No.144 田舎者と淑女
僕たちが恋愛を、いや恋愛だけでないけれども、考えるとき、二種類の考え方が存在する。一つには、この世界に生きるものとして考える方法。もうひとつには、田舎者として田舎のルールで考える方法だ。僕たちはこの枠組みの二重になった中を生きているのである。そして僕は、田舎者のスタイルが苦手だ。
田舎者とは何か? それは他者を認識しない世界観の中にいる人のことを指す。たとえば「結婚が女の幸せなのよ」と、奇妙な熱気でこちらを諭そうとするおばちゃんがいたとしよう。これが田舎者だ。なぜ田舎者かというと、そのおばちゃんの説、「結婚が女の幸せなのよ」という説は、おばちゃんの認識する狭い世界でしか通用しないからだ。おばちゃんの説で言うと、生涯独身だったマザーテレサやナイチンゲールも不幸だったということになる。しかし世界中の誰に聞いても、そのおばちゃんよりマザーテレサのほうが不幸だったとは思わないだろう。おばちゃんの説は、そういう視野に立つと純粋に間違っているのである。おばちゃん自身がなぜその間違いに気づかず、いや気づかないというよりは間違いではないと確信しているのかというと、それはおばちゃんはそういう他者が世界にいるということを認識の中に入れていないからだ。「それはガイジンさんや偉人さんの話で、ウチらの話じゃないでしょう?」と、別世界の出来事にしているのである。だからおばちゃんは自覚的にはウソを言っているつもりはないのだ。おばちゃんは純粋な善意としてあなたに結婚幸福説を諭しているのであって、さらには同時に、「あなたもウチらの世界にいらっしゃい」と、言外にあなたに誘いかけているのでもある。
田舎者はそのように、意図的にであれ文化的にであれ、閉鎖された世界観の中に住んでいる。そこにはキリストもブッダも意見を差し挟むことができない。田舎者たちは田舎のルールを独自に作り上げていて、それを最高の規範としてそれに逆らうことを認めない。これは例えば、古めかしい不動産屋などに行くとよくわかるだろう。不動産の賃貸などにまつわるルールで、最高裁の判例が出て新しいルールが示されたとしても、彼らは従来のルールを変えようとはまったくしない。「ウチはウチのやり方でいくから、文句があるなら出て行って」と、なりふりかまわずにでも主張してくる。彼らには商売上の都合もあるのだろうが、それにしてもその「対話の余地なし」という点がいかにも田舎者の精神であることは間違いない。田舎者は対話の余地を持っていないのだ。自分たちとは違うルールや考え方を持っている「他者」という存在を認めていない。だから対話という概念自体がないのだ。表面上は対話していても彼らの内実としては対話していない。相手の考えなんかまったく聞いていなくて、おばちゃんにとっては「結婚が女の幸せ」であって、不動産屋にとっては「更新料は借主が払うもの」、そのことは決して動かないのだ。そして彼らにとって、その話が分からない人は「世間知らず」であり「無知蒙昧」である。だから彼らは常に「諭す」という様子でこちらに語りかけてくるのだ。ある意味でそこは、カルト宗教の狂信者と似ているところがある。
くれぐれも誤解されたくないが、田舎に住んでいる人がそのまま田舎者になるというわけでは決してない。田舎にもかわいい女の子がいるが、このかわいい女の子は世界中のどこに連れて行ってもかわいいままだ。このように、どこにでも普遍的に通用するものを持っている人は田舎者ではない。かわいい女の子だけではなく、確かな技術を持っている外科医も、歌が本当に上手な歌手も田舎者にはならない。そこまで大げさなものでなくても、背筋がしゃんと伸びていてきれいな人や、声がしっかりしている人、心を開いて相手の眼を見られる人は、その態度自体が世界中のどこでも通用する。これらは田舎者ではない人たちであって、これはどこに生まれたとかどこに住んでいるとかに左右されない。
一方で、例えばいかにもありがちな、古臭い会社の古臭い営業所で、立場と人脈だけを豊かにそなえて、ふんぞりかえっているおじさんがいるだろう。これなどは典型的に田舎者である。こういう人は、マライア・キャリーともし一対一で話す機会があったとしたら、まともに通用する態度を持っていない。彼らの態度は社内でしか通用しないか、あるいは業界の風習の中でしか通用しない。中田英寿に「気持ち悪いな」と言われたらそれでおしまいになってしまう。また彼ら田舎者は、そのことを内心でこっそり知っているから、自分の住む世界より外にはまったく出ないようにしているのでもある。
またこのことは、さらに卑近な例として、女の子のグループなどにおいても発生する。女の子のグループ内で、「ウチら無駄にガッツあるよね」とか「○○ちゃんって超しっかりしてるし頭いいし、自分の意見をはっきりわかりやすく言うよね」とか言い合っていても、それが就職活動の面接官の前に出たらシュンとなってうつむいてしまうことはよくある。それは彼女らが、彼女らで形成した世界の中だけで生きてきたからだ。外部に通用する態度を持っているわけではないのである。ちなみに学生の就職活動で、面接がまったくうまくゆかないのはほとんどがこのタイプに当てはまる。面接が苦手とかいうことではなくて、単に「他者」とコミュニケートする方法、他者に通用する態度を持っていないというだけのことがほとんどだ。
ある人をして、田舎者か否かを判断するとして。簡単なイメージで判断する方法がある。ある人、というかこれは自分自身でもいいのだが、その人をイメージの中で、例えばフランス大統領の前に立たせてみることだ。通訳を挟んででもなんでもいい。その人は通用するだろうか? 何かイメージの中でそう組み合わせただけで、不安や恥ずかしさを覚えないだろうか?
そこで不安や恥ずかしさを覚えたとしたら、それはその人が普遍的に通用する態度を持ってはいないということだ。桑田佳祐をカーネギー・ホールに立たせても何の不安も覚えないが、安物のJ−POPを立たせると不安になるし恥ずかしくなる。それは田舎というか田舎者の世界で受けている評価とはまた別の評価を、僕たちが内心で隠し持っているということだ。
僕たちは二重の枠組みの中を生きている。一つには普遍的な世界としての枠組みで、もう一つには田舎者としての枠組みだ。これはどちらが正しいというものではなく、二重だ、とするのが一番正しいように僕は思う。僕は田舎者の枠組みが苦手だが、それをしてそんなものまったく意に介さないと決め付けてかかるのも現実的ではないと思うからだ。女の子同士でキャッキャと遊ぶ、そういう枠組みもあっていいし、それができないとできないなりに不健全だ。ただその枠組みの中でしか通用しないというのも不健全である。だから結局、二重にある、と認識しておくより他に無い。
話は長くなったが、このことは実は恋愛の現場に大きな影響を及ぼしている。女子中学生などにはよくあることだが、誰か気になる人がいたとして、その人に話しかけられない、声がかけられないということがよくある。それは実は乙女心でもなんでもなく、単に自分のグループの外側にいる「他者」にアプローチする方法や態度を持っていないということなのだ。こういう人は色恋沙汰だけでなく、営業でも面接でも合コンでも同じ、「他者」にアプローチすること自体を苦手にしている。こうなると当然、その人の恋愛風景は貧しいものになる。身内や共同体内部の人間としかコミュニケートできないのであるから、そもそも人間関係の幅自体が極端に狭くなるだろう。
そういう人のために、元々は「お見合い」というシステムがあり、またそのシステムは今でもなお活発に機能しているのだ。お見合いというのは実によく出来ていて、男と女、その当事者が直接話すのではないのである。男を紹介する側の仲介者、女を紹介する仲介者の側が、それぞれに世間話をし、ときには当事者の一方にも話を振ったりするばかりで、当事者同士が会話するものではないのである。当事者同士のコミュニケートを推進するのではなく、まず「身内感」を作り出そうとするのがお見合いのやり方なのだ。簡単に言うと、あなたのお相手の彼ではなくて、その彼の父親があなたに熱心に話しかけてくるという状態を想像してもらったらいい。一方であなたの母親は、もう一方の当事者である彼に熱心に話しかけているのである。その中で、あなたは彼の話を、彼はあなたの話を、聞いているだけだ。そうして身内感を高めた後で、「じゃあ後は若い二人だけで」というお決まりの流れになる。これは実によく出来たシステムで、実際そういう手続きのほうが、初対面の人と直接いきなり話すよりは、ずいぶん話しやすいと想像される人は多いのではないか?
ちなみに言うと、合コンというシステムも内実としてはお見合いとよく似たものである。男性側女性側、それぞれの幹事が仲介者となるのだが、その仲介者がまずそれぞれに自己紹介を促すようなところから合コンは始まりがちだ。合コンはそのように、軟派なお見合いという構造を隠し持っているから、なんとなく恋人持ちは合コンに参加しにくいのである。これは海外でのパーティとはまったく違うところで、パーティで既婚者や恋人持ちはNGなんて話は聞いたことがないし、むしろパーティではステディの相手を連れて行くのが上級のマナーでさえある。合コンはおおよそそのように、お見合いというシステムに対する反発心を刺激しないように、今風にアレンジされた、結局はお見合い的なイベントであると言える。
ただし、やはりあくまで勘違いはされたくないが、僕は別にお見合いがクソだと言っているわけではないし、その変形である合コンがクソだと言っているわけでもないのだ。ただ先ほど言ったように、僕たちは二重の枠組みを生きているのであって、恋愛に取り組む大前提も、その枠組みにしたがって二重にありうるということを説明しているに過ぎない。お見合いで結婚するならすればいいし、実際にお見合い結婚をして幸せにやっている人を僕は直接に何人も知っている。ただ僕は、その二重の枠組みのうち、田舎者のやり方しか持っていない人は、そのことを自覚してゆかないと面倒くさいことになる、と言いたいだけだ。
少し前に、「冬のソナタ」というドラマに引きずられ、ヨン様ブームというのが起こった。そのブームの中で、明らかに年老いたおばちゃんが、空港までヨン様を出迎えに行ってキャーキャー言っていたことがあったが、それを見てあなたはゲッと思わなかっただろうか。そしてなぜとはなく、そのおばちゃんたちについて、あれこそまさに「田舎者」だと、そのように判断する感覚を持っていないだろうか。
そう、あれこそまさに田舎者で、それも面倒くさくなった田舎者の典型例なのだ。おばちゃんたちは田舎者として、田舎の枠組みの中だけで生き、その中でふんぞりかえったりもしながらも、その外側の世界に憧れを持ち続けていたのだ。そしてヨン様という存在はドラマの中で、わたしは他者ではないですよ、というような親しさの態度を視聴者に繰り返し示した。そのことで、抑圧されていたおばちゃんたちの憧れは大爆発してしまったのだ。おばちゃんたちも本当は、普遍的に通用するコミュニケーションの方法と、普遍的に通用する女の態度を手に入れたかったのである。もちろんそんな大爆発を起こしたとしても、おばちゃんたちが田舎者でなくなるわけではないのだけれども、とにかくおばちゃんたちは、外の世界につながれている気分と、他者とコミュニケートしている気分に浸りたかったのだ。それは単なるファンの心境ではない。それは本来、通用しない自分の態度が他者である相手に受け入れられると錯覚している、というか妄想しているのだから、ファンというよりは純粋にストーカーの心境だ。だから僕たちはその風景を見てゲッと素直な嫌悪感を覚えたのである。
田舎者であることがそれ自体悪いわけではないけれども、自覚が無いと面倒くさいことになるというのはそういうことだ。田舎者とは本来、外の世界のことはよくわからないままに、自分は田舎者だからと自覚しながら、つつましやかに生きているものだ。例えば農村で元気に働くおばあさんが、テレビカメラを向けられただけで真っ赤になったりする光景が番組で放映されたりするが、あれが自覚のある田舎者の姿である。おばあさんは「わ、わたしなんかがテレビに出ても……」と慌てている。それはかわいい光景で、ゲッと思うような人は一人もいない。このことは、また逆説的な話になるが、田舎者は田舎者だと自覚することで、逆に他者性を手に入れて、普遍的に通用する態度を手に入れてしまうということでもある。テレビカメラに慌てるおばあさんのかわいさは、世界のどこに持っていっても通用するだろう。あるいはおばあさんという話を離れて、農村の健康な女子高生が、テレビカメラを向けられて慌てて、顔を真っ赤にして照れ笑いしたら、無数の男子高校生が茶の間で恋をしてしまうはずだ。だから田舎者それ自体に難があるわけではない。あくまで「自覚のない田舎者」が面倒くさいことになるのである。
ヨン様に恋をした面倒くさいおばちゃんのほかには、典型的にはこういうのがある。テレビの中に向かって説教する人や、都会を軽蔑する人。若者のマナーに真剣に腹を立てたりする人、面接官の態度や面接というシステム自体に不平不満を持つ人。やたらに海外旅行に行く人も逆に閉鎖感に対するコンプレックスを抱えていることが多いし、人前で常にムッツリと不機嫌な顔をしている人も田舎者だ。なぜムッツリしている人が田舎者なのかというと、その表情では外の世界に通用しないからである。一人で豪華客船のパーティに参加したら絶対に表情を変えるだろう。このように端的に、内と外とで態度が違うのが、自覚の無い田舎者の典型的症状でもある。例えばDVで自分の嫁さんを殴る男は、街中で気に入らない通りすがりの女を殴るわけではない。あくまで自分が夫であって相手が嫁であるという枠組みの中でだけ暴力を振るえるのだ。そういう男は、外の世界では逆におとなしいことのほうが多い。自覚の無い田舎者は外の世界や他者との接触を恐れているので、他者の前ではおとなしくなるのである。
自覚の無い田舎者という存在について、これにだけは絶対になるなと、ここまでしつこく警鐘を鳴らしてしまった。くどくどしい気がするが、僕はそれぐらい無自覚な田舎者が苦手なのだ。苦手どころか、僕は恐怖さえ覚えたりする。自覚の無い田舎者は、田舎の風習を世界のルールと錯覚して、善意的に押し付けにくるのだが、それに流されて一緒に田舎者になってしまうと、自分の中の重要なエネルギー源が断たれてしまうのでそれが恐い。
僕たちは本来、他者とコミュニケートする能力があり、またそのことに対する喜びを覚えもするのだが、田舎者になってしまうと、そのことを実現するエネルギーが断たれてしまうのである。簡単に言うと、金髪の美女を見かけても、口説きたいという気持ちが露ほども湧かなくなってしまうのだ。そんなものは生きているとはいえない。
また、他者とコミュニケートするとき、それは相手が「他者」であって自分の知らないものであるのだが、それだけにそこにストレスも発生する。そして、そのストレスを乗り越えようとするところに、僕たちはやはり本能的なエネルギーを湧き上がらせるのだが、このこともやはり断たれて枯渇してしまうのだ。こうなってしまうデッドエンドは、油断するとすぐ身近にあり、僕はこれを常に警戒している。このデッドエンドのタチの悪いところは、そこに安住できるだけの居心地のよさがあるという点にあるのだ。何しろそこには「他者」がいない分、そのストレスもないのだ。この安住の罠は、弱気になったときに引きずりこまれそうになるので、僕は常に警戒している。警戒せずにいられるほど、僕はタフガイではない。
ここから話を広げると、日本という国は、ずいぶん前から共産圏と隣接する中での揉め事に煩わされている、ということがある。その中で近隣諸国との「対話」、コミュニケートを求められているのだが、こういうときこそ「他者」とのコミュニケートということは立ち上がってこなくてはならないように僕は思う。
近隣諸国には色んな事情があり、歴史やお国柄や民族の風習があって、僕たちとは違う考え方を持っている。彼らは「他者」であって、「話せばわかる」というような単純な相手ではない。話して分かるのであれば、もうずいぶん前に分かり合っていたはずだ。そうではない、究極的には分かり合えないから「他者」なのだ。そこにはストレスが発生するが、このストレスを乗り越えようとするのが叡智でありエネルギーである。
近隣諸国との対話は、分かり合うために対話するのではない。分かり合えるなら対話は要らないではないか。そうではない、むしろお互いに何がどう違うのか、どこが分かり合えない部分なのか、それを明らかにするために対話が必要なのだ。分かり合えない「他者」を、分かり合えないからこそよくよく知ろうとして、その中で接する態度を決めていくということ。武装せざるを得ないなら武装するしかないし、マナーが理解されないなら理解してもらうことを諦めて付き合いの距離を取るしかない。
分かり合えないというのはそのまま「敵」ということではないのだ。分かり合えない部分を分かり合えないと認めることは、むしろ他者としての相手の存在を認めることでもあり、そのことが本当の意味での「共存」ということになってくる。毒蛇の頭を撫でて仲良くなろうとするのは共存ではない。どういう条件で噛み付いてくるのかを知り、近づかないのが共存だ。
政治家や左翼方面の論客には、日本をアジアに対してオープンにする、という思想がよく見られるが、それは逆に典型的な田舎者の発想だと僕は感じている。深く対話すれば、相手方はそんなやさしいことは考えていないとすぐにでも了解されるのではないだろうか。平和な日本の発想で、そのままヨソの国のありようを決め付けて考えるのはあまりにも危険だ。危険だし、それ以前にお粗末で、聞いているこちらの気分が萎える。
話が大きくなってしまった。さて、一気に卑近な話に戻るとして。若い女性は(男性もだが)、普遍的な世界と田舎者の世界という、このような二重の枠組みがあるということの中で、誰もが徐々にその内側の世界に埋没させられがちであるということに、脅威を感じなくてはならない。なぜか知らないが僕たちの生きる空間は、そのことへ引きずり込んでゆく力が実に活発なのだ。田舎者マインドを叩き込むシステムが存在している。そのシステム自体、田舎者が無自覚に造ったものだと思うが、もうこれはブーイングしていてもしょうがない。
自分の態度について注意するのだ。態度だけでなく、技術や能力や方法についても。それは本当に普遍的に通用するものだろうか? このことの意識は、常に僕たちを正しいほうへ立ち直らせてくれるし、またそれに必要なエネルギーも、正しいところから湧き起こしてくれる。
自分の態度が通用する範囲を考えてみる。自分の家族、友人、クラスメートや同僚、このあたりまでは通用するだろう。そこから徐々に遠くしていって、隣の教室や隣のフロアではどうか、別の学年や別の学校ではどうか。生活圏の違う、ずいぶん年上の人やずいぶん年下の人に対してはどうか。六本木の人に対してはどうか、ニューヨークの人に対してはどうか。ファッションモデルに対してはどうか、芸術家に対してはどうか、武道家に対してはどうか。サッカーAリーグの選手に対してはどうか、ヨーロッパの貴族に対してはどうか、バチカンの神父に対してはどうか。イスラム教国の指導者に対してはどうか。これらの人たち全員に、自分はジョークのひとつでも言えるか。そうやってイメージすることにはとても大きな意味がある。
それら全てのシーンに通用する態度を持つということが、紳士淑女になるということだからだ。
紳士淑女は田舎者と正反対の位置にある。
あなたが彼とお話できないのは、あなたが淑女じゃないからだ。
華やかな恋愛は、レディース・アンド・ジェントルメン。
不平を持ち説教をするには、あなたはまだまだ若すぎる。
ではでは、そんなわけで、また。
[了]