No.137 潮気の夜
港区の片隅に古代遺跡が現れることがある。夜の闇の具合によって、また広告ネオンの健気な光とその反射によって、雑居ビルのセメントの壁が、奇妙な緑から赤へのグラデーションを映している。もし頬を摺り寄せたなら、たちまち肌が破れて血がにじみそうな、ざらざらして尖った壁の材質。その暗くてカラフルな陰影は、不思議に街のいかがわしさによく馴染む。僕はうれしくなって見とれてしまった。連れの彼女の手を引いて、その雑居ビルの3Fにある、ハチノスというバアに一見で迷い込んだのも、そのときの僕としては自然な成り行きだった。
こなれて人懐こそうな表情のマスターが、逆にその洗練によって本心では人懐こい性格ではないと、明らかに看て取れる様を、この場所がらにイカニモなものとして僕は愉快に感じながら、自分の飲むお酒を選んだ。わざとらしく照明を落とした棚をにらみつけ、自分と彼女のために、軽くて飲みやすいスコッチを注文する。スプリングバンクなら間違いなさそうだった。潮気があって軽い、かつてはどこにでもあったシングルモルト。注文を受けたアルバイトのバアテンダーが、通ですね、と言いたげな視線を向けてくるのを、僕はなんとなく目を伏せて避けながら、彼女の手を握った。彼女は隣り合って、慣れないスツールにちょこんと座っている。僕は指先で彼女の手の甲をもてあそんだが、彼女はいやそうでもなく、チラと見た後は無関心だった。
彼女の名前を、ここでは曜子と呼びたいと思う。彼女はどっしりとしたロングヘアーの女であったが、その黒髪はまるで黒曜石のように艶めいて光っており、僕の中での彼女の印象は、実にそれによって決定付けられているからだ。まだ幼い気配の残る曜子は、ごく素直に夜遊びに憧れているところがあり、慣れない状況にきょろきょろと視線を走らせて遊んでいた。お酒に詳しいんですね? と曜子がありきたりに切り出すのに、ウーンそうかな、と僕は答えあぐねた。僕はお酒に関する話題、特にお酒に詳しい人がどうこうであるという話題が苦手だった。まるで演奏の最中に、音楽についてたずねられたように、どうしようもないやりにくさを、僕は覚える。
―――今でも、小説の中なら、ここでバーボン・ロックを頼むのが正統派なんだぜ。バーボン・ソーダでもいいし、ハイボール、なんて言ってもいい。とにかく西部劇みたいな注文をするんだ。そしてそれを、自分で失笑せずに、大マジメに飲めば、いわゆる文学的なバーライフになるんだよ。
お茶を濁した冗談として、僕は手振りを加えてそのように言ったのだったが、曜子はそれを聞いてフーンそうなんですかとしか答えなかった。曜子はあまり笑わない女だった。彼女の整った顔には凹凸がなく、それは普段から笑う筋肉を使っていない、笑った痕跡のない顔だと僕には見えた。正面から見ると、惚れ惚れするほど美しい曜子の顔。しかし角度によっては、ギョッとするほど不自然な、見慣れないものとして映ることもある。塗り込められた樹脂のように動かない顔、そこに大きな目玉がはまっており、その目玉は、なぜかいつも探し物をしているのだ。
「彼が、気の利かない人で。わたし、どうしたらいいのかわからないんです。別れたくないし、結婚したいつもりでいるし、でも、気持ちを分かってもらえないのは、つらいし……」
彼女は相談事を持ち込んできていた。彼女は始終、首を少し傾けて、それによって血の集まったこめかみで、そのことを考え続けているように見える。彼女が着ているのは、上等な黒色の、ドレープの豊かなワンピース。その上に、袖口がレースになったトップスを羽織っている。このような場所での、金曜の夜にふさわしいものとして、彼女の装いはあったけれども、彼女はその考え込みによってか、まるでその上等な装いを、接着剤で貼り付けられて、馴染まずにいるように見えた。
アー、人の気持ちを察するというのは、難しいことだからね。僕としては、話の進みゆきが、今見えている分にも、いかにもやっかいそうだと感じられたので、僕は頭を掻くようなふりをしながら、そのように受け流すしかなかった。難しいこと、ですか、と彼女が視線を伏せたまま確認するのを受け、ウン、と僕は応じた。
―――例えば曜子は、今目の前にいる、俺の気持ちがわかるのかどうか、とか。
「クオリさんの気持ちを、ですか」
―――ウン。
「そうですね……わたしといて、退屈じゃないかな、とか、思います」
―――ウンウン。
「今のところ、それぐらいしか……。まだ、今日会ったばかりですし、あと、こう言っては何なんですが、付き合っている人じゃないですから、きっと気持ちは、わからないと思います」
―――なるほど、付き合って、もっと一緒の時間を過ごさないと、相手の気持ちは、わからないか。
「はい」
僕の組み立てとしては、ここで決定打がすでに示されたはずであった。しかしそれを受けて、ハイと即答しきょとんとしている彼女を見て、僕はやはりこうなるなと内心で納得する一方、早くも熱意を挫かれる気分だった。探し物をしている彼女の眼。僕はこのような場面で、どうすればいいのかを知らなかったし、今もまだ、結局は知らないままでいるように思う。
―――それならば、なぜ彼は、曜子と付き合って長い時間を過ごしながら、曜子の気持ちがわからないんだろうね? 彼がどうして、そのようであるのか、曜子にはわかる?
「わかりません……彼が何を考えているのか」
―――あと、俺と曜子が初対面で、それによって曜子が俺の気持ちをわからないのだとしたら、今相談を受けている俺の側は、どうやって曜子の気持ちがわかるだろう? 付き合ってもいないし、長い時間を一緒に過ごしてもいないのに、どのようにして?
「わたしの気持ちは、本当に、今言ったとおりなんです。彼にも、わたしの気持ちを、いつも言ってはいるんですけど……」
突き詰めるところ、本質は実に単純であった。曜子は自分として、他人の気持ちがわからないのが自然である一方、自分の気持ちは相手にとって、よく理解され汲み取られるべきものだと感じているのだった。そしてその感覚の偏りについて、自覚しないままでいた。またその感覚の偏りの中においては、自覚のしようがなかったのでもあった。
スコッチを二杯、あとは場違いなグラッパなどを飲み干して、僕と曜子は店を出た。心当たりのないサービスチャージを取られながら、なあ曜子、サービスの意識がない店ほど、チャージを取るのが最近の流行なんだよ、というような愚痴めいた冗談を僕はこぼした。そうなんですか、と曜子は相変わらずの声で言う。他人の声だ、と僕は思った。
「今日はごちそうさまでした。色々話してもらえて、参考になりました」
JRの改札口で彼女は言う。それを受けて、イエイエコチラコソ、と僕は自分で呆れるほど心の無い応じ方をする。曜子は感謝のそれからではなく、習慣のそれとして、おざなりな会釈をした。乾いた景色の中で、それでも輝く黒髪だけが、さらさらと綺麗な流動を見せる。
改札口を抜け、ホームへ向かっていく曜子の後姿を見ていた。僕はムラムラっときて、気がつくとその場で地面をバンと蹴りつけていた。
―――曜子!
僕が大声を出すと、好餌にありついた野鳩のように改札に集っていた帰宅途上の人たちが、一斉にこちらを見て息を止めた。大勢の見物客が眺める中、僕はその好奇の視線に対し、どうぞよろしく、手を振って応えたい気分だった。
―――もっと、人を見ろよ! 真剣に、心からだ! お前がだ! お前がやれ!
二十メートルも離れた向こうで、人垣を越えて呼びかけられた曜子は、眼を丸くして立っていた。おびえた様子に、嫌悪の明らかな気配もにじみ出ている。曜子は乱暴なおじぎをして、足早に、はっきりと逃走する様でホームに向かった。みどりの窓口にもたれかかり、待ち合わせの退屈をもてあましていたギャル風の二人組が、ほとんど隠そうともせず僕を見物し、いやらしい笑いを交換した。
よし、と僕は思った。
これで今夜も、僕が最低だ、と思った。
[了]