No.141 使い捨てシャテルドン
あたしは誰でしょう? ……、はい、正解です。正解だけど、もうやめてね。今からもう、あたしはそれじゃなくなるから。女? うーん女でもないな、もっと純粋なものだよ。肉だね。肉のカタマリ。よろしくね。
そんなやりとりをしてから、彼女は僕の身体をしゃぶってくれた。彼女にというより肉のカタマリにしゃぶってもらったことになる。そうなれば僕も肉のカタマリだ。うぞぞぞぞ、と体中に快感が走った。彼女は香水に漬け込んだような上等でフレッシュな肉のカタマリだ。僕は彼女が正しいと思った。
ホテルの部屋に通されて驚いた。日当たりのよい、石造りの清潔な部屋に見える。ところがベージュのカーテンを開いてみると、そこには窓が無く、さらには壁自体も無かったのだ。外界に開け放たれたそれは、十三階にある天空ガレージといった様子。いつでも飛び降り自殺ができる。ワゴンにあった重たい円柱のようなグラスを試しにそこから投げてみると、当たり前たがグラスは落下して視界からスッと消えた。十数秒後、かすかにガラスの砕ける音がしたかもしれない。
好きな男がきらいなの、と彼女は言った。これはある種の告白よ、とも。
「きらいな人とも燃えるのよ。好きでもないのに、されてる、させられてる、なんてね。手抜きせず思いっきりやるのよ。そしたらもう、自分が何をやってるのか、あたし自身が意味不明になるの。あたしは本当は生きてなんかなくて、あたしの意志なんて本当は無いんじゃないの? って気分になる。そうしてめちゃくちゃになってやるのね。それでも終わってみると、あたしは確かにあるのよ。する前も後も、何も変わってないの」
彼女はそう告白して、言っちゃった、これ内緒よ、と恥ずかしそうにした。僕はフウムと唸るばかりで、素直に感心した。頬に紅が差した彼女は冗談や思い付きを言っている気配ではなく、また生気に満ちていたので、それでいいんだろうなと思った。そして、こんな女に勝てるわけがないよな誰も、と肩をすくめてみせたりして、ナルホドな、と僕は得意のうっとうしい論評をした。
魂を込めるというか、投げ入れるってことだね。なるほどお前の言うように、魂を込めたり投げ入れたりしたら死ぬよ。死なないなら、魂を使ったことにはならないものな。となると……お前は毎回死んでるのか。死んで、そのたび生まれ変わってるってことか。それがお前にとって、グッときてしまうことなんだな。
そう! そういうこと! あんた頭いいね、本当に頭いいね! 彼女は大声を出して応えた。こんなことなら初めから相談してればよかった、ずいぶん長いことあたしなりに悩んだり考えたりしたんだよ。それを一発で解き明かされるとはね。うーん、あなたは本物だよ。もうそれはよくよくわかった。だから何でもしてあげる。何でも命令していいよ。
僕は彼女にコーヒーを淹れるように命令した。彼女はササッと動いて、速やかに命令に従った。
せっかくなので、キャビネットにあるミネラルウォーターの、一番高いやつを使ってコーヒーを淹れてもらったが、味はあまり変わらなかった。炭酸がよくなかったかもしれない。
コーヒーを飲みながら、彼女をまず裸にさせて、それを鑑賞することにした。意外にも彼女は恥ずかしがったので、もっと鑑賞される者として真剣になるように、と命令した。言ってる自分がアホみたいで笑いをこらえるのが大変だった。彼女は身体のあちこちを、隠したり見せたり工夫してみる。その後も色々命令して、いけないシチュエーションを演出してみようとしたが、案外思い切ったアイディアは出てこず、難しいもんだなと思った。外に広がる天気が良すぎたというのもあるかもしれない。枠に切り取られた四角い青空は、叩けば折れそうなぐらい硬くて純粋な青色だった。
彼女が肉のカタマリとして、無制限にキスをくれる。乾けば湿り気を与えてくれるし、冷えないように高い体温もくれた。僕から触れれば芯に響く声もくれる。それらの全ては、確かに肉のカタマリそのものの働きだった。心なんかこもっていない。一呼吸ごとに全てを僕に与えて死に、また生まれ変わって与え続けてくれているのがよくわかった。彼女に触れていると僕も肉のカタマリになる。そのうち二人の境目はよくわからなくなって、そのうちシーツとも一緒くたになってしまい、自意識が朦朧として溶け出し、やがて陽が落ちて空も部屋も赤紫色に染まってしまうと、一瞬その赤い空とも一緒くたになりそうになった。
あっ、と世界が一瞬わかった気がして、同時に「危ない」とも思った。すぐに引き返して、彼女と普通のキスをする。体力が尽きて二人して抜け殻のようになったころ、一瞬危ないときなかった? と彼女に聞くと、あったね、と彼女は応えた。
彼女は昼間、正社員として仕事をしている。某シネマ・コンプレックスの受付だ。お気に入りの化粧品を集めるのが趣味で、父親と仲が良い。
名前は、ある画家と同姓同名なのだが、これ以上言うと誰だかバレてしまう。
僕と彼女は精根尽き果てたふらふらの足取りで地下鉄のコンコースを歩いた。手をつないでも何も感じられないぐらい二人して全てを使い果たしていた。
人身事故で電車が遅れている。深いホームには夜中まで忙しそうなサラリーマンの人たちがいて、携帯端末と合体したまま右往左往してコンクリートを踏んでいた。難しい顔や赤ら顔をして、表情の展覧会だ。
ねえ、と彼女が改めて言う。彼女の眼は精根尽きてそれだけに透明であり、声も同様に透明のものとして響いた。はっきりした声だが、周りの誰にも聞こえはしまい。
世界って、本当にわからなくない? わかっている気に、普段はなってるけどさ……
ああ、わからないね。誰かに聞いてみたいものだけど、どう聞いたらいいのかさえわからない。
電光掲示板に電車の遅れについての表示が流れる。目の前にうごめく百鬼夜行めいた表情のさまざまを含めて、僕は一瞬全てが未だ解読されていない、古代文明のクサビ形文字に見えた。
わからないね。だからまあ、むつかしいことは、わかってる人たちにお任せしようや。
僕と彼女はそのようにし合意して別れた。一人になると益々尽き果てた気勢は弱く、足元はふらふらとおぼつかない。
足元が足元として感じられなくなっている。
そのギリギリの意識の中で僕はなんとか確認し記憶にとどめようとした。
魂は使い捨てでいいんだな。
この確認だけがしたかった。
まもなく二番線に、電車が到着いたします。
[了]