No.128 心此処に
心がどこかへ行ってしまう。目にした広告に、頭で考えた賢そうなことに、飛んでいって張り付いて帰ってこなくなる。僕はそのことが悔しくてならない。心さえ離さずにいれば満足なのに。
心ここにあらず、という。僕たちは心をどこかへ失っていても、そのまま生きていくことが可能だ。僕たちにはよく働く頭脳がある。こいつでなんとかやりくりできるのだ。
僕たちは普段から、頭脳ばかり使っている。それでやりくりできるから、手放した心はほったらかしだ。でも本当はそれがたまらなくイヤなのだ。心が帰ってこないのはどうしようもなく悲しい。それが普段悲しく感じられないのは、その悲しさを感じる心さえ、もはや手元に一時でも帰ってこなくなったからだ。
街中でモーツァルトのカセット・テープを流したとして、そんなものに耳を傾けて心を安らげる人はいるまい。街中では、心はもうそれどころではないのだ。弾みのついたボールみたいに、もうどこに行ったかわからないぐらい跳ね回っている。街中で見かける美女の広告に目を引かれ、そのうそ臭い表情に現代の根深い問題を垣間見る。狂った歩調のおじさんがすれ違って、狭い道を急加速するトラックにモラルの退廃を感じてささやかに怒る。そんなふうに心は引きずり回されているのだ。安息はどこにかあろう。
心がどこかへ行ってしまうのだ。僕は今、それをなんとか引っ掴んで、見失わないように必死でいる。書くときはそのことしか考えない。逆に僕は、心を手放したくないから、そのことの手段として、書くことを選んだように思う。心を手放さずにいられたら、もう僕はどう生きてもいいのだ。心を掴んだまま死ねたら、別に他には何も要らない。
学生の頃、木造の下宿で何もすることがない夏の夜、先生から一本のカセット・テープが届いた。水で薄めた青いインクで、流れるような万年筆の文字で、次の演奏会でやる楽曲です、と書いてあった。ケルビーニのレクイエムから、ディエス・イレ。その激しい曲の最後は純正調のAmenで締めくくられた。Amen! あの時心を手放さずにいられた幸せな僕は、その響きをヨーロッパの歴史の精髄として受け取ったように感じた。心があることは幸せだ。時にそのような体験は、実際に飛行機でヨーロッパに足を運ぶことよりも、遠い世界のことを深く体験させてくれる。
恋愛の話をしなくてはならない。恋愛なんて、うまくいかなくて当たり前だ。あなたは僕に抱かせてくれない。ただそれだけのことを、どう始末して心にて受け取るかだけが問題だ。
恋愛はうまくいかない。うまくいかなくてもなお輝いてなくてはいけない。
イライラしたり行き詰まったり、絶望めいた醒めた気持ちがあなたを苦しめることがあったとしたら、その問題の原因は簡単。
あなたが心をなくしているからだ。
ジョン・レノンもポール・サイモンも
同じようなことを歌った
ゆっくりゆっくり歩いてみた。杖を持った老婆にさえ追い抜かれるような速さで。
僕の住む町は路地がある。家から駅までコンビニまで、路地ばかりを抜けるふうになる。狭い道は人に馴れた野良猫ばかりで、僕は縁あってかこのようなところに住んでいるのだが、このことを幸運だと思っている。
ふと思いついて、ゆっくり歩いてみたのだ。やってみなさい、と誰かに教えられたような気もするが、そのときは無意識で。いつもの道を、進んでいるのかいないのかわからない、いやむしろ進んでいないと呼ぶべき速さで、とろとろ歩く。歩いてみた。すると自分のポンコツぶりがよく分かった。なんと、そのようにゆっくり歩こうとしているのに、全身がもどかしくてたまらないのだ。先へ先へ、別に急ぐ理由もないのに、せかせかといつもの速度で歩き出そうとする。
呆れるような笑いと共に、ああこれは心を失っているのだ、と気づいた。どのような速度で歩くかなんて、まさしく僕の心一つのことでしかない。ところが僕の心が行方不明になっているので、歩く速度さえガタピシガタピシひずむのだ。こんなので何ができるというのか。こんなので、何が生きていると言えるのか。
ゆっくりゆっくり歩いてみること。このことは、単純な面白さとして、また興味深い心理テストとして、あなたにもぜひ一度やってみることをおすすめする。僕たちは本当に、ゆっくり歩くことさえ困難になってしまっている。鞭で打たれたひねくれ馬みたいに、無意味に前へ行こうとする。
ゆっくりゆっくり歩いていると、やがて動作が心と折り合いをつける具合にして、心のほうが変化してくる。見落としていた色んなもの、自動販売機に照らされる、ここのアスファルトの具合が、映画のワンシーンに使えそうだなとか、冷たい風に夕餉の匂いが混じっているなとか。僕は久方、忘れていたこの町の愛らしさをそれによって思い出した。縁あってここに住めてよかったと思い―――
これは恋愛と同じだなと思った。
Slow down, you move too fast. ジョン・レノンもポール・サイモンも同じようなことを歌った。歩く速度のひとつだけで、僕たちは愛すべきものさえ見落としてしまう。前へ前へ。そう命令しているのはあなたの心なのか何なのか。
あの軍用ジープのところまで、ゆっくりゆっくり歩きましょう。心底退屈なスピードで、苔が生えるぐらいとろとろと。そのように僕があなたを誘ったら、あなたは僕を馬鹿にするかな。するだろうな。
でも僕は真剣だ。その馬鹿なことに付き合ってくれ。
心を手元に引っ掴んでいたら、
そんなしょうもないことはしない
あなたが女だったとしたら、多分僕はあなたが好きだ。あなたの裸とあなたの心が好きだ。あなたの裸と心が見たい。僕はそのためになら土下座でもしよう。それであなたの手放していた心が一時でも戻るとしたら、僕の土下座なんかどうでもいい安いものだ。
心のあるあなたと過ごせる時間は、何より胸に染み入るものだ。あなたのデキがいいか悪いか、そんなことは関係ない。やさしくなくてもかまわないし、僕のことが大嫌いでも結構だ。そんなことより何よりも、難しい問題に心を持っていかれないで。
僕たちの思考なんていい加減なものだ。また都会のどこかで、衆目を引く猟奇事件でも起こるとしよう。そのことを聞いたあなたは、ビビッと変なアンテナを立てて、そのことで現代の問題みたいなものを取り扱おうとする。考えるべき、重要なテーマがそこにあるような錯覚をする。
でも本当は、そんなことどうでもいいじゃないか。厚生省の役人さんや、警察官でもあるまいし。
気をつけよう、僕たちの心には共感する能力がある。だから、気が狂った何かに反応することがあったなら、それは知らないうちに自分の気が少し狂っているところに、共感による加速がかかったのだ。言い方を変えれば「血が騒いでいる」とも言える。人のケンカ沙汰を目の前にして、ムラムラっと血が騒ぐ人は、その人自身も暴力の傾向がある、それと同じことだ。
温和な老人に、ささくれ立った若者が、酔ってからんで迷惑をかけたとする。そのようなとき、なんだあのサイテーな人は、なんて感じてしまったら要注意。それはささくれ立っている自分が共感によって加速してしまったことによる現象だ。ささくれ立っていない人はそういう反応はしない。あの老人は、からまれたのに人相も変わらず、立派だ、自分もあのように老いたい、というような感じ方をする。
そんなわけで、僕たちの思考なんていい加減なものなのだ。理路整然と正道に立って考えているつもりで、所詮は心の共感に引きずり回されて考えている。頭に血が上って考えさせられているだけだ。心を手元に引っ掴んでいたら、そんなしょうもないことはしない。
このことは、ごめんなさい、痛烈な自戒として、僕は自分自身に言っているのであります。
そんなこんなで、心の話。心を手放さないことは大変だ。でも大変であっても、どうやらこれだけは必死こいてやるしかない。
季節の変わり目、縁があれば一緒に歩こう。とろとろ、とろとろ、誰も歩くことがない速さで。
そんなことして日が暮れたら、今度は朝になるまでキスしてアレして。
心しか、ここにあらず。
[了]