No.119 いい女は教育が作る
冬の欅を見るのが好きだ。夏も好きだが、冬の欅は清潔で厳しく特別に美しい。キンと冷えた青空に、雄々しい欅の枝が伸びていて、枝先で氷の雲が風に引き裂かれて散ってゆく、その光景を見ているとなぜか気分が静かに透きとおってくる。やさしい黄色のマフラーに顔をうずめた赤らんだ頬の少女が、信号を待って立っている、その少女が二度とない美少女に見えてくるから不思議だ。
気層が冷え切ると、いつか青森の高台から見つけた酒造のことを思い出す。黒光りするへの字型の瓦屋根が、湯気を吹いて活気を示していた。あれはなんだろう、と僕はちりちりに凍ったアイスバーンの道路をゆっくり下っていったのだ。そこには古びて小さな酒造があった。昨夜の霰を巻き上げるような風が坂道を駆け上り、それに吹かれると冷たさのあまり僕は所属や過去をいっとき失ったような気にもなった。
あらあ、こんにちは、と土間に出てきた少女は、年齢は二十歳かその手前、結った髪にしっかりしたまなざしの、人懐こいすっぴんの少女だった。みなさんもう蔵に集まってますよう、と彼女は朱色の丹前姿で店先から奥を手で指し示したが、いや僕はただの通りすがりで、旅の者です、と断ると、―――えっ、あらあ、ごめんなさい、こんなとこ誰もこないものだから、と口に手を当てて笑った。
ほどなくすると、店の奥から凛々しい面構えの柴犬が現れ、それに続いて二人の幼子が現れた。幼子は僕を異邦人のように見上げて、しばらく固まり、それから無邪気にニッと笑って逃げた。柴犬は、僕の膝元の匂いを嗅いで、よし、と納得してから、そそくさと少女の足元に甘えた。じゃれ合いながら駆けて行く二人の幼子の、おそらくは年長の男の子に向け、ちゃきー、ちゃんとお父さん手伝いなさいなー、と少女は威勢の良い声を掛けた。いい声だった。場所に根付いた声だ、と僕は思った。
酒造は今まさしく、今年の新酒を搾り出しているところだった。小さな酒造で、裏に手作りの水田があり、その水田で取れた米を、地元の人たちの手で酒にしていく。新潟に杜氏の修行に出ていた長男が、この日のために帰ってきて、その修行の成果をご近所一同に見せ付けるそうだ。作られる量が少ないので、ここのお酒は全て地元の人に消費されてしまう。流通に乗らない、本当の地酒というやつだ。てきぱきとした彼女の説明が心地よかったので、ありがとう、看板娘さん、と冗談を言うと、あらあやだ、と少女はまた口に手を当てて笑い、僕の肩をポンと叩いた。
幼子が二人、こんどは危なっかしい足取りでお盆を運んできて、その盆の上には二つの湯飲みに入った肌色の酒があった。絞りたてですよう、と幼子が生意気な口調、先の彼女とよく似た口調で言う。僕は幼子にありがとうを言い、僕と少女は湯飲みでこつんと乾杯した。絞りたての肌色のそれは、まだぐっと温かく、かすかな炭酸の舌ざわりがあり、むせるようなメロンの香りと、ひしめくような旨味に満ちていた。液体のそれを奥歯で噛み締めたくなる衝動が生まれる。それだけ強烈な味わいの向こうに、思い込みのせいではあるまい、人の手が作ったもののやさしさがあった。軽くめまいがして、ともすれば涙腺が熱くゆるむ。これはうまいなあ、と僕は久しぶりに腹の底から感嘆した。
これはまるで、噛んで飲むような酒だね、米の旨味が強烈で、と僕が感想を言うと、あらあ、分かる方なんですねえ、となぜか少女はあたりを伺った。少女は小声で、実はわたし、お酒の味、まだよくわからないんですよう、父には内緒なんですけど、とささやき、秘密を共有するようにくすくす笑った。つられて、僕も笑った。話を聞くと、彼女は自家の日本酒しか飲んだことがなかったのだった。スーパーで安売りの酒を買って飲んでみると違いがわかりますよ、と僕は勧めておいた。もし彼女が大衆酒を飲んだなら、おそらく一口でブッと吐き出してしまうだろう。酒の味がわからないと言いながら、立ちんぼで湯飲み酒を飲む彼女の手つきは板につき美しかった。気取らず、こなれていて、それでいてどこか白鷺が清水を飲むような、茶の湯のような仕草だった。
ラベルも貼っていない水色の瓶に、肌色のぬくい酒を入れてもらい、それを適当な値段で売ってもらった。交差点を左に曲がってずっと行くと、県道に出ますよ、と少女は白い指で説明してくれた。下種な僕は、なぜとはなく、その白い指に指輪がはまっていないことを確認してしまった。
近隣の道路は全て細くうねっており、近くには電車も通っていない。うぶで陽気な彼女の生きる世界はごく狭く限られているだろう。しかし少女は幸せそうだった。彼女は一生、この澄んだ空気だけを吸い、見慣れた土地だけを踏みしめ、最高の純米酒だけを飲んで生きるのかもしれない。
高台に停めた車に戻る途中、オン! と犬が鳴いた。振り向くと、店先から柴犬がさよならの挨拶だった。朱色の丹前を着た少女は、どうやらまだ僕を見送ってくれていたようで、僕が振り向くと深々とおじぎをした。手を振ると、恥ずかしそうに振り返してくる。柴犬が立ち上がるようにして彼女にじゃれつき、彼女はもう一度僕に軽くおじぎをしてから柴犬をあやすようにして店の奥に戻った。僕はきびすを返し、少女のことを忘れて、来た道を戻る。僕の行く手、高台の方向には、そびえるような欅が、極地の青空をわしづかみにしていた。
教育を受けられるだけの素直さを残している女が少女だ
いい女も、やはり教育が作るのだと思う。育ちがいい、と言ってもいい。
よく教育された、育ちのいい女には、不思議に幸せの匂いがある。この子は大丈夫、ほうっておいても絶対に幸せになる、そう確信させる雰囲気があるのだ。外見がいまいち冴えなくても、大丈夫、いずれいい人といい関係になる、と安心させられる。
教育されていない、育ちの悪い女にはこの安心感がない。幸せの匂いがなく、なんだか場末で不幸な人生を歩みそうな気がするのだ。それは外見がいかにきれいでもそうで、育ちの悪い美人に男は、ヤッてしまいたいという気持ちはむしろ強く掻き立てられるにしても、毎朝目が覚めたときこの女がそばにいればいい、とはなぜか思わないものだ。
劣情を支配するのは単純に女の美醜かもしれない。しかし、幸せの匂いがあるかどうかは、美醜には直接関係がないのだ。
なぜ教育者は、このことを言わないのだろう。教育改革がどうこうとか、心を育てる教育がどうこうとか、たいそうなことを言う前に、
「教育されない女は幸せになれん」
と繰り返し言うことのほうが大事ではなかろうか。
もちろんここで言っているのは、マークシート試験の点数がどうとか、語学力がどうこうとか、そういう類の教育ではない。もっと基本的な、言葉遣いや箸遣い、身だしなみや立ち居振る舞い、字の書き方やお料理の仕方、あるいは愛想や思いやりについての教育だ。
言うまでもなく、人間は教育されなければ、多くのことを身につけられない。生まれつき字が美しい人なんていないし、生まれつき箸が正しく使える人もいないのだ。それと同様に、生まれつき思いやりが深い人間もいない。教育なのだ。愛は本能的でも、思いやりその他は文化的なものだから、教育なしには身につかないのだ。
つい忘れがちなことだが、たとえば僕たちは日常的に使っているこの日本語だって、親から教育されて使えるようになったのだ。忘れてはいけない。僕たちは誰も天才ではなく、上位者や先達から教育されることでしか恋愛を含めた文化的な生活はできないのだ。
そうやって考えてみると、恋愛がうまくいきません、と長い間悩んでいる人というのは、原始的な教育、特に両親の教育が足りなかったのかもしれない。要するに、両親が恋愛をしていなかったのかもしれない。あるいはアルプスの少女ハイジを観て学ぶべきを学ばなかったのかもしれないし、のび太としずかちゃんの関係から恋愛の妙味を学ばなかったのかもしれないし、ポケモンにはそういう教育的な側面がないのかもしれない。
しかしともかく、必要なのは原因の詳細ではなく問題の解決だ。いい女になりたいと望みつつも、いつの間にか遅れをとっている女は、要するに教育が足りていないのだ、と考えると発想が正しくなる。このとき、自己教育なんてのは欺瞞でしかなく、教育が足りない人は結局自分を教育してくれる人を見つけるしかない。それは時に人ではなく、本であったり映画であったり事件であったりすることもあるが、とにもかくにも、自分の脳みそではない、上位者なり先達なりを教育者として見つけなくてはならないのだ。
これは難しい。教育は、教育者の愛と、被教育者の素直さが必要だから、ある程度の年齢になると難しいことになってしまう。学生の間はなんとかなるが、社会人になり一人前の生活で手一杯になると機会の持ちようがないかもしれない。
まして、その年齢まで、素直さを保ち続けることの難しさを思えば……
教育を受けられるだけ、素直さと生活の可能性を残した女を、ここで「少女」と呼ぼう。今まで僕は、女と少女の境目がどこにあるかを見極められずにいたが、結局はここが境目なのかもしれない。教育を受けられるだけの素直さを残している女が少女だ。少女には、確かに素直さがよく似合う。
人懐こかった酒造の少女を思い出すと、彼女はいかにもよく教育された者だと思われる。挨拶の仕方、声の出し方、心の配り方、立ち居振る舞い、どれもこれも人をやさしい気持ちにさせるものだった。その背後には、きっと両親の教育があり、祖父母の教育があり、地域の狭さや兄弟などの環境があり、受け継がれてきた歴史や風土があるのだろう。反抗期のころには夜遊びもして、お前はそれでも葉山家の娘か! ぐらいの叱られ方はしたかもしれない。彼女だってテレビは見るし携帯はいじるしi−podも使うだろうが、それでも場所と歴史に根付いた教育さえ濃密に受ければ歪んだ現代人などにはならないのだ。
今教育者としてもし学校の先生が、恥を知れ! と生徒を怒鳴れば、親が学校に乗り込んでくることになる。すると新聞の三面記事に載り、消えていくはずのその瑣末なニュースはインターネットの暇人に拡大され暇つぶしに非難される。本当は、そんなことで学校にクレームをつけるような変態は世の中にまだ極少数派なのだが、とりあえずマスコミが合成した世論においては、そういう状況ですということになってしまっている。
そのように、僕たちを取り巻く教育環境は悪くなっていて、その解決策は今のところない。このまま状況は悪化していきそうだし、これから教育が不十分な者が世の中に増え、またその者たち自身の怨嗟が世の中にさらにこだましていくことになりそうだ。
大きな流れに、何も歯向かう手立てはないが、少なくとも僕自身は、素直さを残した人間でありたいと思う。
詳しく話すようなことではないが、先日目黒の鮨屋で、
「兄ちゃん、鮨屋でそんな話をするもんじゃないよ」
と江戸前の大将にたしなめられたことがあった。僕は恥をかいたわけだが、これが教育だ。鮨屋の大将が愛情深い気さくな人で、またいくらかは僕に可能性を見出したから、そのように言ってくれたのだろう。僕は感謝する。そして恥じ、もう二度としないゾ、と誓う。
こういうことを繰り返していると、いい男になれるはずだ。
三十一歳にもなった僕が、まだいい男になりたいなどと思うのは、なんだか幼児じみていていただけないが、若いあなたは違う。あなたはこれから、いい女になりたいと願っていい。よく教育されなさい。こればっかりは、間違いなくあなた自身のためになる。教育されるために、素直であり続けようと思えるだけ素直なあなたに、愛と教育を向ける人は必ずいる。世の中はまだまだ、捨てたもんではないのだ。 [了]