No.126 場所に咲く恋
去る九月二十日(土)、第二十三回のパーティを開催した。参加人数は9人。パーティは、にぎやかだがどこか落ち着いた空気の中で進んで、活気があって、騒がしくなく、僕の大好きな雰囲気だった。これからもこのようであってくれれば、僕としては一番うれしい。女の子ちゃんたちは、みんなかわいかった。パーティに来る、ということだけで、なんだろう、その女の子ちゃんは根本的にかわいいような気がする。
これからもこのようであればいい、なんて言ったが、これからのことを考えてしまうのは僕たちの悪いくせだ。次回を予定したそのときまで、自分が生きているのかどうかは怪しいのだ。第二十三回が終わり、次は第二十四回なわけだが、このように第何回と数字をふるのも本当はよくない。回数を重ねたとて、別に何かか連続しているわけでもないのだしね。また次回も、やる予定で、きっとやるけれど、また次は新しい一回。
次がある、という発想は良くないね。受験に落ちる学生の典型的な思考で、次があると思うと人間は根本的なところがゆるむ。だらしなくなる。次回があるから今回を手抜きしていい、ということにはまったくならないのだけれど、ダメだ、僕たちは必ず手抜きをやる。難しい文章に出くわすと、また後で読み返せばいいや、と思って本腰を入れて読もうとしない。本腰を入れて読んで、わからなければああ俺の一生はこの一文を分からずじまいで終わった、と思うぐらいの覚悟でいられたらそれでいいのだけれど、なかなかそれができない。
いや、できないとか言ってないで、やればいいんだよな。
パーティに来てくれた女の子ちゃんに、かわいいね、って心を込めてちゃんと言えばよかった。
次回がもしあれば、言うようにする。
今日から僕は、あらゆることについて、次の機会なるものを考えない生きものになります。
あなたもそうなるといいね。
今ある一瞬を引き返さないと覚悟したら、一瞬一瞬がまるで、旅先で歩む石畳の一歩のように、素敵で貴重だもの。
縁を活発にするべきであって、
因を活発にするべきではない
僕は人並み以上に寂しがりやだった。そして女好きのスケベだった。今もそうだが、そんな僕として、人と人との「縁」が、もっと世の中活発になればいいのにな、と思っていた。そのことで、自分が文章を書く傍ら、パーティの企画を思いついた。実にしょうもないことだ。しかしこのしょうもないことを実現するために、僕はずいぶん頑張ったような気がする。パーティを開くことぐらいなんでもない。ラクにやれる人はラクにやれるだろう。でも僕は、この面倒くさがりだし、そんなに人付き合いもいいほうではないので、しょうもない気苦労が多かったのだ。そんなこんなで、パーティの企画は安定して実現することになって、ああよかったなあと僕は素直に喜んでいる。毎回、同じような手ごたえで、僕は喜んでいるのだ。バカなのかもしれない。
もし次回も無事に開催されたら、ぜひあなたにも来てもらいたい。何も目立って、あなたにメリットはないことだけれども。
出会いということについて考えてみる。出会いというのは、何かいやらしい単語だ。素敵な出会いを求めて、なんて言い出すと、なぜかその言い回しだけで寒気がする。寒気がする理由は、僕たちが本能的に、出会いとは縁が結ぶものだと知っているからだ。出会いは求めてはいけない。因縁説で言うと、求めるという積極的な動機は「因」であって縁ではない。このあたりのことに、僕は実は苦労した。出会い系サイトなるものほど、僕として毛嫌いするものは他に無い。出会いは縁なのだ。縁を活発にするべきであって、因を活発にするべきではない。
パーティに来てくれる人のほとんどが、まず初回参加の動機として、まあ暇つぶしという動機も無いではないのだけれど、単純にこの文章を書いている本人を、実物として一度見てみたい、という好奇心を動機にしている。その好奇心が、因縁で言えば「因」だ。その結果、なんだかんだで酒を飲むうち、隣の人の名前を覚え、向かいの人の出身地を覚える。それが「縁」だ。
僕は僕自身をネタにして、「因」の方向を逸らし、縁がうまく育つような環境を作りたかったのだ。恥ずかしい話だけれども、これは僕の寂しがりスケベの本音だ。パーティうんぬんについて、僕は他の意図をまったく持っていない。このしょうもないことが僕にとってはロマンでありました。今後とも、お付き合いよろしく。
僕たちは誰かと出会うとき、
実はその「場所」とも一緒に出会っている
何かしら、恋愛に役立ちそうな話もしておかなくてはならない。このことが実のところ、僕にとってはやっかいだ。本当は気持ちを込めて書けば書くほど、話は恋愛のノウハウ的なものから離れてしまう。そのあたりの葛藤を押し殺して、役立ちそうな話をするとすれば、例えば今回はパーティのこともあり、恋愛の「場所」ということについて話そう。
恋愛について、特に出会いについてはそうだけれども、「場所」というのはとても大事だ。場所にはそれぞれの歴史があり、歴史が刻まれた風景がある。それらは人の心に、あるいは心よりもっと深い部分に、知らず知らず影響している。まるでそれぞれの場所に、それぞれの霊力があるみたいにだ。「場所」の霊力。このことはよくよく知っておくべきだ。セーヌ川と荒川では霊力が違うように、小汚い居酒屋ではあなたと彼の縁が死んでしまうこともよくある。
例えば猫の場合。飼い猫を外に放していた人なら知っていることだと思うが、さんざんあなたに懐いた飼い猫であっても、外でばったり出くわしたなら、他人を見るような目であなたを見て、飼い猫は走って逃げてしまう。これは猫には典型的な現象で、犬にはない現象だけれども、これはどうしたことだろうか。このことは、猫が主観的な生きものであることに理由がある。猫はあくまで主観的に、あなたを愛しているのだ。
猫はよく、人でなく「家につく」と言われる。これは別に、猫が人間に冷たいのではなくて、猫はその主観性において、家の風景とあなたの存在を区別せずに認識しているということだ。家の風景ごとあなたを愛しているということでもある。それが外で会った場合は、家の風景が引き剥がされているので、猫にとってはあなたが何者なのか理解できないのだ。このことは犬にはない。
猫はそのほか、猫じゃらしで遊ぶことができる。これも猫にとっては、目の前の毛玉が動き回っている、と認識できるから遊べるのであって、犬にはない現象だ。犬の場合、その客観性から、「ご主人さまが道具を動かして遊んでくれている」という認識になってしまう。だから犬の場合、猫じゃらしに飛びつかず、ご主人さまに直接飛びついてしまう。それが主観性と客観性の違いだ。
人間の場合はどうだろう。人間の場合はもっと複雑かもしれないけれど、僕が経験として知っていることで言えば、「場所」はとにかく無視できない。僕たちは誰かと出会うとき、人とだけ出会っているようでいて、実はその「場所」とも一緒に出会っているのだ。
であれば、あなたにとっても、「場所」のセンスはとても大事なことになる。あなたと彼は、宙に浮いて出会っているわけではない。場所のセンスを持つこと、場所の霊力を感じ取るアンテナを立てること、このことはあなたにとってとても大事だ。女というのは、少し意識すれば、こういう能力について男よりもはるかに高い素質を発揮することが出来る。
まだ世慣れない若者がいて、少し気張ってあなたを週末、高級なフレンチにでも連れて行ったとしよう。その心意気をあなたはうれしく思うだろうが、実際現場でキョロキョロと落ち着きをなくす彼を見たら、あなたは不安にならずにいられないし、心ならずも彼に対して興ざめしてしまうだろう。そのような現象が起こるのも「場所」によるものだ。あなたは彼を見て、彼がその場所に根付いていないことをどうしても感じ取ってしまう。場所と彼とがなじんでいなければ、あなたは彼という存在を手ごたえをもって感じることができない。宙に浮いて、ふわふわ、よくわからない時間を過ごすことになってしまう。
あなたからデートの場所を指定できるときも、本当はそう。単に利便性がいい繁華街を選ぶくらいなら、思い切ってあなたの地元に呼び出したほうがいい。そしてあなたのお気に入りの散歩コースや、公園、本を読める喫茶店など、ごくありふれた場所にいく。あなたとして知る限りの、自分として愛せる、自分の根付いた霊力のある場所へ。
単純な話、恋愛をやりやすい場所と、やりにくい場所があるのだ。長距離貨物ばかりが走る国道の脇では、あなたは乾いた気持ちにならざるを得ない。高速道路のサービスエリアなら、見知らぬところへ飛んでいってしまおうという気分になれるし、気のいいおばちゃんの活躍する定食屋なら、二人で一緒に元いた自分に帰ろうという気分になれる。
映画にロケーションがあるように、恋愛にもロケーションがある。あなたの街の少年少女は、街のどこで告白をする? そのような霊力の目で街を歩けば、あなたの散歩はいつもよりぐっと楽しくなるよ。
次回パーティは、11月15日(土)。場所は多分同じで、高田馬場、さかえ通り商店街の一番奥。僕が足で探した場所だ。なかなか悪くないところだと、僕は思っているけれど、はたしてあなたにはどうだろう。
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いつもの場所で、新しく、あなたに会えることを楽しみにしています。
[了]