No.134 人を見る眼がぎらぎらり
腕相撲をするとき、相手の手を握るだけで、相手の強さがなんとなくわかる。華奢な感触だったり、頑強な感触だったりする。それと同じで、女の子の手を握ると、それだけでなんとなくそのコのセックスの感触が伝わってくる。エロくて繊細だったり、従順で朴訥だったりする。
このことをありふれたこととして見落とさずに確認したい。相手の手を握るだけで、腕相撲の強さがわかるというのはなんという超能力だろう。この超能力を使いこなせれば、人を見る、見抜くなんて簡単なことだ。ところが僕たちはこの超能力を普段は使わずにボーッとしている。なぜかというと、人と向き合うということをせずに、危機感のないまま日常を過ごしているからだ。
腕相撲をするとき、単なる遊びのそれとしても、とりあえずやりあうことはやりあうわけだ。そのことの緊張感が、僕たちのセンサーを解発する。そしてその超能力が発動するのだ。同じようなことはたとえば就職の面接などでもおこる。普段は目に留めても何も感じないようなオッサンであっても、面接官として対峙したときには、なんとも言えない手ごわさでその存在感が伝わってくることがある。
それは一言で言ってコミュニケーションだ。間違っても、インターネットその他の通信機器では伝播のしようがない、ある種の波動のコミュニケーションだ。このコミュニケーションに至るつもりがなければ、会って話す意味がない。また肌を重ねる意味もなくなってしまう。
僕たちは目の前に人を見ながら、その存在を受け取らずにいることができる。全身に備わったセンサーを、解発せず眠らせておくことができる。それはたとえば、テレビモニタの向こうに人を見ることと同じだ。僕たちは確かにテレビモニタの中の誰かの言葉を聞き取ることができるけれども、同時に聞き流して携帯電話をいじって遊ぶこともできる。よくファミリーレストランなどで暇をもてあましている若い人たちが、しゃべりながら手元の携帯電話をいじっている光景を見かけるが、このことが起こる仕組みは単に目の前にいるものに対峙せず、向き合わずにいることができるということによる。
だからといって、そんなことをしていたら無意味だ、と決め付けるつもりは僕にはない。テレビをつけないとさびしい夜もあるし、助手席で居眠りしながら車中の会話を聞き流すことが心地よいときもあるわけだ。何も難しい説教をしようというつもりはないが、ただコミュニケーションというのはこの二通りがあるのだということをここに示しておきたい。一つには、向き合いつながった状態で行われるコミュニケーション。もうひとつには、つながっていない状態で行われるコミュニケーション。
この二つのコミュニケーションはまったく異質で、それぞれを補完もしない、ただ別々のコミュニケーションだ。だからいくらインターネットで知り合って、メールのやりとりを何年間も続けたって、そのことで直接つながって行うコミュニケーションがよりよいものになるという保証は得られない。その手の話で、直接会ったら一撃で醒めた、ぜんぜん好きになれなかった、なんてことはいかにもよくある話だ。
このようにコミュニケーションには二通りあることを知って、それぞれについて熟達する、できればつながって行うコミュニケーションに、熟達すればすばらしいことだ。
念のため繰り返して言う、僕たちは人を目の前にしても、その人の存在を受け取らずにいることができる。全身のセンサーを解発せず眠らせておき、そのまま会話して手をつなぎ、さらには肌を重ねることもできるし、そのまま結婚することも可能だ。実際にそうして生きている人はいくらでもいる。そういう人は、誰とも向き合っていないというだけに留まらず、誰にも向き合ってもらえていない、ということの中を生きている。そうして漠然と不安がって生きているのだが、本人はそれが日常なのでその不安がどこからくるのか悟ることができない。こういうタイプの人で、僕は直接会って話すうち、なぜか相手がカタカタと身体を震わせ始めるのを何度か見た。まるで生まれて初めて、誰かに触れられてしまったというように。
あなたの全身、皮膚のすべてや、目や耳といったインターフェイスのそれぞれに、鋭敏なセンサーが仕込まれている。それを解発することで、あなたは人を見る、見抜くということの超能力を得る。その超能力でお互いの心を通わせるのが、本来僕たちが貴重に感じる「コミュニケーション」だ。このことが超能力ベースなので、いくら東大を出た高知能のオジサンとオバサンであっても、コミュニケーションが達者ということにはならないのだ。
まだ幼稚園にもいかない二歳か三歳の幼児がいて、あなたの目をじっと見てくるとき、その幼児はまだ子供でバカだから、何も受け取っていないと、あなたは思うか。そんなわけはなく、超能力に関しては彼らのほうが活発だ。彼らの眼は実に澄んで深くあり、それに見つめられるとむしろ僕たちが怯んでしまうことさえある。あれはセンサーを解発して超能力の中を生きている眼だ。動物の眼も同じ。
あなたが子供のころ好きだったおじちゃんやおばあちゃんは、あなたの超能力で判断した上で、あなたとして愛すべき者だった。それは今もなおあなたにとって、まぶしい記憶であるはずだ。
こんなこと初めてです、人に馴れない犬で、と飼い主のおばちゃんは感涙した
お前の洞察力は異常だ、と言われた。友人いわく、「人を見る眼がある、ということを逸脱してる、気持ち悪いぐらいだ」とのことだった。また友人は、もうそのことは自覚したほうがいい、とも言う。そのことについて今回は語ってみようと思った。これがつまらない自慢話に聞こえなければうれしい。
初対面の少女がいる。まだ会って話して数分というところだが、僕は明るい彼女の表情と振る舞いに、ある種の違和感を覚えた。彼女は絶世の美人というわけではないが、いかにも人に好かれそうなかわいい顔立ちをしていて、頭が良くて気も利く、困ったところのない十代の女の子だった。話すときは相手の目をしっかり見るし、育ちの良い雰囲気が全身から漂っている。まるで今日にでも家に連れて帰りたくなるような、素直なかわいらしさの女の子だった。しかし僕は、その彼女の仕草からなんとなく違和感を覚えた。ひょっとして彼女は、その何でもできる器用さと、人から無条件に愛される器量とで、逆に物足りなさを覚えているのではないか、という気がした。
「……人に褒められるのが、あまり好きじゃなかったりする?」
僕はいろいろ考えた挙句、そのように切り出してみた。少女は一瞬戸惑ったが、はい、そうなんです、なぜか最近は特に、と答えた。
彼女の振る舞いは、どの角度から見てもかわいらしい、実に上等な少女のそれだった。僕はそれに見とれると同時に、少女自身がその上等さに疑問を感じているような、躊躇のようなものを持っているように感じたのだ。かわいさが過ぎたり、環境が良すぎたり、器用さが過ぎたりすると、それによって自分を何かに投げ込むような機会が得られなくなることがある。何事もうまくやれてしまうのだ。そのため、グズグズな自分を晒すことによって、誰かと泥臭い人間関係を作る機会も得られなかったりすることが出てくる。そのあたりのことに、心当たりはないか、と僕は彼女に振ってみた。彼女は眼を丸くして、まったくそのとおりです、なぜわかるんですか、とまるで僕を占い師を見るような目で見ていた。友人はこのシーンに同席していたのである。
人を見る眼が、あるとかないとかいう。そのことについて、自分は優秀だと僕は自慢するつもりはないけれども、人によってどうやらその眼に見えているものは色々であるようだ。あなたの見ている「人」と僕の見ている「人」は違う、ということになる。僕の友人はこのことを指して、「お前といると、女の子のストライクゾーンが広がるというか、女の子のかわいいところをどんどん発見する」と言った。
どうやらこのあたりが、僕は一般的なそれからすると変り種らしい。僕が常々、女の子が好きだと感じ、またそのようにいつも嘯いているのは、僕からみた女の子が実際にかわいくてしょうがないからだ。
友人と共に体験したシーンを、もう少し回顧してみる。
渋谷区の一角に下町の面影を残す商店街があって、そこに蛍光灯の光量が足りないコンビニエンスストアがあった。僕と友人はそこで買い物をして、僕はそこにいたレジの店員さんについて、あのコはずいぶんかわいいな、と鼻の下を伸ばした。手を振ったら振り返してくれると思うぜ多分、と僕が言うと、そんなバカな、と友人は応えた。友人は、せいぜいおじぎして返すぐらいだろうと思っていたらしい。しかし僕が手を振ると、彼女は一瞬戸惑ったあと、照れくさそうに手を振り返してくれた。友人にとってこのシーンは感動的だったらしく、こんな少女がこの街にいるとは、としきりに首を傾げていた。友人は翌週には彼女を口説きそうな勢いだったが、やめとけよ、と僕はいさめた。彼女が手を振り返してくれたのは、彼女の不器用さによるものだったからだ。お前の想像してるかわいさと少し違うぞ、と僕が彼に警告すると、彼はムムムと唸った。
新宿区の公園で、柴犬を連れているおばちゃんを見つけた。柴犬にちょっかいを出してみると、柴犬はウーと唸った。友人は思わず手を引いたが、僕は柴犬ラッキーちゃんが、怒っているのではなく怖がっているのだということを見て取った。いくつかの表情を見ていると、男性に対して警戒心が強く、また自分の真上に来るものが怖いらしい。それを見て取った僕は、四つんばいになりラッキーちゃんより姿勢を低くして、ラッキーちゃんに擦り寄ってみた。するとラッキーちゃんは、緊張を解きはしないものの、戸惑いながらも唸るのをやめ、僕を必死に観察した。しばらく身体を摺り寄せると、ラッキーちゃんは僕の首筋をなめた。その様子を見て、こんなこと初めてです、人に馴れない犬で、と飼い主のおばちゃんは感涙した。僕はその場でぐいっと背を起こしてみせ、ラッキーちゃんが飛びのいて再びウーと唸るのを示してみせ、おそらく旦那さんか誰かが、高い位置から頭を叩いて叱ってるでしょう、それをラッキーちゃんは怖がってます、と伝えた。再び姿勢を低くして、ラッキーちゃんのよく見える視界の中から擦り寄ると、ラッキーちゃんは唸らない。僕は飼い主さんから犬用のおやつを少しもらい、ラッキーちゃんのリードを左右に引っ張って、左に走らせてはエサをやり、右に走らせてはエサをやる、ということを繰り返した。そのようにして、リードが引かれる手ごたえをベースにしてコミュニケーションが行われると、ラッキーちゃんは僕を友人として受け入れることができた。ラッキーちゃんはずっと人と仲良くしたがっていますよ、馴れない犬とかでは全然ないです、と僕は飼い主さんに説明した。これはなんでもない、明らかにラッキーちゃんは、始終そういう表情を示していたからだ。飼い主さんは、今日の出来事を主人にしっかり話します、と言って去っていったが、今頃ラッキーちゃんはどうしているだろうか。伸びやかにしていたらいいなと思う。このシーンも、友人は目撃していた。
「人を見る眼」というものがあるのだ。犬の話も混ざってしまったが、本質的には変わりない。この「見る眼」をもってすれば、世の中にかわいい女の子はウジャウジャいるし、動物たちの日々の表情はとても豊かだ。玄関先の掃除をしている寿司屋の大将はそれだけで感動的だったりするし、逆に大騒ぎしているクラブ・ハウスみたいなところに感動的なものは何一つなかったりすることもある。
「見る眼」を養うということ。伊万里焼もわからない僕たちが骨董店に入ってもそこには退屈なガラクタしかない。如来と菩薩の違いを知らない中学生が、仏閣を見学してもアクビが出る。それと同じように、人を見る眼を持たないままに、誰と会っても退屈なのだ。目の前にいる人から何も受け取らず、目を開いたまま眼を閉じていることができてしまうのだ。その閉じた眼のままであれこれと思考をめぐらせても、正しい道筋が見えてこようはずはない。
難しいことは言わない。ただ若い人、お前の洞察力は異常だとまだ言われたことのない人は、見えていないんだな、とだけ思っていればよろしい。後はただ、全身全霊を持って目の前の相手を感じ取ろうとするだけ。その態度の積み重ねは、あなたの人生の財産になるし、その態度を持たなければ、いずれ深刻な孤独に苦しむことになるだろう。
いかにも売り上げを持っていそうな、六本木のお姉ちゃんが通りすがる。眼のない男はそれを見てウヒョーと歓声を上げるだろう。僕はそれを見て、同じようにウヒョーと歓声を上げるのだ。少し気の利いたふうの男なら、なんだか冷たそうな女だけどな、と斜に構えてコメントする。僕ほどの変態になれば、冷たそうに見えるけれど、あれは強くあろうとがんばっているだけで、実は冷たくもなんともない、子猫が鳴いたら立ち止まってしまう顔だ、だから俺は大好きだぜと見る。
僕はそういう眼であなたを見ます。重ねた手のひらからはあなたのセックスの体温を。変態ですいません。でもあなたが大好きです。
風に揺れる柳をジッと観察していても、そこには何の違和感も出てこないが、人間の場合はそうではない
「眼を合わせると、すべて見透かされてしまいそうで……」
僕はこの台詞を何百回と聞いてきた。女の子ちゃんが眼を合わせてくれないのだ。僕が女の子と向き合って彼女を「見よう」とする変態的な熱心さに、おそらくは感応してのことだと思う。おおよそこういう感応のこと、先に言った超能力での交流のことについては、女の子のほうがカンがいい。女性はいつでも油断するとヤラれる存在なわけだから、カンがいいのは当たり前だとも言える。
そんなわけで、そのような「人を見る眼」がありうるのなら、あなたもその眼をもって人を見るのがもちろんよろしい。このことの具体的な現象というか、実際にはどのような現象で「人を見て」いるのかを、僕なりに説明してみようと思う。あなたがこれから人を見る眼を養うにして、その一助になればうれしい。人を見る眼といったものの、触れる肌や聞き取る声ももちろん同じ意味で受け取られなくてはならない。まあそれはわざわざ言うまでもないだろう。
まず相手と「向き合う」ということ。相手の態度がどのようであるかはさておいて、自分として相手に向き合うわけだ。そのときどうなるかというと、具体的にはこうキューッと、視界の中で相手の存在に意識が集まり、相手の存在が浮き上がってくるようになる。視界は狭くならずむしろ広がるぐらいなのだが、その世界の中で相対するのはその相手一人のみ、という具合になるのだ。その相手以外のすべては単なる背景になる。これは相手の態度によらずこの状態に入れる。通りすがりの人に対しても自分の中でこの現象を起こすことは可能だ。(たまに背後からこれをやると、クルッと振り向かれることがある。気のせいかもしれないが)
この状態を「向き合う」と僕は表現するが、この状態に入るためにはまず自分が落ち着いてリラックスしていることが必要だ。あわてていたり緊張しているときなどにはこの状態に入れない。たとえば不慣れな就職面接などで緊張してあわててしまったりしているときは、この状態に入らないまま自己PRをするハメになり、すべての態度と言葉が上っすべりになり、結果は不合格ということになる。逆に言えば、面接官はまずこの向き合うという状態に入れるか、そのことを見ているといえるだろう。横道にそれたが、このことも覚えておいて損はない。向き合う状態に入らなければ、本質的なコミュニケーション自体が発生しないのだ。
また、いわゆる悪徳商法や、あるいは巧妙なナンパ師なんかについても、この「向き合う」という状態に入り込む方法を、身につけて悪用していることが多い。なんでナンパなんかについていくのとか、悪徳商法にだまされる人の気が知れないとか、普段は誰でもそう思うものだが、実際の現場はそうではないのだ。向き合うという状態が発生したとき、先に言ったように「その世界の中で相対するのはその相手一人のみ」という状態になるのだ。だからいわゆる客観的な視点というか、常識が消えて通用しなくなってしまう。純粋に一対一のやり取りになるのだ。だから多くの人が本能的に、その向き合うという状態にまず入らないよう、徹底的に心を閉ざしてそこから逃げようとするわけだ。それは正しいやり方だし、熟達してくれば逆に向き合うことに入って、一対一のやりとりで相手をやりこめることもできるようになる。だからというべきか、僕は新聞その他のセールスを引き下がらせるのが得意だ。
さてそのようにして、向き合う状態に入ったら、次は「観察」という段階になる。お互いの関係が、会話すべき状態であるなら、向き合っただけで会話は自然に流れているから、特に何を話すべきとか何を聞き取るべきとかいうことはない。ただ眼においても耳においても、さらには皮膚感覚においても、すべてを感じ取り観察することになる。その中で、実に自然なかわいいところがあったり、美しいところがあったりするから、そのときはそれを楽しむ。この観察において大事なことは、「自分」をでしゃばらせないことだ。対象を観察するときに「自分」は要らない。相手が笑えば自分も自然に笑えばいい。これはミラーリングという現象でもあるが、人と向き合った状態で一方がたとえば手を上げれば、なんとなくこっちもあわせて手を上げたくなる。その自然な流れに乗っていればそれだけでいい。というか、自分がでしゃばらなければ自然とその流れに乗せられて運ばれていくはずだ。
そしてここからが面白いが、そうして純粋に観察をしていると、何かしら違和感を覚えることがあるはずだ。たとえば風に揺れる柳をジッと観察していても、そこには何の違和感も出てこないが、人間の場合はそうではない、何か奇妙な引っ掛かりが出てくるものだ。それは引きつって見える表情であったり、上ずって聞こえる声であったり、尖った理屈で聞こえる言葉だったりする。この違和感を大事にする。この違和感が相手を理解する手がかりになるし、よりコミュニケーションを深くしていく足がかりになる。たとえば、「彼の話をするとき、恋人のはずなのに、浮かない顔をするね」とか、「そこんところもう一度、ゆっくり話してくれ」とか、「話はわかるけど、なんだか悲しい気がする」とか、そういう切り返しで会話が深くなっていく。
人間は言うまでもなく、自然体であるときが一番気持ちいい。そして目の前にいる人間が、その違和感に気づいて、そこに弛緩剤を差し込むとき、それはその人にとっての救いになることがよくある。より人を自然体に、気持ちいい状態に導くパートナーになりうるということだ。もちろんこのことにもマナーとか、より良い弛緩剤の練り方とか色々と知恵が必要だが、原理としてはそういうことだ。コミュニケーションが人を励まし気持ちよくする原理はここにある。自然体である気持ちよさをお互いに楽しみ引き立てあい、違和感のあるところは弛緩剤を差し入れてより気持ちいい状態を作っていく。
観察において、違和感を見ていく。そしてこれも大事なことだが、違和感はただ違和感として感じられるだけで、その違和感が何から構成されているのかは知る由もない。僕たちが持っている超能力とはそういうことを知るテレパシーではないのだ。僕が友人から、いかに洞察力が気持ち悪いと言われていようが、その違和感が何からきているかというのは推測はできても読み取ることはできない。たとえば女の子ちゃんとセックスの話をして、そこに何かしらの違和感を覚えたとして、それがセックスに対する嫌悪によるものか、逆にセックスが好きでたまらないことによるものか、それはわからないのだ。
この違和感というのは、単純な意味においては、「何か言いたいことがある」ということだと見てもいい。たとえば毎日自分なりにがんばっていて楽しいですと言いながら、その表情に暗い違和感を覚えたならば、ああ他にも言いたいことがあるのだな、とまずはそのように受け取ればよろしい。一番大事なことは、その言葉をそのまま受け取って、満足している人なんだなとアッサリ決め付けてしまわないことだ。その言葉はタテマエであって、タテマエをタテマエとしてしっかり聞き取っておくことも大事だが、まだ奥行きがあるという違和感を取りこぼしてはいけない。そこを取りこぼさないために、僕たちはわざわざ面と向かって会話をしたりするのだから。
そのようにして観察の段階が過ぎたら、次は「提出」という段階になるだろうか。こちらからみたあなたはこのようでした、というレポートを提出する段階だ。動物の話をすると頬がゆるむね、動物が好きなんだねとか、サークル活動の話になると声音が変わるね、何か大変そうだと見受けたよとか。あるいは過去の恋愛の話について、まだエキサイトする感じが残っていたような気がしたけれど、それはまだ未練が残っているからなのか、それとも冷めやらぬ怒りが残っているからなのか、などという疑問を提出していく。そこからコミュニケーションは深くなってゆく。そうしてお互いがより自分の違和感に取り掛かり、より自然体になり気持ちよくなってゆけたらコミュニケーションは成功だ。
このことはとても大事なように思う。会話の中で議論が弾むこともあるけれど、議論が弾んだらコミュニケーションは「失敗」だ。議論というのはたいていの場合、お互いの違和感を拡大して主張していくことに過ぎず、人はゴキゲンになればなるほど議論ということに進まなくなる。議論なんてインターネットの掲示板でもわんさかやっているし、しょうもない夫婦喧嘩だって始まってすぐに議論が始まるのが見て取れよう。
コミュニケーションの本質は、そのようにしてお互いに向き合い、お互いがもっと気持ちよくなれたらいいな、という心においてこそ成り立つ。そのとき自分の中に、自覚できるほど違和感がゴリゴリにあると、そのことが後ろめたくて人は目をそらしてしまう。僕に眼を合わせてくれない女の子ちゃんや、面接で浮いて話してしまう人、腕相撲をするときに声を上ずらせてしまう人もそうだ。
僕に眼を合わせてくれない女の子ちゃんについては、単に僕が嫌われているのかもしれない。とにかく、向き合ってもらえないのは悲しいことだ。僕はそんなことで傷つくほどヤワではないけど、傷つく人は傷ついてしまうのかもしれない。
コミュニケーションは自分の見せ合いではない
小さい子供や動物たちは、心を閉ざす方法を知らない。目の前にあるものに心を向き合わせることしか知らないから、何かと大変であり、またいつもあのように澄んだ眼をしている。
公園などでよく見かける光景として、小さい子供に大きなレトリバーなどが駆け寄り、子供がウッと驚いて直後ワーンと泣き出したりすることがあるが、僕の見方としてはあれは子供が「怖がって」泣いているというのと少し違うように思う。大きなレトリバーが突然やってきて、その全身を幼子に向き合わせるから、それを受け取った幼子は、怖いというよりその存在の勢いにショックを受けてパニックになってしまうのだ。その意味ではびっくりして泣いていると見るほうが正しいように思う。先に言ったように、何かと「向き合う」という現象が発生したとき、その視界の中にはその相手だけが存在し、その他のすべては単なる背景になるのだ。見慣れていた公園の景色がすっとんで、目の前にあるのは全身に躍動感あふれる大きなワンちゃんだけ、ということに突然なったら幼子は当然びっくりする。怖がるヒマさえない、というのが幼子の側の実際だろう。
人と人とが向き合うということ、この現象が確かにあるとして、コミュニケーションの全般を見渡してみれば、いろんなことが改めて正しく見直されてくる。たとえば先に言ったように、議論が始まったらコミュニケーションは失敗だということ。さらには何か共通の話題があったとして、○○っていいよね、みたいな話が盛り上がったとして、そのことはコミュニケーションになっているかというと実はなっていなかったりするということ。それはあくまで社交としての触れ合いだ。もちろん社交に意味がないわけではないけれども、ここで話している向き合うという現象とは意味が違う。
いわゆる会話が弾んでいる状態は、それだけではコミュニケーションになっているとは言えないのだ。たとえば友人が主催している飲み会とかインターネットで開催告知しているパーティなどに参加してみればよくわかる。そういう飲み会に慣れた者が集まれば、ひとまずその場は大いに盛り上がるものだ。ところが不思議に、どれだけその場が盛り上がったとしても、その中で人と人との絆が得られるかというとそうではない。三日もすればその大騒ぎの印象も薄れ、一人一人の顔や名前を忘れていく。これはいいとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。あくまでそこでの大騒ぎは、知り合うための「きっかけ」でしかない。もちろんそのきっかけも大事なものだから、それをして無意味だと僕は言うつもりはまったくない。
このあたりのことをざっくり言うと、結局「コミュニケーションは意見交換ではない」ということになるし、「コミュニケーションは自己主張のやりあいではない」「コミュニケーションは自分の見せ合いではない」ということになる。会話が交わされて言葉が交換されているとき、それが「意見」とか「主張」とか「面白い人」としてそこに現れたとしたら、それはコミュニケーションが成立していないから、そのような他人めいた響きのものになってしまうのだ。
自分の意見をいくら述べてもコミュニケーションにはならない。自分をいくら見せてもダメだし、相手の意見をいくら聞いても、やはりコミュニケーションにはならない。
このことについて、あなたの思い出を検証してみてほしいと思う。あなたにも、会うなりいきなり他人ではないような手ごたえで感じられた人が今までに何人かいたと思うが、彼らは能弁だったか。彼らの「意見」や「主張」を思い出そうとしたとして、あなたはそれを思い出せるか。
あなたにとってその人の存在は、ただ「手ごたえ」としてしか残っていないはずだ。
人と手をつないだとき、実際にその手のひらに「手ごたえ」が得られるように、心をつないだときも、心に「手ごたえ」が残るのだ。だからこそ僕たちは、物言わぬ犬でも家族の一員にすることができるし、言葉の少ない女の子からもその人柄を感じ取ることができる。
何も難しいことはない、コミュニケーションとはそういう現象だ。まず向き合うこと、観察すること、一段落したら提出すること。それができないやつをバカだと僕は言うつもりはない。ただ本来あるべきやり方を、ここにに示しておきたいと思った。
「なぜパッと見ただけで、寝ていいか悪いかもわからないの?」
初めてのデートでも、あるいは出会ってすぐにでも、セックスを許す女性がいる。そのことは一般的にダメダメとされているが、もちろんそれをダメとする根拠は何もない。いいか悪いかの議論はどうでもいいのでここではその声は無視しよう。
すぐに男と寝る女性を僕は何人も見てきた。体験してきたということでもあるが、もちろんそれを自慢話にしたり問題提起のネタにしたりするつもりはない。ただそのようなタイプの女性にはいろんなタイプがいた。もちろん精神のある部分が決壊していて、それなしでは過ごせないというような、始終酔っ払いのようなタイプもいたが、さすがにそのようなタイプとは僕は交わりを断ってきた。単純に怖いからだ。そういうタイプの話は、論外として取り扱わない。
男とすぐ寝てしまうタイプのひとつに、皮膚感覚が優れているゆえに、そういう流れになってしまう、というタイプがある。いわゆる「人を見る眼」があるタイプで、その眼が優れているがゆえに、目の前の人について「この人と寝ても大丈夫」ということが出会ってすぐにでもわかってしまうのだ。このことに根本的なエロさが加わると、男とすぐ寝てしまうタイプになる。この手のタイプは、実際にそのようにして男と寝ても、実際「大丈夫」のまま生きていけたりする。男とすぐ寝る自分について、世間的なイメージから少し後ろめたさを覚えていたりするけれども、実際結果としては大丈夫なわけで、まあいいかというふうにあっけらかんとして過ごしている。またこのタイプは、根本的にコミュニケーション能力が高いため、そのように放埓を過ごしながらも、共に生きていくパートナーを得ることに不自由しない。ある意味で、天然の達人みたいなところがあるわけで、本人は気楽にやっているだけなのに、最終的に勝ってしまうタイプだ。
一方で、すぐ寝てはダメだと思いながら、なぜかいつもそういう流れになってしまい、拒みきれずアーアとなるタイプがいる。このタイプは意外なことに、オクテで自分に自信のないタイプが多い。自信がないのに、根本的に人懐こく、やはり「人を見る眼」は確かにあってコミュニケーション能力が高いので、そういう流れになってしまうのだ。
どういうことかというと、まず自信がないために、相手を目の前にして向き合って、そこで会話やその他のやりとりをすることに尻込みしてしまうのだ。視線を逸らして照れ笑いしてしまう、というような様相を見せる。にもかかわらず、根本的に人懐こく、コミュニケーション能力は高いので、相手とつながろうとする気持ちは高く、そのことを肉体的接触で行ってしまう。具体的には、会話するときにはうつむいて照れ笑いしてばかりなのに、手をつなぐとその手の表情がすごく愛情豊かなのだ。相手の眼を見られない分、また言葉をうまく使えない分、触れた肌の部分で大胆に応答する。このタイプは十代ぐらいの若い女の子に多い。人と向き合って会話してつながるための精神的な足腰がまだできていないからだ。
このタイプは、自分をいわゆる「ヤリマン」であるとして、自己嫌悪することが多い。またその足腰の不安定さが逆に扇情的すぎて男性を不安にし、男性を夢中にさせる一方で、彼氏彼女としてお付き合いしていくということには敬遠されることが多い。そうすると本人は、都合のいい女としてヤラれているだけという気分になり、ますます落ち込んでいったりする。また多くの場合このタイプは、途中で誰とも寝ないように心がけて自己変革を目指すが、その道筋はたいていうまくいかない。職に就いたり大学に入ったりして、その中で人と対話することの自信を身につければ、要するに足腰が鍛えられれば、おおよそこのタイプの苦悩は解決する。
「人を見る眼」が人それぞれ度合いが違うという話、そしてコミュニケーションの本質について話をしてきたが、そのことはこのようにセックスのありようにも個人差として表れてくるわけだ。大雑把な言い方をすると、人を見る眼がない人は男とすぐ寝るべきではないし、人を見る眼がある人が男とすぐ寝るのを見て、それをけしからんと横槍を入れるのも筋違いということになる。
男とすぐ寝るということについて、具体的に言うと、たとえば終電を乗り過ごした駅のホームで眼が合った、それだけで自己紹介もなく、無駄話をしながらホテルに行ってしまう、というようなことがある。たまにこういうことを、武勇伝めいて自慢話で聞かされることがあるが、僕はこの手の自慢がなぜ自慢になるのかわからない。こんなことは、はっきりいってありふれているからだ。それぐらい、人を見る眼をしっかり持っている女の子はいるわけで、その女の子は決して口に出しては言わないけれど、内心ではうっすらこのようにさえ思っている。
「なぜパッと見ただけで、寝ていいか悪いかもわからないの?」
繰り返すが、こういうことは別に珍しい話ではない。ありふれている話だ。
この話を裏側から見て、セックスに縁のない女性についても考えてみることにしよう。男とすぐ寝るタイプの裏側、男となかなか寝ないタイプの話。これはひとつには、単に人を見る眼がないということが考えられる。人を見る眼がないので、目の前にいる人を感じ取ることができない。寝ていいか悪いかもわからないので、とりあえずデートを重ねて意見交換などしてみて、手探りしてみる。しかし先に言ったように意見交換はコミュニケーションではないので、いつまでたってもつながった感覚は得られず、もっとつながりましょうということで、お互い裸になり抱き合うような流れも出てこない。その中でさらに、セックスをせずに生きているのも不自然なことだと教えられているから、そのまま教えられたように、「付き合っている」「恋人と」「愛してるから」「セックスをする」という手続きを踏んで、首を傾げながら一応セックスをする。
なんだか誰かに怒られそうな気がしてきて恐縮だが、このタイプは男と向き合いつながることが薄い分、男性と交友することはむしろ平均より熱心で活発だったりする。そこで意見交換などを繰り返して、誰かと理解し合おうとするわけだ。その様は一見溌剌としていて、都会的で洗練されて見えたりするので、なんとなく「モテる」タイプのように見える。ところがこのタイプは、モテているといえばモテているのだが、実際のところは男とつながって愛し合う機会がほとんどなく、さびしい思いをしていたりする。このタイプはざっくり言うとたくさんの男を「見学」してまわっており、そのうち男に口説かれることを面倒くさく感じ始めるのがひとつのパターンであるようだ。
もうひとつのパターンとしては、人を見る眼、コミュニケーション能力は高いものの、皮膚や肉体全体を通して行うそれより、向き合い会話やその他で行うそれのほうが優秀で、それによってセックスに縁遠くなるというタイプがある。極端な場合は、本物の宗教者などがそれではないだろうか。会話その他で行うコミュニケーション能力が高すぎるゆえ、肌を重ねることの出番がない、という様相になる。これはたとえば、前半で話した何でも器用にできる上等な女の子、などによく見られるパターンだ。見つめあい、話している間は実につながって感じられるのに、手をつないだりすると馴れておらず、ウーンと空気が滞って、つながっていたものが切断されてしまう。この現象はまた、根本的にセックスはいけないことです、と教えている世間一般の風潮もあるだろう。精神的なつながりより肉体的なつながりのほうを軽視するように教えられているから、肉体的なつながりが始まろうとするとき、そこに超能力を開くことを拒否してしまうのだ。こういうタイプは内心でレイプやSMに興味を持つことが多い。自分を不可抗力の場面に置くことをイメージすることで、「いけないこと」というリミッターから自由になろうとするのだ。いわゆるレイプ願望というものだが、これはもちろん女性がそのままレイプされることを望んでいるということではない。そういうイメージに「刺激を受ける」というだけのことだ。男性諸君は早とちりしないように。男が殺し屋にイメージとしてあこがれるのと同じ。レイプは重罪です。
あともう一つ、人を見る眼がない人のパターンとしては、典型的な「年増のイケメン好き」というのがある。これもまた誰かに怒られそうで怖いが、これも人を見る眼がない人の典型的なパターンだ。この仕組みは簡単で、人を見る眼がないために、ごく単純に造形的な美醜だけに魅力の有無を見て取るというだけのこと。この手のオバサンは、さすが人を見る眼というか物事を見る眼がないだけあって、イケメンと流行り物とブランド物だけが好きで、なぜかいつも傍若無人に元気いっぱいである。実家にある漆塗りの箱をゴミ箱に捨て、アールヌーボーを意識した羽の生えたインチキデザインのものを買ってきて喜ぶのがこのタイプだ。ひどい言い方で心苦しいが、人を見る眼、物を見る眼がないということが、行き着くと本当にそういう具合になる。このことはもちろん男でもいる。なんだかんだいっても、所詮男も女も顔でしょ、というようなことを吹聴し、それをして自分は正直者だと思っている。もちろん本人にとっては正直なわけだが、これはまったく救いがない。本人は毎日丁寧に眉毛の手入れをしているが、顔つきそのものは完全にネジの外れたものになってしまっている。
このように、人を見る眼からコミュニケーションに至り、それがいわゆる性格やライフスタイルにまで伝播してくわけだが、このことは例を挙げるとキリがない。このことにアドバイスなんてしようもないが、とにかく人を見る眼ありきということだ。その中で、あまり会話その他のやりとりだけに達者になるのは上策ではないかもしれない。
たまには照れくさくしてうつむいて、手のひらや指先から扇情の超能力を出すのもいい。向き合ってよくよく観察できたら、欲情させるタイミングも自然に見えてくるものだよ。
向き合えば、相手に触れることができるし、相手に触れれば、それだけで相手の感触がわかる、その当たり前が超能力
人を見る眼というものがあり、それは人と向き合うという現象の中で、超能力のように発揮される能力だ。コミュニケーションはここから始まるから、なかなか単純な理屈でどうこうしなさいと説明できない。向き合うことをしない人、向き合いつながることを忘れた人は、永遠にコミュニケーションはできなくなる、ただそれだけのことが事実としてある。また超能力の有無については、これだけは心配しなくていい、誰でもが生きてある以上、その超能力を持たない人はいない。ただその超能力を信じず、理屈で押し込めて眠らせてしまわない限りは。
今回はずいぶん長い話になってしまった。向き合うって何だっけと、コミュニケーションってなんだっけと、そう思えてきたらさしあたり、幼子のまっすぐな視線を思い出せばよろしい。向き合うというのはああいうこと。意識がキューッと相手に集まり、世界に相手だけが浮かび上がり、その他のすべては背景になる。その状態に入れば、相手に触れることができるし、相手に触れれば、それだけで相手の感触がわかる。その当たり前が超能力。
話をわかりやすくするために、友人の言を借りよう。あなたの「人を見る眼」なんて、まだまだ初心者のそれであって、僕の変態的なそれから見れば、話にならないお粗末なのだ。いい人がいないとか彼のことがわからないとか、そんな話のずいぶん前に、「人を見る眼がないんだな」ということを自分として捉えておくのがいい。僕の能力の実際はともかく、その捉え方はあなたを間違ったほうへはやらない。
今日も明日もあなたの前に、いろんな人が立つだろう。あなたはその人をどこまで看て取ることができますか。いやあなかなか難しい。僕にしてからが、ようやく最近眼の曇りが減ってきたと、少しは感じられる程度のところだ。もっと多くが見えるはず。まだまだ向き合い方の肚が据わっていないのだと、むしろますます感じるようになった。
世の中にはもっとかわいい女の子の、かわいいところがたくさんあるはず。そのためならば、人を見る眼をぎらぎらり。
いつかあなたと裸で向き合えるときがありますように。
ではでは、また。
[了]