No.103 具体的な愛 〜恋愛をうまくやるには〜
22nd-Mar, 2007 九折
最近、コラムにちょっと難しいことを書きすぎた。
今回は、少しカンタンなことを話そう。
恋愛を、うまくやるという話。
うまくやるには、「具体的な愛」が必要だ。
うまくやるというのは、なんとも曖昧な言い方だけど。
僕たちは、いざ本当に好きな人が現れたとき、
自分と向き合って真剣になる
恋愛をうまくやると言ったとき、一部に勘違いする人がいる。
「彼をうまく落とすには?」
みたいな勘違いをする人だ。
恋愛をうまくやるというのは、そういうことではない。
うまく落とす方法なんて無い。
いくらうまくやっても、ダメなときはダメなのだ。
色恋沙汰で、誰を相手にしてもうまくいく、そんな万能の方法が本当にあると信じている人は実際にいるのだろうか?
まあ、世の中にはいかにも怪しげなカルト宗教にさえだまされる人がいるのだから、やっぱりいるのはいるのだろうな。
言うまでも無いが、あなたが誰かに恋心を持っていたとして、それを受け入れるかどうかは、あくまで相手の采配による。
相手の気分によるし、思想によるし、状況によるし、好き嫌いによる。
そんなことは当たり前だし、そんなことはもうこちらからはどうしようもないのだ。
恋愛をうまくやるというのは、相手の気持ちをうまくコントロールする、ということではない。
自分の気持ちをうまくコントロールする、ということだ。
自分として、納得できるように行動し、納得できるように振舞う、ということだ。
自分として、うつくしくあろうとする、ということかもしれない。
ここを勘違いしている人は、残念ながら、何をどうがんばっても恋愛はうまくいかない。
相手の気持ちをコントロールする、なんてその発想自体が浅ましいから、もうどうしようもないのだ。
駆け引きがどうこうと、小悪魔ふうに装うのがどうこうと、そんな浅知恵をこねくり回している間、彼はとっくに興ざめしている。
恋愛をうまくやるというのは、そういうことではないのだ。
恋愛をうまくやるということの大半は、自分と向き合うということに占められている。
僕たちは、普段のんびりグータラに生きているが、いざ本当に好きな人が現れたとき、自分と向き合って真剣になるのだ。
あの人にどう声をかけたものか、どう積極的になったものか、どうマナーを保ったものか、そういう問いかけに直面するのである。
そして、その直面において、今まで幼稚なまま自分に向き合ってこなかった人や、生きることに手抜きをしてきた人、愛ということを真剣に考えなかった人は、後悔と共にようやく気づくのだ。
ああ、自分には何も無い、自分は何もわかっていない、知恵も方法も持っていないし、勇気さえまともに持っていない、と。
恋愛のあらゆるシーンは、突き詰めるところ、相手と自分の距離をどう縮めるか、それも精神的にも物理的にもどう縮めるか、ということに集約されてくる。
あなたは彼との結合を求め、彼と接近していくわけだが、そこで当然のこととして、問いかけが起こってくる。
「接近って何? どうすればいいの?」「結合って何? どうすればいいの?」
そういう問いかけが起こるのだが、これは一言で言って、要するに「愛」についての問いかけだ。
「愛するって、どうすればいいの?」という問いかけだ。
あなたは、恋愛をうまくやろうとするとき、まずこの当たり前の問いかけに、初歩の初歩から答えていかなくてはならない。
あなたは、人をどうやって愛しますか?
世の中には、流行のJ−POPをはじめ、愛という言葉が氾濫している。
しかし、人をどうやって愛するか、その初歩の初歩さえまともに答えられない人はごろごろいる。
僕は、自分自身愛の達人であると自称するような狂人ではないので、偉そうなことは言いたくないのだが、それにしても初歩の初歩だ。
ステキだな、と感じる人がいたら、あなたは具体的にどうするのか?
世の中には、愛について議論するのが大好きな人がいる。
しかしなぜか、そういう人に限って、具体的な愛の行動、その初歩の初歩について答えられない。
今回は、そういう当たり前のところについて考える。
恋愛をうまくやるということは、自分に向き合うということだ。
自分として、愛をどう実現していくか、その具体的な部分を、まず初歩の初歩から考えていくということである。
人が視線を重ねる時間は、だいたい七秒ぐらいで一段落する
ステキだな、と感じる人がいたら、あなたはどうすべきか。
回答としては、まず相手の目を見るべきだ。
視線を重ねるということが、まず愛の基本中の基本になる。
なぜならば、僕たちにとって、視線を重ねあうということはお互いを肯定し受け入れるということだからだ。
あなたの愛の基本は、まず人の目を見るということにある。
ここが基本中の基本で、その次はというと、視線を重ねた上で、微笑を投げかけるということになる。
これが初歩の初歩だ。
仏教では、慈悲の発想で、和願悦色施(わがんえつじきせ)と言ったりする。
あなたは、この基本が出来ているだろうか?
僕が思うに、ここで「出来てます」と答えられる人は、実はけっこう少ないのではないだろうか。
もしあなたが、「出来ていません」と答えざるを得ないのならば、手元にある女性雑誌や、ありとあらゆる恋愛マニュアル本を焼き捨ててしまうのがいい。
あなたに必要なのは、まず相手の目を見ることで、そこに微笑みかけるということだけだからだ。
それが基本だし、それが出来るようにならなければ、あなたは何をどう研究して考察しても無意味になる。
例えば、空手を習う者が、腕立て伏せさえできないのに、奥義を知りたがったとしたらその人はバカだ。
面接が苦手だから、面接をせずに就職する方法はないかなと、そんな模索を始める人は人格がポンコツになってしまっている。
まず、基本なのだ。
この基本が苦手という人は、よくよく自分と向き合うのがいいと思う。
先に言ったように、恋愛をうまくやるということは、自分と向き合うということだからだ。
あなたは、なぜ人の目が見られないのか?
なぜそこで、微笑みが向けられないのか?
そのことをよくよく自分で考えれば、あなたは自分の問題に突き当たってくる。
あなたが人の目を見られないのは、人を愛していないからだ。
あなたは人を敵性の者とみなし、警戒し、ビビっているのである。
あなたは人の目を見ず、相手の気分を害しているのだが、相手の気分など、敵だから知ったこっちゃないのである。
会話の最中などであれば、だいたい七秒だ。
人が視線を重ねる時間は、だいたい七秒ぐらいで一段落する。
あなたが自分と向き合うということは、その七秒について格闘するということである。
人の目が見られないあなたは、シャイで気が弱くて、オクテで乙女で照れ屋さんで……
などと、僕はちっとも思わない。
あなたに愛が無いだけだ。
あなたは情けない人なのだ。
恋愛をうまくやるというのは、その恐るべき自覚と向き合い、克服するということだ。
名前というものは、愛の周辺において、実はかなり大事だ
僕の知る限り、極端な不美人で無い限り、目を見ることと微笑を向けることさえ出来ていれば、オンナはそこそこ恋愛をうまくやれるものである。
もちろん、キャバクラで身に着けた技術ではダメだ。
キャバクラの技術は、営業のスキルであって和願悦色施ではない。
さて、その基本中の基本ができたら、次の段階に進むわけだが、次の段階は何かというと、相手の名前を呼ぶこと、になる。
呼び捨てでも敬称つきでもいいから、相手の名前を呼ぶことだ。
愛称とか、あだ名でもいいけど、あなたが彼と恋仲を目指すのなら、そこは少し気をつけたほうがいい。
愛称やあだ名は、「仲間」による呼称なので、愛称やあだ名で呼び続けると、あなたと彼は自然に「友達」になってしまうものなのだ。
そんなわけで、名前を呼ぶことなのだが、この名前を呼ぶという行為自体も愛の基本だ。
例えば、母親はまだ言葉も分からない赤子に名前を与え、その名前を呼ぶわけだが、それは愛だ。
個人を特定するだけなら、住基ネットの番号や学校なら出席番号でもいいわけだが、番号で呼ぶのは愛ではない。
僕があなたと会ったとき、「へい、そこのショーパンのコ」と呼びかけたら、あなたは気分を害するだろう。
名前を呼ぶことが愛なのだ。
名前を呼ぶということは、自分という個人が、相手という個人を受け入れる、という行為なのだ。
こういう機微については、若い人はまだ感覚的にわからないだろうが、これは間違いないことなので鵜呑みにしておいてよろしい。
「○○部長」「○○警部補」というように、仕事中に役職で呼びかけるのは、職務中はその人がプライベートな個人ではないからだ。
相撲取りが、四股名で土俵に上がるのは、土俵の上で力士が個人ではないからだ。
人は飼っている金魚にさえ名前を与えるし、幼子はお気に入りのぬいぐるみにさえ名前を与える。
授業を始める前に、「出席を取る」という形で教師が生徒の名前を呼ぶ風習がある。
ライブ会場では、ファンがアーティストの名前を叫ぶ。
コンビニの店員は名札をつけているが、客がその名前を呼ぶことは無い。
手紙には必ず書き出しに相手の名前を書く。
「Wedding Album」に収録された「John & Yoko」という曲は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが二十二分間お互いの名前だけを呼び合う曲だ。
名前というものは、愛の周辺において、実はかなり大事なのである。
具体的にどういうレベルかというと、会話の最中、最低五分に一回ぐらいは相手の名前が出てこなくてはいけない。
これについては、誰でも「それぐらいならもうやってる」と感じるものだが、実際にはそんなことはない。
意識していなければ、一時間の会話で一度も名前が出ないことのほうが多い。
このことについてはまず、実践する前に、あなたが誰かと話すとき、相手が自分の名前を呼ぶかどうかを確認してみればいい。
本当に、意識していなければ名前は案外呼ばれないものだ。
その上で、あなたも意識して、五分に一度のペースで相手の名前を会話の文中に使うようにしてみるといいと思うのだが、これがまた、やってみると案外難しいものだ。
なぜかというと、これは本当にやってみると分かるのだが、相手の名前を呼ぶというのは実は勇気がいることだからだ。
また、文中に相手の名前が出てくる文脈で会話しようと思うと、思いがけず相手の存在に意識を大きく割かなくてはならないということもある。
「あいかわらずよく飲みますね」
と
「木村さん、あいかわらずよく飲みますね」
では、文脈以前に意識そのものが違うのだ。
このことは、結局一言で言うなら、名前を呼ぶには愛が要る、ということになってくる。
おそらくあなたは、このことに実際挑戦したとして、一時間に相手の名前を十二回は呼べないだろう。
はじめの十五分はがんばれても、あとの四十五分が続かないのだ。
それはどういうことかというと、あとの四十五分は、意識がサボっているということである。
四十五分間、あなたは相手をないがしろにして会話しているのだ。
実際にこのことをやってみて、あなたが僕の言っていることを体で理解できたら、そのことはあなたの財産になる。
恋愛をうまくやる上では、これは実は隠れた最強の技かもしれない。
ぜひ、やってみてください。
ほめ言葉をズバッと言うのは愛だ
あなたは人に言いたいことをズバッと言える人だろうか。
言えるという人は幸いだから、これからもズバズバ言っていけばいいと思う。
あなたのこういうところが頼もしいとか、こういうところがやさしいとか、こういうところが面白いとか、ステキとか、カッコいいとか、尊敬するとか。
……ん?
なんとなく、奇妙な違和感を覚える。
言いたいことをズバッと言えるというのは、そういうことのはずなのだが、この違和感はなんだろう。
どうも「ズバッと」という言い方をすると、人にNOを出すときのことだけを指すようなきらいがある。
なぜだかはわからないが、とにかくそういう発想はネガティブだ。
ズバッと言うならば、ほめ言葉をズバッと言えるほうがいいに決まっている。
ほめ言葉をズバッと言うのは愛だ。
あなたは人をほめられる人だろうか?
このことも、慎重に考えてみると、実現できている人は少ない。
ズバッと言えるタイプの人も、NOをズバッと言えるだけ、ということが多い。
大人になれば、NOをズバッと言えるのは当たり前のことだから、そんなことはどうでもいいことだ。
大事なのは、人をほめるときに、ズバッと言えることだ。
人をほめるということは、愛だ。
それも、「あいつはよくやってるよ」というように、本人のいないところでほめるようなケチなマネをするのじゃなくて、本人に向けて堂々とほめるということだ。
目を見ること、微笑むこと、名前を呼ぶことに続いて、このことが次の愛の段階になる。
ほめることだ。
それは同時に、好意を開示するということでもある。
ほめるときには、ズバッとほめること、手放しでほめることが大事になってくる。
例えば、
「けっこうモテるんじゃないですかー?」
というような、モヤモヤっとしたほめ方は良くない。
「○○さん、今日の話、わたし本気で感動しました。わたし、○○さんのこと、一人の男性として尊敬します」
例えばそうはっきり言えるぐらいでないと、ほめたことにはならない。
あなたは人をほめられる人だろうか?
それも、先の話からの続きで、相手の目を見て、微笑みかけて、相手の名前を呼んで、そこからズバッとほめることができるだろうか?
そうやって考えると、これもまた、人をほめられる人というのは実際にはかなり少ないことになる。
人をほめることは大事ですと、そのことは誰でもスローガンとして知っているのだが、実際にやれている人は少ない。
人をほめることは大事と、そのことを知りつつも、実際には人をほめたりしない人に、なぜほめないのと尋ねると、その答え方は決まっている。
タイミングが取れないとか、勇気が出ないとか、そういう答え方だ。
しかし、ほめるということについて別にタイミングは慎重さを要求されないし、ほめられてイヤな気分になる人はいないのだから別に勇気をひねりだす必要もない。
どういうことかというと、要するに、人をほめない人は愛がないのだ。
手放しで人を賞賛する、そのことのためのエネルギーが湧いてこないし、そもそもほめたくないというか、人をほめることにそんなに興味がないのである。
例えば、仕事中のピンチを助けてもらったのに、そのことにお礼も言わず、その人をほめもしない人がいる。
そういうとき、ほめるどころか、
「あの、今日は本当にすいませんでした」
と、お礼を言う代わりに謝罪する人さえいる。
心の中では、お礼を言っているかも知れないが、それは本人にしかわからないことだから独りよがりだ。
お礼を言わないということは、礼を失する、ということだ。
お礼を言わず、自分のヘマを詫びるということは、反省しているふうに見せかけて、結局は自分の失態、すなわち自分のことにしか興味が向いていないのだが……
「○○さん、今日は本当にありがとうございました。助かりました、○○さんのやさしさ、感激です」
口に出して言えば、五秒程度のことだ。
この例に限らず、人をほめるときは、たいてい時間にして五秒ぐらいしかかからない。
その五秒に向けて、純粋にエネルギーが湧くということ、それが愛なのだ。
実際に僕たちが向き合うべきは
そのもっと手前、具体的なところの愛だ
恋愛というのは、二者の接近だ。
そして、二者が接近しようとすること自体、それを愛と呼んで差し支えない。
その愛というのは、具体的にどういうことかというと、ここまで話してきたように、目を見ること、微笑みかけること、名前を呼ぶこと、手放しでズバッとほめることだ。
あなたはそれらの、基本中の基本の「愛」、「具体的な愛」を実現できているだろうか。
ここで話したのはごく単純な愛についてのことだが、この単純な愛でさえ、常に実現できているというような人はいない。
だから僕たちはそれぞれに、「なぜ実現できていないのか?」ということに内心で向き合っている。
向き合っていない人もいるが、そういう人は救いが無い。
そういう人は、彼のメールアドレスを聞きだす方法を練り、呼び出す口実を思案し、相手から「付き合おう」と言わせるための算段をし、結局はどれもうまくいかず、なんとなくセックスだけしてウヤムヤのまま気分の晴れない記憶を重ねてしまう。
言うまでも無いが、愛の無いセックスをしても、それは実につまらないことだ。
今回は、愛について具体的な話をしているから、そのことから考えてもらえば明らかなことだ。
二人が見つめあい、微笑みあい、名前を呼び合い、ステキだよと言い合う、そうでなければセックスをしても意味が無いではないか。
愛というのは、本来高尚な概念だろう。
しかし、実際に僕たちが向き合うべきは、そのもっと手前、具体的なところの愛だ。
僕たちはそれさえできていないのだから、さしあたりそれに必死に向き合うしかない。
あなたは今のところどうだろう。
どこまでできて、どこからができない?
僕も今回の話、自分のこととして考えると、自分の愛の貧しさというか、人間の矮小さを嘆きたくなってくる。
でも多分、僕たちはお互い様だね。
お互い、ちゃんと向き合って、恋愛をうまいことやりましょう。
ではでは……
[了]