No.139 存在感と同時共鳴
恋愛や人の絆というものを考えたとき、存在感、というものが深く関わっている。僕たちは存在感のないものと絆を結ぶことはできない。
恋愛がうまくいかないとき、あるいは孤独や寂しさを感じるとき、それは自分に存在感がないからではないか、と考えてみることには意味がある。
恋愛相談をよく受ける。メールでというだけでなく、何かの折に直接会ったときにもよくあるのだが、相談を受けたとき、ああナルホドなと思わされることがよくある。存在感がない、ということ。そのことを直接対面して感じると、確かにこの人とはお付き合いするというような気分にはなるまい、と確信する。彼女の容貌が美しくて、それなりの美徳を人格に備えていたとしてもだ。
存在感のあるなしについて。それは例えば、過去の交友関係を思い出してみればすぐにでも思い当たるものだ。当時は毎日のように親しくしていたはずなのに、今思い出すとその手ごたえがはっきりしない、それどころか名前もなんだったか思い出せない、そういう人がいる。もしそういう人に今後ばったり再会したとして、そこにある関係はもはや他人めいた関係ではないだろうかと感じさせるような記憶だ。そういう記憶としてしか残らない人は存在感がない。このことはまた人に限ったことではない。音楽や文学でもそうだし、場所やその風景なども、存在感のないところはあなたの中に確かなものとしては残ってくれない。
自分に存在感がなかったとして、それによって他人と絆をもてない状況であったら、それはひとつの地獄だ。存在感がないということは、他人にとっては自分は存在していないに等しいからだ。当然孤独にならざるを得ないわけだが、この孤独は努力によっては解決されない。社交の機会をもって交友関係を広げても、存在感自体がないのだから無意味だ。
存在感があるかないかは、簡単に言うと世界とつながっているかどうかによって決定してくる。極めて抽象的だが、正しくはこのようにしか言えない。世界とつながっていない人は、いわゆる「浮いて」いるような人であり、このような人は例えば、よく混雑した駅のコンコースを歩いていて人とぶつかる。人とぶつかるのは、自分の歩行が周囲の空間から浮いてしまっているからだ。水槽の中にどれだけ稚魚を入れても魚同士がゴンとぶつかるようなことはないが、人間はそういう衝突を平気でする。それは人間には自意識というものがあり、それを世界から切りはずして持つことが可能だからだ。
そのようにして世界から切り離されて浮いてある人は、世界からみてノイズ的な存在になる。歩いていて人とぶつかるというのもそうだし、ドスンドスンと足音を立てて歩いている人やドアをバターンと閉める人、テーブルのコップをガシャーンとひっくり返す人なんかもそうだ。
どれだけ寝ぼけている猫でも、例えばペン立てのおいてあるテーブルの上を歩いたとして、そのペン立てを引っ掛けてひっくり返すようなことはしない。世界とつながってあるというのはそういうことだ。ペン立てが置いてあればぶつからないよう自然に避けるように生き物の身体は設計されている。世界から切り離された人はこの感覚が麻痺してしまう。
だからといって、どうしようもないところが怖いところだ。
世界とつながっていない人は存在感がない。存在感がないから、誰かと絆を持つことができない。世の中には絶えず恋愛の悩みやそれ以前に人と関わること全般においての悩みがつきないものだが、それらの悩みは根本的にここに由来しているのではないかと僕は思った。世界とつながっている人は、思ったように色恋沙汰が運ばなくても、そのことをして悩みだというようにあまり取り扱わない。そしてなんだかんだで、やがては誰かと絆を結んでゆく。
存在感のない人は悩み続ける。悩んでいなくても、どことなく寂しい感じに苦しめられて、どことなくむなしさに苦しめられる。そしてそれらが、なんとなく努力しても解決はされないのではないか、と本能的に感じられてもくる。その中で、早々に絶望を決め込んでそこに居座る人も少なくない。
もちろんそのようにして悩んでいる人も、自分は世界とつながっていないとか、そういう自覚の上で悩んだりはしない。そんなことは普通、発想の枠外だろう。僕も最近までこのことに気づかなかったし、もしこれから存在感がないなぁと感じる人がいたとして、キミは世界とつながっていないんだよというような警告をしようとは思わない。
それぞれが、どこかで気づくしかないのだと思う。
僕がここにこうして書くもの自体、存在感がなかったら、誰も読もうとはしてくれないだろう。大江健三郎は、一流の文学があればそこから書き手の「声」が聞こえると言ったが、この「声」が存在感だ。こうして書きながら、僕の声はあなたに聞き取られているだろうかと、僕はいつも不安でいる。僕の精神が世界から切り離されていたら僕の声は誰にも聞こえないことだろう。なんとかそうはならないように、僕は自分を世界とつなごうとして集中し、自分なりに自分を鍛えているつもりでいる。
存在感があるかどうか、声が聞こえるかどうか、それは文体の巧拙なんかよりはるかに重要なことだ。
あなたという人間の存在感が、その出来のよしあしよりはるかに重要だということと同様に。
存在感のある人というのは、人に共鳴を起こさせる人のこと
有名なアニメ「アルプスの少女ハイジ」に、クララという足の悪い少女が出てくる。物語の後半でクララは自分の足で立ち上がろうと奮起するのだが、足に力が入らず転倒する。誰でもなんなとくご存知のシーンだと思うが、このシーン、クララが転倒してアッというシーンは、観ているこちら側としても心に痛みを覚えずにいられない。これはその作品に、また作中人物のクララに、存在感があるということだ。
一方で、いわゆるオタク系と呼ばれるような新興のアニメがあって、その作中人物が例えば非業の死を遂げたとしても、僕たちはそれにあまり切実な痛みを感じない。これは存在感がないということだ。
転倒するのと非業の死を遂げるとのでは、内容としては後者のほうが重いはずであるが、僕たちが痛みを感じるのは実際には前者のほうになる。これは存在感の軽重によって引き起こされる現象であって、このことは色んな作品の中で工夫を凝らされている部分でもある。例えば時代劇でヒーローに切り殺される下っ端たちは、あえてその存在感を持たないようにして切り殺されていく。もし彼らがそれぞれに血肉を持って断末魔の悲鳴を上げていたら、作品はひたすら凄惨になり行方不明になってしまう。
作中人物に存在感があるかどうか。このことは、一般的には存在感という言葉ではなくリアリティという言葉で捉えられているように思う。たとえば若すぎる俳優陣が大慌てで作ったドラマなどを見ていて、そこにリアリティがないなぁと感じる。リアリティがないから見ていて白けるわけだが、それはそれとして気軽に観られる寸劇というように日常的な娯楽として受け取られていたりもする。ただ僕はこのような現象を取り扱うのに、やはり「存在感」という言葉を当てて捉えておきたい。そのほうが、現象を正確に捉えられると思うからだ。リアリティという言葉はあまりよくない。リアリティという言葉自体、すでにリアリティを失いつつあるからだ。
作中人物だけでなく、現実の世界においても、存在感のない者の言葉は僕たちには真剣に受け取られない。ある種の腺病質な者が、世を恨み怨嗟の言葉を吐いたとしても、僕たちはそれをウーンと唸りながら聞きながらも、やはり心の奥底にそれを受け取ろうとはしない。それよりはアントニオ猪木の元気ですかー!?という大胆な叫びのほうを、否応無しに受け取ってしまう。ほかには例えば、まだ迫力の伴わない新人歌手の歌などもそうだ。その歌詞の内容がいかにシリアスなものであったとしても、それを僕たちは心の奥底に受け取ろうとはしない。受け取ろうとしても受け取れない。
これはもちろん、くどくど言わなくても当たり前のことなのだ。存在感のないものは、存在していると感じ取ることができないわけだから、そこからのメッセージを、僕たちはどのようにしても受け取ることができない。行き詰まって空回りしているおっさんの長時間の愚痴より、遠くに聞こえた赤ん坊の一鳴きのほうを、切実なものとして僕たちは受け取るようにできている。
そんなわけだから、存在感が問題なのだ。
あなたの想いやあなたの言葉、あなたの愛を尽くした態度があったとして、それが届くかどうかがまず問題だ。想いを届かせるというのはそんなに簡単なことではないのだ。土台になる存在感がなければ、いかな工夫も情熱も空転して鬱屈してしまう。
大変難しい話をしている。
僕としてここのところを精一杯、なんとか伝えようとするならば、それはおそらく「地続き」という感覚だ。世界から切り離されていない者が、同じく切り離されていない者に、何かを伝えようとするならば、どこにも切断がないがゆえに、それは地続きという感触で行われるはずである。このことはこれ以上説明する気にもなれないが、実際にそのようなコミュニケートが行われたとき、それは確かに地続きという感触の中で行われる。
これはなんとなくのイメージの話ではない。本当に、地続きなのだ。
だからまず、つながってあることを感じていなくてはいけないのだ。あれこれと言葉を交わしたりするのは、あくまでその状態だから意味がある。
つながるというのは、単に目の前にいる相手にではない。まず自分のいる空間、まず自分を取り巻いている空気とつながることなのだ。
その空気とつながった先、空間とつながった先に、人はいる。そしてその人ととも、同様につながっていく。それが地続きということだ。そしてその地続きという状態が、人と人とを共鳴させる。
この人と人との共鳴というのは、奇跡でもなんでもない。自分という存在を世界から切り離さず、つながってあると正しく感じていれば、当たり前のこととして起こってくる。起こさないことは不可能だといってもいい。
ここに一本の棒があったとして、あなたがその一端を押し引きすれば、もう一方の端も同時に動く。それは棒自体がつながって一本のものであるからであって、当たり前の現象だ。人と人との共鳴現象も、そのレベルにおいて当たり前の現象なのだ。
おおよそ信じてもらえないようなことがある。僕だけが知っていればいいとも思うが、変人扱いを覚悟で僕は正直に言う。あなたが愉快に笑うとき、完全に同じタイミングで、僕も愉快に笑っているのだ。表面上は笑っていなくても、笑っている。僕が「こんにちは」と発声するとき、あなたも同時にこんにちはと発声している。声は聞こえなくても、発声しているのだ。
これは、相手が笑えばこちらもつられて笑ってしまう、というようなことを言っているのではない。あくまで「同時に」起こっているということの話だ。自分の中で起こっている現象は、実は他人の中でもまったく同時に、まったく同様に起こっている。
僕はスピリチュアルな話をしているのでもないし、何かしらの宗教的な意見として言っているのでもない。そういう現象が実際にあって、それは「地続き」だから当たり前の現象だということだ。
僕はこれを独自の言葉で、「同時共鳴」と呼ぼうと思う。
あなたの言葉は、あなたから出ているだけでは意味がない。それはただの「意見」だ。本当に伝えるということは、相手の中にも同じ言葉を共鳴的に湧き起こさなくてはいけないということだ。また相手の言葉を本当に聞くということは、自分の中にも同じ言葉を共鳴的に湧き起こさなくてはならないということだ。
この同時共鳴というやつは、なんとなくの現象ではない。起こっているときは感覚としてはっきり自分でわかる。
人と人とがコミュニケートすること、あるいは愛し合うことの何が楽しいのかといえば、この同時共鳴自体が快楽であり、感動的であるからなのだろう。
存在感、ということをずっと話している。
存在感のある人というのは、人に共鳴を起こさせる人のことだ。
「現実的」になっても、あなたに存在感は生まれない
「浮いた」存在、世界から切り離された状態にある者は、存在感を持ち得ない。この状態は孤独であり危機だ。方法は提案できないが、とにかく脱出するべき状態だと思う。
浮いた存在というのは、たとえば軽佻浮薄な者、と言い換えることもできる。わかりやすくいうなら「チャラい奴」なんかが例えばそれだ。僕たちはチャラい奴に存在感を覚えないし、また存在感がないのに外見や振る舞いだけが派手なものをチャラいと呼ぶのでもある。浮いた存在というのは具体的にはそういうのがひとつだ。
そのほかにも、オタク系アニメやゲームの世界に逃避しきっている者は言うにおよばず、引きこもり気質の者、臆病で引っ込み思案である者、気勢はよいが傍若無人である者、独りよがりな上司や恬淡とした個人主義者などもそうだ。そのほかには、夢見がちな世界平和を希求活動する者や、貧血気味のボランティアラーなどにもそういう類の者は多いし、さらには本来は誰よりも世界とつながっていなくてはならない、表現者、舞台に立つ者や僕のような物書き気取りの者にも、世界から切り離され、浮いたままでいる者はいる。
繰り返すまでもないが、これら浮いた者たちの思いや言葉は誰にも受け取られることがない。それは周囲が冷たいのではなくて、伝えるとか受け取るとかいう現象が本質的には同時共鳴によるものであるから、それは世界から切り離された地続きでない状態ではなしえないというだけのことなのだ。
さて、世界から切り離されるという状態がそのようであったとして、この状態から脱出しようとすると、これはそう簡単な話ではない。どのようにすれば、というような話は展開できない。野生動物のようになれればいいのだろうが、それは理解はできても実現が難しい。
少なくとも言えることは、いわゆる「現実的になる」というようなことで、世界とのつながりが回復できるわけではないということだ。早めに結婚して子供を作って家のローンをしっかり払って、それをしていかにも現実的に生きているように一般的には見えるけれども、そのことは世界とのつながりを回復することには直接には役に立たない。野暮な話だが、このことはいかにも誤解されてしまいそうなので、あえてここに但し書きしておくことにした。「現実的」になっても、あなたに存在感は生まれない。唯一有効な現実的認識があるとすれば、自分はいつか死ぬ、ということの認識ぐらいだが、なぜかこのことは逆に一般的には「現実的」と扱われない。
よく、二十代の後半ぐらいになって、自分がどのように生きるべきなのかの手ごたえを失い、その焦りからそういう現実的な側面を固めていこうとする手合いがある。自分に生きていることの充実感がないのは、要するにフワフワしているからだと気づき、それをなんとかしようとして、いわゆる「先に進みたい」というような衝動で、結婚・出産・住宅ローンなどで自分を固定しようと試みる手合いだ。このあたりのことは、それぞれの生き方なので勝手にすればよいわけだが、少なくともそれによって、世界とのつながりが回復するわけでは決してないと、そのことだけを僕は申し上げることができる。自分がフワフワしているから充実感がない、という感覚まではまったく正しいのだ。ただそれを、社会的な固定力によって着地させられるかというと、それは見立て違いということになる。
世界とのつながりを回復させるには、そういう短絡的な発想ではダメだ。あなたと世界のつながりは、まずあなたの身体を取り巻く空気がその第一としてある。まずは自分の内臓とその空気をつなぎ、そして自分の内臓と自分の今いる空間全体とをつなぐことだ。つながっていることに気づけ、ということでもある。あなたの内臓とあなたのいる空間に実のところ境目はない。切断されていると思うのはあなたの思い込みだ。あなたの内臓もあなたの部屋の一部だし、あなたの部屋もあなたの内臓の一部だ。目の前にいる人とあなたの内臓もつながっているし、目の前にいる人もあなたの内臓だ。別々にあるものがつながっているのではなく、つながってひとつであるということだ。それが「地続き」ということである。
わけのわからん話だと思うが、ウソをつかずにいくなら僕はこう言うしか本当にないのだ。
端的に言えば、セックスするときは目の前にいる人と内臓的な結合をするが、セックス以前にもそれはありえるということだ。セックスが正しい意味で結合を実現すると、自分と相手との境目がわからなくなって溶けてくっついてしまうような感覚になるが、そのような感覚は実はもともとあるべきものであって、別に愛のあるセックスが引き起こす神秘とかいうものではまったくないのだ。
くれぐれも言うが、その結合というのは、何もつながろうとしてつながるというような、「みんな、つながっていきましょう!」というような、おばちゃん的な博愛主義として言っているのではない。もともと自分と世界もその世界にいる誰かとも、切断されて存在しているわけではないということの再確認でしかないし、また切断されていないがゆえの現象も、気づきにくいだけで実際に起こっているということの指摘にすぎない。観念的な話でもないし、精神的な話でもない。
またこうして説明して、すんなり伝わる話でもない。
要するに、受け入れがたい事実の話をしているのだ。
相手に何かを伝えようとするとき、自分の心だけをどのように使っても、またどのように言葉を凝らしても、それだけでは無意味だ。相手に何かを伝えるということはむしろ逆、「相手の心を使う」ということである。「地続き」ということを思い出してもらえれば明らかなように、自分の心と相手の心が地続きであれば、自分の心を動かすことと相手の心を動かすことは同時に発生していなくてはならない。
それが「当たり前」なのだ。
桑田佳祐が「いとしのエリー」を歌うと、聞いているものはおかしな気分になってくる。それは僕たちがその音楽芸術を聞いて感心しているというようなことではない。桑田佳祐が聞き手の心とつながってあり、桑田佳祐が僕たちの中に音楽や言葉を同時発生させているから、僕たちはおかしな気分になるのだ。
だから一流の歌手には存在感があるし、僕たちは会ったこともない彼らを赤の他人とは感じないのである。
僕とあなたが目の前にいるとき、二人は同じボートの上に乗っている。僕がボートを揺らしたら、あなたも「同時」に揺れざるを得ない。要はそのような同時共鳴を、感じていけるのか、生かしていけるのかという問題だ。
ボートを揺らし揺らされて、同時に共鳴を起こせるにしても、そのことに気づかない人がいる。
それが、ボートから「浮いて」しまっているということだ。そのような人は、ボートに乗っているのかいないのか、「存在感」がない。どれだけ至近距離にいても、一緒にいる、ということにはならない。
わたしに立場を与えてよ、それによって存在感を持たせてよ、と歎いている
さて、そろそろ最後のこととして、存在感ということについて、その変形についてお話しておきたい。僕たちは存在感のない者と絆を持つことができないと言った。その「存在感」というものは本来、世界とつながってある者が、人に同時共鳴を起こすことによって創り出されてくる感覚だ。
しかし、この感覚を人工的に、システム的に創ることもある意味では可能である。
それが「立場」だ。
人間は単なる動物ではなく、社会的な動物だ。その社会的というところは、精神のかなり深いところまで根が張っていて、「社会」というのが実際にこの宇宙に存在すると思い込むところまで行き着いている。よくよく考えると、僕たちの意識が死滅すれば社会というものはなくなってしまうもので、あくまで形而上の概念でしかないのだが、僕たちは日常的にはそこまで思いを馳せないものだ。そんなことをしていたら社会不適合者になることは確実であるから、逆にそんなことは普段考えないほうがいいものだろう。
その「社会」においては、人はそれぞれ個体としての存在ではなく、それぞれに「立場」を持ったものだとして認識されている。例えば僕たちは日本国民で、学生であったり社会人であったり、父親と子供であったり、○○という名字を持つ家の者であったり、企業の社員であったり、ある交友関係の友達であったりする。
そして僕たちは日常的に、その「立場」に存在感を依存するようになっている。端的に言えばクラスメートや会社の同僚などがそうだ。「社会」があって「学校」や「会社」があり、そこに「つながっている」ということで、その者の存在感を認めるような仕組みになっている。同じ電車の車両に乗り合わせたというだけでは、同じメンバーであってももちろんそのような相互認識は生まれない。駅のホームに存在感のある人がもしいても、日常僕たちはそれを「関わりのない者」として無視するし、逆にもし存在感のない人間であっても、それが会社の同僚であれば「つながっている」として僕たちはその存在感を認めるように形成されている。
あなたは小中学生だったころに、校外で学校の先生とばったり出くわしたことはないだろうか。もしそのような経験があったら、そのとき何ともいえない違和感を覚えたはずだ。学校ではごく親しく馴染んだ存在であったはずの先生が、とたんに赤の他人のような手ごたえで感じられてくる。
これなどがわかりやすい、僕たちが人の存在感について立場に依存しているということの証左だ。
このようなことがあるから、例えばよくある話、高校生の少女が学校の先生に恋をしたとして、高校を卒業後もその先生に対する恋心が継続するケースはとても少ない。それはもう、その先生が自分にとって先生ではなくなってしまうからだ。もし高校を卒業後、先生をデートに呼び出したら、ほとんどの場合はそのデートの現場で恋心は急激な崩壊を起こすだろう。実際にそのようなケースはよくある。例えば、スポーツジムのインストラクターと、外でデートしたらなんだかしっくりいかず急激に恋心が冷めたとか、お笑い芸人とデートしたら、舞台の上と全然違う人みたいだったとか、そんな話だ。このことは職場恋愛でもよくある。職場では秘する恋仲でうまくいっていたのに、一方が会社を辞めたとたん、これからは気兼ねなくやれるかと思いきや、二人の関係性が変わってしまって一気に崩壊した、というようなことだ。
たとえばあなたが、ある男性に飲み会に呼び出されたとする。そこには十人ぐらいの男性がいて、その男性らはみんな、そのあなたを呼び出した彼の後輩たちだったとしよう。その後輩らは、その彼をずいぶん慕っている様子。あなたはその飲み会で紅一点として参加するわけだ。そしてその帰り道に、その彼と二人きりで歩きながら、俺と付き合ってくれないか、と口説かれたとする。そのようなストーリーがあったとしたら、あなたはその彼についてグッと惹きつけられるところがあるのではなかろうか。それはあなたが、たくさんの後輩に慕われている彼、という彼の「立場」を彼の存在感の一部として認めているからだ。
そのようにして、僕たちは日常的に、人を「立場」において、その存在感を認めるというようなことをしている。
このことをして、ダメなことだ、と僕は言っているつもりではない。ただ仕組みについて説明しているに過ぎない。そしてその上で、このことが過ぎると、あるいはこのことに偏りすぎると、別の問題が起こってくるように思う。
それは人を「立場」でしか見られずに、個体としての存在感を受け取れないようになっていってしまうということだ。
後輩に慕われている彼の話を例にして、別の角度から続けてみよう。今度はもし、彼に誘われたとして、そのような後輩らの登場がなかったとする。その上で「付き合ってくれないか」と口説かれたとしたら、この場合は先のそれに比べて誘引力が弱くなってしまうのではないかという話だ。このことは一見当たり前のことのように見えるが、よくよく見ると僕たちの感性の鈍磨を示している。
本来のところを言えば、後輩の登場がなかったとしても、その個体の存在感を受け取ったところで、「ああこの人は後輩に好かれるだろうな」と感じ取れなくてはならないのだ。その上で、先の場合も後の場合も、同様に魅力を感じるようでなくては、人を見る目が立場のそれに依存してしまっていることになる。
そうなるとすでに、純粋な個体と個体として向き合うことができなくなっているという状態だ。そのような状態のまま交際が進行すると、たとえば結婚してから相手が豹変したように感じられたりするようなことが出てくる。
本来、結婚届を役所に提出したからといって、個体として何かが変わるわけではないのだ。変わるのは「立場」である。立場で人の存在を受け取っている人は、立場が変わるごとに、人が変わったように感じざるを得なくなる。
存在感、という本来のところを思い出してみる。存在感とは、お互いが世界から切り離されずに地続きにあり、その結果として同時共鳴が起こることで創り出されてくる感覚だ。お互いがお互いの内臓であるかのような感覚で付き合いをする。このことをまた、内臓であるからには、「身内」と呼ぶようなことも自然だ。
僕の知る限り、このような状態でのコミュニケートを、十分にできている人はほとんどいない。それぞれがお互いに仲良くしようと努力はするが、根本的にお互いが切断されてしまっているところを超えることはできない。
その意味では、現在、ほとんどの人が本質的に孤独だ。
その孤独の中で、どのようにして絶望せずに生きているか。それは残念ながら、お互いをお互いの「立場」において認識し、その存在感を認めるというようなやり方でしのいでいるというのが現状だ。あなたは同僚を同僚としてつながっている者としているし、同僚もあなたを同じような認識において認めている。このことはわかりやすく言うならば、世間というベースでつながっていると言っても差し支えない。世界を土台にして地続きにあるのではなく、世間という仕組みを土台にして理論的につながっているのだ。
このような構図があるから、現今で「立場」を失った者は正気を失う。社会的な「立場」を引き剥がされると、同時に自分の「存在感」も奪われる形になり、強烈な孤独に晒されるのだ。最近身近に感じられてくる、反社会的・報復的な意図の見える凶行犯罪や、引きこもりや果てしなく陰鬱な気分に沈んでいく者たちは、ほとんどがその社会的な「立場」を失ったところから錯乱を開始している。大企業の社長が包丁を持って暴れまわったという話はどこにもない。それは決して、大企業の社長のほうが、心の教育とやらが行き届いていたからではないだろう。
話が膨らんでしまった。ここでは社会情勢的な問題は関係ないし、僕としてもそちら方面に意見を述べたい気持ちはまったくない。僕たちはそれぞれに、立場なしに生きていけるほど強力な存在ではないので、立場のない者に同情しようというよりは、お互いに自分の立場をしっかり作ることはしていこう、とむしろ申し上げたい気分でいる。
ただそのような現状があったとして、あくまで単純に、人を立場ベースでしか受け取られないのはつまらないことだと思う。
あなたは今までに色んな人に会い、多くの人とは関わることなく、忘れていったことだろう。
でもその多くの彼らは本当に、あなたにとって全てつながらないまま捨ててよい、忘れてよい人たちだったのだろうか?
僕たちはそれぞれに、立場から離れた人とのつながりにあこがれているところがある。ナイト・クラブで出会った人や、海外旅行で出会った人など、そういう人と、純粋な絆を結べたらと、そのことを夢想しているところがある。
ところがそのような、立場から離れたお互いの間で、存在感を与え合うのはむつかしい。今の僕たちではものすごく難しいことだ。よしんば一時は心が通じ合うことがあったとしても、その関係のままい続けることは困難だ。少しでも人生に不安が差せば、「付き合う」というような立場を設定せずにはいられないぐらい、世界から自分を切り離してしまっている。
ついでにここで、「付き合いたい」ということについて。単に愛し合いたいということから気持ちがズレて、付き合いたい、彼氏彼女になりたいと思い始めるのは、自分の存在感を「立場」として認めてもらいたいと思い始めているからだ。それは裏側としては、すでにお互いがお互いの個体として向き合い、存在感を与え合うということが希薄になってきているから、ということでもある。お互いが十分に同時共鳴しあっている状態であれば「付き合う」なんて立場の設定は必要ない。
誰とも付き合ったことがない、ということで悩む人がいる。悩むというか、苦しむ人がいる。ここで苦しむ人は、自分の存在感の無さに苦しみ、孤独に苦しんでいる。誰かに認めてもらいたいのだ。本来的な意味での存在感、同時共鳴なんてもはやどうでもいいし、そんなことを信じる気にはなれない。それよりも誰か、わたしに立場を与えてよ、それによって存在感を持たせてよ、と歎いている。
最近は「立場」が「無職」であるとか「恋人がいない」とかで、その存在感が空虚で絶望的だとする心理傾向が世の中全体で隆盛しているが、この傾向はこれからますます加速するだろう。本来的な存在感の仕組みが取り戻されない限り、存在感は「立場」ベースでのそれに単一化されざるを得ない。であるからには、これからどんどん、誰もが「立場」を求め「立場」を要求する、いわば渇望の姿勢になってくる。愛し合うなんてことは二の次どころか無視されて埋葬されることになってゆくだろう。同時共鳴なんて体験したことないし、信用する気にならないわということは、愛なんて体験したことないし信用する気になれないわ、と言っているのと同じだ。
同時共鳴が無いのであれば、それはもうやむを得ない。付き合うという関係を大事にして、やがては結婚などを見据えながら、クリスマスには高価なプレゼントなどをして、それをして「あなたは私にとって存在感があるのです」という証拠にして、繰り返し提出していくより他に無い。
これらことについて、どうこうしよう、という提案は僕からはない。
ただ僕としては、同時共鳴という現象は確かにある、ということを述べるだけにとどめたい。そして僕自身としては、その現象をずっと大切にしていきたいと思う。ただそれだけだ。
今もなお、「存在感」のある人は実際にいる。
視線を重ねるだけで、言葉を交わすだけで、ビリビリきて忘れられない人がいる。
彼女の言葉は僕の言葉として、僕の声は彼女の声として、同時に発生して、二人には継ぎ目がなかった。
同時共鳴。
僕には何の立場も無い。
僕の声は、あなたに届いていますか。
[了]