No.131 あなたへ、奇跡の人へ
友人のやるインディーズ・バンドのコンサートに行った。狭苦しい箱の中での演奏だったが、安酒を喰らい煙草を呑みながらであったから、その汗臭いストレスが逆に快適で愉快だった。ライブが終わり明け方ごろ、連れて行った女の子の、この少女はまだ顔がかわいいだけが取り柄なのだが、彼女の指先をあたためながら渋谷区を歩いた。音楽っていいよね、と彼女が感想めいて言うので、あれは音楽なんかじゃないよ、と僕はそっけなく応えた。彼女がきょとんとするので、僕は野暮ったい説明をした。音楽じゃなかったけど、よかったよ、グワーッと血が騒いだな、と僕は言った。彼女はフウムと唸って考え込むフリをしたが、ごきげんそうだった。かわいいだけの彼女はこのうっとうしい僕のことをなかなか嫌いにならない。僕もかわいいだけの彼女を、かわいいだけに嫌いにはなれそうにない。
縁あって機会もあって、僕は音楽をやる人というのと少し違う、音楽家と呼ぶべき人が歌うのを、すぐ近くで何度も聞いてきた。老いているはずの指揮者の先生が、チェコから帰ってきて開口一番、やっぱりヨーロッパの連中は違うわ、と声に若々しい賛嘆と苦笑をにじませて言った。水割りを飲んだ先生は酔いにまかせて、プッチーニの何とかいう歌曲をかすかに口ずさんだが、その途端に音楽が始まり、そのメロディに僕はゾクリと背筋を震わせた。グラスを拭いていたバーテンダーも、思わず手を止めて、さすが先生、と眼を剥いて肩をすくめた。音楽って何なんだろう。そのことを僕は説明できない。ただ僕はゾクリとする。その感覚を知っているし、その感覚を愛している。
汗臭く汚らしい箱の中で、洗練を拒否するような歌声を聴いた。それによって血が騒ぐ。それはとても楽しいことだ。一方で僕として頭の上がらぬ先生が、新聞を読む速度で楽譜を読み、膨大な和音の記憶を豊かに引きずり出しながら、口ずさむメロディに僕はゾクリとする。それは実に感動的なものだ。どちらが上だ、と優劣をつける気分は僕にはない。ただ僕はそれぞれのものに対してもう少し慎重でありたかった。いわゆる音楽は音楽家のものであっていい。年甲斐もなく、まだ大騒ぎが好きな友人は、いくらかベースギターを上達はしたものの、音楽家と呼ぶ気にはなれなかった。あいつは大騒ぎの名人といったところだ。
色んなものに、もう少しずつ慎重でありたい。スコッチとバーボンを区別なく飲むことに、僕はどうも寂しさを覚えるのだ。本当はもっとそれぞれに魅力があるものなのに。一人一人の女性の味わいが違うように、ひとつひとつのボトルの味わいはずいぶん違う、そのことを大切に、僕はしてゆきたい。その上で、それぞれのものについて、いいなぁ、と感動するなら感動してゆきたいのだ。
「究める」ということに興味がある。ひとつひとつの物事を、恐るべき慎重さによって、大切に見極めてゆくということ。大雑把にしないということ。ましてやその大雑把をもってして、知ったつもりにならないということ。
何も究めようとせず世界を毎日眺めるならば、これはなんと退屈なことだろう。スコッチとバーボンも区別がなく、モーツァルトとワーグナーの区別もなく、あのコのキスとあのコのキスも、区別がなく一緒くただ。そんな中で、酒と音楽と女について、知ったかぶりをして語るのはいかにも行き詰まった生き方だ。もっともっと、慎重でありたい。
世界は本当は、もっと色とりどりで豊かなのだ。それがそう見えないのは、僕たちが何をも究めておらず、そのそれぞれの味わいの違いを区別できていないからだ。
僕はたまに上野の美術館に行く。その美術館で、あくびをしている人はたくさん見る。でも今までに、名画の前に突っ伏して、感涙に咽んでいる人を見たことがない。それは名画が非力なのでは決してなく、僕たちの眼が鈍感であるからに過ぎない。
そんなことだから、誰もあなたの本当の味わいを見ようとしないし、あなたにはもっと色とりどりの、豊かな味わいがあるということを知ろうとしないのだ。
あなた自身もそうだ。
あなたは今の自分で思っているより、
はるかにすごいことができる
何事にも達人とか達者とか名人というものがいて、そのそれぞれは神業を持っている。神業というのは、要するに人間業じゃない、と感じられるほどのもので、眼前に突きつけられるまでは、そんなことできるわけがないと感じるものだ。
フレッド・アステアのダンスとか、デビッド・ロスのコインマジックとか、フジ子・ヘミングの弾くカンパネッラとか、ミスケンの組む連鎖とか、藤川の投げるストレートとか、すべてそうだ。どれもこれも神業で、「そんなバカな」という印象を受ける。しかしそんなバカなことが実際に出来てしまうのだから人間はすごい。
僕たちはそのそれぞれの技芸を見て、そんなバカなという印象を受けるわけだが、これは僕たちが根本的に人間の持ちうる能力の範囲を、初めから見損なっていることによる。だからその範囲を超えたものを見ると「そんなバカな」と感じるわけだ。僕たちは人間の能力を見損なっている。あなたはあなた自身の能力を、ここまでだろうと勝手に見損なっているわけだ。
究めるということは、その見立て見積もりの、もっと向こう側があるに違いないと信じることだ。それを信じずに、いくら努力を重ねたとしても、達人になることは決してない。自分にはジェームス・ブラウンのような声は決して出せまいと、そう決め付けていくらカラオケの練習をしても、それは単なるカラオケ上手のレベルで終わる。それは言わずもがな当たり前だ。自分で目指している範囲を超えて、自分が勝手に成長するわけがない。
だから、何かを究めようとする志は、人間の持つ可能性をはるかかなたに見据えるものであり、夢のあることなのだ。それはムリでしょ、と決め付けてかかる努力は、努力かもしれないが夢がない。そんなものを謙遜の美徳とは言わない。ただスケールがみみっちいだけだ。
そろそろあなた自身のことを思い出してほしいのだが、あなたは自分についてどう思っているのだろう。ただ何かをお上手になりたいのか、それとも何かしらの達人になりたいのか。女として、まあお上手ですねと言われたいのか、それとも女として何かしらの達人になりたいのか。
誰かを、自分を、ゾクリとさせたいのか。
人間にはそんなバカなというレベルの、ものすごいことができるものなのだ。あなたも例外ではなく、あなたは今の自分で思っているより、はるかにすごいことができる。あなたの見せる表情も、男に掛ける声も言葉も、歩く姿もキスもフェラチオも、騎乗位での腰の振り方もそのとき見せるウインクも、本当はもっと素敵なものにできるのだ。
僕が見てきた限り、結局ここが分水嶺のようだ。このことを自分として信じてゆくかどうか。自分はそんなものになれやしないと、そう決め付けてかかった人は、確かにそんなものにはなれやしなかった。決め付けてかからず夢を抱いて進んだ人は、何かしら他の人には持てない、ギラッと輝く何かを持つことになった。
女として達人になりたい。そう思うのであれば、究めるという思想を持つより他はない。達人になろうという気宇を持てず、それでも達人に引けを取らない旨味だけ吸い取りたいわと、そのように願うバランスの悪さはあまりいただけたものではない。
究めようとするしかないのだ。それ以外に豊かに生き、夢を持ち、毎日を楽しく満たす術はない。
何かを究めようとせず、今あるみみっちいやり方で、何とかしのいでいこうとする、そういう人との会話は退屈だ。自信がないのか若さがないのか知らないが、はるか向こうに行ける気がする、そう思えなければもう行き止まりだ。
彼に振り向いてもらう方法はありますか? もちろんそんな方法はない。それは歌を究めるつもりはないけど、人気歌手になれる方法はありますか、と聞いているのと同じだ。
究めようとする人と、そうでない人がいる。
世の中はただそれだけだ。
あなたの技芸は究めてゆけば奇跡になる
あなたの周りの友人を思い浮かべてみてほしい。モテるA子さんと、モテないB子さん。その二人を思い浮かべて、なぜA子さんのほうがB子さんよりモテるのか、その理由があなたにはわかるだろうか。
ここで「Aのほうがかわいいから」とか「Bは性格悪いから」とか、そのようにしかあなたの感性がレスポンスしないなら、それはあまりにお粗末というものだ。それだとあなたは、まったく人の奥行きを感じ取らずにいるということになる。二本のワインを並べて、こっちのほうが上等だから人気がある、というようなコメントをしているのと同じだ。
本当はもっと、色とりどりあるのだ。それぞれにもっと奥行きがあり、目に見えない背後の成り立ちがある。A子さんとB子さんの、それぞれが見せる表情、仕草、振る舞い、言葉遣い、発想、顔つきと体つき、気分の色合い、落ち着き方、あわて方、笑い方の明るさ、うなずく回数、視線を重ねる秒数、つま先の向き、肌の色や髪の毛の整え方、呼吸の深浅、声の響くポジション、すべてがそれぞれに違うはずだ。そしてそのそれぞれの現象には、それぞれ元となる内面的な心の現象が起こってもいるのだ。
そのようなことが感じ取れるようになってこそ、いろいろ人間というのが面白くなってくる。友人や恋人としてはA子かもしれないけれど、独立開業して一緒にやっていくパートナーとしてはB子を選ぶかもしれない、B子のほうが性格は悪いかもしれないけれど、A子より律儀で信用できるところがある、そういう視点も生まれてきたりする。
事実として、A子はモテて、B子はモテないわけだ。だからといって、かわいいA子とダメなB子というのではなく、もう少し、それぞれを慎重に見てゆきたい、と僕は思うのだ。友人であれ恋人であれ、ただ楽しくやるための相手として存在するのではない。友人も恋人も、そのそれぞれをただ深く味わうために付き合っているのだから。
「究める」ということに興味がある。究めるということは、物事の味わいを、その奥行きを、知り尽くしていくことにある。スコッチとバーボンの、モーツァルトとワーグナーの、A子とB子の、それぞれの味わいと奥行きを。
そして同時に、究めるということは、自分自身の味わいを知り尽くしていこうとすることでもある。自分が人に見せている表情はどんな味わいになっているか。声の掛け方、言葉の使い方、向けている態度、湧いてくる発想、キスをした後セックスをした後、あるいは帰り道を歩いている自分は、どんな味わいの中にいるか。
今僕たちは、誤解の中にいる。世界は割とつまらなくて、自分はしょうもない凡人だと思っている。
その誤解を解いて、目を覚ませ。まだあなたの知らないあなたの世界は本当はもっと素敵なものだし、まだあなたの知らないあなた自身も、本当はもっと素敵なものなのだ。
物事を究めていくと、そんなバカなというような、すごいことが人間にはできる。あなたの生きる目的は単純に、その奇跡に触れることだと言っていい。奇跡の音楽、奇跡の酒、奇跡の絵画、奇跡の人生。その味わいを感じてしびれると共に、あなたも奇跡の人となることだ。あなたの技芸は究めてゆけば奇跡になる。あなたの声も表情もキスもセックスも、究めるうち奇跡として人をしびれさせることができる。
そのことに向かわずにして、何に向かって生きるものか。つまらん、これ以外に胸躍るような人生などない。
人間も十年二十年と生きていくうち、同じ原材料で出来ているはずなのに、いつの間に差がつくやら、ギラッと光る人とそうでない人に分かれてくる。そのことが見えないようでは先行きは無い。あなたと同じようにのんびり生きている友人は、あなたの知らないうち、何かを究めて過ごしているのかもしれないぞ。
あなたも遅れを取らないことだ。しょうもない努力は止めて、早く究めるべき何かに没頭しなさい。
最近になって、僕としてもようやくのことだ。人とどう話せばいいのか、夜はどう寝ればいいのか、音楽はどう聴けばいいのか、少しずつわかってきた。歌声はどうやって出てくるものなのか、女はどう愛撫すべきなのか、呼吸はどのようにすべきなのか、ようやく少しずつわかってきた。文章は、どのように書くべきなのかということも。
究めるということに興味があって、そのことにしか興味がなくなってしまった。
あなたの道も、やがてはこれです。
一緒に奇跡を、やっていきましょう。
[了]