No.120 少女の花顔に恋をする
女の顔。たとえば女子学生の、あけすけな不安と好奇心に紅づいた顔。あるいはそういう職業の、衆目をひきつけずにはいない美麗さの引き立った顔。またあるいは、頬から顎にかけての曲線が、それだけであまりに女性らしく、またその肌が幸福なまでに潤っている顔。
男は女の、顔に恋をする。このことは、まず大雑把に見て正しい。なぜならば、女の顔を見ないまま恋をしたならば、その恋はあまりに不健康だからだ。最近では、インターネットや電子メールだけでオンラインの恋が発生することがある、またその恋に本気になる者もいるが、その者らは論を俟たずあまりに不健康だろう。それよりは朝方、川べりですれ違う栗髪の女の顔と、せめてその春の香に恋をするほうが、はるかに健康的で、さらにはある意味うらやましいほど、それは自然な恋だと言える。
かわいい女の、かわいい顔に、骨抜きにされ、うつつを抜かしたい。だからこそ、男はその特権を生きられるだけ、強い者になりたいと望むのだ。ここにおいて、浅薄な慈愛主義者というか、それらの者の、誰でも愛される権利がありますというスローガンや、あるいは人を外見で判断してはいけませんといった奇麗事は、何とも言えず見苦しい。そんな偽善の、役にも立たない毒を吸うよりは、男は女の顔に恋をすると、そのことを正しく捉えたほうが、現実に即しているし、健康で有効な努力の道筋も明らかにしてくれるだろう。
女の顔。男にとって、女の顔というのはものすごく大きな意味を持っている。それは単なる見栄えの良さや均整などを超えるものだ。そのことは一言で言って、女の顔を「作品」だと捉えることで、本質が正しく理解される。女の顔は「作品」で、あなたの顔はあなたの「作品」なのだ。「作品」には「表現」があり、人はその「表現」に惹かれる。また「作品」であるがゆえに、その作者は、その作品に強い思い入れを持ち、ときには深く傷つく経験を超えてでも、その作品に自信を持ちたいと切望する。
「作品」があり、「表現」がある。このことを正しく捉えれば、男と女の間に発生する諸現象も単純明快に了解されてくる。たとえば、ここに何枚かの絵画があったとする。見栄えは良いが、表現がドス黒い絵。見栄えは良いが、表現が見当たらない、見栄えだけの駄作。見栄えは悪く描線も幼いが、かけがえのない表現が表れている絵。見栄えもよく、描線にも味わいがあり、感服させるまでの、まぶしい表現が表れている絵……
現代の状況に照らし合わせて言うならば、絵画であれ音楽であれ、「表現」の見当たらない、印象としてスカスカの、虚無感のある作品が多い。あるべき表現の見当たらない、作品になりきれていない作品を、僕は単純に「駄作」と呼ぶことにしている。そしてこのことは、女の顔についても明らかに当てはまってしまう。あるべき「表現」が見当たらない、駄作としての女の顔。僕たちはそういう顔に出くわしたとき、悪くないと思うよ、というような表現で、その女性に対しての印象を評価するようだ。ただ、その顔に惹かれる男はおらず、多くはその者に存在感を覚えない。恋愛のシーンではよく、このような場合について、「○○ちゃんのこと、そういうふうには思えなかったから……」という表現をして、決着をつけることが多いようだ。
また、同じく表現の見当たらない駄作、そういう顔の女でも、生まれつき端正で、また化粧や服装の技術が高等で、見栄えだけはいい、という作品に仕上がっていることがある。こういうとき、どのような現象がおこるかというと、先の絵画の話よろしく、鑑定眼のない男が集まってくるということだ。鑑定眼が無いということは、センスがないということ、また作品を愛でる力のない男だということだから、こういう男にばかり口説かれている女は、やがて本人まで失調する。自分が女として愛でられるということがわからなくなり、とにかく見栄えだけを劣化させないように、整形手術や若返りの施術などに血を流し金を払うことになる。
女の顔には、ある程度生まれつきの要素がある。絵画作品にたとえて言うならば、生まれつき、使える画材がそれぞれに制限されている、というような状態だ。そのことによって発生する、有利不利は確かにあるが、そのことはここでは取り扱わない。このことの有利不利は、結局他人と自分とを比較して、優越感や劣等感を味わって気持ちを腐らせるだけなので、なんにせよ行き着くところ不毛でしかない。
それよりは、「作品」だ。「作品」と「表現」ということで、女の顔を捉えていく発想。この発想においてこそ、女が女として愛でられるということ、また恋愛の時間を営んでいくということが、正しく明らかに了解されてくる。
自分がなぜモテないのか、という単純な話。あるいは、自分にはなぜしょうもない男しか寄ってこないのか、という話。男は寄ってくるが、彼氏はできないというような話、あるいは彼氏はできるけれども、ロマンスとしての色恋沙汰に縁が無い、というような話。そういう話を自分なりに考え、これからの流れを変えていくために、女の顔というものについての理解―――それは「作品」であり、そこにある「表現」に人は惹かれるのだという理解―――は、かなり有効だと僕は思う。その有効性と、そこにある楽しみは明らかで、それはもう翌朝にでもすれ違う人たちの顔を、男女問わず眺めてみれば、そこにある作品群とその表現は、玉石混交の展覧会の様相であることに気づくだろう。
男は女の、「顔」に恋をする。作品としての顔、表現の伴う顔。見栄えもそこそこに、肌は健康と愛情に支えられて潤い、目元から口の端まで、微笑むという所作がやわらかく染み付いている顔。そういう表現力のある顔を、僕はここで「花顔」と呼ぼう。男は女の、「花顔」に恋をする。女たちは、「花顔」の持てる自分を目指し、またそれを失わないように、生きていきたいと望む。その生き方は切なく、残酷で、でもそれだけに、無上の価値をもって、あなたを励ますだろう。
[了]