No.146 ぬくもりのジーン
本当のことをやるのは難しい。僕自身こうして文章を書きながらでも、心が自分の言葉に引きずられそうになるのを自覚する。心が言葉を紡ぐはずなのに、すぐにでも言葉が言葉を紡いでしまう。よくわからない新手の歌手たちを見たまえ。彼らは心から歌詞やメロディを紡いでいるのではなく、記憶にある音階と歌詞を再生しているだけに過ぎない。それがくだらないことだというのは誰もが本能的に知っている。それらはいくら、はじめは目新しさから注目されても、数ヶ月もすれば忘れ去られてしまう。
心とはどういうものなのか。どこにあって、どういうふうに働いているものなのか。どういう手触りなのか。それがようやく、最近になってわかってきた。少しずつわかってきたというだけで、掴みきれるかというと到底無理だ。部屋に風が舞い込むと、銜えた煙草の副流煙をふいっと渦巻いて連れて行ってくれるが、そのいちいちに心が反応している。とにかく、この心というやつに頼るより他は無い。なぜか僕たちは、この心というものだけを直接に、本当に面白いもの、本当にかわいいものだと感じるのであるから。
おなかの下、臍の下に、あったかいものがある。そこに意識をつなぐ。意識するのではなく、意識をつなぐのだ。すると意識は余計な活動をやめて、おなかの下が主人公になる。やすらかな空気が生まれてきて、耳が澄んで、ガラスの楽器のような虫の音が聞こえてくる。このおなかの下のぬくもりが大事だ。このことは少年と少女の時代に誰もが経験するはずなのだが、同時に誰もが大人になる途中で忘れる。その忘れたものを、取り返しに行くのはかなりの変わり者だ。しかし僕はこれがなくてはだめだった。これがなくては、自分が生きているのかなんなのかわからなくなってしまう。
とてもハイレベルな話をしている。極めて精妙で極めて曖昧で極めて説明困難な話だ。ところがこの一番やっかいなところが、結局一番大事なのだから意地が悪い。この精妙な部分は、できるやつはいくらでもできるし、できないやつはまったくできないに違いない。やり方を教えろといわれても、教えて教えられるものならとっくに誰かに教わっているだろう。教えられるのはせいぜいこのこと、本当に面白いことはなんだってメチャクチャ難しいということだ。十年間ひとつのことに必死になって打ち込んでも、何らの上達もしないことがいくらでもありうる。むしろそっちのほうが多いぐらいで、だからこそ何とも比較のしようがないほど面白いのだ。
うら若き美しき乙女と、このことを共有する時間が楽しい。楽しいという次元を超えて、ひたすら満たされていく、恍惚でもない落ち着いた充足がある。歩いていても楽しいし立ち止まっていても楽しい。前向きでも楽しいし後ろ向きでも楽しいし、正しくても間違っていても楽しい。楽しもうとする意図的な態度の全てを捨てても、なお楽しいのだ。こんな感覚を説明できるはずがない。またこのことを実際に体験したとしても、その瞬間は普通は何が起こっているのか把握できずにそのまま楽しく過ぎ去ってしまうものだ。こんなところを解明したいと人生を投げ込むやつは本当に変わり者である。僕以外の誰かがそんなことをしていたら、老婆心からさっさと資格でも取得して堅実な就職をしろと勧めるだろう。
何が悲しいって、この感覚を失うことが悲しい。うら若き美しき乙女が、いつの間にか世間の荒波などに揉まれ、一人前の発言なんかしだした日には、もう悲しみの自棄酒でもかっ喰らうより他はなくなる。何を立派に自信のある役立ちそうな人材になってるんだ、お前はもっと震えながら、健気に日々を生きていたじゃないかと言いたくなる。でも言いたくなったときにはもう届かなくなっているから遅い。みんなそうして大人になっていくという説もある。死んだ魚の臭いがする説だ。
人形愛ということについて話をしよう。外来語ではピグマリオンコンプレックスといい、学術的にはピグマリオニズムという。本来心ある対象に向かう愛が、心のない人形に向かうという現象だ。いわゆるアニメ・オタクもそうだし、アイドルオタクもそう、ヴィジュアル系への偏愛から卒業できない、前髪を常に気にしてしまう女の子もそうだ。彼らは人間でなく人形が好きなのである。
最近の「?」のほとんどは、この人形愛ということで説明がつく。そして余計な思考を重ねる必要もなくなるだろう。「人形が好きなんです」「人形が好きなのね」「人形になりたいのね」、これで全部解決だ。映画もドラマも小説も、最近のものは全部人形のものだし、画一的な化粧のスタイルもカラーコンタクトも全部人形になりたいということで説明がつく。メイド喫茶ブームも携帯メール依存症も草食男子も全部そう。心のあるものが苦手で心のないものが好きなのだ。闇に取り込まれて自分が壊れてしまわないように星屑を見つめるとか、そういうことだけをして生きていきたいのだ。
本当に面白いことをやるのは難しい。なぜ難しいかというと、本当に面白いのは心あるものだけだからだ。この精妙で曖昧で説明困難な心というやつを、しっかり活かして使うのが難しいのだ。こんなに難しいものだとは、僕自身も今まで思ってもみなかった。ただその分、こいつを活かせたらそれだけで人生は解決する。それはそうだ、何しろ何をどうしたって、そいつが活かされていたら無条件で楽しいのだから。
この心というやつの説明困難の具合は、半ば絶望的でさえある。まだ高校生の、顔もきれいで身体もしなやかで色気も十分に芽生えている女の子が、一生懸命に男を愛し、また愛されようとしているのに、「ああ無理だなこれは」と思わざるを得ないときの心苦しさといったらない。当の本人は、誰より心を大切にしているつもりなのに、それが全部的外れなのだから悲しいじゃないか。横であくびをして、話を聞いているフリをしながら聞き流している僕が、お前の意識が心につながってないから無理だ、全部無理だ、なんて到底言えるはずもない。言ったってその先にアドバイスがあるわけでもない。この心苦しさから、誰もが真実を捨てて善人になってしまうんじゃないかとさえ思う。お前に魅力がないわけじゃない、そこまでは言えても、それは人形としての魅力だけどな、とまでは到底言えるわけもないのだ。
誰もが心は持っている。持っているがつながっていないのだ。おなかの下にあるぬくもりが切り離されてしまっている。最近の若い人たちなんかは特に、そういうふうに教育されているのだと思う。それでも気持ちを腐らせずに健全に生きているのだから、すごいことだと僕なんかは思う。僕が彼らの立場だったら絶対無理だ。もし僕が彼らの立場だったらどうなっていたか、そのことはもう想像できないぐらいに彼らの立場は厳しいものだ。
願わくばかわいコちゃんのみんなが、人形愛に傾倒しつつも、いつかその人形愛に愛想を尽かして、後になってあれは人形愛でしかなかったのねと真実をあたたかく知ることを祈りたい。あたたかさというのはとても大事だ。あたたかさは全ての動物に通用するが、アラフォーの気概とか闇のエーテルで書かれた詩とかは人間の一部のさらにごく一部にしか通用しない。
何を言いたいのかまったくわからなくなってきた。わからないが、とりあえず今の僕は大変気分がいいという事実だけがある。あたたかくて涼しくていい気持ちだ。そのいい気持ちに従って、心から言葉を紡いでいる。あなたに伝えたいことが、無い、のだ。何かを伝えたくなるとか説明したくなるとかは、きっと心の餓えから来る衝動なのだ。今は心が満ちてしまっているので、何かを伝えたいという衝動が無い。僕たちがおおよそ、よく語るやつや熱く語るやつが、好きなようでいて実際は好きじゃないことはこのことが理由なのだろう。
またそのようにして、伝えたいと思うものは伝わらず、伝えるつもりのないことほど伝わるというのが、心のやっかいさであり面白さでもある。馬力だけで伝えられるなら、とある熱血のテニスプレイヤーなんかは優秀な語り手になるはずだが、実際にはそうではない。熱血に語られて元気になる人なんていないだろう。新垣結衣が目の前で微笑むだけのほうがよっぽど元気になる。こんな当たり前のことでも、僕たちは見落とさないよう気をつけていなくてはならない。
本当に面白いことは心にある。ただそれは難しくて厳しいことなので、嫌気が差したのかなんなのか、最近はすべてにおいて、心の無い人形のアレコレが流行している。オタクとかってマジキモいよねー、ありえなーい、といいながら、自分も人形化していることに気づけない女の子がたくさんいる。そういう女の子は何歳になってもまともなラブレターの一通も書けないだろう。意識が心につながっていないからだ。そしてラブレターはなんだかんだで、「愛ってむつかしい」みたいな結論になる。そこにぬくもりがないということには、気づけるようで気づけないものだ。
僕はヒステリーを起こしている女性が嫌いだ。前向きなヒステリーも後ろ向きなヒステリーも苦手なのだ。かといって、頭を濁らせて酩酊に恍惚としている、ふわふわしている人はさらに苦手だ。
ただ真剣に人の話を聞く女の子だけが好きだ。勘がよくて、本当のことをするというのは多分恐ろしいほど難しいと、皮膚感覚で捉えられるコだけが好きだ。そういうコとそういう時間を過ごしていたら、一件の例外もなく恋をする。いや恋なんてしていないのだろうか? 少なくともそこには、飽きることのないぬくもりの気持ちだけがしっとり満ちているということは間違いない。それを恋と呼ぶのは違和感があるが、多分誰もが憧れているものの本質はそれだ。
そんな二人であれたときは、服を脱いで抱き合っても、いちいち盛り上がったりはしないだろう。少女ジーンは窓からザナドゥを見渡すように、穏やかに満ちて男の愛を眺めるだけだ。
秋はそういうことをするのに向いている季節の気がします。
ではでは、また。
[了]