、まぶしいぬくもりの日だった。二月の中旬、季節外れのその日である。路地と路地とが交差する、いつもの老いた住宅街に、灯油販売の業者が煙草を飲んであくびをしていた。僕は視界に一人の少女を見つけた。
慣れない動作でトイプードルを散歩させていた彼女は、清潔な素肌の高校生だった。
スカートから伸びた少女の足は、触れる気にならぬほど白くてまっすぐ。
ひざに貼られた絆創膏には、赤いハートマークがこっそりとプリントされていた。
「こ、こら、あいちゃん!」
僕が彼女とささやかに触れ合ったのは、あいちゃんと呼ばれたその犬が僕の足元にじゃれかかってきたからだった。少女の手元には、犬を牽引するリードがあるが、そのリードは最近よく見かける犬の動きに合わせて長さが自由調節されるものだった。
あいちゃんは、生まれてまだ六ヶ月、小型犬の遊び盛りの頃だった。いたずらに首元に拳をあてがってやると、まだ細い歯を立てて甘噛みする。少女はリードを力任せに引いてあいちゃんを制そうとするが、あいちゃんは四肢で地面をつかんで抵抗した。少女は気が優しく、その抵抗を引きちぎるほど乱暴にはなれない。
「このコは、生まれてどれぐらい?」
「あっ、すいません、まだ六ヶ月です」
少女の戸惑いを意に介さぬふりをして、僕はあいちゃんの背に爪を立ててくすぐった。生まれて六ヶ月、小型犬としては遊び盛りの時期だが、それは同時に学び盛りの時期でもある。
「引っ張っても、言うこときかないでしょ。そういうときは、こう、リードを思い切り、短く持ってやって」
僕は少女の眼を見ながら、唐突にそう言った。少女はとまどったまま、あ、はい、と曖昧に返事をした。
少女はまだ、美人とも不美人とも言えない、ただ一人の少女であった。
僕は歩き始めた。歩き始めて、ふと後ろを振り返ってみる。少女はまだ、不確かなリードを力任せに引いていた。しかしあいちゃんは好奇心のままに右往左往し、少女を困惑させている。
遠目にも、半信半疑のそれがわかる手つきで、少女はリードを持ち直した。リードを短く、ごく短く。あいちゃんの体へ直接力が伝わる長さで。
地面にしがみついていたあいちゃんの体は、スイッチが切り換えられた鮮やかさで、すい、と動いた。短い足をちょこまかと動かし、少女の隣を歩こうとする。少女はあいちゃんの豹変に驚いていた。しばらくすると、あいちゃんは幼児の性質のまま、また右往左往を始める。しかし、少女が再びリードを短く引くと、すい、とまたあいちゃんは少女に寄り添って歩き始めた。
その営みは数度、確かめ合うように繰り返された。
空が光るあたたかな早春であった。灯油業者は背伸びをして営業を始める。僕は少女とあいちゃんの後姿をまぶしく眺めていた。彼女らの関係は今まさしく始まった。
少女はあいちゃんの主人となった。
メールには「手ごたえ」が無い
心が通じ合った時には、「手ごたえ」というものがあるものだ。
心が通じ合うときとは、どういう状態なのか説明することは困難だが、本来そういうことには説明は要らず、それぞれがその手ごたえを得ていればそれでいいのである。
コミュニケーションという言葉が、いつの間にか常用語になったが、この言葉にぴったり当てはまる言葉は日本語には無い。
言葉が無いのは、もともと僕たちが、そのことについて説明を必要としていなかったからだ。
最近は、状況が変わったので、僕たちはコミュニケーションという言葉で、改めて野暮な思索を深めなくてはいけないわけだが……
それにしても、心が通じ合うことの「手ごたえ」、その感覚から離れてはいけない。
その感覚から離れるから、ウェブ上で恋愛する人が出てきたり、メールで恋人と喧嘩別れする人が出てきたりするのである。
誰でもが内心では知っているように、ウェブやメールで恋愛をしている人は気色悪い。
アキバ系であろうがなかろうが、そういう人は要するにオタクである。
一時期、「たまごっち」というやつが流行っただろう。あれにハマり込んで、たまごっちが死んで号泣するオンナが出現したりもしたが、ああいのは全部重度のオタクだ。
言うまでも無く、たまごっちは生命でなく、プログラムであり電気信号でしかない。二進数の信号、01011011……と、0と1の配列が組まれているだけなのである。そんなものにハマって号泣できるのは、心が通じ合う感覚が故障しているからだ。
僕は当時、友人からたまごっちをもらったが、一日で飽きて三日で死なせた。
ああいうオモチャは、遊ぶのはいいけれど、ハマるのはイタい話なので、ほどほどにしようね。
ところで、オタクということについて説明しておくと、オタクの本質というのは、自分を空想の中に投げ込んでしまうという点、現実から離脱してしまうという点にある。
僕は映画を観るのが好きだし、入り込んで観てしまうタチだし、プレイステーションの名作「メタルギアソリッド」シリーズを相当やりこんでしまっているがそういうのはオタクではないのだ。
なぜそれがオタクと区別されるかというと、それは物語が空想で、「主人公」も空想だからだ。
主人公を空想のものとして外部から見ているうちはオタクではないし、それが本来作品を楽しむのに正しい方法でもある。
たまごっちは空想の物で、自分は現実の存在なのに、そこを逸脱するのがオタクなのだ。
韓国映画のベッタベタな男前役に惚れこんで、ツアーを組んで外国まで押しかけていく、そういう気色悪いオバハン連中も、現実と空想の区別がついていない重度のオタクだ。
キャバクラに入れ込んで源氏名のおねえちゃんに貢ぎ始めるオッサンも、空想にハマり込んでいるのでオタクの一種かもしれない。
話がそれてしまっている気もするが、現代の僕たちのコミュニケーションの不具合を考えるのに、「オタク」という概念を無視することはできない。
心を通じ合う「手ごたえ」、その感覚の無い人は、発病してようがしてまいが、全員オタクウイルスキャリアなのだ。
オタクは現実から逃避し、空想の中で自己愛を満たそうとする。
あなたは、オタクではないだろうか?
このことは、現代日本に生きる僕たちは、全員自分のこととして疑ったほうがいい。
直接話すより、メールのほうが言いたいことが言いやすいとか、そういうことを感じている人は特に要注意だ。
メールで伝えた情報は、伝わっているようでいて、また確かに伝わっているはずなのに、実は何も伝わっていない。
メールには「手ごたえ」が無い。
メールは、生きものに向けて、本質的なものを何も伝えないのだ。
伸び縮みする、手ごたえの不確かなリードが、あいちゃんに何も伝えないようにだ。
心を通じ合わせるということは
自分のプライベートを暴露することではない
感覚というのは、英語で言うと「センス」になる。
だから、心を通じ合わせる、その手ごたえの感覚が無い人は、単にセンスが無い人、と言い換えることもできる。
心を通じ合わせるセンスの無い人。
すなわち、センスの無い、オタクの人。
うーん、救いが無いなあ。
まだ心がフレッシュな、自分のオタク化に真剣に疑問を抱いている、心にかわいげのあるオンナのコに向けてなら、僕は話す気力が湧いてくるが、そういうコは、とにかく人間を「体験」することが大事だ。
メールで「大切なマイミクさん」に「深い話」を投げかけるより、夜中でも友人のところに押しかけるほうがいい。
親御さんと話すのでもいいよ。
そういうコミュニケーションには、不可避の「わずらわしさ」があって、あなたはそれを避けたがるだろうけど、本当はその「わずらわしさ」が大事なんだな。
リードを引っ張っても、あいちゃんは言うことをきかない、困る、そういうわずらわしさの向こうに、心が通じ合うという手ごたえがある。
わずらわしさから逃げた人は、何であれ、みんなオタクになります。
そういえば、「深い話」ということで思い出したけど、最近の若い子はなぜかみんな「深い話」という言い方をよくする。
言うまでもなく、「深い話」、この言い方はチープで、またコミュニケーションを破壊する概念だ。
「彼とはだいぶ深い話をするようになったんですけど」
「メッセンジャーのほうが深い話が出来るから」
そういう使い方をするたび、その人は一段階ずつアホウになってゆく。
どういうことかというと、いわゆる「深い話」をするということは、「深い体験」をするということではないからだ。
共に戦場、剣林弾雨を駆け抜けた上官と兵士は、「深い話」などしなくても、戦友として通じ合える。
山道で足をくじいた女性を、偶然通りがかった男性が抱えあげて麓まで運べば、二人は夕食の歓談だけで通じ合える。
大事なのは「深い体験」で、「深い話」などどうでもいいことなのだ。
深い体験を経て、人は深い関係になるから、その先には確かに、深い会話は起こりうるかもしれない。
が、深い関係を作ろうと、意図的に「深い話」をしても、それはたいてい単なるプライベートの暴露になってしまう。
そんなことでは、深い関係は得られないのだ。
だから結局、深い関係を作るには、どこかで二人で深い体験に飛び込む、その勇気を持つしかないということになる。
少女があいちゃんの主人になったように、だ。
ところで、最近特に顕著なことだが、この「深い話」というのを、よく知り合ってもいない遠い知人相手にこぼす人がいる。
僕など特に、立場上そういう話をよく受けてしまうのだが、僕はそれを「じゃじゃ漏れ」と呼んでいる。
「あの実はわたし小学校の時イジメに遭って中学校でも暗くて高校では上手くやったんですけど友達に裏切られて人間不信っていうか今の彼氏にも心を開くことができなくて」
初めて電話で話したときに、いきなりそんな話を聞かされるのである。
そういう話をするなら、付き合いの長い友達に話せばいいのにと、そう思ってそう勧めるのだが、友達には怖くてそういう話はできないという。
友達に話せないのに、なぜ僕には話せるのと訊くと、
「さあ、たぶん知らない人だからです」
などとヌケヌケと答えるのである。
僕はこういう現象のことを、「プライベートのじゃじゃ漏れ」と呼んでいて、またそれ以外の呼び方は考え付かない。
あまり詳しく説明してもしょうがないが、この「じゃじゃ漏れ」の現象は、相手の人格と対話できない人に発生する現象のようである。
遠い知人や面識の無い人なら、相手の人格を認識せずに済むので、ここぞとばかりにドロドロのものを一気に吐き出すわけだ。
そして言うまでも無く、この手の人たちにとっては、メールやウェブ媒体は、相手の人格を認識せず、相手の人格を無視してじゃじゃ漏れをかますのに最適の方法である。(書いていてめまいがしてきた)
僕はこの、じゃじゃ漏れをやってくる人については、さすがに同情できない。何しろこちらの人格を無視しているのだから、こちらが大目に見る道理が無い。
ここでこのことを話しているのは、むしろ逆の理由による。あなたがじゃじゃ漏れを食らったときに、あなたがそれにまともに応対しないように、毒を食らわないように、と思って話している。
もちろん、この「じゃじゃ漏れ」の話は、先の「深い話」というやつにも底でつながっているだろう。
あまりこのことについて考え抜いてもしょうがないが、とにかくあなたはこういうところから無縁でなくてはならない。
「深い話」には何の意味もないのだ。
心を通じ合わせるということは、自分のプライベートを暴露することではないのである。
あなたは勇気を持って
あなたのその全身を
その本来的な方向に使わなくてはならない
人と人とが、心を通じ合わせるとき、またその手ごたえを得るときとは、どんなときだろう。
人それぞれ、いろんなケースを経験していると思う。
どのようなケースであれ、その手ごたえがあったときは気持ちがいいものだ。
無難な会話を続ける、器用で不器用なオンナを、物も言わず抱きしめてみる。
すると、無駄な言葉は全て消え去って、彼女はただ耳元で、オンナの声で名前を呼んでくれる。
抱き寄せられて、どうしたらいいかとまどっている、その心のうごめきが筋肉の動きで伝わってくる。
首筋にかかる息が熱くて、気持ちの昂ぶりが伝わってくる。心が馴染むより先に、お互いの身体がお互いの体温において馴染みあい、合意してしまう。
もう、離れがたくなっている。
上体を軽く引き剥がして、至近距離で視線を重ねる。
「オレ実は、お前のこと、すげー気に入ってるんだけど」
「わたしも、です」
照れくささが行き場を失い、二人はどうしようもなく、また抱きしめあう。
先ほどより、深い合意が交わされている。
「こうしてると、気持ちいいな」
「離れがたいですよね」
「うん。苦しくない?」
「大丈夫です」
二人はお互いに、腕に無心の力を込めて、いっそむやみにというほどに抱きしめあう。
性の力を借りて、また肉体の助力を得て、ようやく二人は大事な会話を交わす。
「あの、今日は、ここに連れてきてくれてありがとうございました」
「気に入った?」
「はい。いい街ですね、本当に」
「そうだろ。この街、オレ好きなんだ」
「この街、いつの間にか、胸に沁みてくる風景をしてますね」
「そうなんだよ。不思議な街だろ」
「はい、本当に……。あ、向こう、空がもう明るいですよ」
例えばそういうシーンにおいて、心を通じ合わせる、その手ごたえをようやく得ることが出来る。
そのシーンは、テクニックで作れるものではないし、方法論でどうにかなる話でもない。
言えるとすれば、どこかで二人で深い体験に飛び込むこと、その勇気を持つこと、それぐらいしかないだろう。
勇気を持つこと、これは原始的な、かつ本来的な話になってしまうが……
原始的で、本来的な話。
これは、いくらかこっ恥ずかしい話になるけれども。
言うまでも無いが、あなたの両腕は、腕を組むためにあるのではないのだ。
彼を抱きしめるためにあるのである。
あなたの両目は、泳がせるためにあるのではない。
彼を見つめるためにあるのである。
あなたの声帯は、無難な世間話をするためにあるのではなく、彼の名前を呼ぶためにある。
あなたの言語野は、顔文字をアレンジするためでなく、彼に思いを伝えるためにある。
あなたの唇は、微笑むためにあるのであり、また彼と重ね合わせるためにあるのである。
あなたは勇気を持って、あなたのその全身を、その本来的な方向に使わなくてはならない。
手ごたえとは、その営みから生まれるものだし、その先にこそ深い関係というのは生まれるのだ。
営みに「手ごたえ」を求め
営みの「手ごたえ」だけを信じるしかない
僕たちは現代に生きる者として、テクノロジーから無縁ではいられない。
しかし、テクノロジーに毒されるのは田舎者だ。
現代人は、テクノロジーを軽蔑しつつ、適宜利用できなくてはならない。
通信のテクノロジーが、今極端に進化しているが、それと僕たちのコミュニケーションは別物だ。
区別せよ、コミュニケーションは、通信テクノロジーとは別物の、営みの「手ごたえ」なのだ。
「手ごたえ」を忘れず、「手ごたえ」だけを求めろ。
営みに「手ごたえ」を求め、営みの「手ごたえ」だけを信じるしかないのだ。
三月になり、桜はまだ咲いていないが、相変わらずの退屈な路地に、トイプードルを連れた少女がやってくる。
あいちゃんは、目が覚めたように少女の隣を歩き、そのことに眼を輝かせていた。
少女は犬の散歩に慣れた様子で、僕に時折会釈をくれる。
少女はもう、少女ではなくなりつつあった。
[了]