No.148 シュガー・コーティング・ガール
美しい女しか愛せない。当たり前だ。「美しくないな」と感じている女を、工夫して愛していることにできるわけがない。美しさとはなんなのかとか、結局顔とプロポーションなのかと、そういう安直な疑問も出てくる気がするが、それらの疑問にいちいち答えるのは面倒くさい。男は女をパッと見たとき、その外見にだけでも恋ができるが、それとて本当は、その相手の容貌だけを見て取っているわけではない。単純なことで言えば、服やアクセサリーだって一緒に見ているわけだが、そのほかにも実は無数の要素を見ている。そのいちいちを、僕たちの鈍感な意識は認知できないだけだ。だからその認知できていないひとつひとつを説明しようとすると面倒くさく、そして結局認知はできていないので徒労に終わるのだ。だからそんな不毛なことはしない。シンプルでいいではないか、美しい女しか愛せないのだ。美しいと感じるから愛するのであり、「俺はお前のどこをどう見ても美しいとはこれっぽっちも思わない、けど結婚しよう」なんて話はどのようにごまかしても破綻している。世の中には毒蛇やナマコをペットとして飼うような人もいるが、彼らはそれらを美しいと感じているから飼っているのである。美しくないけど愛しているから飼っているわけではない。あるいは世の中には全盲の人もいるわけだが、彼らには何かを美しいと感じる機構がないかというと、そういうわけでもないのである。
美しいものとはなんであり、美しくないものとはなんであろうか。このことを、角度を変えて有為に捉えようとすると、美しくないものとは、すなわち迷惑なものだと言うことができる。それは例えば、いらいら上司の貧乏ゆすり、などが典型的にわかりやすいだろう。貧乏ゆすり、なんて名前がついていて明らかなように、それは美しくないものである。なぜ美しくないかといえば、迷惑だからだ。迷惑とはその字義のとおり、人の心を迷い惑わすとことだが、それは要するに人の心にありがたくない干渉をしてくるということだ。相手の心をしんどくするのである。
このことからさかのぼって言えば、美しい女になるためには、迷惑をかけない女になることだ。ここでいう迷惑とは、一般的な意味とは少し違って、一般的な意味では迷惑をかけてもいいが、それを迷惑と感じさせない女になるということだ。いかようにも言い方はあるが、要するに相手の心に干渉しないこと。このことにはアレッと思うところがあるだろう。恋愛というのは相手の心に干渉することなんじゃないか、というような気がして当然だ。しかしよくよく見てみると実はそうではないのである。美しい女は人の心に干渉しないのだ。そしてそういう女に男は神々しさを見て、にせものでない恋心を抱くのである。
こう言ってみればわかりやすいだろうか。女の意見として、「お互いの心に干渉するのが恋愛に決まっているよ!」というものがあったとする。そんな女はどうだろうか? それはもう、うざったいに決まっている。それに比べて、「あたしは彼にキスするときも、愛撫するときも、彼の心を乱さないように気をつけるの。そうでないと、彼が快楽に没頭できないじゃない?」なんてことを言い出す女がいたらどうか。それは直観的に、何か美しい女の気がするはずだ。その直観は間違っていない。もし人の心に干渉しようとする態度が美しさを持つのであれば、親の小言や、テレビでよく見る熱血テニスプレイヤーなどは、何より美しいものでなくてはならないだろう。しかし実際には、そういう調子で口説かれたい人なんていないはずだ。
美しさとは、迷惑をかけないことなのだ。これだけが全てというわけではないが、少なくとも美を決定する大きな一要素である。寂しいから今すぐ会いに来てよ、とワガママを言う女が、ワガママでもなぜか迷惑に感じられなかったら、それはその女に美しさを覚えているからだ。男も女もさしあたり、眉毛や爪の手入れをするのも悪くはないとして、それ以上にこのことに心を尽くすほうが前向きだ。迷惑をかけないこと。大胆に積極的に、ワガママに情熱的に、それでいて全てを迷惑でなくしてしまう。女は男に、高級ホテルをねだっても迷惑にならない、そういうやり方を身につけてゆくのがいいわけだし、男は素面でナンパをして、フラれるにしても相手に迷惑と感じさせない、「なにあいつ、ちょっと笑えた」と思わせるぐらいのやり方を身につけてゆくのがいいわけだ。
思春期の少女なんかには、人に迷惑をかけたくないという思いを強くしている女の子がいる。こういう少女は、発想は間違っていないのだが、根本的な認識が甘く間違っている。人に迷惑をかけないとは、引きこもって引っ込み思案になってグズグズと手帳にポエムを書いてやり過ごすことではない。積極的かつ大胆に行動し、色気を押し出してアプローチして、それでいて迷惑にならないためにはどうすればいいのか、と考えなくてはならないのだ。そうでないと、大人になってから致命的に行き詰まる。人に迷惑をかけないとは、電話営業の仕事をサボることではない。迷惑にならない熱心な営業を身につけるということなのだ。
さてでは、迷惑をかけるというのは具体的にはどういうことであろうか。それは肉感的な角度で言えば、「ギョッとさせる」ということだ。代表例で言えば、街中で声をかけてくる、新興宗教の勧誘なんかがそれに当たるだろう。あれに声をかけられると、その気配にギョッとするし、そのことを迷惑だと感じない人はいない。うつ傾向の人間なら「死ね」と感じるだろうし、健全なものでも「やめてくれよ」という気分になる。あれなどが一番わかりやすい迷惑の例なのだが、あれがなぜ迷惑になるかというと、それはまさしく彼らの持っている「気配」によるものだ。彼らには自信がなく、ビビっており、それでいて無神経なのである。それらの集大成として練り上げられた「気配」に、僕たちの本能は「ギョッ」とする。その反応は、本能からの警戒信号でもあるから、その気配にずっと晒されているといらいらしてくる。勧誘でもナンパでも、出来の悪いそれがしつこくしてくるとイライラするだろう。この現象は動物の本能によるもので、それはもうワンちゃんでも反応する。不信な気配のある人物が近づくとワンちゃんは「ギョッ」として、警戒反応としてウーッと唸る。そして相手が引き下がらないと、本格的に吠え出すだろう。人間は唸ったり吠えたりしないだけで、起こっている反応は同じだ。
貧乏ゆすりもそうだし、ドアをバタンと乱暴にしめることや、音を立ててコーヒーをズズズズとすすることなど、全部そうだ。慎重に自分に起こる現象を観察してみればわかるが、僕たちはそういう振る舞いに触れたとき、心を「ギョッ」とさせているのだ。これは自覚しにくいだけで、自覚していない人も反応がないわけではない。こういうことに感性の鋭かった、過去の天才たちが、おそらくマナーや作法を作ってきたのだろう。マナーも作法も、単なる形式として受け継がれているわけではない。人に迷惑をかけないこと、それも迷惑と自覚しにくいレベルにおける迷惑についてもかけないようにすること、引いては美しくあることのために、受け継がれているのだ。だからマナーや作法のなっていない者は美しくない。僕たちは人を見るとき、単なる造形としての美醜を見ているだけでなく、本当はそういう気配の全体を、自覚のないままに受け取っているのだ。
人に迷惑をかけないために、何を心がけていくべきか。こんなこと、僕のような猥雑が語るべきことではないと思うが、それでもあえて言うならば、それは無駄な動作をしないということだ。貧乏ゆすりもそうだし、ナンパするときに眼を泳がせるのもそうである。それらの無駄な動作がなぜ出てくるかというと、それは心が揺れているからだ。心が何かしらで、落ち着かず取り乱しているから、それが動作として出現するのである。そしてその動作は、外側から見れば不必要なものだから、不自然なものだと感知され、「ギョッ」とする。何度でも言うが、僕たちの意識がそれを認知できないぐらい鈍感なだけで、自覚はなくてもそういう反応を起こしているのだ。そんな自覚できないレベルで、人は人を美しいと感じたり、そうでないと感じたりしている。そういうわけだから、彼があなたのことを好きでなかったとしても、彼はその理由を自覚はできないのだ。ただ「なんとなく」としか彼は言えないだろうし、その理由が真実何であったのかは、結局あなたがその水面下の迷惑を自覚するまで、結局誰にも教えてもらえない。
無駄な動作を無くすということ。このことは、すぐにでも観察し、それぞれにナルホドと理解できる方法がある。これはもう、テレビでも映画でも知り合いでもいいから、この人は大人だなあとか、美しいなあとか、そう思える人を観察してみることだ。本当に観察してみればわかるが、そういう美しい人は動作が少ない。カウントしてみれば、それはもうびっくりするぐらい少ないことが分かるだろう。一言で言うと、ブスはもぞもぞしているのである。
美人といえば、僕の知り合いにもずいぶんな美人がいるが、彼女なんかはモデル業をやっていて、実際に見るとさすがだなと感服させるものを持っている。駅前で待ち合わせなんかすると、周りの男はちらちら見ているし、風景の中で確かに彼女は光って見えるのだが、それはもうまったく無駄な動きがない。それはパッと見た印象で、姿勢がいいから美しいというように見えるが、おそらく真実はそうではないだろう。余計な動作をしないためには、おのずとそういう姿勢に落ち着くのだ。この、おのずと行き着く姿勢や、無駄な動きがないことによる美しさは、野生動物などにも見て取れる。彼らには心の揺れなんて野暮なものがないので、当然ながら無駄な動きはしないし、一番ジッとしていられる姿勢を自然に作る。野性のジャガーがサバンナの木の上で夕焼けに向かって目を細めているとき、ジャガーはもぞもぞしたりしない。ギョッとさせる動作なんかしない。だから美しいのだ。
ヒントになるかどうかはわからないが、僕はそのモデル業の美女をして、感服のままにこう表現したことがある。
「まるで身体の表面を、融かした砂糖でコーティングしたみたいに、ピシッと整って動かないね」
僕はこのとき、何の意図もなくそう言ったのだが、彼女自身がそれを聞いて、なるほどと逆に感心もした。後になって聞いたが、その表現は役に立った、ヒントになった、ということだった。カメラ前で調子が出ないときに、自分を立ち直らせる手がかりになるらしい。誰にでもそんなことが出来るのかどうかわからないが、とにかく僕の見た美女の印象はそのようであり、またそれは彼女自身としても合意できることだったということだ。
少女たちの悩みはいろいろあるが、その一カテゴリは単純だ。一言で言えば、それは「困った、自分が美しくない」ということに尽きる。友達もたくさんいるし、男性と仲良くなるのも苦手じゃない、彼氏がいたこともあるし口説かれもするし、浮気も不倫もしてきたけれど、困った、自分が美しくない。本当はもっと上等な、恋と感動と快楽がしたいのよ。誠実さとふしだらな色気のある、他にはあまり見当たらない女になりたいの。少女の悩みの多くはこれだ。それに答えるとして単純な話、もぞもぞするなと僕は言いたい。
それだけで、抜群にいい女になる、そういう素質を持った女の子が、若い子にごろごろいるからね。そういうのは見ていて、本当にもったいないと思う。
リラックスはしたらいいし、ガチゴチに固まっているようでは女はダメだ。しかしそれは、ぐずぐずに崩れてもぞもぞ動いて緊張感を無くせばいい、ということとはまったく違う。それはただのオバハンじゃないか。それはどう見ても田舎者のオバハンの振る舞いなのに、なぜか男と一緒になって、わざわざそういう振る舞いを熟成させていく人は少なくない。その方向はぜひやめていただきたい。プレゼントの包装を解くときのときめきのように、女を脱がすときのときめきは、ピシッとしているものを開いていくことにあるわけだから。
そういえばもうすぐクリスマスです。
そのころにはあなたもずいぶん変わっているかもな。
[了]