No.112 第18回パーティ、無事盛会!
僕も今年、十一月で三十一歳になるのだが、この歳になって人生観が変わってしまった。世界観も変わったかもしれない。どっちがどっちとも言えない。とにかく、この一年半悩まされた肩こりが、時空のかなたへと消え去ってしまった。
肩こりだけではない。二十数年間悩まされてきた、持病だと思っていた偏頭痛とも、すっかり無縁になってしまった。地味な話で申し訳ない。しかし僕にとっては、偏頭痛がなくなるというのは、世界から核兵器がなくなるということより衝撃的なのだ。
なぜそのようなことになったのか? それについては説明が難しい。また、肩こりの話となると、その持病で悩んでいる人や健康マニアの人がヒートアップしてしまうので、詳しい話はここではやめよう。とにかくだ。最近の僕にはそのように具体的で巨大な変化があったのだ。それは、僕としてはいくらかの苦悩をはらんだ、この一年半のさまざまなことの積み重ねの結果だった。
ソフトチップダーツを、相変わらずやっている。僕はダーツが下手だった。練習しながら、上手になれない理由がわからなかった。眠っている間に肩がこる理由もわからなかったし、書いている文章が書いているうちに力んでねじれていく理由もわからなかった。
今なら、それらの理由が全てわかる。ダーツボードに見入っていると、意識はダーツボードに引きずられる。そしてバランスを喪失してしまう。僕はそれを「的酔い」と呼んでいる。そのようなところから、「力み」というのは始まってしまうのだ。力み始めると、ダーツは真っ直ぐ飛ばない。力むから歪む。その力みと歪みは、文章を書くことと、とてもとてもよく似ていた。寝ているときも、同じことは身体に起こっていた。
今もまだ、自分の力みを見逃さぬよう、いくらか自分に注意を払っていなくてはならない。まだ、未熟だ。しかし、もう僕の努力の方向は変わったし、その方向は正しい方向だ。先日ためしに、八時間ほどぶっ続けでファミレスの悪い椅子で書き物をしてみた。身体は疲れない。精神も疲れない。肩の筋肉はむしろいっそう柔らかくなったし、目は潤ったままだ。このことは、信じない人は永遠に信じないだろう。力むということは、力んでいるという自覚さえ奪うというタチの悪い作用もあるからだ。
これまで僕はずっと、自分を疑っていたのだ。なぜ、文章を書くことで、疲れるのだと。なぜ肩がこったりするのだと。僕がやろうとしていることは、ただ自分の思うことや感じることを、最大まで感度を上げて、好き勝手に紙に書き写そうとするだけの行為だ。それで僕自身が疲れるというのはおかしい。筋力なんて、ごくわずかしか使わないのだから。
僕は自分の身体の軋みを、自分からのNGサインだと思っていた。「何かヘンなことしてるよ」と、身体が教えてくれているのだと思っていた。それは僕としての、生きもののルールというか、生きものって本来そういうもののはずだという感覚だったのだが、それは正しかった。書きたいと思って書くのだから、書くこと自体が僕にとっては快楽でなくてはならなかった。またそうでなくては、作品の全てはどこか歪んだ駄作になろう。たとえ読み手が賞賛してくれても、それではダメだ、さしあたり僕にとってはダメなのだ。
ここまで来るのに、ずいぶん遠回りした気がする。でもその甲斐あってか、今は何事に取り組んでも気分がいい。座り方や歩き方が変わり、オンナの口説き方やセックスの仕方も変わった。センスも持久力も全然違う。原稿用紙と向き合うときの気分がまるで違う。あと、ダーツは、こればっかりは子供じみてムキになるようで、人間が我ながら小さい、まだまだだな。
最近、コラムの更新がストップしていて申し訳なかった。言い訳させてもらえるなら、脳がピキピキになりすぎて、マトモなものが書けなかったのだ。人間誰でも、何事かを一生懸命考えると、脳がピキピキになってしまう。それは筋肉のピキピキと同じだ。人間はムキになってガンバると、脳も筋肉も思考も思想もピキピキになってしまう。すなわち、ガンバって何かいいコトになれるほど、世の中は甘くないというわけだ。
七月二十一日、第十八回のパーティをやった。こういうのは、まあ何だ、楽しい、とりあえず楽しいわな。ムダ話をくっちゃべって、うまいメシといい酒を喰らっていたわけだが、そこにテレビをつけて、前半途中からサッカーアジアカップの日本対オーストラリアを観た、これが思いがけず僕たちに火をつけた。僕は別段サッカーファンというわけではないし、日本のサッカーはどう観ても華やかだとは思えない。しかしいつのまにか、我を忘れてオオーッ! と歓声を上げてしまっていたのは、僕がサッカーファンでなくともお祭りファンであるからで、きっと他のみんなも同じだったろう。
テレビに喰らい付いていたマリちゃんが、ゴール前の高原に「いっ、いけえ!」と拳を振り回して檄を飛ばしていたのだったが、その様をみれば、あなただって誰だって、マリちゃんを好きになるよ。パーティとは今のところそんなもんです。これからも、そんな感じで、いきます。
参加者の方へ、さんくす
<↑参加者は計10名でした。ありがとさんです>
今回の新規参加者は、みさこさんとあひるさん。
みさこさん、今回は新規での参加ありがとうございました。みさこさんはなんというか、陽気で気取ったところがなくて、一緒に飲ませてもらって大変気分がよかったです。また、ぜひ来てくださいね。次回は九月の十五日です。次回はもっと攻めます。スゴいことになります。
あひるさんも、今回は新規での参加ありがとうございました。あひるさん的に慣れない空間の中、僕が横にへばりついていたので、まあいくらかウザかったかもしれないですが、すいません、オトコってのはウザい生きものなので、また懲りずによければ来てやってくださいね。
あと、リピーターの方々。
らっこさん、今回はスタートから緊張がほぐれていてよかった。よく笑うコなのね。とてもイイです。また飲みましょう。いつか、ウチのサイトの表紙を書いてくださいね。ただしブラックじゃないやつで汗。
みるくさん、いや、みるく姫。あいかわらずの美脚がナイスでした。ま、今さら挨拶してもアレなんで、とにかく、またよろしく。また飲みましょう。ビールのコーラ割り、イケてると思います。次回もまだ暑い日だろうので、ガツンガツンいきましょう。
マリちゃん、今回は、さらにブレイクしちゃってステキでした。じっとしてるとただの美人なのに、なんというか、ホントに血が熱いのね笑。オシムよりマリちゃんが監督をすればいいのにと思いました。また次回も、よろしくね。
続いて、幹部(?)の方々。
じゅんくん、お久しぶりでした。お仕事一段落して、お疲れ様です。まあ、貴兄はまだ若い、これからだな。いい顔になって帰ってきた、とオレは思ったよ。お互いがんばろうや。二次会幹事、なかなかいいアレンジだった。君はぶっちゃけ使えるので、これからも使わせていただく笑。副チーフよろしく。
ゆうじんさん、料理長、毎度のハードワークありがとさんです。助かってます。というか、ゆうじんさんがウチのパーティ支えてます(いやマジに)。毎回このペースだと、悪いんで、料理の品数とかもっと抑えてくれていいスよ。満足度はもう十分以上だし。その他もいろいろありますが、まあこれからもダラダラいきましょう。
あらしさん、副料理長、今回はナイスなサンドイッチをありがとう。サケのマリネを挟むと、あんなにいい感じなのね、非常にいいセンスでした。あらしさんには、個人的に忙しいアンドいろいろ大変なところだったのに、参加してもらえてうれしかったです。次回はもっと、いろんなお話じっくり聞かせてね。
ハヤトさん、チーフ、お疲れ様です。サッカー観戦、奇妙に盛り上がってしまいましたね。あのあと二次会はアレですよ、公園で花火して、カラオケ行って、とフルコースの一日でした。三十路オーバーにはキツかったですよ笑。あと今回は、会計の件、非常にきれいにまとまってます。助かります。次回もまた、よろしくです。
そんなわけで、以上、参加者の方へ、さんくす。
次回、第十九回は、2007年9月15日(土)です。また新規の方、ご参加お待ちしております。
→参加はこちらから
男女が出会えば、そこには必ずセックスの可能性がある
<↑花火を選ぶ二人。いいムードですハァハァ>
<↑何か悪い科学者に見えますが気のせいです>
<↑オンナのコたち、ほぼ幼児化して走り回る>
<↑出会いに乾杯! しかし缶コーヒーです>
<↑美脚。油断しているとモデル料を請求されます>
今回のパーティは、久しぶりに二次会にまでもつれ込み、朝までのオールとなった。公園で花火をして、もう明け方近いころからカラオケになったのだが、カラオケはまあいい、花火をしたのが気分がよかった。「お前、幹事な」という、管理人さすがの横暴権力でじゅんくんを二次会幹事に仕立て上げたわけだが、じゅんくんは歯切れ良く動いてくれて、とてもステキな二次会になった。あまり、僕があれこれアレンジしないほうが、万事上手くいくのかもしれない。
おそらく花火は禁止されている公園、文京区の公園で、花火をやった。コンビニで買い込んだ花火に、じゃんじゃん火をつけて、オンナのコたちが中心になり、両手に火の花を持ってくるくるとグラウンドを駆け回った。そういう光景は、なぜか少し胸に染みる光景になる。僕は子供のころから花火が好きだった。今も好きだし、どうやらみんなそうみたいだ。
今度、みんなで花火大会に行こうよ、とヨタ話が出る。このヨタ話、今は実現する方向で、すでにじゅんくんを中心に、江戸川の花火大会にいく段取りが進んでいる。みんな元気だ。楽しむことに貪欲だ。僕が考えすぎなのかもしれない。
そう、僕はいつだって考えすぎなのだ。
今僕は、自分の部屋でこれを書いている。窓からは、雨上がりのもわっとした空気が流れ込んで、そこにアブラゼミのジージーいう声が乗っている。扇風機を回しているが、クーラーはつけていない。身体がやや汗ばむ。汗ばんでいいと思っているから、このままだ。
僕の企画、企画と言えない思いつき程度のアイディアで、ウチのサイトのパーティは始まった。今、なんとなくしみじみ思い出してしまう。初めのうちは、もちろん人は集まらないし、第一回は僕含め三人だったし、その後もきわめてちんまりしていた。今だって、まあちんまりしているかもしれないが、このちんまりは満足度が違う。少なくとも、僕は奇妙に深く満足している。小さいが深い満足だ。もっとこうなればいいな、と思うこととは、もちろん別にあるとしても。参加者の方も、満足してくれているだろうか。そのことは、これからまた参加してくれる方がいれば、そのことを証左として僕なりに進んでいくしかないだろう。
文京区の公園には、蚊がたくさんいたが、ゆうじんさんが抜け目なくスキンガードを用意していてくれたので、助かった。僕はスキンガードのツンとした匂いが苦手なのだが、苦手なのに、どこか好きなところもある。思い出をくすぐる匂いだ。みんな、それぞれにはしゃいでいる。それぞれの温度で、ムリせずにはしゃげばそれが一番だと思う。
パーティといっても、二ヶ月に一回、よくよく考えれば年に六回しか会わないのだ。それなのに、この所帯じみた感じは何なんだろう。初対面の人も混じっているはずなのに、こわばったところがあまり見えない。友達なんて、そんなすぐになれるものではないけれど、かといって、初対面だからこわばるというのもただの思い込みなのだろう。
最近の手持ち花火は、よく出来ている。銀色から緑色、赤色へと変色して、きらきらの光の粉を散らす。僕はいくらか、その火の花よりむしろ、それに照らされるオンナのコたちの表情を盗み見ていたのだったが、どのコも一様に、無邪気にゆるんだ顔をしている。いい顔だ。ゆるんだ表情のオンナのコは、それだけで存在する価値があると僕は思う。
一方、このように、僕としてはうがって考えてしまったりもする。夜の公園で、手持ち花火で表情がゆるむものであれば、普段の僕たちのキリキリ顔は何なのだろうか。何のために、そのように険しい顔をしているのだろうか。険しい顔のほうが生産性が高いからか? そんな法則はこの世のどこにも無いと思う。
おそらくは、根拠の無い刷り込みのせいなのだろう。根拠の無い刷り込みで、世の中は大変だ、生きていくことはストレスのカタマリだ、と思い込まされているのだ。もし本当に世の中が大変であれば、花火一つでこんなに表情がゆるむはずがない。ゆるんだ彼女たちの表情こそが、まぎれもない現実で、普段のキリキリ顔が、間違って持ち込まれたニセモノなのだろう。花火が僕たちを現実に帰らせる。月曜日のベルが、僕たちを架空のストレス世界に逃避させるのだ。
今僕は、午前の終わりにこれを書いているが、僕の頭の中は今、これから食べに行くお昼ご飯の天ざるのことでいっぱいだ。僕の住むところの、すぐそばにあるお蕎麦屋さん、このお蕎麦屋さんよりおいしい店を、僕は結局日本のどこにも発見できていない。第一、あんなに巨大なエビ天を出してくる蕎麦屋は百軒に一軒もないだろう。価格ももちろん格安で、食べた後は恍惚となり、同時に店のご主人に悪い気さえしてくる。ご主人はいつもかんらかんらと笑っているけれども。僕がこれから、そうして天ざるを食べること以上に、世の中に有意義なことなんてない。幾人かが、これこれが有意義だ、と思い込まされているだけのことだ。
何が有意義で、何が有意義でないか。そのことの虚しい問いかけから、自由になった向こう側に、僕たちが恋をするという、ちょっぴりステキな人生のボーナスステージが用意されている。有意義な恋なんてできないし、少子化を理由にして頻繁にセックスができるわけじゃない。ウチのパーティでも、誰かが誰かにこっそり恋をしたり、こっそりうまくいったり、こっそりフラれたり、いろいろとあるところにはあるようだ。僕はよく知らない。まあ、それぞれに楽しくやってくれれば一番だ。パーティを主催する以上、僕には僕の趣旨がある。でも、コチコチの主義を持ち込んだりは、あまりしたくないし、しても歓迎されないだろう。
主催者の僕として、改めて確認してしまうことがある。それは、パーティであれなんであれ、健康な男女が集まったからには、そこには恋の可能性とセックスの可能性があるということだ。この部分、とくにセックスの可能性があるというところに、なんとなく僕はうれしくなってしまう。こういうと、僕が真性のアホウみたいだが、僕が言いたいのはそういうことではない。僕は別にセックスの機会確保のためにパーティをしているわけではない。そういう機会がほしければ、僕は別途そういう機会を確保できるわけだし、そういう短絡な発想は尾篭でキライだから、そういう発想だけに堕する人が混じりこんだら僕は強権を発動してその者を即刻追い出すだろう。
だから、そういうことではないのだ。僕として言いたいことは、例えば逆から言うならば、世間一般のクラスメートや会社の同僚、その他しがらみが交錯する飲み会などで、セックスの可能性があるということを、知らんぷりしている空間がある、それが逆にいやらしくて好きじゃないということだ。
言うまでもないことだが、男女が出会えば、そこには必ずセックスの可能性があるわけである。それは、この地球上の動物全体に敷衍されている生きものとしてのルールだ。このルールに正しく添う限り、僕たちはエネルギッシュでいられる。しかし、実際僕たちが文明人として生きている生活空間には、お互い「セックスの可能性がありますね」と認め合っている空間はほとんどない。なんて不健全なんだろう、と僕は思う。セックスの可能性は、男女である以上どうしたって存在するわけだから、それを隠蔽することはいやらしいことだ。合コンなどでよくある風景だが、オトコはいいコトになりたい欲望満点で、オンナはオンナで明らかに扇情的な格好をしてくる、それなのに表面上は「オレら超仲良くない?」というような健全さを演出して、水面下ではヤリたがり同士のオンナの取り合いをしたりするのだ。言うなれば、本当の舞台は水面下にあるのであって、表面上の懇親会はフェイク、ああ、それはどう考えたっていやらしいだろう。
そういうのは、よくない。僕たちはどんな服を着ていたって結局は動物なのだから、男女の間柄にはセックスの可能性がある、そのことを当たり前に認めて生きていくべきだ。そのために、僕はパーティの会場で、一応のシンボルとして、ボーッとして座っているのである。傍目には、何の役にも立っていないふうに見えるが、僕の存在意義はきっと世間の魔力の影響を弱める護符の役目だ。
パーティには男女が集まり、男女が集まるとそこにはセックスの可能性がある。その可能性を認めればこそ、そこには節度やマナーというものが生まれてくるのだろう。ウチのパーティは、なぜだろう、あっけにとられるぐらい健やかで、誰も下ネタでフィーバーしたりしないし、ギラギラした人がいない、誰もツーショットを狙ったりお持ち帰りを狙ったりしない。僕は初め、なぜこの僕が主催しているパーティなのに、こんなに健全なんだと訝っていたが、最近になってようやくその理由がわかった。これが「マナー」なのだ。マナーというのは、もともとは「方法」という意味なのだが、本来かなりセクシャルな可能性を秘めた、若い男女のパーティで、そのセクシャルな可能性をごまかさないから、そこに正しい取り扱いの「方法」が生まれるのだ。
難しい話、というかわけのわからない話をしてしまったが、これはもちろん僕だけが、会場でボーッと座って理解していればいいだけの話である。参加してくれる方は、ただ楽しんでくれていればいいし、また参加しようかなと思ってくれている方は、ただ普通の飲み会のつもりで参加してくれればいい。僕だけが考えていればいいことで、先にも言ったように、僕はいつだって考えすぎなのだ。
そんなわけで、また新規の方、ご参加お待ちしております。
楽しく飲みましょう。
最近ウチのパーティでは、ビールのコーラ割りが、邪道と言われつつも大人気です。
[了]
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