No.147 恋愛論を改めて
僕は子供のころから女にモテていたわけではなかった。今でも別にモテているというわけではない。ただやさしい女から深い愛情を向けてもらえることが多くなったというだけだった。それは僕の功績ではなくそのように振る舞ってくれた彼女たちの功績だ。人と人との間には、別に男女に限ったことではないが、生きものの利己的原理を逸脱する特殊な現象が生まれるらしい。僕はこれまでそのことを眩しく思ってきたし、これからもそのように思うだろう。僕には恋愛について他人に説教する資格が無い。そんな資格は誰にだってないと思うが、ただ僕はいつも自分の知ることを話すのみだ。
少なくとも二十歳を越すぐらいまでは、僕は男女関係において不遇な立場にいるものだった。要するにモテなかった。不遇といってももちろん、傍から見ればいかにも身分相応の立場というもので、その僕の当時のミジメさは、いかにもその当時の僕の人格にふさわしい味わいのものだった。回顧してみると、小中学校のときは女の子とまともに遊んだことさえなかった。高校は男子校だったし、大学でもクラスの飲み会には誘われないような立場の男子生徒だった。
そのようなミジメさの中で人は人格を成長させるのだと思う。誰もがするように、僕も眠れない夜、震えて縮こまっているしかない夜を何度も過ごしてきた。その中で結局見出されたのは、あいつらが悪いんじゃない、俺が悪いんだ、ということだった。ねじくれてなくて素直でやさしい女の子が僕は好きだったから、その彼女らと自分をつき合わせて考えてみた。僕が彼女とお話できないのは、彼女の周りにいる仲良しグループがアホで邪魔だったから、では決してなかった。何をどういじくっても僕が臆病者だからだという結論しかなかったのだ。そのことで僕は自分の首根っこを押さえるのに必死だった。いくらでも自分の都合のいいように逃げようとする自分を、ふざけるな、と締め付けて殺した覚えがある。自分のミジメさを完全に受け入れるには恐怖がある。傷つくとか痛みとか、そういう現象もあるかもしれない。ただ僕は一人の夜に、いくら痛くてもいい、いくら震えてもいい、それと真実を解析するのはまた別のことだ、と一人で追求していた。いくら僕が苦しかろうが、太陽が東から昇るのが真理であって、自分の臆病さが人をネガティブな気分にさせるのも、また心を閉ざしているのは周囲でなく自分であるということも、それと同様の真理であった。僕は合理的な思考の持ち主だったので、いくら自分が震えていようが、真理は変わらないし、結局自分の何かが破壊されるわけではない、ということを知っていた。自分が傷つくなら、傷つくにまかせてしまえばいい、と僕は思った。
そこからしばらくは、女の子を笑わせることだけに集中する期間を持った。なぜとはなく、それが真実だと思ったのだ。笑って気分の悪くなる人はいない。このこと「だけ」をやってみようと思ったのだ。相手がかわいいコがどうかも考えず、そのこと「だけ」を追求した。その結果、自分が奇人扱いされても、それは知らない。それは今回の取り組みで扱われるファクターではない、と決めきっていた。相手が笑ってくれたかどうか、ということだけを純粋に求めることにした。ヒマさえあればナンパまがいのことばかりしていた。するとその中で、こちらの思いが純粋であれば、なんであれ純粋な何かがあるということだけは、相手に伝わるということを知った。逆にほんの少しでも、自分が恥を掻きたくないと思っていたら、その気分が相手に伝わるということも知った。強引に声をかけた女の子が、なんとなく食事に付き合ってくれたりした。このことの成功と、手にした感覚は、僕を励まして自信を与えた。僕が好かれるにしても嫌われるにしても、所詮はその一点にかかっているに過ぎないと知ったのだ。要するにショボいと嫌われるのだ。ただそれだけのことで、このとき僕は一切の恋愛に関する方法論に頼ることをやめた。
大学ではクラブ活動で、リーダー的な立場を与えてもらえることになった。演奏の指揮者だったから、それはまるでお立ち台に立ったリーダーみたいなものだ。このときも、起こる現象は同じだった。自分がショボい人であれば、周りはネガティブな反応をするのである。その一点だけが肝心なところを支配していて、ノウハウなんてそれをくすぐる程度の力しか持たないものだった。最低限度の技術は必要だったが、その技術も、純粋な気持ちで取り組めば、それなりのものが身につくものだった。ここまで僕の生活は、怯むということを一切拒否しようという、それだけの生活だったように思う。僕はそのクラブ活動の中でその態度のトレーニングをすることにもなり、ふと気づくとそのやり方はある程度力強いものとして自分の中に根付いてくれた。フラれるフラれないは別にして、女性にアプローチすることに自分として違和感がなくなった。それらの甲斐あってか、就職の面接をするときには、「なんでこんなことで緊張するの?」という感じだった。何しろ、怯むということの一切を拒否してきたのであったから、面接などで今更怯むわけがなかったのだ。僕はこのときになって、ああ自分はいつの間にか、世間一般に通じるまでに成長していたんだ、としみじみ実感した。
就職は一応、一流企業と言える商社に就職することができた。すると、合コンでもナンパでも格段に成功率が上がってしまった。肩書きが手に入ったからだ。まして僕は、常に明るい日向だけを歩いて生きてきたわけではなかったため、女性と少々入り組んだ話をしても、そこで戸惑うことはまったくなかった。要するに、悩んできた経験があった。それは短絡的に、一流の商社マンなのに人文的・哲学的な話をよく理解してくれる、要するに想いを受け取ってくれるということで、女性に好いてもらえる結果になったようだった。ただその中で、僕はそうして好いてもらえることを、さらにはキレイなおねえちゃんが積極的に抱かせてくれることを、ものすごく嬉しくは思ったけれども、そのこと自体に喜びを見出しているわけではない、ということにも気づくことになった。一時期、僕は女の子を笑わせること「だけ」を求めていた時期があったが、どうやらそちらが僕の喜びの本質であったのだ。もともとが女性関係に恵まれて育ってきたわけではなかったからか、やけに女性から好かれることには、嬉しさと共に戸惑いがあった。僕のことを好いてくれた人は、僕に会うだけで喜んでくれるので、どうしたらいいかわからなかった。それよりはむしろ、ある意味では変態なのかもしれないが、僕のことを毛嫌いしているような女の子を、力ずくで笑わせたときのほうが喜びは深かった。なんというか、そこにはロマンがあるのである。嫌いなはずなのに笑えてしまうというのは、ロマンがあるじゃないかと、このことは今の僕としても思う。
僕は世間の感覚にはもともと疎いところがあるので、そのような現場に何度か触れるまでは、国立大学卒で一流商社に勤めているということが、社会的な魅力を持っているということをよくわかっていなかった。そのことがわかってくると、なんだかうさんくさい気がして、僕はなかなか自己紹介をしなくなってしまった。勤め先を聞かれたら、貿易関係だ、というふうにだけ答えるようになった。そうしても、ナンパや合コンで成功率が下がるということはあまりなかった。むしろそのようにして先入観を排除したほうが、誰とも歪みの無い関係を築けることが多かった。
そのようにして、自分の肩書き自体を根本的に軽蔑しているような有様であったから、僕が会社を辞めてしまうのは、遅かれ早かれ必然であったように思う。仕事にやりがいはあったけれども、この仕事に一生を費やして死んでもいいかと問われたら、答えはNOだった。そして考えるうち、本当にやりたいことをやって生きてみようと思った。それは無謀で実現しそうにない人生だ。だから僕は無謀な奴として生きていこうと思った。僕と同じようにやろうとする人がいたら、僕は誰にだって「それは無謀だろ」とアドバイスする。僕は自分自身についても無謀だと思っているし、無謀に興味が無いなら無謀は決してやるべきではないと思っているからだ。
やりたいこととはなんであるか? それは結局、元のところに帰ることでしかなかった。方法は何でもいいのかもしれない。ただ人に笑ってもらうこと、楽しんでもらうことでしかなかった。欲を言えば、感動してもらうことが、自分にとって最上の喜びになりうると僕は発見している。僕が生きる方向なんて、結局はこのシンプルなものしかなかったのだ。僕がこれからどうなっていくのかなんて僕にもわからない。僕はどのようになっていくにせよ、結局この気持ちと心中するしか、喜びに向かう生き方はありえなかったのだ。
実際にこうして文章を書き進むうち、かれこれ五年近くになるわけだけれども、自分の未熟さがわかってきた。未熟さを知ると共に、成熟することで失われていきがちなものが無数にあるということも知った。それらがなんであるのかは、今はまだはっきりわからない。この道をちゃんとやっていけば、後になってわかるのだと思うが、まだそれはよくわからない。ただそのようにして僕は自分の未熟を知るうち、また多くの女性に笑ってもらい、微笑みかけてもらえることになった。僕を心底好いてくれる人も出てきてくれた。好いてもらえる、ということには、今でも戸惑いがあって、どうすればいいのかわからないけれども、ただ僕はそれをひたすらありがたく思っている。
さてこのようにして、唐突に僕自身のこれまでのことをざっと振り返ってみた。こういう自分語りはたいていうっとうしいものだけれども、あえて泥臭く話すことで伝わるものもあるかと思い、思い切って話してみた。難しいことはさておいて、恋愛ということの以前に、誰かに貴重な気持ちを向けてもらうには、人格の成長が必要だ。いろいろややこしいことがあるに見えるが、ことの本質はごくシンプルで、僕の場合は誰でもいいから笑ってほしかったというだけのこと、この望みが不潔なものでなかったから、そのことを認め尊敬し愛してくれる人がいたというだけのことだった。
あなたの望みはどこにあるだろう。
本当は誰だって、あなたのその姿が見たいのだと思う。
結局何が大事なのか
恋愛についての心がけ。そのマインド。こう書くと安っぽくていやだが、実はこのことが単純に重要なのだと思う。やり方や作り方は二の次で、人はまずその人のマインドに共鳴し、その清潔と不潔を知るものだ。僕としてはここで、自分自身を振り返って、また僕として触れてきた幾人かの女性に思いを馳せて、結局何が大事なのかを取りまとめてみようと思う。表面上は、それはごく当たり前のことになってくるだろう。でもそれらは全部、実現するにはとても難しいことだ。眠れずに震える夜、自分の首根っこを掴んで、こんちくしょうめと殺すような時間が必要になってくる。このようにしろ、とは僕は言わない。何度も言うように、僕は誰かにお説教をする資格などこれまでもこれからも持たないのであるから。
1.「好き」が後回しであること
誰かを熱烈に好きになることなんて、ストーカーでも妄想中学生でもできることだ。大事なのはそれを後回しにできるかどうか。上からものを言うわけではないが、客観的な推測として、大半の人が実はこれさえできていないのではないかという気がする。自分がその人を「好き」という気持ちばかりが大事なのだ。実際その気持ちは恍惚的なものなので、これに酔おうと思えばいくらでも酔える。だが言うまでもなく、それは自分の気持ちであって相手の気持ちではない。「好き」を大事にすればするほど、相手の気持ちはほったらかしになる。あなたが腹痛に苦しんでいるときに、僕が「好きです、大好きです」と告白したら、あなたはどう思うか。「それは何か違う」と思うだろう。そのとき本来あるべき発想は、「彼女の腹痛に比べれば自分の好きなんて気持ちはウンコぐらいどうでもいいことだ」というものであって然るべきなのだ。この発想が出てこない人は思いやりが無い。「好き」という気持ちに振り回されるのは、愛が強いのではなく弱いのである。
「好き」が後回しになるということは、それの上位に立つ気持ちが当然あるということだ。これは簡単に言って、相手の幸福や充実が上位にあるということである。僕の場合はそれが「笑ってもらう」ということだった。あなたの場合がどうなるかはわからないけれども、だいたい似たり寄ったりだと思う。そんなに個性が出るところではない。ちなみにこのことが身についている女のセックスは、自然に相手の幸福に寄与したいセックスになるので、男の心を強く打つ。
このことに結局たどり着けない人には二種類ある。ひとつには、「だって好きなんだもの!」ということで、結局その恍惚から距離を取れずに、なんだかんだで相手を思いやっているふうで、結局は自分の思いだけ優先するタイプ。これはもう、本人がそうしようとこっそり決心しているのでどうしようもない。他人の幸福に結局そこまで興味がないのだと思う。このタイプには、たいてい忠告をしても火に油だし、またこのタイプを「がんばって」と支援するグループもあるので、とにかく手の施しようが無い。
もうひとつには、そういう利他的な態度で生きていると、致命的な損をするという信念を持っているタイプ。これはもう、考え方が根本的に違う。要するに、そんな態度で生きていたら遊ばれるだけ、と信じているのだ。その信念が間違っているのかどうかは僕も知らない。それは誰にも決められないことだろう。ただ僕の知る限り、この信念の人は常に険しい目つきになってしまう。それはそうだ、いつも恋愛の中に利害や損得の感覚を持ち続けているのだから、目元を緩めるチャンスがない。こういう人はプロポーズを真の愛と捉えているし、またその分結婚詐欺にひっかかりやすい。
「好き」を後回しにすること。相手の幸福が上位に来るということ。これは考えてみれば当たり前のことなのに、意外に語られていないことだ。このことが語られないのは、いわゆる恋愛論においては、このことを語ってしまったら話がオシマイになってしまうからだと思う。恋愛論のほとんどは「簡単に幸せになるには」という大前提で語られているため、「その簡単な幸せを後回しにしろ」と言ったら前提が壊れてしまう。
「好き」を後回しにすることは難しい。難しいが、僕が人並みに女の子に好かれて、また自分として迷いのない喜びに触れるには、結局ここに行き着くしかなかった。完全に実現できるかどうかは別にして、このことが結局正しいと知っていることが大事だと思う。ちなみに僕の知る限り、この態度を目指している人がまず根本的に少ない。目指しているふうでいて、この態度で相手をゲットしてやろう、と逆転の利己的発想に至っている人は少なからずいるが、とにかくこのことに憧れている人自体がかなり少ないのだ。この態度とその世界に憧れない人は、その人なりの恋愛観があるのだろうけれども、まあそのことに推察を進めることはここではしない。これはあくまで僕の知っている真実だ。他人のやりようはさておき、僕はこのようにしてしか、結局まともな恋愛に触れることができなかった。
2.人文的な「道」を持ち、進むこと
人文的な道というと曖昧だが、要するに社会的な道とは違う道筋を自分なりに進んでゆくということだ。社長になりたい、そのための努力をする、ということは、これは社会的な道で、これだけでは本当の恋愛に触れるための足しにはならない。そのことは、世の中にいる社長さんがみんな素敵なわけではないということを見れば一目瞭然だろう。そうではなく、何か自分なりに究める道を持つということだ。そこを考え抜くことで、人格が成長していく。
自分の「好き」より相手の幸福を優先するにしても、何が相手にとっての幸福なのかを、想像できなくてはどうしようもない。かといって、このことはウンウン唸って考えても、わからないものはわからないものだということは、思春期の少女たちでさえ知っているはず。このことの手がかりや知恵を得るためには、何かひとつのテーマを究めていくより他にないのだ。先にも言ったように、僕にとってはまずそれが「笑ってもらうこと」で、それの行き着くところは楽しんでもらうことであり感動してもらうことだった。そして実際に、こうして文章を作品にするということを、ねちっこく続けて究めてゆこうと努力している。
挨拶一つにしてもそうだし、料理一つにしてもそう。「どうすれば本当に相手に喜んでもらえるか? 心に訴えかけることができるか?」。そのことを捉えるのに、何かテーマを持った道筋が必要なのだ。たとえばあなたが路上で一人立ち、歌を歌うところをイメージしてみればいい。マイクや楽器でごまかさなければ、普通「なんだこいつ」という奇異の目で見られるだろう。そのために音楽留学してトレーニングを積んできても同じだ。何の大道芸だ、ということで立ち止まる人はいるかもしれないが、そこで涙を流してはくれないだろう。
どうすれば、自分が路上に立ち歌を歌って、人の心に訴えかけ、涙を流してもらえるだろうか? そのこと考え抜いていく中に、いよいよ真剣に人の心とはどんなものなのかを捉えなおしていく作業が生まれる。僕にとってのその経験のひとつは、例えば先に言ったように「純粋であれば純粋さだけは何となく伝わる」ということだった。あるいはその純粋さに基づいてなら、女の子は笑ってくれるということだった。
実際にこのような道筋に立って、人の心に訴えかけるということを考え始めると、それが恐ろしく難しいことだということがわかってくる。そして多くの人は、このこと自体を見ないようになる。要するに、自分のやっていることが人の心に訴えかけていないということを見ず、訴えかけているに違いないさ、とごまかして満足するのだ。これと同様のことが恋愛で起こると、例えば恋人が落ち込んでいるとき、どこかで聞いたような慰め方を一生懸命やってみる、というような様相になる。それは結局相手の心に訴えかけはしないのだが、相手がお人よしを発揮して、ありがとう、と礼を言うような形になる。
この道筋に堂々と立つと、人の心に訴えかけるということの難しさが、イヤというほどにわかってしまうものだ。だからほとんどの人がこの道筋は、立っているようで本当は避けてしまっているのだが、僕はごく自然な気持ちで、この道を諦めないことを勧めたい。到達できないのと投げ出してしまうのは別だからだ。どこまで到達できるのかは器量の差異があるにしても、投げ出してしまう人は不誠実だろう。まして「俺は人の心がわからないんだ」と受け止めるのではなく、たいていそういう人は人並みに心の機微が分かっているつもりでいるから話がややこしくなってしまう。
またさらには、こちらのほうが重要かもしれないが、ここのところで人の心に向き合うことがないと、自分が深い愛情を受けたときに、そのことに気づけなかったりもするのである。先に言ったような例で、落ち込んでいるときに「落ち込んでいる理由がわからない、ただの傲慢だ」と厳しく暖かく言ってくれた人より、通り一辺倒の慰めをしてくれた人のほうが愛情があるように感じてしまう。こうなってしまったら一番ややこしい。何しろ安物と高級品を逆に感じてしまうのだから、その中で上等な何かを体験しようというのは不可能になってしまう。
この点については多くの人が、スポーツやクラブの中の体験で、あるいは仕事の中で向き合わされるテーマの中で、自然に身についていくものだと思っている節がある。しかしその思い込みは単純に間違いだ。そういう機会の中で、必要にかられて人文的な道筋に立つ人もいるが、立たない人ももちろんいるのだ。看護婦になった全員がヘレン・ケラーになるわけではない。あくまで自分として、そこに向き合うかどうかの決定がある。自分のバーが繁盛しないのは、マスターである自分が心に訴えかけるものを持っていないからだと、向き合う人もいれば向き合わない人もいるのだ。
そして繰り返すが、このことにも結局向き合わない人のほうが多い。自分は人の心に訴えかけられない、無知で無力だと、正面から受け止める人なんてなかなかいないものだ。僕の場合で言えば、目の前の少女が笑ってくれないのであればそれは僕がつまらないのであるし、文章作品が感動を与えないのであれば、それは僕が人の心をわかっていないのである。あなたの前でお目当ての彼が笑ってくれなかったら、理由はやっぱりだいたい同じだ。
「どうすれば本当に人の心に訴えかけることができるのか」「どうしたら本当に心の底から喜んでもらえるのか」「人の心とは本当はどのようなものなのか」。このことに向き合う道筋を、何かしら持っている必要がある。その形式は無数にあるだろう。
3.根本的に「人」を愛していること、また「異性」を愛していること
動物全般は嫌いだけど犬だけは愛しています、なんて話はおかしいだろう。自然を愛していますが河だけはどうでもいい、なんて話もおかしい。あまり指摘されない話だが、これも当たり前で重要なことだ。愛とはある程度の普遍性を持つのである。このある程度を説明するとアホみたいに長い論文になるので、あくまである程度という漠然とした表現にする。懐中電灯の光のように、愛という現象は、一箇所を照らすつもりでも周囲も一緒に照らしてしまうものだ。その光源が眩しければ眩しいほどに。
先に言ったように、僕は女の子に好いてもらうことよりも、僕のことを好きでもなんでもない女の子が、つい笑ってしまう瞬間が好きだといった。好かれることには嬉しさがあるが、より大きな喜びがあるという点では、その好きとか嫌いとかを飛び越えて笑ってしまうという瞬間のほうが勝る。それはきっと、そのことのほうが愛という現象が如実だからなのだと思う。こんなことはちょっと考えてみれば当たり前のことだ。自分の親友に微笑みかけるよりも、自分の悪口を言う奴に微笑みかける女のほうが偉大だ。
愛というのはある程度の普遍性を持つ。そしてその普遍性が大きければ大きいほど、その愛は偉大だ。このことはこれ以上説明のしようもないが、とにかくこれは面白い現象だと僕は思う。特定の誰かを異様に熱愛する人は、その逆に異様に嫌う人も同時に持っているものだ。だからその意味では、「好き」というのは一種の偏りであって愛の普遍性とは対を成すのである。誰かを熱烈に好きになる人ほど、実際関わろうとするとうまくいかないのはこのことによる。また全般的に男性不信の女性が男性に恋をすると、それが特殊な入れ込み状態になるのも、この偏りイコール好きという現象によるものだ。
僕自身の経験で言えば、やはり先に言ったように、かわいいコかどうかを問わず、ただ女の子に笑ってもらうことだけを考えた時期があったといった。ここで相手がかわいいコかどうかを考えなかったのが、普遍性ということへのアプローチだったと思う。本当は誰でもこのことを知ってはいて、だからかわいいコにだけ熱心にサービスする男を女性は例外なく軽蔑する。それが本質的に愛の現象でないことを知っているのだ。
慣れきった友達関係の中だけで恋愛を考えると、このことを見落とすことはよくある。「男ってさぁ」と、大まかなグチが出てきたら、大体流れは悪いムードだ。社会全体を悪く言うのは負け犬の特徴であり、異性全体を悪く言うのも負け犬の特徴だ。もっと光り輝く女をみれば明らかなとおり、彼女らはもっと広く大きく笑っている。
僕はいつぞやの眠れぬ夜に、このことに向き合って震えていたのだった。なぜ人を当たり前に愛せないのだろう? それはひたすら僕の心が狭量だったからで、そのことに向き合うミジメさは肌に染みて格別だった。あれからずいぶん年を取ったが、僕はまだそれを忘れていない。この季節が来るたび、あのときの続きのように、僕は思い出している。
僕は今も自分を疑っている
僕がある程度の人格の転機を得てから、十年がたつ。今になって振り返って、ごたいそうに恋愛論を述べるのであればそんな感じだ。考えてみればシンプルなこと。誰にでも笑ってもらいたいと純粋になれること、そのことにゴマカシがないことが恋愛の資格だった。
最近の風潮においては、もっと華奢で、壊れそうな、弱きに徹したような恋愛観が、こっそり人気のようだ。すなわち、自分の好きという気持ちが抑えがたく狂おしく、自分たちは誰よりお互いの心を分かり合える特別な者同士で、世の中の全てが腐敗する中で自分たちだけは純潔だ、というような恋愛観だ。これは100%うまくいかない恋愛観だが、それでもその華奢な手ごたえが好きな人はいるのであって、そういう人はそれを追い求めるのだと思う。僕が思うに、そういう弱きに徹したイメージは、人の心の、同じ弱さの部分に共鳴してくるものがあるのではないだろうか。弱さの部分でシンパシーを起こすというような現象があるのかもしれない。それにしても、結局上手くいかないのだから所詮はファンタジーでしかない。僕はそこにある耽美的な恍惚を選ばない。そんなことで、僕は納得のいく喜びに触れることはないだろう。
考えるのもイヤになるような、いかにもありがちな堂々巡りがある。「好き」を後回しにしたら、結局好きな人とは結ばれないじゃない? とか、でもわたしは人の心がわからないとかって言われたことないんです、とか、普遍的な愛なら誰か一人を選ぶのは矛盾しているんじゃないですか? とか。このことについては、回答しても同じ堂々巡りが待っているので、あえてこれ以上の話をしたくないように思う。堂々巡りが好きな人もいるわけなので、ここから先は本当にその人の心次第だ。僕だってもちろんその堂々巡りに入ることはあるけれども、ただそれはツマランと初めから知っているだけだ。何がツマランって、その堂々巡りのどこをいじっても、かわいいあのコの心底の笑顔が、そこから出てくるわけではないからだ。それ以上に、もはや説明のしようもない。
あれから十年がたち、本当に僕は、あのときよりまともな者になれたのだろうか? 得たものはあるにせよ、失った重大なものもあるのではないか? そのことの疑いは、常に僕自身としてもある。しかしこの疑いをなくしてしまったら、僕たちは誰もがオシマイなのではないか。
僕は今も自分を疑っている。眠れぬ夜や震える夜も、今でもこっそり過ごしている。だから毎日のようにもう一度、純粋であろうと試みる。そしてそこに、かわいい女の表情を見るのである。彼女が笑ってくれているか。もっと楽しく、感動した表情が、本当はあるんじゃないのか。
そんな具合だから、何度でも言う。
僕には恋愛について、説教する資格がないのだ。
[了]