No.150 ローズヒップ・ティー
まあちょっと、難しい話はやめにして、正気に返ってやさしい話をしよう。できるかな? よくわからないけど、心に帰って話します。ダメだね、あんまり考えすぎると心がねばねばしてしまう。かといって、考えないようにキメウチするというのも、これもまた心をガチガチに固めるだけなんだけど。
とにかく、なんだって話はそう簡単ではないということだ。矛盾しているけどこれでいい。僕の本当に話したいことはいつだって矛盾している。矛盾しているのは、言葉とか概念とかが未完成のものだからであって、本当の本当は、よくよく見ればケンカしなくていいことなんだ。
誰だって正気に返れば、いい女になりたいし、いい男になりたい。そしていい恋愛がしたい。いい恋愛というのがなんなのか、わからないけれど、誰も話したくないような、それでいて話したいような、犯しようのない神聖さの時間を体験したい、ということだ。このことは誰でもそうだろう。そして一度はみんな、そのことを信じたんじゃないか。神聖な、というと大げさだけど、ここは思い切って神聖なそれ、と言うことにする。そういう神聖な、恋愛というか、物語があって、それを体験できること、あるいはせめて触れられるだけでも、全てを踏み越えて生きていける価値があるんじゃないかって、過去に一度は信じたことが、誰でもあるんじゃないかと思う。
そして過去にそう信じたそれは、間違いではなかった。ただそれは、思ったほど簡単なものではなかったということ。簡単じゃなさ過ぎて、もう達成は理論的に無理というか、追いかけるだけムダのような気がしてしまうものだ。そしてそのように感じることも、ある意味では正しい。それは本当にすごく難しいことで、達成するのは神様じゃなければムリ、せいぜい僕たちにできるのはその一瞬に触れる程度のことだけど、その一瞬でさえとてつもなく難しいことだ。だから投げ出したくなるのが当然で、投げ出して生きている人もある意味では正しいと言えると思う。一番おかしいのは、その壮絶な難しさを見て見ぬフリして、前向きなハートできゅんきゅんしてれば簡単OK、と宣伝してくる類だ、そんなのは、ちょっと考えればウソに決まってるとわかることなんだけど、僕たちはいつも混乱して生きているから、週に一度はそんなウソにコロッとだまされたりする。
月曜日には元に戻っちゃうんだけどね。
わかりやすい言い方をすると、たとえばこういうことだ。僕が、夏目漱石のような文豪になりたいとか、スティービーワンダーのような名歌手になりたいとか、マイケルジャクソンのようなダンサーになりたいとか、そういうことを願うのと一緒だ。それは不可能なことじゃないし、それを目指して生きることには、いんちきじゃないロマンがある。ただそれが、簡単レンジでコロッとOK、なんて安易な話であるわけがない。どんなスクールに通ったって、そんなことでなんとかなる話じゃないだろう。誰もがフレッド・アステアみたいに踊れるようになるなら、誰だってダンス・スクールに通うと思う。すごい人になれると決まっているなら、苦しい努力だって耐え抜くだろう。日本人は勤勉で、今でも過労死するぐらい働く人はたくさんいるんだからね。
でも実際はそんなに甘い話じゃない。同じように努力しても、死ぬまで努力しても、伸びる人は伸びる一方、伸びない人は伸びなかったりする。この、努力しているのに伸びない、というのが一番キツい。なぜなら、そこには「空しさ」があるから。根性のある人で、少々のしんどさなら跳ね返せるという人は多いけれど、「空しさ」にはなかなか対抗できないよ。頑張る意味自体を剥奪しにくるからね。そんなこんなで、天才を除く誰もが、一度は立ち止まり、簡単な絶望をする。「ああはなれないんだ」ってね。そこから歩き出す人もいれば、立ち止まったままの人もいて、歩き出したもののすぐに止まる人もいれば、歩いているつもりが足踏みしている人もいる。
いろいろだ。
こういう、本当のことを指して、「要は才能だ」とひとくくりに捉える人も多い。このことは、確かに間違ってはいない。でもそれは、よく見ると何の説明にもなっていない。それは結局、伸びる人と伸びない人を見て、伸びる人を才能があると呼ぶことにしよう、と決めているだけのことだ。言葉を貼り付けただけだね。だから才能について語ることはいつも意味が無い。結果が出た人だけ、ああ才能があったんだねと、言ってみてなんとなく落ち着いているだけだからね。だいいち、そんな捉え方はしょうもないよ。ここのところが、僕たちの生きる世界の謎めいた極意なんだから、ハイ才能才能と片付けてしまうのは、謎を解き明かそうという態度自体が無いってことなんだからつまらない。
それで話を戻すと、僕が夏目漱石になれるかどうか、というような話。で、ここで冷静に見て、それはなかなか難しいことだな、と誰でもわかるわけだ。まあせいぜい頑張ってくれという話で、多くの人は、まあそれはムリなんじゃないの、と内心で思って黙っていることだろう。だから結局、誰にも頼らず、誰にも本質的なことはレクチャーしてもらえず、自分で手探りで研究していくしかない。先人から教わることはとても多いし、それなしには研究も実際には不可能なんだけど、でも実際には自分で手探りしていくしかないわけだよ。なぜかというと、先人の教えはその極意をなんとか説明しようとしているもので、内容が内容だけに、それ自体難しいから。結局その内容を自分なりに理解して、実践できるようにならなくてはいけないから、結果的に手探りするしかないというわけ。これはコマなしの自転車に乗る練習をする子供と結局同じだね。あれも結局、自分で手探りするしかない。いくら理屈を言われても、慣性で発生するバランスを体でできるかどうかなんて、本人の感覚でしかないからね。
あなたがいい女になるということも、まったく同じ。かけがえのない瞬間に触れる、そんな恋愛をすることもまったく同じ。自分で手探りするしかないんだよ。僕はあれこれ、説教臭い口出しをするけど(いつも反省してる、実は)、それでも結局のところは、あなたが手探りで掴んでいくしかないわけだ。
だから結局、そういう難しいことに、自分は向かうのかどうかという、そこの緊張感だけが問題になる。とりあえず時代の風潮を犯人にして、この時代では誰もが焦っているということにして言うけれど、そもそもこんな難しいことに挑もうというのに、冷や汗をかいて向き合うということができない人がとても多い。なんというかね、先月好きになった相手と、今月付き合って、来月には夢のような時間を過ごして、来年にはハネムーンに行きたい、というような人が多いわけだ。そんなインスタントなことが本当にできると思う? もしできたとしたら、それはよく出来た完全なニセモノだよ。そのときはドラマティックに感じられるかもしれないけれど、しばらくしたらすぐに忘れる。
いやこれは実際によくある話でね、若い男女が上手い具合にかみ合って、エキサイトしちゃって、それを奇跡の物語と思い込んでしまうパターンがあるんだ。そしてそういう関係に限って、後で猛烈に冷却が来てひび割れてしまう、まあ成り立ちから見て、当たり前のことなんだけどね。そしてそういう人たちに限って、愛が冷めたとかなんとかで、愛という言葉を振り回すし、加齢とともにやさぐれていって、所詮オトコもオンナも、みたいなことを熱心に語る語り部になる。それは別に悪いことではないけれども、僕は正直見たくない。そういうのはなんというかね、うっとうしいと感じる反面、半分以上は見ていて胸が痛むもんだ。こっちもカッカきてるときなら笑い話で済むけれど、ふと我に返って、ああでも誰もがみんな、一度は夢を信じたのだったよなぁ、とか思い始めると、もう気持ちのやり場がなくなってしまう。
まあそんなこんなでね、単純にいい女になる、というようなことでも、この時代に特徴的な、安易に焦った脳みそで取り掛かってはどうにもならないということなんだ。いい女への一歩を踏み出すときには、誰でもどの位置からでも、ものすごい真剣さがいる。ちょっとでもゴマカシが入ると進めない。そして、一歩が出ればあとはカンタンさ、というようなこともなくて、一歩一歩が実に大変なんだ。分かりやすく言うと、その一歩を本当に踏み出すためには、百の発見がいる、ということになる。それぐらい大変なことなんだ。僕がここでウダウダやっているのは、せいぜいその発見につながるような、ヒントを出そうとしているようなことに過ぎない。その意味で、愛用してもらえたり、楽しんでもらえていたなら僕は本当に満足だ。そんなヒントごときを出すだけでも、僕にとっては難しい、全力を傾ける必要があることだからね。
あと、ちなみにというか、刺激になればいいなと思って話すけれど、僕のこのウダウダ書き物を読んで、中には僕に会いに来てくれる人もいるが、その中にはびっくりするぐらい、綺麗でかわいい女の子もいる。まだ年齢は二十歳前とかで、手足が白くてスラッとしていて、直視するとこっちが怯むぐらいのべっぴんさんで、表情にも愛嬌があるんだ。敬語は完璧だしジョークもよくわかって反応がいいし、話を聞いてみるとエッチな方面についても苦手ではなく、前の彼氏はすぐにイカさないように焦らしの練習をしました、なんてことも照れながら言う。これはまた、とんでもない上玉だなぁ、と、下品な僕としては正直に思って感心してしまうのだけれど、そんな彼女をして、出てくる言葉がとんでもなく健気で真剣だったりする。
「わたし、人をちゃんと、見られているでしょうか?」
彼女は僕の眼をジッと見てきて、そう真剣に聞いてくるのだ。ちゃんと見られているよ、と思わず言いそうになって、ちょっと待て、と僕は踏みとどまる。彼女が聞いているのは、そういう世間話としての問いかけではないはずだと。僕がそのときせいぜい言えるのは、こういうことぐらい。きみがそこまでの意味を求めて問うのであれば、まだ焦っている、と言うべきだろうな、俺も人のことは言えないけれど……
さてそんなわけで話を聞くと、彼女はそのように、一般的な意味ではもうバツグンにいい女であるにも関わらず、それでも彼女なりには自分に違和感を覚えているところがあるということだった。というのは、彼女には昔、とんでもないワルの女友達がいて、その女友達から向けられていた視線に、自分はずっと感動していたということなのだった。それに比べたら、自分の目つきにはなんだかウソがある気がすると。彼女はその友達と、ウチらずっと変わらずにいようねと約束して、もし自分がこの目つきのまま生きるとしたら、わたしはその約束を違えてしまうことになると。それはどうしても悲しいんです、助けてください、ということなのだった。
そんなこんなで話をしているうち、昔話もいろいろ出てきて、彼女の中で解決していなかった、過去のやりのこしの物語も出てきて、僕のほうもへんな声とへんな顔で、それでもむき出しにして彼女と向き合うというようなことが起こってくる。そんなときに、何かの拍子に、じゅわっ、とお互いに肩の力が抜け、視線がパシッとつながりあう、という現象が起こったりする。
真剣な彼女はそのことをもちろん見逃すはずがなかった。ああ、これですね、これが人を見るってことですよね、わたし今、人を見られていますよね。彼女は少し震える声でそんなことを確認する。確認するまでもないぐらい明らかな、それは現象だから、僕はその視線に乗っけて、ウンそうだな、すげえな、と返答する。彼女は、よかった……、と振り絞るように声をこぼして、ファミリー・レストランでの周囲の眼も気にせず、表情をみるみる崩しては、両目に拳を当て、嗚咽を上げて泣き出したのだった。
ちなみにそんなとき、周囲の視線は冷たく、僕が彼女を泣かしたように見られて、大変居心地が悪い。が、こんなときにオトコは動揺してはならない。いっそ逆にふんぞり返って店員を呼びつけ、ローズヒップ・ティーを注文するのである。泣くと身体が冷えるから、泣き止んだときにはタイミングよく、赤く格好つけた茶が、彼女の身体を温めてくれることを願って。
まあ実際にそういうことがあるものだから、うかうかしていられない。僕が夏目漱石になるにしても、あなたがいい女になるにしても、一歩一歩が大変だ。ゴマカシを入れず真剣に、百の発見を泣きながら受け止める必要がある。
―――あなたは、人をちゃんと、見られているでしょうか?
ここまで話せば、ようやくこんなことも、真剣に受け止めてもらえるかもしれない。
そうであればいいな。
ではでは、そんなわけで、また。
あと最後にきて、今さらなんだけど、僕は夏目漱石が、そんなに好きではないのでした。
[了]