No.113 スカートの中の神様
人を好きになる瞬間は、実にささいなものだったりする。こんなところで笑うんだ、とか、そういうふうに言ってくれるんだ、とか、そういう描写さえ難しい刹那に、人を好きになる気持ちは舞い降りてくる。そこで発生する「好き」という気持ちは、いわゆる「恋愛の好き」と呼ばれるもので、友達の好きとかアイスクリームの好きとはまったく別のものだ。その「恋愛の好き」の味わいを、一言で言うならば、それはおそらく「神聖さ」の味わいだということになる。恋愛の好きは神聖なのだ。それだけにかけがえがないし、人は必死になったり夢中になったりする。人が天使になることもあれば、ドロドロのタタリ神になることもある。
人が恋愛にひきつけられる理由、また人が恋愛に取り乱さずにいられない理由は、恋愛が神聖さの営みだからだ。恋愛のワンシーンに、どうしても「告白」というシーンを僕たちはイメージしてしまうわけだが、これは「告白(コンフェッション)」それ自体に神聖さのイメージが含まれているからだろう。恋人たちはクリスマスにどうしても会いたくなるし、誕生日は一緒に過ごさないと気がすまなかったりする。その背景には「神聖さ」の取り扱いがあって、その様式がいろいろな形になって、僕たちの恋愛の営みを骨組みから形成しているのだ。
恋愛は神聖であるべきだし、神聖であればその他の要件を必要としない。一生を添い遂げる仲でも、一夜限りの徒情でも、その関係の中に神聖さがあればそれは祝福していい恋愛なのだ。僕たちの希求する恋愛が、単なる男女交際でないこと、またチンケな男女交際よりは脳が焼け付くようなひと夏の恋愛がしたいと僕たちが望む理由は、結局僕たちが希求しているのが恋愛の向こうにある神聖さだからである。事実、人は人を好きになると、それが道ならぬ恋でも恵まれぬ恋でも、もういいから行くところまで行こうと決意して人に耳を貸さなくなる。それは僕たちが、いっそ不幸さえ受け入れて、神聖さの中へ自分を生かしていきたいと望んでしまうからだ。
オトコとオンナはセックスをする。世間の中を上手く生きていくためには、どうしてもゴム製品を挟んだりしなくてはならないけれど、それはそれとしてやむを得ぬ野暮として、それでもセックスは神聖になりうる。セックスは恋愛の中心的営みとして神聖であるべきだし、また神聖さが見えないのであればそんなセックスは無理やりする必要が無い。神聖さがなければ、セックスなんて単なる性的なモンゴル相撲だ。
このコは本当に、性根がやさしいんだなぁ、とあるオンナのコを見てしみじみと感じる。そういうオンナのコに、軽く手を触れると、オンナのコは頬を上気させて、それでも嫌がる素振りを見せない。そうなると、こちらにも火がついてしまって、お互いの触れあっているところがジンジンと熱を持ってきてしまう。やがてオンナのコはオンナの顔を見せはじめて、オンナの声を上げて、オトコを受け入れる準備を全身で始める。そういうとき、オンナは美しい。受け入れる様相だけでなく、与えられることを求めている、そのことが明らかな無防備の顔は、こちらに明日の全てを忘れさせて、今の時間はお互いに与え合うためだけのことに費やしたい、と真剣な気分にさせる。セックスとはそういうものだ。それだからこそ、オトコとオンナはセックスをしてしまうのだ。
オトコは生物として遺伝子をばら撒く側であり、オンナはより優秀な遺伝子を選別して受け入れようとする側である。オトコは性ホルモンの働きによって性的に興奮すると陰茎を勃起させて、膣内で摩擦運動をすることによって射精する。そこには性的な快感が伴う。科学においては、僕たちのセックスはそのようにしか説明されない。しかし、この説明は思い切って言うならば間違っている。遺伝子をばら撒きたいと具体的に思っているオトコは一人もいない。優秀な遺伝子を選別しているオンナもいないし、性的な興奮から膣内での陰茎摩擦を求めているオトコもいない。これは、科学という方法がお得意とする「仮説」を基に僕たちの営みを説明しようとした一つの試みに過ぎない。科学というのはよくよく考えれば人造の理知的なファンタジーであって、「それで合ってますよ」と神様が認めてくれたものでは決してない。そして、セックスについての解釈は、どちらかというと神様に承認をもらわなくてはならないジャンルのものだ。いくら科学的に正しいセックスをしても人は満足しない。神様に報告して祝福をもらえるだけのセックスをしないかぎり、人はセックスに満足しない。
恋愛は神聖さの営みで、また僕はいつもどおり、セックスと恋愛を分離しては考えないから、恋愛もセックスも神聖さの営みなのだ。セックスについては、単純な性交渉だけもできることはできるわけだが、それは断じて恋愛ではないし、またそれによって人は結局満たされない。このことが、まず恋愛についての当たり前の解釈としてある。このことを理解しないまま恋愛なんてできようもない。そして、今恋愛について混乱している人の全ては、結局のところここの解釈が破綻していたり忘却されてしまっていたりするのだ。
神聖さというファクターで恋愛を見ると、恋愛の風景は正しく面白い一面を見せる。まず、必ずしも美人のオンナが恋愛に有利で恋愛によって満たされやすいとは限らない点が面白いだろう。実際、銀座や六本木のホステスさんで、ウオッと目を剥くような美人であっても、彼女が満たされているかというと満たされているとは限らない。またこのあたりは、オトナの事情もあって、そういう人に限ってむしろ満たれるどころか限りなく崩壊に近く睡眠薬を飲まずには寝られないというような日常を生きて日々のお肌の老化に戦々恐々としていたりするものなのである。
神聖さの恋愛という視点から見れば、例えば、この夏にマウンドに立つ高校野球のエースピッチャーから、不器用だが真剣な告白を受けたバージンのオンナのコなんかが一番幸せな存在になる。このことに説明は要らないだろう。恋愛の原点はそういうところにあるし、恋愛の行き着くところも結局そういうところにある。恋愛の幸せは神聖さの中にいられる幸せなのだ。少女は痛みに耐えて少年を受け入れ、少年を祝福し、それを受け持った自分を誇りに思う。二人がなお照れくささを残した中で、ベランダから見る朝焼けは、それはもう神聖で美しいだろう。それは六本木のナンバーワンホステスが一億円を積んでも手に入れられないまぶしさの光景である。
神聖さという視点では、どうしても少年少女が有利のように思えるが、このことも本当は正しくない。というか、それは正しくないと、僕たちの全員が強く心に思わなくてはいけないだろう。そうでないと、それは要するに「オトナはゲスですよ」とオトナが認めてしまうということであり、そのことは世の中を暗くして少年少女を絶望させてしまう。オトナになるにつれ、神聖さなんてどこかに忘れて、世の中を軽蔑しつつ世の中からも軽蔑されているブサイクな顔の人は少なくないが、そういう人たちは脱落者であってそういう人たちを世界観の中で意見させてはならない。最近はなんとなく、そういう脱落者が過半数を取っているような気がしないでもないが、少なくとも僕は、自分の世界観を民主主義的に過半数のオバハン意見で固めるつもりは毛頭ない。
僕はオトナだが、僕の観ている世界にも、神聖さはある。むしろ僕は、年を経るごとに、その神聖さがようやく見て取れるようになってきたぐらいだ。同様に、下卑たものも見えるようになったが、それは僕には関係ない。華厳の滝があれば下水道もある、それが僕たちの生きる世界というものだ。
これを読んでいるあなたが、十八歳になっていたなら、あなたはもう少女ではない。オトナのオンナだ。大目に見ても、二十歳を超えていれば確実にオトナのオンナだ。そして問題は、オトナのオンナであるあなたが、神聖さを見失っていないかという点、そしてできれば少女であった時代より、より深い神聖さを自分の生きる世界に見出しているかどうかという点になってくる。恋愛は神聖さの営みだ。恋愛を探すということは、神聖さを探すということでもある。
僕はオンナが好きだし、セックスも好きだ。だから僕は、かわいいなと思うオンナがいたら、そのオンナの中に神聖さの光を探す。その神聖さは、大きかったりささやかだったり、いろいろだ。道行く中、ドンと誰かにぶつかって、あゴメンなさい、の一声が、本当に人にやさしく気遣う声だったりして、ああこのコはいいなと真剣に思う、そういうシーンで恋愛の好きは始まる。そういうオンナは、いくら口では意地悪なことを言っていても、本質的にやさしいから、フェラチオしながら歯が当たらないよう気をつけたりとか、ホテル代のお礼に晩御飯をおごろうとか、そういう一番大事なやさしさを、強がりの口調の中に無自覚のままに忍び込ませてくれる。
あなたの場合はどうだろう。あなたはどんなオトコと出会って、どういう営みをしているだろうか。恋人だからとか付き合っているからとか、そういう話ではなくて、あなたはどういうシーンでオトコのどういうところを見て、ああこの人はいいな、人柄だな、と純朴に恋愛の好きを感じ取っているだろうか。ちゃんとやさしく、慈しまれるように抱かれているだろうか。美人でもそうでなくても、愛し合う中で一時の神聖さの気分に浸る、その幸せが恋愛の求めるところだから、それを忘れずにいるといいと思う。
神聖さ、ということで話すと、どうにも話が堅苦しくなるな。自分で言いながら、だんだんしんどくなってきた。恋愛は神聖さの営みで、そのことは間違っていないのだけど、神聖さとはいろいろで、単純におなかの底から笑うとか、玄関の掃除をちゃんとするとか、そういうことだって神聖さになりうる。したくなっちゃった、と服の裾を引っ張ってくる、そういう素直さのオンナのコにやられてしまうこともあるし、あなただってそういうところはあるかもしれない。あまりに素直に求めてくるから、かわいくなっちゃって、とそういうふうに始まる恋愛があってもいいと思うし、それが一晩だけでも一年続いても、あなたの照れくさい思い出になれば恋愛はそれでいいと思う。
ぐだぐだ話してきたが、結局こういうことだ。あなたのスカートの中には、神様が住んでいるのだ。そしてその神様に、お参りして一物を奉納する、そのお祭りが恋愛なのだが、これがお祭りであり神事である以上、神聖さの中でやらなくてはならないわけだ。あなたのカラダは御神体で、あなたの下着は神殿になる。だからあなたは、いつもきれいにしてなくてはいけないし、汚い下着を穿いていてはいけない。
あなたの神様に、どういうオトコを参拝させるか、その采配は巫女であるあなたが決める。不潔なオトコはもちろんダメだし、人格の捻じ曲がったオトコはダメだろう。お金を持っていないと参拝できませんというのはなんだかイヤな神社だし、ファッションがキメキメならば誰でも参拝してよしというのも109みたいな神社だ。背筋が伸びているし、声がやさしく響くし、人相がよいから、参拝してよし、そういう理由のほうが神社としては正当になる。
そういう視点で考えていけば、バカっぽいけど、恋愛について混乱はしなくてすむ。いや、バカっぽくなるのは、別に僕がバカだからじゃなくて、恋愛をしたがる僕たちの全員がバカだからしょうがないんだ。あなたもまた、僕と縁があれば、そのときはどうか参拝させてくださいますよう、よろしく。背筋伸ばしていきます。
[了]