No.135 少女よお金で色を売れ
「なァ、女中さん、あんたを買わせてくれないか」
男が大真面目な顔でそのように言うものだから、百合子はハァ、と気の無い返事をしてしまった。金は、十万位しか、包めないんだが、と男は申し訳なさそうに言う。
男が逗留する最後の夜であった。新幹線が隣駅に停まるようになり、割を食う形でさびれはじめた温泉街に、男はどこか逃げ込むようにして、この旅館にやってきたのだった。
あんたの、その、清潔な物腰と、薄くてきれいな唇がたまらなく好きでね、悪い。男はそう言って照れくさそうに笑ったが、冗談で言っているわけではなさそうだった。百合子は思いがけない申し込みを受け、驚くべきだと自分で思ったのだったが、男が落ち着いているのに引きつられて、すっかり落ち着いたままであった。
「十万円も出して、大丈夫なんですか」
百合子が冗談めかしてそう訊いてしまったのは、そのことの相場など知ってか知らずか、十万円はもらいすぎだ、と思ったからだと、百合子は後になって気づいた。ウン、十万が精一杯だし、それで十分とは思っていないよ、と男は答えた。こういうのはサ、いくら出しても十分ってことはないものだけどね、と男が言うのを聞き、もっともだ、と百合子は思った。
布団を抱えてリネン室に向かう暗い廊下で、百合子は男の申し出について考えた。十万円という金額は、百合子にはどうでもいいことであった。父が先日、役所との交渉で、農地を宅地として転売することに許可を得て、ぜいたくをしなければ暫くはゆとりある生活ができる見込みであった。であれば断ればいい話なのに、何を迷っているかといえば、百合子が自分の心情を探ったところ、断ったら悪い、男に気の毒だ、と感じているようであった。男はそれだけ真面目であったし、なぜかそのことは百合子には不快ではなかった。
「お金をもらって、服を脱ぐのは、どんな気分かしらね」
百合子がそう一人ごちて、その場面を想像してみると、血に慣れない液が体内に湧き出るようで、百合子はドキリとした。わたしちゃんとやれるのかしら、と不安にもなった。男に十万円も出させておいて、まさかぼうっと寝転がっているだけで済ませるわけにはいかない。精一杯のことをさせてもらうにしても、それで男を満足させられるかどうか、百合子には自信がなかった。
百合子は男のことを嫌いではなかった。人に言えない仕事をしている、その雰囲気は確かにあるものの、陽気で歪んだところがなく、乱暴をするような人には見えなかった。実用的に引き締まって見える体躯は、女として無性に尊敬するところもある。わたしは例えば、素裸の上に客用の浴衣を羽織り、あの人の前に立つのだろうか。裸を見せてよ、彼は求めるかもしれない。わたしは彼の視線に晒されながら、恥ずかしさに耐え、浴衣を脱ぎ落とすしかない。男がその鑑賞を満足させるまで、わたしは蛍光灯の下に立ち続ける。買われた女として、抱き寄せられるのを待ちながら……
いやだ、わたし、すっかりときめいてしまっているわ。そのことを自覚して、百合子は一人頬を赤らめほくそ笑んだ。見慣れたはずの旅館の風景、また窓の外に満ちる夜の大気が、いつにない質感とスリルを持って百合子を包みくるようであった。百合子はわけもなくスキップして歩きたく感じた。そんな自由な気分は、ずいぶん久しぶりのものであった。旅館はこの日、いつもより静かであった。
女が女として健全に生きるためには、何かしら娼婦的に生きる部分を持たなくてはならない
日本人女性には、娼婦への憧れ、娼婦願望がある。このことを仮説として、今回は話をしたい。
日本人女性に娼婦への憧れがあったとして、それが本当なのかどうかは、僕は男性なのでわからない。さらに僕は日本人で、外国の事情にも明るくないので、外国ではどうなのかもよく知らない。要するにまったく論理的な強さのない、あくまで「仮説」ということなのだが、このことをあなたに論駁する気分でなく、フムフムと面白い談話を聞く気分で聞いてもらえたらありがたいと思う。
日本人女性には、すなわちあなたには、娼婦願望がある。あなたの中に、娼婦になりたがっている女が住んでいる。この部分を生かすか殺すかで、女としてのありようは変わってくる。もちろんすぐさま娼婦になればいいということではなく、性についての心の多様性について示すつもりで話したい。あなたは娼婦という存在をどう思うか。無関心か、下衆と思うか、尊敬するか、怖いと感じるか。
娼婦とは、言い方を買えれば売春婦であり、売春というとものすごく悪いことのイメージがある。そのイメージを和らげるために、冒頭にその売春のシーン、いわゆる女を買うとか売るとかの話を創作してみた。この創作話の時点で吐き気がするような方は今回の話に縁が無いだろう。ただ実際僕の知る限り、こういう話があったとして、どちらかといえば興味深く、その手の話を知りたがる女性が多いように思うのだ。それだけでも、女性は娼婦という存在に無関心ではいられないことの証左だと思う。男が任侠や殺し屋にある種の憧れを抱かざるを得ないことのように、女性は娼婦に何かしらの憧れを抱いているのだ。
あくまで仮説として話をしている。僕の仮説においては、女性はその内なる娼婦願望を、何かしらの形で生かしてやることで、女としての自信を、歪めずいきいきとしたものとして持つことができる。また、そのような願望があるということを知らぬまま、放置して生きてゆくと、いずれその娼婦願望に足をとられ、思わぬ転倒をすることになる。その意味で、女が女として健全に生きるためには、何かしら娼婦的に生きる部分を持たなくてはならないということだ。僕は今回の話を、そのことへの意図から書きたいと思った。あなたが女として健全な自信を持って生きてゆけるように。思いがけない転倒をして、しんどい混乱に引き込まれないように。
このことについて話すのに、言葉のイメージや概念の感触は見事にバラバラになっている。娼婦や遊女というとカッコいいイメージと感じる人が多いが、売春やフーゾクというといかがわしいイメージと感じる人が多い。女郎や夜鷹というと「何それ」ということにもなるようだ。まずはこのあたりのことを整理したいと思う。整理してゆくうちにわかるが、まず一般的なイメージは見事に無茶苦茶で、これは多くの女性を混乱させている。どこから手をつけて説明するか困惑するぐらいだ。まずいわゆる「売春防止法」から話をしようか。売春防止法において、百合子は処罰の対象になるか。もちろん対象になるわけがない。相手の男はどうかというと、もちろん処罰の対象になんかならないのだ。
売春は犯罪ではない
これは純粋に法律の話で、売春もしくは買春することで、法的に処罰を受けることは「ない」。売春防止法はあくまで防止法であって禁止法ではないのだ。売春防止法には「売買春をしてはいけない」という条文があるが、それについての罰則は規定されていない。事実上、売春は法的に認められているのだ。法的には、公序良俗違反ということで、まあナンクセをつけることはできるかもしれないし、また十八歳未満ということになれば条例などで別のルールが発生するのだが、とにかく原則として売春は犯罪ではないのだ。これは売る側も買う側もである。
売春防止法は、その売春を悪辣に斡旋したり管理したりする者を処罰するための法律だ。もともと売春防止法の理念として、売春婦に必要なのは処罰ではなくて救済だ、という理念がある。売春婦は「気の毒にそうならざるを得なかった」というケースが多いとして、それを処罰の対象にするのは筋違いだという話である。まあそのあたりは豆知識になるが、とにもかくにも売春は犯罪ではないということ。このことからして、誤解している人は思いがけず多いものだ。
次に、いわゆる今の日本で流通している「フーゾク」、これについて説明する。僕自身、恥ずかしながらそういうところに行ったことがないので、偉そうに講釈するのは気が引けるのだが、このあたりのことは男性向けの成人誌を読んでいれば誰でもわかることだ。
・ソープランド、ホテトル
これらは挿入行為、いわゆる「本番」があるもの。ソープは店舗に客が足を運ぶ形式。ホテトルは女性がホテルまで出張する形式で、電話ボックスにビラが貼ってあるのはこれ。ホテトルの「トル」はもともと昔の「トルコ風呂」という呼称から由来している。ホテトルは単純な性交渉を内容とし、ソープにはソープランド特有の文化というか、いろんなプレイスタイルがある。また「デートクラブ」と呼称しながら、内容は実質ホテトルだ、という営業形態もある。
・ヘルス、イメクラ
これらは「本番」のないもの。一般にオーラルもしくは擬似性交の技術(素股)で男性を射精に導くサービスになる。イメクラはヘルスにコスプレやシチュエーションプレイが加味されたもの。また出張型のヘルスも存在しており、それらはホテヘル、あるいはデリヘル(デリバリーヘルス)と呼ばれる。
・セクキャバ、ピンサロ
これらの呼称はあいまいで、地域によって実態は異なることが多いが、おおよそセクキャバというのは男性の射精なしのサロン。下着姿等で女性が接待し、客はそれに「おさわり」ができたりできなかったりする。一方ピンサロは、閉鎖性を高く並べた座席に座り、お酒を飲んだりしながら、女性が主にオーラルで男性を射精に導くというもの。本番は通常無いが、例外的にあるところもあるらしい。
・美人クラブ、愛人バンク
一般に公開されない、財界人や政治家などの愛人候補が所属する組織。組織というよりは単なる口コミのネットワークに近いと思われる。グラビアアイドルやテレビタレント、ファッションモデルを目指す者が所属して、こちらからはパトロンとコネを得ようと意図する。運営の実態がどのようであるのかは僕も詳しく知らない。女性の側を教育して、引き合わせてデートさせて、その後はその二人しだいである、というように聞いた。アダルトビデオの女優を、高額でお買い上げして引退させて、妾(めかけ)として囲う、というようなこともあるらしい。風俗というのとは少し違うが、便宜上ここに記載した。
・芸妓(げいぎ)、芸者、芸子、舞妓(まいこ)
これらはすべて性的なサービスを行う者ではない。歌や踊りの芸を売る者だ。地方の歓楽街に行くと、芸妓とは名ばかりの、ホステス兼娼婦の芸妓がいるが、それは芸妓という表現を借りているだけに過ぎない。芸妓も芸者も芸子もすべて同じ意味を持つ言葉だが、芸妓は国語的呼称で、芸者は東京方面での呼称、芸子は大阪・京都方面での呼称になる。また舞妓は芸子の見習いである。これらが性的なサービスをする者と誤解されがちなのは、地方の歓楽街にそういう亜種が実際にあるのと、芸妓がその精神として「旦那様に尽くす」というスタイルを持っていることと、また過去に芸妓から女郎へ転落して身売りするケースが典型的に多かったからだ。
これが現在流通している風俗の形態だ。いわゆる単純な売春というのとはずいぶん様相が違う。
これらの多岐にわたる風俗があったとして、冒頭に示した百合子女史との違いを明らかに示しておきたい。百合子の場合は、申し込みを受けるか受けないかは百合子自身に決定権がある。気に入らない場合は断ればいい。もともとの売春とはそういうもので、今でも上野あたりで立っている街娼はそうだ。
一方で風俗産業に勤める女性は、自分が指名されると拒否する権利が無い。よほど劣悪な様相の客であれば、「知り合いなので」と嘘をついて逃げたり、極端に不潔な場合などは店側として断ることがあるらしいが、基本的に女性の側から選り好みする余地は与えられていない。
その意味で、風俗産業に勤める女性は、単なる売春よりはるかにハードだ。だから僕は、もしあなたが百合子のように売春をしたとしても、そのことを咎めるつもりはあまりないが、もしあなたが風俗勤めに興味を持ったら、それはしんどいぞ、やめとけよ、と警告したいと思う。
50年前、遊郭の文化が破壊されたことは、果たして苦界の女性たちを救ったのかどうか
江戸時代には「遊郭」があったという。本当は安土桃山時代からあったらしいが、なんとなく江戸時代のイメージが強い。「遊郭」とはなんのことなのか、と問われるとよくわからない人も多いが、遊郭とは具体的には女郎屋、要するにそういうお店を一箇所に集めてその周囲を塀で囲った閉鎖エリアのことを言う。治安維持のため管理しやすいように幕府が一箇所に集め囲ったのが始まりと言われる。その中でいわゆる「吉原」とは今で言う東京人形町あたりにあった遊郭のこと。もちろん遊郭は東京だけでなく日本各地にあった。遊郭はまた色街(いろまち)とも呼ばれる。花街(かがい)の呼称は、昔は遊郭のことを指していたようだが、現在は芸妓屋が集まっている区域を指すことが多い。また遊郭は戦後、「赤線」とその呼称を変えた。(当時警察の地図上に引かれた公認風俗区画を示す線が赤色だったため)
当時の遊郭がどのようであったか。これについては、話をするのが難しい。僕なりにさんざん調べたのだが、これという明らかな資料は出てこなかった。ただ間違いなく、現在の風俗産業とはまったく様相が違ったようだ。やることは一緒であっても、そのしきたりがまるで違う。このあたりの説明は専門家から見ると粗雑きわまりないかもしれないが、僕として指摘するべきと感じる点を指摘しておきたいと思う。より精密な知識を得たい人は、それぞれに調べて研究してもらうしかない。
遊郭の遊女が、花魁だとか太夫だとか新造だとか禿だとかで、ランク分けされていたのは有名な話。これは誰でもご存知だろう。特にその最上ランク、花魁や太夫を買うには、大名でも国が傾くほどのお金を費やさなくてはならなかったという。またいくらお金があっても、社会的な身分がなくては相手もしてもらえず、いわゆる本当の「高嶺の花」で、映画などで観る花魁道中などにも見て取れるように、庶民からすればいわばマドンナのような、堂々たるスター的な存在だったようだ。それら上級の遊女は、客が頭を下げて買うものであった、と表記する資料もある。こういう存在としての娼婦は現在はない。
また、同じ遊郭の中で、一人の女に入れ込まず、他の女と「浮気」をするのはご法度とされていた文化もあったようだ。遊郭はその囲いによって外の世界と切り離されており、外の世界で何をしてようが知らないが、遊郭の内側では話はまったく別になるのだ。遊郭内での浮気がバレると村八分にされ白眼視され、タチが悪いものは遊郭から叩き出され、出入り禁止となったものもあったらしい。このような文化も、もちろん現在の風俗街ではありえないものだ。
また、一人の女を買うにも、原則として顔なじみになるまで、三回は会いにゆかねばならなかったらしい。もろちん原則はそうであって、「なじみ金」というお金を払ってその手続きを省略するような野暮もあったらしいが、とにかくそのようなしきたりがあったようだ。さらには、その女を買いに行ったとして、その女がいないこともあり、そのときはお金を払ったにもかかわらず、そこで茶を飲んで帰るしかない、というようなこともあったらしい。もちろんそのお金は返ってこないままだ。こんな文化も、もちろん現在はない。
さらには、遊女のランクとも関係があったのかもしれないが、客から指名があっても、その相手をするのは絶対強制ではなかったらしい。自由に、とまではいかなかっただろうが、ある程度拒否する権利はあったようだ。これも明確な資料が残っていないところだが(というかもともと明文化したルールなんてなかったのだと思うが)、何しろ客の浮気を責め立てられるだけの気概の余地を残していたわけだから、どうにもいけ好かない客がきたら、どうぞヨソを当たっておくんなまし、ぐらいのあしらいはあったであろう、と僕の想像力は推測する。客に頭を下げさせる娼婦がいたのだから、そんなことがあってもまったく違和感はない。
もともと日本における性風俗、売春の文化はこのようであったらしいのだ。もちろん遊女の生きる遊郭の世界は苦界と言われ、楽なものでは決してなかっただろうけれども、その文化の色合いが無味乾燥であったというふうには、僕には感じられない。戦後GHQの占領政策により、昭和三十三年に売春防止法が施行され、遊郭は廃止になったけれども、果たしてそれはめでたいことだったのかどうか。
遊郭が、途中で赤線という呼称に変わったとはいえ、実際に廃止されたのは昭和三十三年、たかだか50年前のことだ。50年前、今まで日本の歴史の中に根付いてきた遊郭の文化が破壊されたことは、果たして苦界の女性たちを救ったのかどうか。システムが変更され、遊女は風俗嬢になって、性風俗は文明化したのかどうか。
あなたは今夜見る夢の中で、遊郭の遊女になりたいか、それとも現代の風俗嬢になりたいか?
あなたの中の娼婦が、そろそろ何かを語りだすかもしれない。
僕たちの血筋は娼婦を差別しない
「千と千尋の神隠し」というアニメ映画があった。あらすじは、千尋という少女が異世界に迷い込み、どうしたものかと戸惑い振り回された挙句、なりゆきで湯屋にたどり着き、そこで湯女(ゆな)として働くことになるという話。そこで千尋は名前を「千」とされ、わけのわからぬまま、それでも懸命に働くこととなる。そのうちに、元の世界ではいかにも疲れきった子供であった千尋が、そのわけのわからぬ世界と体当たりすることによって、人間としての活力を回復してゆく、そういう物語だ。
この映画は、性的な隠喩を含んでいる。身も蓋もなく言うと、「湯女」というのは温泉街で働く娼婦のことだ。これは隠語でもなんでもない。辞書を調べればそのように出ている。
「千尋」が「千」になるというのも、夜のお店などで当然としてある、「源氏名を取る」という部分に該当する。すなわちこの映画は、十歳の少女千尋が、千という源氏名でバケモノ相手に性的な奉仕を振る舞い、それによってアイドルになり、またそれによって人間としての活力を回復する、という話なのだ。このことは、宮崎駿監督自身も隠そうとはしない。
「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」
「性風俗を悪いことと決め付けるのは、キリスト教的倫理の押し付けのせいだ」
これらは宮崎駿監督自身の公的な言だ。またこれらのことがあからさまであるから、宮崎駿氏の作品はペドフィリアだということで、一部ヨーロッパ方面に拒絶されているのだ。
ずっと売春の話をしている。日本人女性の中に、娼婦への憧れ、娼婦願望があるとして、その仮説に基づいて話している。僕のその仮説においては、あなたの中のその娼婦願望は、日本人の遺伝子として、また文化伝統を受け継ぐ血族のものとして、あなたの中に引き継がれたものだ。あなたは湯女として働きいきいきと活力を取り戻した千尋を見て、軽蔑すべき売女、という見方はしないだろう。冒頭の百合子の話を聞いて、嫌悪感を覚えずにいるように。
僕たちの血筋は娼婦を差別しないのだ。
僕たちは日本の文化伝統を受け継いでいる。それは例えば、おじぎの仕草や、敬語を大切にするということ、あるいは大事な手紙を書くときに様式を守りたいと思うことや、食事のときにいただきますと手を合わせること。これらのことをちゃんとできない、しようとしない人とは、あなたは友人になれないはずだ。それはなぜかというと、おじぎもせず敬語も使わず様式も守らないし食事に手を合わせもしないなんて人は、あなたにとって罪深いことだと感じられてしまうからだ。その罪深さは、売春ごときの比ではない。
文化伝統というのは不思議だ。そのことは、まだ物を知らない少年少女においても行き渡っている。七夕の短冊を見ればわかるが、その中に「お嫁さんになりたい」というのはあっても「結婚したい」というのは見当たらない。それはなぜかというと、日本にはもともと結婚という概念が無かったからだ。日本にはもともと結婚の概念がなく、婚姻の概念としては嫁入り・婿入りの概念しかない。だから今でも結婚式をおざなりにして披露宴だけを注力してやるのだが、そのことをなぜか子供も知っている。だから結婚したい、とは神様にお願いしない。お嫁さんになりたい、とちゃんと日本の言葉で日本の神様にお願いごとをする。(※神道式の結婚式も明治時代の新造です。日本に結婚式の伝統はありません)
キリスト教世界、というよりは聖書の神話を基とする世界が、欧米や中東にある。その根本である旧約聖書ができたのは、ざっくり言って二千年前ということになるのだが、その中にすでに十戒の一つとして「汝姦淫するなかれ」の表記がある。あちら側の世界では、はるか昔からそれは罪悪だったのだ。また新約聖書にも、娼婦がその罪によって、石を投げつけられている、というようなシーンが見られる。そのようであるから、その罪の意識は筋金入りだ。
あちら側の世界創世神話が、「光あれ」とか「ノアの箱舟」とかの旧約聖書であるなら、日本のそれは「古事記」や「日本書紀」にあたる。そしてこちらの創世神話にはどのようなことが書かれているか。例えば天岩戸(アマノイワト)の話。アマテラスオオミカミが、天岩戸に閉じこもってしまったので、それを引き出すために、その岩の前で宴会をして、アマテラスの気を引こう、という作戦をやるシーンがある。
このシーンについて、踊り子が踊りを踊るという描写があるのだが、原典の文章には身も蓋も無いことが書かれてある。ざっくり現代語訳すると、「アマノウズメノミコトが、おっぱい丸出しで踊った上、さらには腰紐を押し下げて、陰毛を丸出しにしたものだから、神様たちは大盛り上がり」となっているのだ。神様でさえの、この性的な奔放ぶりを見ると、こちらの奔放ぶりも筋金入りと言わざるを得ない。
アマノウズメノミコトは、もちろん女性の神様なのだが、なんとサービス精神にあふれているのだろう。これは要するにストリップ・ショーであって、神様がそれに大盛り上がりするのが、僕たちの住んでいる世界であり、僕たちの受け継いでいる血筋なのだ。
おおよそ創世神話の神々の中に、ストリップ・ショーをやる女性神、要するに遊女の神様がいるなんて、僕たちの住んでいる国だけの特殊な文化なのではないか?
先に書いたとおり、GHQがその占領工作の一環として、売春防止法を施行したのが昭和三十三年だ。今からおよそ50年前のこととなる。向こう側が二千年前からそれを罪悪としているのに対し、僕たちの側はまだ50年だ。僕たちが貞操観念について語るとき、その歴史の薄弱さに引け目を感じないようでは誠実ではない。
さらにこの道筋で、話を進めてみよう。小学館発行の「人生儀礼事典」というのが手元にある。その中の「性への関心」という項目から、抜粋引用する。
なおこの記事を書いているのは文学部の助教授で、女性だ。
<前近代の日本の村落社会では、十五歳くらいまでに、ほとんどの男女が性行為を経験していたようである。例えば男子は、十五歳で村落の若者組に加入し、一人前として認められると、後家などの四十歳前後の女性たちと一緒に一夜を過ごすことがあった。彼女たちが、「筆おろし」と呼ばれる性体験の相手をつとめ、夜這いの作法や口説き方、結婚までの心得、大人の性生活、出産などの知識を教えたのである。また女子も、十二、三歳で村の娘組にはいると、男子の筆おろしと同様に、初めての性の手ほどきである「破瓜」を経験した。こうした手ほどきは、これから成長していく男女に、将来の結婚生活や出産に必要な知識を、身をもって伝える重要な機会であった。
初体験をすませた思春期の男女は、こんどは村の中で好みの相手をみつけて夜遊びするようになる。やがて、それは村の公事として認められていた夜這いへと進んでいった。夜這いとは、夜に相手の寝所に忍び入ることで、思春期の男女は彼らの属する若者組の作法にのっとり、村内で自由に好きな相手を選んで遊ぶことができた。夜這いは、必ずしも村落内で配偶者を選択するためだけのものではなく、思春期になった男女が、村の中で矛盾なく性生活を送るための方法でもあった。
(※当時は、結婚に際して、処女であることになんら価値がおかれていなかったので、破瓜によって結婚に支障が生じることはなかった)
(※破瓜にも村落ごとに独自の慣習があり、例えば紀州勝浦では娘が十三、四歳になると、老人に頼んで性の手ほどきを受け、米、酒、桃色フンドシをその礼として贈った。老人のほうからも、赤腰巻き、カンザシなどを贈ったという)>
ここに書かれている性への取り組みと、またそのおおらかさは、明らかに僕たちの持っている常識と違う。これは要するに第二次性徴が済んだらすぐに仕込んで、その後は好きにやりまくりということでしかない。当時のことだから避妊する器具もないわけである。当時はそのようにして生まれた子供は、どの父親の子供かということにこだわらず、ただ村の子供ということで共同体として育てられたということのようだ。
誰の子供ということでなく、村の子供ということ。このことは、今もって僕たちの世代にまで引き継がれている。今も僕は、親戚のおじさんの家にいくと、近所の子供がインターホンも押さず、おっちゃん将棋やろー、と言って勝手に家に上がってくるのに出くわす。おじさんはその子供と適当に遊びながら、小遣いをやったり、飯を食わせたりしているようだ。子供はまるで自分の家のようにくつろぐ。「村の子供」という状態が、やはり局所的には起こっているのだ。
日本人の伝統文化である、性へのおおらかさ。これは調べて引き合いに出すと、それこそ無数に出てくる。大昔、宣教師が日本に来たとき、若い人たちはあまりに自由にセックスをするし、奥さんは結婚という概念がないからすぐに実家に帰ってしまうし、また再婚するときも離婚歴ということが一切考慮されていません、彼らは奔放すぎます、みたいな文書を教会本部に送ったりしている。それぐらい、僕たちの受け継いでいる性の観念は、奥底ではおおらかなもので、それはどうしてもキリスト教文化と正面からぶつかり合ってしまうのだ。
英語の表現で「サノバビッチ」という言葉がある。サン・オブ・ア・ビッチで、直訳すると「この売春婦の息子が!」ということになるのだが、このような罵倒表現は、どうしたって日本人には通用しない。あなたは自分の家系譜をたどっていったとして、その先祖に遊女がいたとして、そのことを屈辱として恥ずかしく思ったりするだろうか。あなたに遊女の血が流れていることを、汚らしく不快に思うだろうか。
それどころか、少しそのことに、ときめいたりはしないだろうか。
日本人女性には娼婦への憧れがある。日本人女性には、と限定したのは、その背後に日本の伝統文化があるからだ。僕たちは意識していてもしていなくても、日本の伝統文化を受け継いでしまっている。そこにキリスト教文化における性の取り扱いを押し込まれてしまったので、そこのところが歪んでしまっているのだ。
性について奔放でおおらかだった、古来の日本が異常だったわけではないし、またその古来からの性観念が消え去ってしまったわけでは決してない。あなたの中にもしっかり息づいている。話は逆で、性が奔放でおおらかであってはいけないとする、その僕たちの現在の常識が、ねじ込まれた舶来の輸入物であり、僕たちの血筋になじまずにあるのだ。
かわいいあなたはこの現世で、アマノウズメノカミという神様の娘の一人だということだ。
であればどうか、その乳房を揺らして笑って、腰布を下ろして色っぽく、舞い踊ってはもらえないものだろうか。そのことがあなたにはどうしても似合う。あなたはそういう血筋の女だからだ。
だからあなたの中の娼婦が、活躍したいと声を上げるとき、あなたの興味はまずホステス業に向かう
一年間で一億円を稼ぐ株のトレーダー、特に女性トレーダーがいたとする。一方で、同じく一年間で一億円を稼ぐ、こちらは娼婦がいたとする。あなたはその二人のうち、どちらに会って話してみたいと思うだろうか。どちらを尊敬し、どちらに憧れを感じるだろうか。
こんなことでも、潜んでいる娼婦への憧れは引き出されてしまう。
昔、江戸の女性がお伊勢参りをするときに、今で言えば東京から三重まで、その東海道の道々にて、ぜいたくに宿に泊まる路銀のゆとりはないとして、その土地その土地で男を引っ掛け、その男のところに一晩厄介になる、そうして伊勢まで行くものだった、というようなことを示す資料もある。道中旅恋物語、という風情だが、あなたの常識はこんな話に嫌悪を見出すか、血筋はロマンを見出すか。
そのほか例えば、結婚するときに相手の年収がどうしても気になる、というようなどこにでもある話がある。このとき、愛だけじゃ結婚できないのよ、なんてごたいそうなことを言う人がいるが、僕はなぜかその言葉の連なりを聴くだけでオエッと吐き気がしてしまう。
そんな難しい話ではないではないか。
「娼婦が羽振りの良い殿方にこそ身請けされたいのは当然ではありませんか。その後は一生、その旦那様のみに尽くすのですから」
こう言えばすっきりしているし、変ないやらしさも出てこない。事実とも違っていないし、お互いの感情にずれるところも無い。
僕たちの性愛の常識は、性愛の血筋となじまないため、常に混乱してしまっているのだ。
その混乱のせいで、日本には他の国にない、キャバクラやクラブというあいまいな業態業種が生まれた。遊郭の時代にそういう接待だけの業態はなかったし、今も海外にはほとんどない。
建前上、娼婦ではない女性が、ただ接待をするだけのキャバクラやクラブ、いわゆるホステス業とは、いったい何なのだろうか? なぜ現代の日本にこの業態が生まれ、隆盛しているのか? 性の多様性の視点において、どういう意味合いを持っているのか? このことについても考えを進めておきたい。今日びの若い女の子で、およそホステス業に興味を持ったことがないなんて人のほうが少ないだろうから。
先に遊郭があった時代のしきたりについて述べた。顔なじみになるしきたりや、来店してもいない場合があり、その場合もお金を落とさなくてはならないしきたり、遊郭内で浮気してはいけないしきたり、お金だけでなく社会的身分がなくてはいけないしきたり、そういう「粋」と呼ぶべきしきたりが色々あったと述べた。
このしきたりを受け継いでいるのが、いわゆるキャバクラや、それの高級な「クラブ」だ。銀座や六本木にワンサとあるアレである。あの空間には、まだ遊郭のしきたりが残っている。まず、顔なじみにならなくてはまともに扱ってもらえないこと。社会的身分がないと軽く見られてしまうこと。お目当てのコがいなくても別のコがつくから、お金を落とさざるを得ないこと。店内で複数のコを狙うと嫌われること。一方的な客とサービス提供者の関係ではなく、客を一応は立てるものの、客の野暮が過ぎると客が頭を下げるハメになること。またそのエリアのトップランカー、例えば銀座のナンバーワンは、庶民からスター的な扱いを受けること。
これらすべてが、遊郭の文化と共振を示している。
ついでに若い女の子ちゃんに向けて、これは常識として言っておくと、そういうクラブのホステスさんによる、セックスの接待、いわゆる「枕営業」は、別に珍しくなくどこにでもある。老舗の上品系は、客層もご年配なのでそういうことが薄いところもあるが、六本木や新宿などの派手系のところではアウトローの方々もいるし、元気いっぱい、枕営業は日常茶飯事だ。もちろんその営業にまで踏み込むためには、客側も相当な金を落とさなくてはならない。五回や六回行った、というようなのではぜんぜんダメだ。あの人の売り上げがないと採算が厳しいな、というぐらい太い客になる必要がある。
この枕営業については、ホステスさんの側にもちろん拒否権はあるのだが、なんだかんだで拒否できないシステムが組み込まれている。
そのことについても、よく聞かれるし、ついでに説明してしまおう。
一時間飲んだら五万ぐらい取るクラブで、勤続三年目、年齢も二十代の中ごろになると、あなたの立場は単なるコンパニオン(店側からはヘルプ扱い)ではなく、俗に「売り上げ姉さん」と呼ばれる立場に自動的になる。すなわち固定給ではなく、自分の随時売り上げに比例して、自分の給与も随時増減するという、店内個人営業のような仕組みになるのだ。
このときから、あなたは店のスタッフではなく、店側と契約した「個人営業者」になる。だから、客にお金をちゃんと支払わせることは、店側ではなく「あなたの仕事」になる。もし、客がツケを踏み倒して逃げてしまった場合、それはあなたの不備として、その未収分をあなたがすべて立て替えて店側に支払うことになるのだ。なぜならそれは「あなたの客」だから。あなたが客の信用を担保しているという形になる。
このことで借金をポンと百万ぐらい抱えることはザラにある。豪遊していた社長の会社がつぶれて夜逃げされたらそれでおしまいなのだ。そして借金があるせいでその仕事をやめることさえできなくなったりもする。このことも別に珍しくもないことだ。
この仕組みが現場で、具体的に枕営業方面へどう影響が出るかというと、例えばツケで豪遊を重ねているオッサン社長がいて、そのオッサンが何かで機嫌を悪くするわけだ。アホクサ! もうこんな店二度と来るか! と急に席を立ち上がってしまうわけである。そのとき、もう二度と来なくて結構、とそこにいる全員が思っているのだが、問題は今までにたまったツケ、人質となる未払い百万円のほうだ。それをもし、気に入らんから払わん、とゴネられてしまうと、これはもう裁判をするしか回収する方法が無くなる。ましてその請求書のあて先は、社長であればまず個人でなく会社だ。会社に請求をしなくてはならないのだが、話し合いをするにも受付が通してくれなければ経理にも社長にも会うことさえできない。
そんなこんなで、ゴネられるとどうしようもなく困るわけだ。またそこにゴネ得があることを、オッサンの側もよくわかっている。それは当たり前だ、そのオッサンもお金を稼いできた側の人間なのだから、お金の原理をよく知っている。
オッサンはクレームを、責任者である、たとえばオーナーママに言う。教育がなってないぞ、というようなことをわざとらしく。ママは平身低頭謝罪するわけだが、もちろん内心では、ツケが不払いになったらあなたから取り立てればいいわけだから、涼しい顔をしている。必死になってそのオッサンのお怒りをなだめなくてはならないのはあなたの方だ。
そこでオーナーママはあなたに、「○○ちゃん、今日はもういいから、今日はお詫びにこのまま、アフターご一緒させてもらいなさいよ」と切り出す。あなたはもちろん断れるわけもない。ママのほうは、喧嘩の仲裁をする雰囲気で、「教育がなってなくて、ごめんなさい、私も悪いのだけれど、このコもどうしても不器用なところがあって、あつかましいのですけれど、よければこの機会に、△△さんからいろいろと教えてもらえたら、助かりますわ、私などが言うより、こういうことは男の人に教わったほうが。ねえ○○ちゃん?」、というようなことを、オッサンを立てるように言う。
そうしてオッサンとあなたは、気まずい空気のまま、タクシーに乗って地下バーなどにもぐりこむわけだが、オッサンは状況が有利と見るや、それに乗っかって「で、どうすんの、こんな気分悪いの初めてだよ、どうしてくれるんだよ」ということをしつこく繰り返すわけだ。そうして圧迫しておいてすぐ、○○ちゃん、もうここまできたら、腹割って話してもらわないと、とか言いながらオッサンは手を伸ばしてきて、あなたの肩を抱き寄せて、屈服させようとする。
あなたはそれを突き飛ばして、百万円のツケを立て替えるか、あるいはそれを回収するために法的な手段等々に訴えるか。それともオッサンと一夜をすごして、ため息をついて収めるか。
もちろんそのときのオーナーママは、そういう流れになることを承知の上で、あなたを押し出したわけだ。あなたが翌日ママに、昨夜はあのまま「枕もち」で、最後は機嫌直してくれました、と報告すると、ママはお疲れ様、とねぎらいの声をかける。そして店側から、慰労金のような金一封が出る。同僚はあなたの一仕事を人づてに聞き、「特攻隊」お疲れ様でした、というようなねぎらいの声をかける。
これは嘘も隠しもない、こういうことが日々起こっているのがああいう高級クラブの風景なのだ。(安いキャバクラではもちろんこんなことはない。いつもニコニコ現金払い・カード払いだ)
ホステス業の論理からいくと、そうしてあなたが「特攻隊」をやるハメになったとしたら、それはあなたの目が利かないというか、そんな客を掴むのが悪い、ということになる。悪質でなく、支払いの太い、信頼できる客をたくさん掴むことこそが一流ホステスの仕事だ、ということなのだ。さらに一流のホステスであれば、あくまで個人営業なのだから、自分が店を辞め、他店に異動するときにも、それらの客がまるで親衛隊のように、次のあなたの店に来店するぐらいでなくてはならない。そうして自分の客をしっかり持っているホステスなら、どの店も高い歩合で引き抜きたいわけである。何しろ客を一緒に持ってくるというか、「売り上げ」自体を持って店に入ってきてくれるのだから。
いわゆるトップホステスで、記事になるぐらい荒稼ぎをしている人は、こういうことをバリバリやっている人だ。そういう女性の目つきや、そこに宿る気合、また飴とムチを使い分ける本能は、鬼気迫って尋常ではない。その気迫をカッコいいと感じる女の子がいるのはよくわかる。ただ、その仕事のためには整形や豊胸なんて当たり前にするし、ストレスから過呼吸や過食症になることもまったく日常茶飯事だ。
そこまでやれる女の人は、すごいね。すごいとは思うけれど、若い女の子ちゃんに、そこで野心的になれとお勧めする気分にはならない。ヘタレな僕の精神ではとてもついていけない、たいへんシビアな世界だ。
さて元の話に戻るが、そのようにしていわゆる枕営業は実際にあるものだ。ここには少し生々しい例を出してしまったが、そういうクラブのほうが、いろいろな手続きや文化の点で、もともとの遊郭の女郎遊びの形式を引き継いでいる。
だからあなたの中の娼婦が、活躍したいと声を上げるとき、あなたの興味はまずホステス業に向かう、ということを知っておいてもらいたい。風俗に向かうわけではない、というところが面白いところだ。
僕の仮説によると、あなたには娼婦願望があるのだが、それがいわゆる風俗嬢になることにまっすぐ向かいはしない。娼婦願望は、まずホステス業に向かう。現代語としての娼婦は、今では風俗嬢だが、あなたの中にいる娼婦は古式の遊郭の娼婦だから、風俗ではなく遊郭のしきたりが引き継がれている世界、ホステス業へ興味を向かわせることになるということだ。
だから、十代の終わりのころにでも、ホステス業に興味を持ち始めたら、それは深い心的な意味では、遊郭に興味を持ち始めた、遊女に興味を持ち始めた、と捉えるのが正しい。
あなたには娼婦願望があるのだ。
僕が今まで見てきた限り、誰かに性的に尽くして、その見返りをちゃっかりもらっている女性は、いくらエロくても不思議にホステス業に興味を持たない。さらに言えば、うまく売春をやっている人は、ホステス業に興味を持たないということだが、これはすでに娼婦願望がある程度満たされてしまっているため、遊郭への興味を起こさないということだ。
ホステス業に興味を持ち、またそこに深入りして混乱してしまいがちなのは、むしろ逆のタイプだ。誰かに性的に尽くしたことがあまりなく、またセックスの見返りにおいしい思いをさせてもらう、という発想に罪悪感があってなじめない。お金持ちと結婚したいというような願望があっても、そのことに対する後ろめたさがどうしても消えない。そういう性根が生真面目な、ある意味ですごく純真なタイプが、自分の中の娼婦を生かしてやることができず、現代の遊郭であるホステス業界に引き込まれることになる。
このタイプはまた一言で言って、人に甘えるのが苦手な、人に迷惑をかけられない、万事につき悪いことができないタイプが多い。どれだけ体調が悪いときも、自らお願いして電車の座席を譲ってもらうことができないタイプだ。例えば庭にできた蟻の巣に殺虫剤をかけることにも罪悪感を覚えるタイプで、さらには例えば自分で育てたニワトリを自分で絞めて焼いて食べるというようなことは絶対にできないタイプだ。ホステス業の人にはこういうタイプの人が多く、だからよくろくでもないヒモとくっつく話が出てくるのだ。いわゆるヒモ的性質の男は、人に甘えるのが得意で、人に迷惑をかけることに大胆で、悪いこともしれっとやってしまうのだが、それがある意味で生真面目な女性のリミッターを飛び越えて入り込むので、女性はそこに安心感を覚えてしまうのである。
多くの女性が、興味本位での「こっそりホステス」をアルバイトとしてやっていたり、やってみたいと思っていたりする。そのことに説教を垂れるつもりはないけれども、興味本位でやるなら都心から少し外れた落ち着いたところでやるのがいい。いくら給金が良かったとして、またあなたが美人だったとして、いきなり銀座や六本木や新地や新宿でやろうというときには、少しここの話を覚えておいて警戒しておいたほうがいいだろう。
特にヘルプの間はともかく、売り上げ姉さんになってまでやるのは、あまりお勧めはしない。相当根性のある人しか生きていけないよ。
(読者の方で、実際にホステス業をしている方がいたら、もしご不快を覚えさせたならごめんなさい。僕はあなたを誹謗しているつもりはまったくないのです)
女性と寝て、その女性にお金を渡すことは、本当に「いけない」ことなのか?
あなたの中には娼婦が住んでいる。それはあなたの娼婦願望であり、あなたの娼婦への憧れを作っている。あなたが健全な一人の女性として生きながら、その裏側でどのようにしてその娼婦願望を満たして生きていくか。どのようにして娼婦としての自分に自信を与えるか、またその中でいかにキリスト教ベースの性観念の教育から距離をとって整合性を持つか。このことのテーマが、女性の人生にはつきまとう。
このことは、ものすごく単純に言えば、どうやって峰不二子に近づくか、というようなことになる。アニメ作品ルパン三世のヒロイン峰不二子は、実に単純なサンプルを示している。ルパンを性的に誘惑し、その見返りを多大に要求して、堂々としている。もちろん甘え上手で、人に迷惑をかけることに悪びれることなどまったくなく、悪いことだってウインクしながら堂々とやる。また峰不二子がホステス業に興味を持つというようなことは、どう想像してもありえないだろう。峰不二子は、僕たちが身近に知っている娼婦的な自分を実現させた女性像である。
ただあれはもちろん、アニメの中の話であり、また峰不二子はいかにも日本の伝統文化とは無縁な存在であるようだから、そのままコピーしてもうまくいくはずはない。あなたは食事をするときに思わず手を合わせていただきますと言ってしまう民族の者だ。そのことから逸脱せずに、あなたは娼婦にならなくてはならない。そのためのヒントはここまでに語りつくしたつもりでいる。あなたの中には性的に奔放でおおらかになりうる血筋がちゃんと受け継がれている。あとはあなたがそれにいつ気づくか、また今ある舶来の常識をどのようにして始末をつけるかだ。
日本人女性には娼婦願望がある。このことを仮説として話をしてきたが、この仮説に僕が自然な信頼を置いているのは、僕としての体験がその基にあるからだ。今まで僕の相手をしてくれた女性たちは、みんな驚くほど健気だった。感動的なまでに性的に尽くしてくれるのだ。そのことは、常識としての性と愛の話では、どうにも説明がつかなかった。
いささか破廉恥な話になるが、これは僕の正直な思いだ。
やらせてくれ、と僕が女の子を口説いたとする。女の子はそれを受けて、ウーンとひとしきり悩む。それでも僕がみじめったらしくお願いするものだから、女の子の博愛心が痛んで、わかりました、と消極的に受け入れてくれる。そのような状況であっても、いざ肌を重ねるとどうだろう。女の子は、どれだけオクテな少女であっても、自分にできる精一杯をして、なんとか僕を満足させようとがんばってくれる。その様は単にセックスをしているというより、どう見ても女の子が僕に奉仕をしてくれているのだ。もちろんそのような話の進みゆきであるからには、彼女が僕に惚れているような話では決してない。特に熱心になる動機も理由もないはずなのに、ただひたすら一生懸命にしてくれるのだ。
僕はそこに、なぜかはわからないけれど、女としての誇り、のようなものを感じた。それはよくよく見つめてゆくと、その彼女の中に住んでいる娼婦の誇りだった。男に抱かれる女として、また男に奉仕する女として、みすぼらしい者にはなりたくないというような、娼婦の誇り。
少女の中に住んでいる娼婦は、その心が実に気高いのだ。普段どれだけおとなしくしていたとしても。
セックスがブスでいいやと、そこで開き直った女を見たことがない。
これは単に、今までの僕の女運が良すぎただけのことかもしれない。しかし僕として情を交わしていない女性のことを考えても意味がないだろう。今まで僕にキスをしてくれた女性たちすべての中には、気高くて腐れたところの一ミリもない、誇り高き娼婦が住んでいた。
気高きピアニスト、演奏のプロフェッショナルが、鍵盤を目の前にするとどうしても、手抜きすることを魂が許さないように、性愛を奏でるプロフェッショナルとしての娼婦が、女の子の中にいるように思う。だから僕は、ことを終えた後のベッドで、何かいつも心苦しく思うのだ。
―――このように奉仕されて尽くされてしまったなら、いくらかでもお金を包んで渡すべきなのではないだろうか?
常識的な視点からは、まったくわけのわからない話だが、これも僕の正直なところの思いの一つだ。あまりに女の子が、ひたむきにその性愛を捧げてくれるので、僕はいつもことの終わったベッドで、何か無性に申し訳なさを感じる。もしそこで、金額によらず、いくらかでも女性に包んで渡すことができれば、そのことでようやく落ち着きが得られるというか、バランスが取れるような気がしている。
女性と寝た後で、女性にいくらかでも包まないのは、女性に対して失礼なのではないだろうか。そんなふうにさえ、僕の中では感じられているのだ。例えばお墓参りの最中に、通りすがりの僧侶がいて、気まぐれに精魂を込めた読経をあげてくれたなら、いくらかでもお布施を包まずにはいられない、そうでないと落ち着きが得られない、ということのように……
女性と寝て、その女性にお金を渡すことは、本当に「いけない」ことなのか?
僕は女性とのセックスに、値段をつける気分はまったくない。あなたのセックスに見積書をつけて、クーポン券をつけていくらいくらと、そういうそろばん勘定をするつもりはまったくない。ただそういう、金額がどうこうということを飛び越えて、お布施のようにお金を包むようにして、本当は女は「買う」べきものなのではないだろうかと、そんな気がしているのだ。
冗談ではなく、真剣に、僕はそんな気がしているのだ。
僕はこの年になってまだ、いわゆる風俗店にお世話になったことがない。別に毛嫌いをしているつもりではなかったのだか、なぜそういう遊びを避けてきたか、最近になってようやくわかった。
僕は女を買うとするなら、ちゃんと買いたいのだ。店側に設定されたリーズナブルな価格で購入するのではなく、僕とその女性の間で、金額の多寡にこだわらずにいられるだけ、信頼しうる表情を交わした上で、乾いたビジネスとしてではなく、純粋なお礼の気持ちとして、いくらか包めるだけ包んで渡すことで女を買いたいのだ。
これは頭のネジが外れたファンタジーなのか、僕が異常なのか、よくわからない。ここまで丁寧に説明してきたつもりだけれども、うまく説明できている自信はない。また実際には、そのようにお金を包んで渡したことは一度もない。僕の中ではそれは矛盾のないことであったとしても、おおよそ相手の女性はあらぬ誤解をして、ショックを受けたり傷ついたりしてしまいかねないからだ。
精一杯の奉仕をしてもらいながら、そのお礼を包んで女性に渡すこともできないとは、なんと息苦しいことだろう。子供だってお手伝いをしたらお小遣いをもらうし、ホテルマンだって行き届いたサービスをすればチップをもらう。それは子供の労働力を購入しているわけではあるまいし、ホテルマンの気持ちを適正価格で購買したわけではないだろう。
まったく、何かがおかしいぞ。精一杯がんばってくれたあなたが、思いがけずお礼を渡されたとして、それに感激してはしゃいだとして、何のどこが「いけない」のだ。
まあ僕自身、人よりお金があるわけじゃないから、本当は偉そうなことはいえないんだけどね……
百合子は夜更けに男の部屋に行き、なれない状況に緊張しながらも、精一杯の奉仕をしただろうか。男が感激のキスを、いくらか乱暴にしてくるのを受け取りながら、百合子は金額のことを考えはしまい。お別れに男が手渡した、古い袱紗に包まれたお金を、もちろんその場で開封して、確認するようなことを百合子はしない。後になって開封してみると、そこには少し無理をした十二万円が入っていて、百合子はどんな表情を見せるだろうか。かわいい娼婦はあばずれの顔をしていないものだ。
ずいぶん長々と話をしてしまった。もうそろそろおしまいにする。
あなたの中の娼婦は、そろそろ元気を出してくれただろうか。
男と寝て、男からお金をもらうのは、悪いことなのかどうなのか。
結局、それは何も悪いことではない。
だからあなたは色を使って男にお金をせびっていい。
「金額」でセックスを売るのはダメだというだけだ。
足代だけの千円でも二千円でも、包まれてお礼として贈られたなら、それはあなたの中の娼婦に届く。
お礼を一円も贈らないのは、あなたを娼婦ではないと、決め付けているわけだから、あなたを殺すんだね。
あなたは娼婦なのだから、堂々とお金持ちと結婚したらいい。
立派で豪気で羽振りのいい、憎めない旦那様に身請けされ、嫁として娼婦として尽くせたら、それは素敵なストーリーだ。
そんなわけで、またいつか。
あなたの色を買わせてください。
お金には縁がないので、あまり本気でせびらないでね。
[了]