No.114 どうでもいいから、恋愛をしよう
ささやかな風と匂いが、不意打ちのように神経に触れ、全てのことを思い出させることがある。時間以上に古い昔の話。大きな南の台風が、湿度と日常を全部持ち去った日。今はコントラストも晴れやかな十八階の、海向きの部屋には、何も持たざる純粋な彼女と僕だけが残されていた。
彼女の細腕が、重く透き通ったガラス戸をきゃらきゃらと開けると、遠くに黒々と水平線があった。太い海風が、熱くうねりこむように部屋を洗い、赤錆のテーブルからクロスを剥ぎ落としていった。正午過ぎの海は無闇に青く分厚く、真綿の雲たちは鳴きながら揃って東へ東へと旅を急いでいた。ゴールドの下着姿でテラスからの風を浴びる彼女は、やせた腰の後姿を逆光にきらきら縁取らせ、バヤリースオレンジの瓶をぞんざいに手にぶら下げていた。彼女は遠く、海の向こうを見ている。僕は彼女の視界を経由して、その景色を見るよう感じながら、光る雲の流れゆく先、僕たちの知らない外国の街の活気について考えた。
思い出なんていいかげんなものだ。時の順列を超えて入り混じり、じきに事実から離れてしまう。僕の鼻先にある、この海風と彼女の陽に灼けた肩の匂いも、事実の記憶などではなくて、思い出を積み重ねて創り上げた懐かしさだけのデカダンスに過ぎないのかもしれない。人は笑うだろう。しかし僕は、この僕の感覚によって生きるしかない。思い出は積み重なって事実から離れていく。事実から離れて、真実になろうとするかのようだ。
わたし、きれいになったかな、と彼女は尋ねた。なったよ、きれいに、と僕は応えた。
そうだよね、と彼女は照れくさげに笑って振り向いた。
わたし、きれいになったんだよ。色々失くしたけど、失くしてよかったよ。
彼女は左手を背にやり、ホックを解いた。金色のブラを外し、やわらかいピンクの乳首を見せびらかす。胸は、大きくならなかったけど、と彼女は口を尖らせておどけた。そして、まあいいや、とつぶやくと、瓶を口に押し当て、喉を鳴らしてオレンジを飲んだ。僕の視線は彼女の乳房に釘付けになる。彼女の乳房は、美しく、それはそのまま彼女自身の美しさだった。
なあ、今さらだけど、なぜ俺たちみんな、あの時は笑えなかったんだろうな? と僕は唐突に彼女に尋ねた。そうだね、と、オレンジの瓶にキスをしたまま、彼女は深く微笑んだ。
いつの間にか、だね。いつの間にか、笑えなくなって、泣くこともできなくなって、ひたすら毎日、うまくやっているように、自分に思い込ませてた。
俺も、そうだよ、そうだったんだよ。いつの間にか、だな。いつまでかは、自由に笑ったり泣いたりしてたのに、いつの間にか、自由の全てがなくなってた。いつの間にか、だけど、いつからなんだろう。
多分、地下鉄に乗り始めた、あの頃からなんだろうな。僕は通り過ぎた過去を素直に悲しんで言った。彼女は特に返事はせず、またテラスの方へ向き直り、青い光と向き合うように、まぶしさに目をそらさぬように立っていた。振り向くことを拒否して、未来に向かおうとするかのようだった。
鯨、出ないかな、と彼女は大きな声を出した。
いつか出るよ、お前なら、と僕は彼女の背に、やはり大きな声を出した。
恋愛は、思い出が作る
本物の恋愛はあなたを満たすが、偽物の恋愛はあなたをさらに渇かすだろう。僕の知る限り、誰もが本音では本物の恋愛をしたがっているが、本物の恋愛には知恵と勇気が必要で、多くの人が偽物の恋愛で自分の人生を慰めてしまうようだ。僕は人生に、恋愛が不可欠だとは思わない。しかし、偽物の恋愛に色々な味付けをして、本物の恋愛を味わうフリをしようというのは、いかにも愚行で貧しいことだと思う。恋愛がうまくいかないことは、別に悪いことじゃない。恋愛が、上手くいっているフリをすることこそ、自分にも相手にも悪いことなんじゃないかと僕は思う。
本物の恋愛とは、何だろうか? そのことの判断が、意外に難しく、それだけに僕たちはいつも迷子になりがちなのだが、これについて最近の僕はこのように考えることにしている。すなわち、「思い出」を生むのであれば真、「思い出」を生まないならば偽という考え方だ。
例えばだ。あなたがとあるオトコに呼び出され、汐留の高層ホテル、その最上階のバーラウンジに連れて行かれたとする。そういうシーンがあったとして、そのシーン自体はあなたを気分良くさせるだろう。いわゆるトレンディドラマのようなワンシーンで、それだけでそのままその夜にカラダを許してしまう人はたくさんいると思う。そのことは、別に悪いことじゃない、というかたいしたことじゃない。
ただ、そのようなシーンがあなたにとって気分のいいものだったとして、それによって二人が本当の恋愛の関係になれるかというと、それはまったくの嘘っぱちだ。最上階のバーラウンジなんて、高価だが高貴ではない。そのようなシーンは、いくら気分がよくても「思い出」にはつながらないものだ。
中には、そういう典型的なシーンだけを、思い出だと思っている人がいるものだが、そういう人は僕に言わせれば正気の沙汰で無いぐらい貧しい人だ。ホテル最上階のバーラウンジでオンナを口説くなんて、すさまじいオヤジ系のワンパターン、そんなのに喜ぶオンナなんて、僕は世の中に一人もいないと思っているが、あなたはどうだろうか。あなたは例えば、イタリアを駆け足で旅行して、ツアー客にまぎれてパスタを吸い込み、クタクタになりつつ観光名所の写真だけ撮って帰ってくる、そういう記憶を「思い出」と思うタイプの人だろうか。
思い出というのはそういうものではないはずだ。逆に、思い出を生みえる二人、恋愛の関係になりうる二人であれば、そんなご立派なシーンを設定しなくても、それこそ駅前のモスバーガーでも思い出のシーンを作ってしまうものだ。恋愛の中にいる二人は、風景の全てを思い出にしてしまうのである。これは同時に、簡単に言って、思い出が恋愛を作る、と言うこともできるだろう。
例えば、こんな話。
ある日の暮れなずみ、あなたがコンビニで、雑誌を立ち読みしていたとする。そこに、思いがけない誰かが通りかかって、なんとなく挨拶し、なんとなく立ち話をしたとする。そういうとき、お互い照れくさいものだから、あなたは話もそこそこに、買い物するフリをしてコンビニを立ち去るだろう。
そこで、一息ついたあなたの背後から、彼が小走りに追いかけてきて、やはり照れくささの声で、少し一緒に歩こう、と申し出たとする。あなたは驚いて、考える間もなく、ああ、はい、とうなずいてしまうだろう。
お互いこのあたりに住んでるなんて、知らなかったなあ、などと二人は世間話をしながら坂道を下る。そこに夕立がやってきて、二人は駆け足になり、それでも雨足が激しすぎるので、二人は道中のモスバーガーに逃げ込む。二人はすっかりずぶ濡れになってしまい、あなたは一応彼にハンカチを差し出す。彼はあなたにホットココアをおごってくれた。あなたは一応、自分で払うそぶりを見せたが、彼はそれをはっきりと制した。彼いわく、せめておごらなきゃ、ナンパしといて、このずぶ濡れはダサすぎるよ、とのこと。彼が一人で、思いがけず顔を赤くしているので、あなたは思わず吹き出してしまった。何、あたしって、ナンパされちゃったの? あなたが冗談めかして言うと、彼は、そうでしょ、ココアの一杯でナンパされたんだよ、と笑った。
しばらくして、夕立は降り止んでくる。しかし二人は、なんとなくずるずると、二杯目のスープをおかわりしてしまう。
このようなシーンが、なぜとは知らず思い出のシーンとして刻まれるとき、二人は恋愛の関係になりうる。不器用で無謀な、しかし堂々として怯みのない彼の声の掛け方や、土砂降りの中を二人で駆けるといったようなこと、そういうことの積み重なりの中で、どういう原理なのだろう、全てが切ない色で胸に来ることがあるものだ。
世の中には、色んな恋愛をする人がいる。それにあわせて、いろいろ議論する人がいるわけだが、僕はその議論に一切耳を貸さないつもりだ。恋愛について、議論することはいつだって意味が無く、ただ言葉と理屈のいさかいでストレスを溜め込むだけになる。僕が聞きたいのは、いつだって恋愛の思い出の話だけだ。あなたの思い出のシーンが、あなたを幸せにしたか、あるいは悲しみに打ちひしいだか、そのどちらであっても、恋愛の焦点を「思い出」に当てて、語り合うことには意味があると思う。
恋愛は、思い出が作るのだ。思い出を生む恋愛であれば真で、思い出を生まない恋愛は偽だ。それが僕の考え方だけど、あなたも似たようなものだと思う。
あなたはここしばらく、思い出のことを忘れているかもしれないけど、次かこれからかのあなたの本当の恋愛は、深く切ない、思い出にまみれたかけがえのないものになると思うよ。
全てがどうでもいいからこそ、ひたすらにまぶしい恋愛
思い出にならない男女交際なんてクソクラエだと思う。神経質なメールのやり取り、定例化した週末のセックス、そういうことの積み重ねは、本当に人間の目の光を劣化させてしまう。そしてさらに、タチの悪いことに、そのような空虚な関係の積み重ねに、本人たちも徐々に退屈して疲れてくるから、今度は「マンネリを打破しよう」というようなスローガンで、新しいレストランに行ったり無意味に南の島に飛んだりし始めるのだ。落ち着いた頭で傍から見ていると、そんな二人は完全にアホウなのだが、やっている本人はなかなか気づけない。それでも本人は本人なりに、なんとかしようと真剣になっているので、それだけに見ているとこちらも心苦しくなってくるものがある。そんなとき、そっとしておくか、それとも「お前らはクソクラエだ」と言ってやるか、その選択は人それぞれの人生観になるのだろう。僕は最大限、クソクラエにはクソクラエと言うように心がけている。そちらのほうが、何かと風当たりが強くて楽しいからだ。
思い出は、人に与えてもらえないし、環境に与えてももらえない。お金をつぎ込んでも、それだけでは思い出にならないし、五つ星のホテルに泊まってシャンパンを頼んでも、逆に本質的な貧しさが引き立ってしまうことさえある。ヨーロッパも南の島も、あるいは老舗の温泉旅館も、マンネリの診療所ではないし、思い出サービスセンターでもない。このあたり、当たり前のことなのだから、僕たちは正気でこのことを理解していなくてはならない。広告にだまされて、海外旅行に飛び出したって、あなたの人生も二人の関係も豊かになるわけがないし、二人で英会話を習ったって、それは単に使わない英語の英語力がなんとなく磨かれるだけだ。
最近、このテの産業というか商業広告に、だまされる人が多すぎるから、本当に気をつけてね。あなたを本質的に豊かにしてくれる産業なんて存在しないよ。あなたはワインを飲んでも上品にならないし、ダンススクールに通ったってセクシーにはならないから、くれぐれもだまされないでね。
思い出が恋愛を作るとして、その思い出を得るためにはどうすればいいだろう。そのことを、僕たちは知っておく必要があると思うのだが、このことに僕として答えるならば、おそらくは「心とカラダの過保護をやめること」だ。抽象的な言い方になるが、端的にはそのようにしか言えないと思う。人間は、心とカラダとたましいとで形成されている。そのうち、たましいに刻まれたものが「思い出」になるのだが、そのたましいを何かに触れさせるためには、心とカラダにいくらか無頓着になることが必要なのだ。
僕たちは日常、心を守り、カラダをケアして生きている。だから僕たちは、好きな人にはフラれないように慎重に振舞うし、翌日の仕事に備えて六時間は睡眠を取るようにしている。それが僕たちの日常だし、それによって事実僕たちは日常を「上手くやっている」。
しかし、この「上手くやっている」ことによって、たましいは日常的に抑圧された状態になっているのだ。だから僕たちの日常には思い出が生まれにくい。このことが、まず思い出ということについて考える基本になる。
このことがあるから、面白いもので、日常を上手くやっている人ほど、人生に思い出がなかったりするものだ。ためしに、例えば週に二回はスポーツジムに通っている人、若いうちに資格を取得し、年末は海外に飛び、彼氏とはよくテニスをするのというような人に、ここ最近の思い出はなんですかとか、人生の一番の思い出はなんですかとか、そういう問いかけをすると、びっくりするぐらい何も出てこなかったりする。もちろんそのテの人は、プライドが高いので「思い出は、実はないんだよね」と舌を出して笑ったりはしない。その代わりに、友達の家の屋上から花火がよく見えて楽しかったとか、そういうことを、いかにも無理やりほじくりだして、自信のあるふうに微笑んだりする。
このあたり、言い方がひどいかも知れないが、僕はそのテの女性を攻撃しているわけではない。僕は大きなお世話ながら、警告しているつもりでいるのだ。というのは、僕が見てきた限り、このテのタイプが典型的に「結婚できないオンナ」になるからだ。本当に、結婚できずに人生に苦しんでいる女性に、こういうタイプのオンナはものすごく多い。そういうオンナは、見ていて悲しいから、本当に大きなお世話ながら、三十五歳までに考え方を変えてもらいたいと僕は思う。このテのオンナは、プライドが山盛りで思い出がすっからかんなのだ。何事も「上手くやっている」が、それは心とカラダに過保護なだけで、たましいはおそろしく貧弱なままだ。パチンコが趣味だったけど、妊娠しちゃったから諦めなきゃねと、そうして晩御飯を用意するオンナのほうがはるかにたましいは強く、思い出を積み重ねて生きている。
本物の恋愛をしたいなら、どこかでその「上手くやる」ということを捨てなくてはいけない。心とカラダに過保護をせず、どこかで「どうでもいいや」と思い切る必要がある。それは例えば、仕事も何もかもズル休みして、昼間からコーラをがぶ飲みしながら何も考えずにセックスに耽る、そういう背徳的なシーンに自分をひきずりこむというようなことだ。出来れば午前中、美術館に行ったりして、「わたし絵画とかやっぱり分からないな」とさっさとギブアップしてしまって、誰もいないのをいいことに、美術館の隅で音を立ててキスをする、そういう準備運動ができればなお良いだろう。オトコが興奮して、スカートの中に手を入れてくる、その必死さを高みから眺めて楽しみながら、今このときはお互いに好きかどうかとかどうでもいいやと、そう思えればそこから先はたましいの話、思い出に残るシーンになってくる。
日常、あなたは自分を大事にしなくてはならない。しかし、たましいに思い出を刻むような、本物の恋愛をしたいなら、そのときはあなたはいっそ、自分を粗末にしなくてはならない。冷や汗が出ても怯まずに、大胆に言いたいことを言い、明日の自分が怖くても、今日の自分を曲げずに何かに飛び込ませるのだ。
あなたは自分を大事にするな。人生を大事にせよ。あなたにとって大事なことは、思い出になるような時間を生きること、またそのような恋愛を生きていくことで、その他のことは「どうでもいいこと」だ。伝票を打っているときや、日焼け止めを塗っているときは、人生の野暮をこなさなくてはいけないけれど、あなたが下着姿になったときは、それらは本当に「どうでもいいこと」のはずだ。
ジョギングをしているとき、人の中心はカラダになる。深夜に読書しているときは、中心は心になるだろう。そのような、人間の中心の主導権、それがたましいに支配されたとき、無数のことが「どうでもいいこと」になる。そうなったとき、全ての風景はまぶしい。その風景は、まぶしさのままあなたのたましいに思い出を刻むわけだが、そのような体験のひとつとして恋愛がある、その恋愛を本物の恋愛というのだ。本物の恋愛とは、全てがどうでもいいからこそ、ひたすらにまぶしい恋愛なのだ。
僕たちはいつだって、世間に流されやすいし、毎日のようにいのちを鈍らせてしまう。だから、僕たちは日々自分に確認するべきではないだろうか。自分にとって、本当に大事なことはなんなのかということを。恋愛をしたいなら、恋愛ってなんなんだということを。今日の自分が、思い出に残る自分になるためには、何をどうしたらいいのかと。逆に、何かにこだわっているから、今日の風景はまぶしくないのではないのかと。心とカラダに過保護をして、どうでもいいことにこだわってしまって、結局今日を無駄にしてしまうのではないかと。
好きな人がいるならば、好きですと示して迫ればいい。フラれたら泣けばいいし、口説かれれば抱かれて遊ばれていかされて忘れればいい。オトコとオンナのことだから、何がどうなるかは誰も予測できない、しかしその予測がどう出たって、それは結局たましいにとっては「どうでもいいこと」にすぎない。そんなことにいちいち怯んで逃げ腰になり、恋愛とは? と考えたって、不毛で虚しい、いやそれ以前にみみっちくてチンケだろう。
恋愛は思い出が作る。思い出とは、結局たましいに刻まれる光景のことで、そのようにたましいを生かすためには、心とカラダに過保護をしないことが大事だ。そのようにして、たましいを生かしてやれば、ふとしたところから無数のことが「どうでもいいこと」になってくる。その「どうでもいいこと」の向こうには、まぶしいだけの世界があって、その中でいい人と遊ぶのが、本物の恋愛になる。本物の恋愛は、あなたに無数の思い出を刻み、あなたを満たすだろう。その点、偽物の恋愛はダメだ、あなたにしみったれた記憶しか残さず、あなたの皮膚をどんどん老化させていくことだろう。
この世知辛い世の中で、そのように、たましいを生かして本物の恋愛をする、なんてことが可能だろうか。そのような問いかけが、なんとなく湧き上がってくるような気がする。このことも、世間のウソに馴染まされた人には、どうしても疑わしく聞こえてしまうのだろうけれど、たましいを生かして本当の恋愛をすることは、事実可能だ。というよりは、落ち着いて自分を本当の恋愛に向けてやれば、何のことはない、偽物の恋愛のほうがやたらに疲れて継続するのが難しい、そのことが明らかに分かるようになる。
無意味なことなので、あんまり世の中をボヤきたくはないものだけど、最近の世の中は、本当にどうかしてしまっている。本物の恋愛をニセモノだと言い張り、偽物の恋愛をリアルなものだと言い張るかのようだ。たましいを触れ合わせて、すべてをまぶしい思い出にして恋愛するなんて、十代のころだけねと、そう嘯くオバハンは世の中に果てしなく多いが、そういうオバハンは十代の人間と三十代の人間が本質的にどう違うかを説明する必要がある。でも、どうせ説明なんかできないんだろうし、もう面倒くさいからいい、オバハンは黙れ。オバハンは恋愛について一切の口出しをするな。どうせ世界を暗くすることしか言わないんだから、オバハンは世界の隅っこで無害を心がけておとなしくしていればいい。
わからない人にはわからないままで、わかるあなたと僕は、本物の恋愛っていいよねと、ピースサインをして生きていこう。僕の知る限り、心とカラダに過保護をやめて、自分の中心、その支配権をたましいにゆだねてしまう、そうして思い出を刻みながら、当たり前のように恋愛していく、このことは思いがけず楽チンだ。喜怒哀楽は激しくなるが、それは恋愛を体験すれば当たり前のことで、それよりなにより、本物の恋愛は、偽物の恋愛のようにいのちにダメージを与えることがないから、偽物の恋愛を嘘っぱちのまま継続する「地獄」より、ずいぶんラクで楽しいものだよ。
まあ、そんなわけで、色々ややこしいこともあるけれど、それらは実は「どうでもいいこと」。
また僕は、まぶしい海や、きれいなオンナが見たいなと願って、今日もたくさん遊ぶことにします。
胸に残る、風のいい日であればいいな。
ではでは、またね。
[了]
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