No.142 こころの9
あなたの真剣な思いを受け取りました。あなたがその、ひねくれたふうの態度を見せながら、内心でそのような、大事な大事な世界を抱えて、それでもなお生きていたとは。あなたから感じるあなたの気配、いとおしい者に感じられてならないその気配は、全てそこからきていたのですね。やあ、僕の見立ては間違っていなかった。僕はあなたがときほぐされて、ホロリとあなたの本性を見たとき、おなかの底からジンとぬくもってたまらないような、一種の無敵状態を味わったのです。思えば僕たちにとって、誰かとつながるということ、心通わせるというのはそもそもそういうことでありました。ワカルワカル! ワタシモワカル! そのようにさえずる、罪の無い人たちと、僕たちは心を切らずにして、なんとかやりくりしていこうではありませんか。前途洋洋! 僕はあなたが大好きですが、このことには使い道もありませんので、石に刻んで海中深く、沈めてあなたへの祈りに捧げます。
海峡を越えて今立つ君へ、僕はこの近日に知ったことを、あわててあなたに伝えたく思います。僕たちを騙し続けてきた、この壮大なトリックについて。曖昧なたとえ話は無しにしましょう。具体的で科学的な話、僕たちの中にはそれぞれ二種の、分断した「わたし」がいたのです。一つには「意志」というわたし。もうひとつには、「こころ」というわたし。結局は、この相克が僕たちの、苦しみにせよ喜びにせよ、全ての原理だったのです。僕たちが際限なく悩み続け、解決のメドも立たないのは、やはりここ。僕たちは今や、こころの声を聴くことができなくなったのであります。あらゆるシーンで聞き取られている、心の声のように扱われるそれらは、実はこころの声ではありません。それは、意志の「わめき」です。こんなのイヤだ! なんでそうなの!? こうすればいいのに!! なぜできないの!? こうしてわめいているだけで、これはこころではありません。僕たちの意志のわめきは今や大変に大きくなり、こころの声を聴き取るところではありません。意志はあなたの頭部、眉間の辺りに宿っているものですが、これは今や一万ボルトぐらいの大電圧になっています。一方で、臍の下にひっそりとある、あなたのこころの電圧は、せいぜい100ボルトぐらいしかありません。このようなとき、大は小をねじ伏せるでしょう。
その眉間の電圧を、あなたは下げることができますか? こびりついた悪霊を、鉱水で洗い流すように、すっと無垢になれますか? それは難しいことですが、あなたならきっとできそうな気がします。呼吸するたびにおなかの底に熱を送り、こころの電圧を上げてゆき、ついには電流の流れを逆転させる。意志からこころへではなく、こころから意志へ! このことは、あなたに真の革命を授けるでしょう。あなたはまったくの別人になります。背伸びをすることや鼻歌を歌うことですら、あなたの知らない原理によって動き始め、あなたはそれらの自分自身の働きに驚かれるでしょう。まるで自分が自分ではないみたい、きっとあなたはそう感じて、眼を丸くさせるはず。そしてすぐにでも気づかれることですが、それはあなたが別人になったわけではないのです。今までが別人だったと、ただそれだけのことなのです。
僕たちはよくお話をしますね。誰かと分かり合おうとして、お互いに本来の自分たちをつなぎ合わせようとして。そのとき、本当にわかり合うべき、伝わりあうべきは、やはりこころであって意志ではないのです。僕たちが普段、意志の表れとしてあれこれ発言したりあれこれ振る舞ったりしているのは、これらは全て、冗談みたいなもの。だからほら僕たちは、あえて冗談を言う人が好きでしょう。冗談の通じない人と、深い溝を感じてしまうでしょう。
あなたが穏やかな航海の途中、夜半に物思うとき、無聊の慰めの題材になればよい。そのように思って、僕はこのことを詳しく説明します。ダーリン、あなたも僕も、全体性を持っています。全体性を10だとしたら、意志が1、こころが9です。僕たちが意図的に表現できるのは、このちっぽけな1のほうでしかありません。こころの9は、僕たちに与えられたものであって、僕たちが作り出したものではない。例えばほら、あなたはあなたの飼っていたウサギを、その寿命で亡くしたとき、深く悲しみましたけれども、その悲しみは、あなたの意図にまったく関わるものではないでしょう? こころの全ては、僕たちにひたすら与えられたものですから、僕たちが勝手に細工することはできません。せいぜい与えられたものを受け取って、あとは散らからないように片付けてゆくぐらいしかできないだろうと思います。
僕たちは本来、その意志の1とこころの9をもって、その全体性を、相互に理解しあう能力を持っています。全体性、これはキーワードです。例えばほら、有段者が書いた書画はすべて、整えられて格好よく、全体のバランスがよいものだと、あなたは見た瞬間にも理解できるでしょう。それがあなたの、全体性把握能力です。このような能力をもって、あなたは人を見ています。本来は、という話です。ここのところが、近年はしっちゃかめっちゃかになって、解きほぐして説明することが、困難になっているわけですが……
こころの声が聞き取れなくなった僕たちは、ついつい、意志の1だけを受け取って、それにグムムと思案したりします。何しろそれは一万ボルトにも帯電していて、それだけでかなり無視しがたい熱気を放っていますから。うかつに触れると、それだけでシビレて、こちらの神経も麻痺しそうです。ところがその1だけを見つめるうち、あなたの眼はますます曇ってくるでしょう。あなたはその帯電した1だけを見つめて、目を奪われ、でも同時に、何かおかしいなァとも感じているのです。残りの9のことをどこかで知りつつ、そのことを忘れ、何だっけか、何かおかしいんだよと、ひたすら思案しています。
ここのところを聞いてくださいよ!
意志という1。それは例えば、このような言葉としてありえます。―――僕は彼女に、何の未練も無いからね! さてこのような言葉があったとき、あなたはその背後にある9を、本能的に感じ取らずにはいられないはず。あなたはその彼の全体性を瞬時にも感じ取って、ああ本当は未練があるのだなと感じ取ります。そしてそのようにして、声高に引きつって提出されざるを得なかった1をして、その背後にある9に、悲哀やその他のやりきれなさを見るでしょう。すなわちあなたは彼の意志1を見ず、こころ9を主体として見ているのです。そしてその全体性において、1と9とがマッチしていないことを見て、この者を格好の悪いものだと見るわけです。それはまるで、訓練をせず心も疲れさせたままの者が、あわてて振るった毛筆の書のように、歪んで崩れて、バランスを失っているものだと見えるわけです。
僕たちは表面上、そのようにして、意志の1のみを相互にやりとりしますね。でも本当にそこに深みや旨みが出てくれば、僕たちのやりとりは内部的にはその10倍にも至るのです。1をやりとりしているつもりなのに、その裏側では知らないうちの9のやりとりが起こっている。そうです、これはいつか僕が話した、造語としてカウンター・コミュニケーションと呼んでいたものです。伝えた言葉が表面上無視され、秘めていたもの、隠していたものの手触りのほうが伝わってしまうこと。このことの現象は、あなたも思い出せばよくよくご存知のはず。何よりも、あなたが愛したこころの現象でしたから。
瀋陽黄石の階段、あそこで話した十人の会談は、僕たちをしばらく無敵にしました。身体の奥底に火がともって、夕暮れに雁の群れが照り映えて、十人が静けさを極めました。あのときのことを覚えていますね? これからも忘れないでいてください、僕たちは本来、誰かと心通い合わせるだけで、そのようなほとばしりの中を生きられるのです。あのとき僕たちは、何かのためにそうして熱くなったのではありませんでした。何のためでもなく、ただ心通い合わせて熱くなり、その結果、俺たちには何でもできるだろうという、無敵状態になったのでした。ここの前後を、あなたはこれからも見失わないでください。心を通い合わせることだけが目的です。僕は思えば、最後に告白申し上げるところ、あなたと握手をするためだけに、この世に生まれてきたのでもありました。
さて今や、誰もが人の話を最後まで聞くことができなくなりました。最後までというのは、1から10までということですが、今やその1さえも、最後まで聴き遂げられない人が無数にいます。それはそうでしょう、何しろ誰もが、自分のこころの声さえも、聞き取れなくなったわけですから、余裕を失い混乱して当たり前だと言えます。このことはきっと、ダーリン、他の誰かの花嫁となる君へ、あなたのゆく海の向こうでも同じことでしょう。その結果、誰も彼もがやかましく、ノイジィになってきています。自分の声が誰にも聴き取られないがため、ひたすらそのヴォリュームを上げようとしているのです。それはもう、狭いレストランでアルコールを流し込み、最新の通信機器を駆使してでも、手段を選ばず、誰も彼も必死なのです。
彼らには、自分のこころの声さえ聞こえない。誰も彼も、こころは「さびしいよ」と言っているのです。寂しさの大合唱が、駅向かいの広場にもすぐあります。今日もまた、雪花亭ではグラスが二個割れました。底を青く染めたあのグラスは、甲高い音を持って割れ砕けたはずでしたが、その音さえも聞こえたのかどうなのか。聴き取られない無数のこころが、似たような音を立てて割れているものですから、グラスの二個程度の音も、もはや聴き取られなかったかもしれません。
あなたに僕のこころが、いくらかでも汲み上げていただけるものと信じて、そろそろこのあたりで筆を置きます。
腰に汗をかいてしまいました。
さようなら、いい旅を過ごしてください。
[了]