No.121 俺の顔を見ながらしゃぶれ
僕たちは、いつも気が散っているのだ
愛し合うことの基本は、よく観ること、よく聴くことだと思う。よく味わうと言ってもいいが、とにもかくにも、目の前にいる人の、表情やしぐさや声の調子、目の配りや呼吸の深浅まで、よくよく観てとって聴いてとって、ふむふむこういうものかとじっくり理解することだろう。これが愛し合うことの基本で、このことが実現されていれば、愛なんか要らないと言っていい。大体、愛とかなんとか、そんな形而上のことにこだわる奴ほど、こういう肝心なところがおろそかなものだ。
よくよく観ること、よくよく聴くこと。たとえば相手の話を一つ聴くのでも、せめてトーイックのリスニング試験に傾ける程度の集中力を向けること、またその文脈が何を言いたいか、東大入試の国語試験程度には集中力を向けて読み取ろうとすること。このことが出来ないなら、愛を語る資格は無い。すなわち、僕たちは誰も愛を語る資格が無い。
資格が無いままに、それでもアレコレ言ってしまう、僕たちはみんなモグリというわけだが……
とにもかくにも、観ること、聴くことなのだ。もちろん誰もが威風堂々とはしていないし、おしゃべり上手というわけでもないから、観るに堪えないそそっかしさや、聴くに堪えない支離滅裂があるかもしれないが、その場合はそれとして、そそっかしいなあとか支離滅裂だなあとか、あるいは引きつっているなあとか楽しそうだなあとか、そのように見たまま受け取っていればいい。こういうとき、疲れやすいタイプの人は、相手に流されやすいタイプか、もしくは「この人はもっとこうするべき」などと、要らぬ説教を内心でほざいているためなので、そういう人はよく観てよく聴きながら、それ以外のことはしないように努めればいい。あなたがイライラっとすることがあったとしても、別に誰もあなたを積極的にイラつかせようとしているわけではない、そのことを思い出すと、ガスが抜けることはよくある。
たとえ話を一つする。僕の場合、スコッチが好きで、またその方面で散財しているので、ある程度スコッチのことを知っているつもりでいる。具体的に言うと、マスターが頭をひねり、棚の奥からスッとボトルを取り出すと、しめしめこれはいいものが出てきたな、と気配を感じるのだ。そしてそのラベルが、一見普通に見えつつも、粋な退色などを示していて、どうも一世代前のもののようなエイジングがある、と見て取る。そしてボトルの中に残る液体の分量から、ボトルコンディションも良しなどと見て取り、その色合いからシェリー樽ではない、オーク樽か何かの、長期熟成ではないオールドボトルだ、というふうに心弾ませるのだ。これは中身はアードベックだと言われているんですけどね、とマスターのなにやら含みやら確信やらを持たせた説明に深く頷き、1ccでも余分に入れろと念じながらマスターがシングル一杯分を計量するのを眺めるのだ。そのグラスに注がれた液体の香りから、ヨード香やらエステル香やらピート香やらをかぎ分けて、その味わいから、古いボトルだけど枯れていないとか、高級というよりは丁寧に手作りされた品のよさが甘みに滲み出ているとか、うんたらかんたらを思いながら、表面上はほとんど無言でこれはおいしいなあとつぶやく程度に済まして、これはきっと簿価が安かっただろうから、お値段も据え置きのお得な一杯に違いない、と味にも価格にも舌なめずりしたりするわけだ。
そのような僕としての営みというか、楽しみがあったとして、そのことを、僕なりにスコッチを愛している、そう表現しても異論はさして出てこないだろう。このことで滑らかに示されるように、愛するということの根本的な態度は、よく観ることであり、その声をよく聴くことであり、真剣に味わうことなのだ。それはテレビを観ながら発泡酒をグビグビやる楽しみとは少し違う。楽しみは楽しみとしてもちろん何が悪いというわけではないが、たとえて言うなら、あなたは発泡酒のように飲まれたいか、それとも秘蔵されていた銘酒のように飲まれたいか、そういう部分の話になる。
自分で言っておいて何だが、このような態度で、目の前にいる人をよく観ること、その声をよく聴くこと、よくよく味わうこと、これはけっこう難しいことだと思う。たいていできていない、と思っておくほうがおそらくは正しいだろう。目の前に、わざわざ妙齢の女性がいるのに、はて今日出かけるときに、俺は予約録画をセットしたっけかなとか、そういうどうでもいいことに思いを馳せてしまっていたりする。女性が目の前でそれなのだから、男が目の前だと、その気の漫(そぞ)ろたることや、思い返せばいつでも胸が痛くなる。
一言で言おう。僕たちは、いつも気が散っているのだ。最近は特にそうで、それが世の中のせいなのかどうか、そんなことはわからないしどうでもいいのだが、とにもかくにも僕たちはみんな誰も彼も、ついつい気が散りがちなのだ。目の前にいる人と、有意義な時間を過ごしたい、などと生意気なことを思い描く割に、僕たちはいつもボンヤリしており、また逆にソワソワしている。誠実でないのだ。そしてその不誠実が、一番身近に、僕たちが人を傷つける原因になっている。
愛の反対は無関心です、とマザー・テレサは言った。このことは高尚なことで、考えれば考えるほど切実で美しい名言なのだが、現実の僕たちの体たらくときたら、関心を持ってもそれが一分と持たない、という有様なのだ。愛の反対は無関心です、という名言に添えるように、愛が未実現なのは気が散っているからです、関心が行方不明になるからなのです、などと苦言を残さなくてはならないだろう。
目の前にいる人を、よく観ず、またその声もよく聴かないこと。このことは、実際可能で、それも残酷なまでに可能だ。適当に待ち合わせて、若い男女としてどこぞの居酒屋などに行く。そして、うだうだとしゃべっているようでいて、実は二人はまったく触れ合っていない、というようなことがいくらでも実際にあるのだ。最近はもう忙しくてねえ、と麦酒に酔った赤い声をわめき、それを受けもせず形だけ頷き、でもいいじゃんわたしなんかねえ、と今度は焼酎に酔った茶色い愚痴をこぼす。そのような酒の席が、一般的なレクリエーションとして横行しているのだ。いやもちろん、そのことにレクリエーションの効果があるのはわかるのだけれども、そういう酒の席などが、お互いの親交というかお付き合いのスタンダードとしてさえ横行する、そしてむしろそれが常識とさえなりつつある、その流れに僕としてはいささか憮然としているのだ。
僕などは、わがままで甘ったれな性格なので、目の前にいる人が、僕のことを観もしていなければ聴いてくれてもいないとなると、まったく大人気なく落胆する。いつもそのようなとき、ウームこれではない、ともどかしさのまま頭を掻くぐらいしかすることがないのだが、僕としてはそのような、あえて浅く浅く進もうとするレクリエーション、極端に言ってしまえば、薄ーく無視し合ったままのどんちゃん騒ぎに、違和感を覚えずにはいられないのだ。それは単純に年のせいかもしれない。年のせいであってもかまわないと思う。僕はもうジジイで結構なので、かわいい女は、どうかいつも真剣に、僕のことを観ていてくれないものだろうか。
まあ、それだけ言うと虫の良すぎる話なのだが、僕の立場で愚痴を言えば、実際にそのようなケースにはよく遭遇するのだ。九折さんに是非会いたい、また相談したいこともあると、女の声で言われてしまうと、とりあえず足を運ばざるを得ない。ところがそのような進みゆきで、いざ女性が目の前に現れ、挨拶なりおしゃべりなど交わしてみると、僕の存在などどこへやら、本人は混乱のまま誰に向けるでもなく自分のことを話し、僕はその相槌をひたすら打つ、というような展開になることがよくあるのだ。こういう言い方はしたくないが、最近なぜかそういう人が目に見えて多くなった。元気な人も陰気な人もそうで、気を抜くと僕もだ。会話とかコミュニケーションとか、そういうことの概念が根本から侵されてきたのではないか、と不安になってくる。
彼に振り向いてもらいたいのですが、どうすればいいでしょう。そんな話を聴きながら、僕はまた答える術も無く、ウームこれではない、と頭を掻くしかない。こういう場合、たいていその当人自体はものすごく生真面目なケースが多いのでなおさら困りものだ。僕としてはこう応えるしかない。あなたはあなたなりに、マジメで必死なの分かるけど、多分彼を目の前にしたとき、彼のことを無視してるね。観てないし、聴いてない。今目の前にいる、僕を無視しているのと同じ構図で……
そんな話をしてみて、話が通じたり、通じなかったり。通じないまま数時間、僕としての呼びかけが空回りすると、僕は何とも言えない空虚感というか、やりきれなさを―――傷ついた、と感じるときもあるけど―――ぶらさげたまま、適当に歩いて気分を入れ替える。最近は、春から夏が来て、陽気もよくなって、気分も入れ替えやすくて、何かといい。
勉強も遊びもやりぬいて
センスを磨いた奴がウハウハになる
最近になって、ごく当たり前のことに気づいた。
センス、というものの理解について。
お金持ちによく、センスが無いと思われるオッサンがいる。オバサンでもそうだが、年収が五千万あたりを超える、そういう金持ちのタイプは、たとえばジョークのセンスなどがないことが多い。このようなことを観て、センスの無い大人になるのはイヤだなあと、昔から僕は思ってきたわけだが、そこには大きな勘違いが一つあった。どういうことかというと、お金持ちになるタイプの人は、単純にセンスが無いという話ではなく、むしろお金を稼ぐセンスがあったのだということだ。同様に、料理人になる人は味覚や料理のセンスがあり、ミュージシャンになる人は、音楽や歌唱のセンスがあったということなのだ。
センスが無い者は貧しくなる。これは、分野にかかわらず当たり前のことだ。お金を稼ぐセンスがなければ、お金を稼げない人生を歩む。味覚のセンスが無ければ、味覚鈍感な人生を歩み、文学のセンスがなければ、活字を読むのは新聞だけ、という人生を歩む。それぞれの分野で、センスのあるなしが最終的にものを言い、豊かになったり貧しくなったりする。
そして恋愛についても―――
センスが無い者は貧しくなる。その点で言えば、先に話した愛するということのごく基本の話、よく観ることやよく聴くことについての話でも同じことだ。目の前にいる人を、よく観るセンス、その声をよく聴くセンス。その人をよく味わうセンス。それらのセンスが、どうしたって必要だ。
同じ酒を飲んだとき、その味わいがよく分かる人と、よく分からない人が、それぞれセンスのあるなしで分かれる、その当たり前の話の延長に、人と人との関わり合いもある。人を観るセンスの無い者は、人との関わり合いにおいて、貧しくなる。
まったく当たり前で、残酷で、さわやかなことだ。
だから僕たちは、センスを磨かなくてはならない。教育を受け、学び、訓練し、そして何よりも、遊ばなくてはならない。
教育勅語みたいな話になって申し訳ないが、まったく僕たちの日々はこのことのためにあるのだと思う。僕たちは何のために勉強するのか。それはセンスを磨くためだ。僕たちは何のために遊ぶのか。それもやはり、センスを磨くためだ。そして、センスが磨かれていくという快感を、こっそり背後に潜ませているから、勉強も遊ぶことも、僕たちにとっては楽しいことなのだ。
結局、勉強も遊びもやりぬいて、センスを磨いた奴がウハウハになるのである。
若い人たちは、特にこのことに、みっともないぐらい必死になればいいと思う。センスが磨かれるのは、特に若いうちだ。年齢が増しても、そこに若さが保たれていればいいのだが、なかなか年をとるとそうはいかず、余計なプライドばっかり嵩増しされて、とにかくやりにくくなる。何か一つでも、意地になって、このことについてだけは、「本当に分かる人」「本当にできる人」になってやると、誰にも語らず心に秘めておくといいと思う。
ちなみに、このことについてだけは本当に分かる人、本当にできる人になってやる、そういう偽物でない思いのことを、「志」という。
ココロザシ。
夢なんかなくていいし、夢なんか捨てていいけど、志だけは、無しに生きてはダメだ。
志が無いと、気力が腐るよ。
百人に一人の女に、あなたはなれ
本当に教育勅語みたいな話になってしまった。死んだほうがいい、と自分で思うぐらい反省している。
何を言いたかったのかよくわからないが、ここまで来て、キー・ワードは「百人に一人」ということだ。本当にお金を稼げる人は、世の中全体で見て百人に一人しかいないように、本当にいい女も、やはり百人に一人ぐらいしかいない。
素質のあるなしの話はしていない。みんなそれぞれに素質があるのに、百人の一人ぐらいしか、まともな奴は出てこないのだということだ。
百人に一人という数字が、統計学的に妥当なものかどうか。そんなことは、さして重要ではない。百人に一人の女になってやる。その思い、その「志」が大事なのだと、そのことは先に言ったとおり。
本当に真剣に生きようと、そう志したら、百人に一人ぐらいではすまないとも思うけど、まあそれは置いといて……
目の前にいる人を、よく観ること、そしてその声を、よく聴くこと。それも単なる、前向きでガンバった精神でそれを心がけるというのではなく、積み重ねられ、磨かれた、本当に物の分かるセンスを持って、なおかつそのような態度でいるということ。それが、愛だのなんだのと議論をするはるか手前に、確かな手ごたえとしてある愛の実現だ。
物の分かるセンスをもって、目の前の人をよく観る、その声をよく聴く、そのことについてだけは、百人に一人の高みに至りたい、そういう志を持てばいい、そのような話を、僕はしたつもりだ。
百人に一人の女に、あなたはなれ。その志は、生涯折るな。
(思いがけずちゃんとまとまってびっくりした)
話の終わりに、僕として感じていることを、アホみたいにむき出しにして話す。僕は悲しいというか、寂しいのだ。目の前にいる人が、特にかわいい女の子が、僕のことを観てくれずに、行方不明になっているのが。目の前にいる人を観られないということは、観てもらえないほうとしても寂しいし、実は観られていない当人としても、自覚のないまま寂しいものだから、なんというか、やるせない。
目の前にいる人を観られないということは、その当人も、ずーっと孤独でいる、ってことだからね。
目の前にいるお互いが、お互いに寂しがり屋で、触れ合いたがっているくせに、具体的にはどうしたらいいかわからない。またそのようなときに、自分として手ごたえのある、センスを磨いた経験も無い。その挙句、いかにもここ近年の風潮のように、常に気が散っているという有様では、なんというか、シーンとして切なさより救いの無さが目に付いてしまう。
九十九人が、その風潮に馴染んで生きるとしても、僕もいよいよ偏屈者か、例外の一人でありたいのだ。
指摘するまでも無いことだが、誰も彼もが携帯を持ち、自室にテレビを持つようになった。お笑いのブームがじりじりと続き、そのブームはなぜだろう、それぞれの芸人が極めて短い尺を演じる形で、次から次へと流れていく仕組みになっている。そのようなストーリーテリングで育てられる子供は、いよいよ二十分もある紙芝居など集中して見られないのではないだろうか。まして、その細切れのストーリーテリングを、聞き流すように見ながら、友人と携帯メールの、これまた短文のやりとりを、かじりついて交換するようなやり方では、集中力も持久力も、まっとうに高めて育てというのは初めから無理な話に思える。
古典落語もバーンスタインの指揮するショスタコビッチも、あるいは五十分の授業も、じっと聞けなくなるように、僕たちは今自分と次の世代を訓練している。仙人でもなければ、その弊害を受けていない人はいるまい。僕はその影響に抵抗しているのだ。何をもって抵抗するか。それはもちろん、志をもってだ。
目の前にいる人を観て、その声をよく聴く。そして、それ以外のことをしない。このことが、どれほど難しいことだろう。このことが実現できないあまり、恋人はケンカしたり、別れたり、傷つけあったり、必死になったりする。必死というのは、本当にその通りに必死で、やせがまんした笑顔の少女が、彼にちゃんと観てほしいあまり、似合わない化粧までして、高価な下着で彼の前に半泣きで、見栄も切れずに立ち尽くしたりしているのだ。僕もそれと同じように、裸であれこれしてくれる女の子に、俺のほう見ながらやってくれよと、真顔でマヌケな懇願をしているのだ。
なぜ、お互いにちゃんと観てくれないと、寂しいんだろうね。そこはよくわからない。よくわからないけれど、酔っ払ってやりまくるだけじゃ、僕たちは満足しないみたいだ。
そんなわけで、ヤリチンとヤリマンより、はるかに業の深い、ややこしい僕たちについて、反省した振りなどしながら、また次回……
俺の顔を、見ながらしゃぶってくれると、どうしようもなく、うれしいです。
[了]