No.152 卯月粘膜
ローザがキユ先輩と寝たのは丸四日間であった。ローザはキユをマンションの出口まで見送り、夜風を浴びながら久しぶりに一人でいる感覚が滲みてくるのをしっとりと受け止めると、涼しい気持ちのまま八階の部屋まで戻ろうとしたが、足取りはもうふらふらだった。それはまさに四肢の力を使い果たしたというようで、いつでも膝が抜けてへたりこんでしまいそうだった。こんなに力が入らなくなるのは初めてだ、と、ローザは一人でその感覚に笑いがこみ上げてもきた。廊下に据えつけられた手すりを頼りにしながら歩き、まるでおばあさんみたいだ、手すりって本当に必要なんだ、と思った。
部屋に戻りカレンダーを見ながら指折り数えてみると、やはり過ぎた日数は四日間であった。四日間もしていたのか、と思う一方、でも四日間でしかないんだ、とも思えた。部屋着を脱ぎ捨て下着姿になり、しどけなくベッドに座り込むと、酷使した関節があちこちで軋んでいた。全身のうち、だるくないところは一箇所もなかった。四肢だけでなく、それ以上にひりひりと熱くなっていたのは身体の各所の粘膜だった。まるで野生に返ったみたい、とローザは思った。唇はひりひりと、しかし甘さを残してうずいている。舌はこの四日間で、生まれ変わったようにたくましくなり、自由自在に力強く動かせる感じがした。唾液がさらさらと湧き出て、まるで真水のようだった。
キユと体力の限りを尽くしたローザの部屋には、まだ性的な汗のにおいが立ち込めており、その中でローザの意識は溶けてなくなり、すぐにでも寝入ってしまいそうだった。しかしローザにはまだ、思い出して確認したいことがあり、そこまでなんとか意識を保とうと、鼻で深呼吸をして眠くないふりをした。何がどうなって、自分はキユさんと寝ることになったのだったか。どうでもいいことのような気がしたが、どうすればそのどうでもいいことで、ここまで力を尽くせるようになるのか、そのことをローザは確認して、知りたかった。
***
ローザが前の交際相手、名取と別れたのは、およそ二ヶ月前、今年二月の初旬である。重い牡丹雪が降っていたから、ローザはその日のことを雪に引っ掛けて覚えている。ローザから一方的に別れを告げて、やはり一方的に連絡と関わりを絶った。もうダメなの、とだけローザは言ったのだったが、内心にあった自分の言葉は、もうイヤなの、というのが正直なところだった。何がイヤになったのだったか? そのことを思い出そうとして、ローザは昨年の暮れごろまで記憶をさかのぼらせることになった。
十二月の中ごろのことである。ローザは大学で演劇のサークルに所属していたが、そのメンバーのうち二年生の一部が急遽退部することになった。それは人間関係のいざこざによるものだ。それに先立つ夏休みの頃までは、暴力沙汰まであったらしいと、部内のゴシップとして笑い話の種に供されていた類のいさかいだったのだが、それが秋ごろになるといさかいの質はどうやら笑い事ではないらしいということが明らかになり、お互いに訴訟を起こすというようなことさえ冗談ではないらしいということで、部内の空気は重たくなった。決着としては、そのいさかいを起こしていた中心人物のうち、まさに対立する二人が、お互いに全面的に縁を切るということで、秋の演劇公演を終えた後に、同時に退部することになったのだった。一方でそのような決着へ向けて物事が進行していたということは、他部員にとっては寝耳に水であり、彼らが受け持っていた部内での役職は誰に引き継がれるべきか、ということで慌ててミーティングが開かれた。ミーティングはそのような経緯からのものであるからには、始まる前からすでに殺伐とした雰囲気をたゆたわせており、特に潔癖であった四年生の、本来はすでに引退した先輩が臨時にミーティングの進行係を務めたこともあり、話し合いの場は初めから誰に向けるでもない非難と、余裕のない倦怠の気配であった。
ローザがその中で、役職の引継ぎに積極的に挙手したのは、その息苦しさに満ちた空間を早く終わらせてしまいたい、ということが大半の動機であった。そのときまだ一年生であったローザがその役職を担当するのは、部内の伝統的な仕組みからは異例のことであったが、欠員した二年生はもともとの人数が少なかったこともあり、一年生が引き継ぐのもやむなしのことだった。ミーティングが終わると、議事進行を務めた先輩は、もうアンタらが頑張ってよ、と投げやりではあるが励ましの声をかけて去った。ローザは早まって面倒を背負い込んだような気がしなくもなかったが、やってやれないことではないだろうと、一方では気楽に捉えてもいた。
しかし年が明けてすぐ、ローザは自分の無能と無知に打ちのめされることになった。正月は実家に帰省し、下宿先のマンションに戻ってきたのは松の内が過ぎたころだ。このときハッと思い出したのだが、一月の中ごろにある、引退する三年生を送り出す飲み会、いわゆる追い出しコンパの、会場の予約をしておかねばならないのだった。このときローザは、危ない、忘れるところだった、と胃の腑が冷える思いをしたのだったが、会場となりうる店舗を数件まわるうち、部員全員を一区画に受け入れられるだけの面積を持った店舗はこのあたりにはそうそう無いということと、世間的にも新年会のシーズンで予約が埋まっているということを知らされ、そのころにはローザは自分の顔が鏡を見るまでもなく青ざめていることを感じた。悪い夢を見ているようで、立ち止まると眩暈がする。一瞬、全て投げ出して逃げてしまおうか、と考え、そんなことを考える自分に恐怖の混じった驚きを覚えた。
夜が更けゆく中、ローザはどうしていいかわからず、一旦帰宅して冷静に考えようと思いバスに乗ったが、いかにも動転していることが明らかに、ローザは乗るバスを間違った。バスが発車して直後には、自分がバスを乗り間違ったことに気づいたが、ローザはそのような自分の取り乱しぶりにいっそ呆れて、そのままバスに乗り続け、大学の工学部前でバスを降りた。そして部員がボックスと呼ぶ、サークルの部室に向かった。歩調は小走りの手前の早足だった。
そのときボックスに、偶然キユ先輩がいた。蛍光灯の、黄緑がかった光の下で、電気ストーブにあたりながら雑誌を読んでいた。キユを目にした瞬間、ローザは、助けを求めようとする心の動きを起こしたが、直後には甘えるわけにはいかないと思い踏みとどまった。
「……どうしたの?」
立ち尽くしたままこわばった会釈をするローザを見咎めて、訝る声をかけたのはキユのほうだった。後にキユは、ローザの膝を指差して示したのだったが、ローザはどこかで慌ててぶつけたのか、冬用のタイツを膝のところで破いて、その隙間から血をにじませていたのだった。
キユがこのとき発した声の波長は低く穏やかで、震えながらかろうじて立っていたローザにはやさしく響いた。ローザはたまらず自分の窮状を打ち明けて助けを求めた。追いコンの場所が見つからないんです。その言葉はいかにも弱々しくて間が抜けており、震える声は自分でも悲しくなるような愚かさに満ちていた。キユはそれを受けて、――うんそうか。わかった、それはまずいな。と応えた。
「じゃあローザ、お前さ、公衆電話のとこ行って、電話帳が無いかどうか見てきて。それで、あったら、申し訳ないけどギッてきて」
ローザはその口調と声音に直接押されるようにして、はいと答えただけですぐにボックスを出た。そうして動き始めると、ローザの涙腺は何に弛んだのか急に熱を持ち始める。慌てるなよ! と後ろから大きな声がかかり、その声の大きさにつられてローザも、はい! と大きな声が出た。涙声ごと投げ飛ばすような調子であった。ローザは、普段はなんとなく怖くて一人では歩きたくない暗がりの坂道を、このときはあえて踏み潰すような、見せ付けるような猛々しさで歩いた。落ち着いて歩こうとしても足は自然にアスファルトを蹴りつけるようで、怒りのように滲み出るその歩調は、ローザも途中で気づいたこととして、悔しさであった。ローザは一歩ごとに、くそっ、くそっ、と自分を蹴りつけるように歩いていた。――なんでこんな当たり前のこともできないのよ! そう思うと、自分を懲罰として引き裂きたいような悲しみと怒りを覚えた。それは自分に対する、情けない、という熱情だった。
ローザが電話帳を抱えて、呼吸を荒くしたままボックスに戻ると、キユ先輩は新しく現れたもう一人の三年生と、思いがけず落ち着いた調子で話をしていた。キユはローザの戻りを迎えると、とりあえず保険は打った、と報告した。
「こいつの先輩で、カフェバーの副店長やってる人がいるんだけど、今電話でその人と話して、最悪その人のところを貸切にしてもらえる算段はついた。だから一応大丈夫だけど、ちょっと場所が遠いし、あと値段もちょっと高い。学生が使うところじゃ本来ないから。まあ最悪は、そこでなんとかなるのはなるけど、もうひと頑張りして、ベターなところ探そう」
ローザはその報告を受け、安心感が自分の身に染み渡り、冷え切って震えていた血がたちまち氷解してゆくぬくもりを覚えた。そして同時に、そんな方法があるのか、考えもしなかった、と感心もした。ローザはお礼を言わなくては、と思い、ありがとうございました、と言おうとしたが、なぜかそれは素っ頓狂な台詞のように思われてためらわれた。もう一人の三年生、フジムラが、いつものおちゃらけた声で、――あれ、じゃあ俺ってもう用無しじゃん、と笑った。そこに起こったそれぞれの笑いの中へ向けて、ローザは勇気を引き起こされたように感じて、
「あの、ありがとうございました。本当に」
と頭を下げた。頭を下げると、なお頭が下がる気持ちが湧いてきて、ローザはずいぶん長い間頭を下げていた。それを受けてフジムラが、いいってことよ、とやはり軽く応えた。いやお前は何もしてねぇし、とキユはフジムラを笑った。
「申し訳ないけど、後でセロテープで貼ろうな」
キユはそう言って、謝りながら電話帳の、当該ページを数枚切り取った。そして三人でそれを分け、それぞれに電話をかけ、使えそうなところの予約を仮のものとして押さえていった。当てになる候補が数件押さえられたところで、ボックスでの作業はお開きになった。最後までボックスに残り、切り取った紙片をテープで丁寧に補修し、電話帳を元の場所に戻すのが、その夜のローザの仕事となった。
――そうだそうだ。それで、当日も全然駄目だったんだ。ローザはベッドの上で、剥げかけたペディキュアを眺めながら、そのときのことを思い出して、恥ずかしさを再燃させて顔を熱くした。
「追い出しコンパ」の当日、出欠の確認や集合場所の段取りが甘く、集団ごと愚図愚図になってゆく気配と、――これ何待ち? どうなってるの? というブーイングめいた声はいちいちローザに突き刺さった。実際に宴会が始まってからも、それぞれが酔いを深めて進む喧騒の中で、マイクもなしに地声を張り上げて仕切り進めてゆくのも容易なことではなかった。すべてが目まぐるしく、何もまともに出来ないと苛立たしく思いながら、それでもあっという間に全てのことは過ぎ去って言った。会場は二次会に移り、ローザが役目から解放されたとき、フジムラがローザにお酒を注ぎにやってきて、
「頑張ったじゃん、すごい良かったよ」
と言った。それを受けてローザは、全然ですよ、と応えたが、そう応えた途端、わけもわからずローザは目から大粒の涙をぽろぽろこぼした。ローザは自分の涙が自分の膝に落ちるのを見て、うわ、本当に大粒の涙だよ、と驚いたが、自分でも制御も認識もできないぐらい、そのときのローザは泣くしかないようなのだった。
――全然、全っ然ですよ。わたしこんなに自分が馬鹿だと思ってませんでした。情けないです。ひたすら、最初から最後まで、自分が情けないです。
***
その一幕があってから数日後、ローザは名取に会った。名取はそのときの交際相手で、アルバイト先で知り合った男だ。そのときで付き合って一年半になる。名取は身長こそやや物足りないものの、痩せ型で顔が整っており、ローザにとってそれまでは、こっそりとした程度ではあるが、自慢の彼氏、であった。
ある光景を、ローザは印象的なものとして思い出す。名取との交際が破局に至る理由はいくつもあったに違いないが、なぜ別れたか、ということを問われたとしたら、ローザはその光景の中で起こり進んだ自身の心境について説明するよりないように思われた。
鏡の前で、名取が前髪の角度を調整している。ずいぶん長くそうしているな、と思ってローザは見ていたのだったが、それが済むと今度は女性用の剃刀で、入念に眉毛を整え始めた。
「ライブあっから」
ギターを趣味にしている名取は、口癖のようにそれをよく言った。その日もライブがあるということで、午後の早いうちにライブハウスに入っておくということで、慎重なところもある名取は、午前中から準備のいろいろに余念が無いのだった。古着屋で見つけてきたジーンズを染め直したり、ラフに破けたように加工したりと、そのようなことも名取はよくやる。ただこの日は奇妙に、前髪と眉毛の手入れがひたすら入念すぎるようにローザには思えた。それは傍から見ていると滑稽なほどであった。
今まではさして違和感の無い光景であった、その名取の振る舞いが、突如耐え難い空しさのものとしてローザに受け取られたのは、まだ自覚していないローザ自身の、根本的な心境の変化のためだったろうか。あなたってさ、と内心につぶやいた言葉が、ローザの心を驚くほど早く冷やした。
―――あなたってさ、本当に、それ以外に大事なことって無いわけ?
先日、ローザと名取はささやかな喧嘩もした。サークルでの活動にかまけて、ローザは名取に会う時間を作れず、それについて名取が、
「お前さ、何なの、俺のことナメてるの。忙しいのはわかるけど、そんなこと言ったらみんな忙しいじゃん。会いたくないなら会いたくないでいいし。俺そういうの、一番腹立つんだけど」
と、暗い調子でローザを責めたのだった。ローザはそれを受けて、一瞬困惑し、わずかに辟易もしたが、しかしこれは自分が愛されているということでもある、と捉えると、少し心に甘みが出たようにも思えた。そしてローザは、ごめんね、本当にごめんね、と詫びた。ローザがその振る舞いを選んだのは、名取が怒りよりもむしろ、傷ついて落ち込んでいる、というふうに見えたからでもあった。
しかしそのようなやりとりも、今前髪と眉毛の手入れをしながら、時折鏡に向けて顎を突き出したりしている名取と引き合わせて考えてみると、辻褄の合わない作り事であるように思えてくる。この人は本当にわたしのことを見て、わたしのことを気にかけてくれているだろうか? そうであればいいのだけれど、今こうしてわたしがいくら彼を眺めていても、彼は鏡の中の自分に首ったけだ。
わたしはこれ以外で彼の真剣な顔を見たことがない。ギターや音楽の話をよくするし、たまにはギターの練習もしているけれど、これほど真剣な顔はしていない。彼はよくアルバイトを首になって、それについて自分がいかに人と、妥協しては付き合えないか、尖ったままのところがあるのか、ということを語って聞かせてくれるけれど、そのときも今このときほど真剣な顔はしていない。
真剣な顔ってなんだろう? よくわからない、けれど、わたしには心当たりがある。自分で自分を許せなくて、蹴りつけるようにして歩きながら、それでも役目を果たそうとした夜があった。あのときのわたしは、多分真剣だった。
名取はようやく眉毛の造形を整え終えたようで、それに引き続いて鏡の前で、自分の顔がそれぞれの角度からどのように見えるかを確認し始めた。口を尖らせたり、眉をしかめたり目を細めたりして、いろんなパターンを確認する。それは傍観する分にはまるでよく読むファッション雑誌の表紙、その顔真似をして遊んでいるようにも見えた。ローザはそのとき、内心の変化を一通り過ごして、いっそ落ち着き始める段階であった。ああこの人は本当にこういう人だ。そりゃそうだよね。別に彼が、何かをだましていたわけじゃない。そのことを確認してローザは、わたしこれからどうしよう、と考えた。なぜか苦笑が湧いてくるので、それを隠す。
名取がギターケースを抱えて部屋を出るとき、じゃあ行ってくるぜ、という気障の台詞とともに、わざとらしい乱暴さでローザを抱き寄せてキスをすると、ローザは思わずウワッとなり名取を突き飛ばしそうになった。しかし突き飛ばしたらいくらなんでもかわいそうだ、という思いが先に立ち、ローザは生理的な反発をぐっとこらえて、名取のキスをできるかぎりの平静さで受け止めた。
名取が出て行って直後、案外ばれないものなんだな、とローザはひとつの発見をしたようにも感じた。
***
その後、名取と別れてから、ローザはしばらくは交際相手は要らないと思い、もっと何か自分のやるべきことに打ち込みたいということで、サークル活動として本来の演劇に、自然に腰を据えて取り組むことになった。図書館にゆき演劇論の本を、わからないなりに読み、演劇作品の鑑賞のために劇場に足を運ぶようになった。ひたすら考えてばかりの日もあり、一人で稽古をしているうちに日が暮れてしまうこともよくあった。毎日そのようなことをしている中で友人に、最近何してる? と聞かれても、何とも答えようがない、という具合になった。四月の頭に新入生勧誘に合わせて上演する舞台の配役を受けると、それに向けた役作りも、また発声練習などのいちいちにも真剣に取り組むようになり、気合入ってるねー、と友人に冷やかされるようにもなった。何か心境の変化があったの? と度々聞かれたが、別に、特には何も、としかローザは答えられない。
四月に入り、新入生の勧誘とそれに合わせた春公演も終わり、一段落したころ、ローザは久しぶりにキユ先輩に会った。夕暮れ、駅前の噴水広場を横切ったとき、ずいぶん美しい女性がフルートを吹いていたので、その周りの人垣に混じってそれを眺め聴いていたのだったが、そこに後ろからキユ先輩に声をかけられた。就職活動でスーツを着ていたキユを、ローザは初めキユ先輩だと認識できなかった。スーツ姿のキユ先輩はずいぶん大人びて見え、ローザは一瞬たじろいだが、話してみるといつものキユ先輩であった。変わらないですね、とローザが微笑みかけると、そう簡単に変われないよ、とキユは笑った。そして、ローザのほうは変わったな、びっくりした、とキユはおだてるふうでもなく言った。
「就職活動中で金ないんだけど、割り勘でよかったらメシ食いにいこうぜ」
キユがそう申し出るのを受けて、はい、とローザは、当たり前のこととしてそれに同意した。サークルのメンバーがいつも利用する、ブランドンという洋食屋で定食を注文し、それをつつきながら、外回りからかいくらか日焼けしたキユ先輩と話した。いやぁキツい、まあ世の中甘くないわ、とキユ先輩は繰り返して笑った。それでも一応内定は一つ出た、ということで、さすがキユさんですね、とローザは祝福した。じゃあお祝いに何か飲みましょうよ、ということでローザが店員を呼びとめ、ビールを二つ注文すると、ウーンやっぱりお前変わったな、昔のローザとはえらい違いだ、とキユは語りだすふうに言った。
「声がよく出てる。そりゃ発声練習もしてるから当たり前ではあるんだけどさ。でもそれ以上に、張りがあるというか、勢いがあるというか。それでいて、ずいぶん落ち着いているし、そもそも目つきが全然違うしな。とにかく、いきいきしてる。いつぞや泣きついてきたローザとはえらい違いだよ」
それを言われるとローザはあらためて恐縮するばかりだったのだが、いきいきしている、という評を受けて、ローザは内心華やいだ。自覚としてはあいかわらず、自分は泥臭いことばかりしており、交際相手もいなくなって、むしろ野暮ったくなったのではないかと不安にさえ思っていたところであった。少し気が引けながらも、生き生き、してますか? とローザは問いただした。うん、してる、と、キユはビールを喉に流し込みながら、確信ある声で答えた。
大瓶三本を空けたところで二人はブランドンを出て、そのまま店先で別れた。ローザは歩き去るキユ先輩を丁寧に見送ってから、自分も翻って歩きはじめ、キユさんに会ったのは久しぶりだった、あれだけ世話になっておきながら、今まで忘れていたのは失礼なことだった、と反省した。バスはもう無い時間だったので、歩いて帰るかタクシーで帰るかのところであったが、怠けるのはよくない、歩け歩け、とローザは自分をけしかけて歩くことにした。
そのとき、不意に後ろから、それもすぐ近くの声として、ローザ、と呼びかけられた。えっ、と思って振り向くと、そこにはキユ先輩がいた。あれっ、どうしたんですか? とびっくりしてローザが問いただすと、えーっとな、とキユ先輩は周りを見渡して、一瞬の躊躇の後、ちょっとこっち来い、とローザの手を掴んで引っ張った。されるがままに、引っ張って連れられた先は、最近改築されて湾曲が近代的欧風を主張するような佇まいになった、都市銀行の入り口、その躑躅の植え込みの奥だった。そしてキユ先輩は掴んでいた手を離さずに、そのまますっとローザを引き寄せると、ローザはキユの胸板にすとんと身体をあずけるような具合になり、ローザはキユに抱きすくめられた。ローザはぽかんとしたままであった。
「ローザ、あのさ、これはもう、どう言っても恥ずかしいことになるんだけど。聞いてくれ。俺はなんと言うか、今日は、お前にやられたよ。ローザは綺麗になった。いやならもちろんいいんだけど、俺お前が抱きたい。今夜付き合ってくれ」
キユの大柄な身体と両腕に、やさしくではあるが大きく確かに抱きすくめられたローザは、キユの求めとその申し出に驚くばかりだった。本当に言っているのか、冗談なのか、冗談であるはずはないのだけれど、実感がいつまでも湧かず、よくわからなかった。
そうして身を寄せ合っている中で、ローザが気になるのは、それより今の自分が汗臭くないか、ということばかりだった。今朝方にシャワーを浴びはしたが、今お酒を飲んだばかりで汗ばんでいるし、このようなことを想定していなかったから、香りのものも身につけてはいない。かといって身を振りほどいて逃げるというのは失礼だし、じゃあどうすればいいのかといえば、ローザにはキユの申し出を受けるにしても断るにしても、どういう言葉を持ち出せばいいのかわからなかった。
そのうち、固まって困惑しているローザを見かねてか、苦笑してその手をほどいたのはキユのほうからだった。ローザはほっとして、呼吸を回復し、同時に何も応えられなかったことをキユに申し訳なく思った。
「あの、キユさん、それって、今夜付き合うって、わたしがですか?」
ごく近い距離でキユに見つめられて、ローザから出てきた言葉はそのようなものだった。ローザは、我ながらムードのないことを聞いてしまっている、という自覚はあったものの、とにかくそのように確かめないと、実感が無さすぎて状況に手がつかないのであった。お前だよ、当たり前だろ、とキユは笑って応えた。キユ先輩はさすがに照れくさそうで、それを見ていると自分がキユ先輩を困らせているようで、ローザはますます申し訳ない気分になった。
「なぜ、わたしを? あの、もちろんイヤってわけじゃないんですけど。なんというか、よくわからなくって。そういうことを、したことがないわけじゃないんですけど、その、なんでわたしに?」
ローザが首を傾げながら、そのような押し問答を繰り広げると、キユは俯いて、こらえきれないという様子で笑った。お前、いよいよどうしようもないな、これ以上恥をかかせんでくれ、とキユは首を左右に振って頭を掻いた。そしてやむを得ないという調子で、動作でローザの消極的同意を確認しながらも、半ば以上は強引に、ローザの顎を片手で持ち上げるようにし、キユは自分の唇をローザの唇に重ねた。ローザは身を固くして、息を止め、何もできないままそれを受ける。ローザは、周りの人に見られてやしないか、ということばかりが気になった。しかし目を開けたら失礼になると思い、どうか誰も見てませんように、と祈るだけに留めた。ローザが身体を固くしているのを受けて、キユの手がそれをなだめるように、ローザの肩から背中を撫で、またローザを説得するように、もう一つの片手がローザの頬を撫でる。それに合わせて、されるがままに力を抜くことがローザは、気持ちがやわらかく落ち着いてくるとともに、キユの唇で自分の唇がやさしく撫でられるを心地よく感じ始めた。それにつれて漏れる小さなため息につれて、んっ、とごく小さな声が漏れるのを、ローザは自分で聞きもした。
「……このとおり、だから、冗談で言っているわけじゃない」
ひとまず唇を外して、やはり照れくさそうにローザに語りかけるキユは、恥ずかしさからか子供のような顔つきをしていた。ローザはそれを見て、かわいい、笑ったら失礼だけどかわいいな、と思った。笑うつもりではなかったのに、笑みはこぼれていたようで、笑うなよ、とキユは甘えるような不平を言った。ローザはそれを受けて、はい、ごめんなさい、とやはり笑った。そして、どう応えていいものかわからなかったが、
――あの、それで、さっきの話ですけど、……はい、その、わたしのほうは大丈夫です。
と応えた。キユはありがとうと言った。二人は照れくささの中で笑いあい、ローザは笑いながら、なぜ自分が笑えているのだろう、ということを不思議に思った。
「それで、あの、これからどうしましょう。ここからだと、わたしの家ってけっこう歩くんですよ。二人でだから、タクシーで行きますか? もうバスもありませんから」
「……そうだな、タクシーで行くか」
「じゃあ、さっきの続きで、割り勘ですね」
「……いや、さすがにここは俺が出すよ」
「えっ。そうですか? いいですよ気にしなくて」
「まあ、それはいいからさ。なんというか、とにかく、お前本当に変わったよな」
「えっ、そうなんですか? 自分じゃわからないですよ」
***
ふと意識を取り戻すと、ローザは数分間ではあるが、座ったまま眠っていたようだった。眠ってはいけない理由が他にもあり、明日は何か予定があったのだ。それを確認するためにローザはカレンダーに目を寄せて、小さく書き込まれた赤い文字を読んだ。明日は、先日お流れになったお花見を埋め合わせる形での、公園でのバーベキューがあるのだ。お花見をする予定だった日は、寒の戻りから季節外れの雪が降り、さすがに屋外で宴会ができる日ではないということで中止になった。このイベントは、新入部員にメンバーとしての自覚を持ってもらうということで、イベントの準備等々に、新入生にも協力してもらう形になっている。その意味合いも含めて、これはサークルにとって重要なイベントなのだった。その時刻と集合場所を確認して、ローザは時計を見る。なんとか一眠りはできるが、十分な休息とはいかないかもしれない。それでもまあなんとかなるか、とローザは自分を信じた。
キユ先輩に口説かれて抱かれてから、丸四日間、ローザはひたすらキユと肌を重ねることだけで過ごした。カレンダーを見ると、あれはまだ四日前のことなのか、と不思議に感じられてくる。確かに四日前のことなのだが、それはもう古い過去の思い出のように、遠のいて、逆にそのぶん失われることのない確かなものとして記憶に残っているのだ。
キユの求めと申し出を受けて、ローザはキユと共にタクシーに乗った。いつもするように、運転手に右折の場所を指示しながら、ローザは落ち着いたまま心配するという初めてのことも体験していた。
キユ先輩に抱かれるということ、そのことについてはローザの中で違和感はなかった。いわゆる交際相手として付き合ってはいない関係であり、またキユ先輩のほうに特定の交際相手がいるのかどうかを聞いてもいないのだったが、そのこととはまったく別の次元として、ローザはただ今あるキユ先輩の気持ちを受け取り、その相手を務めようと思っていた。あいかわらず、ローザとしてはその部分でよく理解はできないのだが、どうやらキユ先輩は真剣に、今わたしを抱きたいと思ってくれているようだった。そしてその中に、下卑た心は感じられないし、示された態度の中にも捩れた矛盾のようなものは見当たらなかった。飾った気障もなく甘えた臆病もない。それらを取り去ってなお、抱きたいという気持ちが残る感覚はよくわからなかったが、それはキユ先輩が男の人だから、ということなのかもしれない。男らしいというのはこういうことも含めて言うのだろうか。それにしてはずいぶんかわいらしいと思ってしまったけれど。そのあたりもよくわからなかったが、わからないことを無数に残したまま、タクシーはマンションの前に到着した。ローザの住むマンションは大学よりやや山手にあり、夜は休んで赤く光っている水道管の工事現場の気配ともども、あたりはシンと静まり返っている。
それにしても、とローザは思う。こんなに落ち着いていていいものなのだろうか。今から初めてこの人に抱かれるというのに、まして思いもしなかったキユさんにいきなり抱かれるというのに、なぜかいつもと違う、浮つく気持ちが無い。心臓が高鳴っているのは、痛いぐらいに響いてくるのに、なぜか自分は落ち着き払っている。度胸がついた、というわけでもなさそうだし、むしろ逆に、昔は何にいちいち浮ついていたのか、それのほうがよくわからない、という気さえしてくる。
それで、今さらどうしようもないけれど、誘いをお受けしておいて、わたしはちゃんとお相手を務められるだろうか? そのことが心配だ。今まで何の疑問もなく、人並みにそういうこともしてきたつもりでいたが、改めて考えてみると何の自信もない。もしがっかりさせてしまったらどうしよう。キユさんは、そんなことで気分を害する人ではもちろんないだろうけれど、それでもがっかりさせてしまったらわたしがショックだ。床上手になりたい、なんて古めかしいことを特別思ったことはないけれど、今になって思えば、床上手な人がこういうときはうらやましい。
がっかりさせないために、わたしあまり上手じゃないですよ、と前もって言っておきたい気もするけれど、わざわざそういうのも何だか卑猥でいやらしい気がする。となると、あきらめてこのまま、精一杯するしかないだろうか。そこはもう、へたくそでもご愛嬌ということにしてもらって……
でもそれでも、そういえば、わたしの「具合」ってどうなんだろう? 体型に自信があるわけでもないし、「具合」ということになったらなおさらわたしは自信が無い。別に悪く言われたことはないけれど、キユ先輩はモテるだろうし、経験も豊富だろうし、その中で比べられたら、やっぱりがっかりされてしまうかもしれない。
「どうしたの?」
「……あ、いえ何でもないです。ちょっと考えごとを」
マンションのエントランスに鍵を差し込んでひねると、モーターの力強く唸る音がして扉が開く。ローザはその音が好きだった。ローザはキユとともにエレベーターに乗り、八階のボタンを押す。
エレベーターが上昇するにつれて、実感がいよいよ湧いてきたのか、ローザの心臓はより高鳴り、浮つく心はやはり無いままに、緊張感だけがローザを締め付けた。それは今まで何度か経験してきた、舞台に出る直前の舞台袖に起こる緊張感に、むしろ似ていた。
***
宵の初め、夕焼けは起こらず、その代わり頭上の空は早いうちから艶めくような濃紺である。新設された水銀灯の清潔な光を浴びて、メンバーたちはバーベキューコンロに火を入れるところだった。遠目に眺めるだけでもそれは賑やかである。ローザは急いで歩いてきたつもりだったが、開始時刻にやや遅れた。
ローザは酷使した関節の軋みと、やはり酷使した粘膜の熱ぼったさが取れず、やむなく痛み止めを飲んで参加することにした。やりすぎで痛み止めを飲むなんてことがあるとは想像もしなかった。こんなことは誰にも言えない、と思うと、そうか誰も言わないからわたしも知らなかっただけなんだ、ということに気づいた。
キユ先輩との夜。といっても、それはもはや昼も夜もなかったが、それは甘やかさに満ちた、というものではなかった。心に残る、というふうでもなく、それよりは遥かに肉体的だった。かといってもちろん野卑ではなく、乱暴なところは微塵もなかった。ことの最中もキユ先輩はキユ先輩らしく、力強く、ただし女を相手するやさしさをいつもよりたくさん忍ばせて、冷静に執拗に、わたしに限界を超えさせようと集中するようなやり方だった。わたしはそれを受けて大声を出したりもしたが、経験不足からか、いく、ということは起こせず、そのことが少し悔しかった。
またキユ先輩がそのように尽くすのに合わせて、知らず知らず、わたしもキユ先輩を慈しみ悦ばせることに没頭した。正午ごろ、そのことに没頭していると、耳が冴えてきたのか、高架下で続いている工事の音が大きく聞こえてきたのを覚えている。それはここ数日、騒々しくてかなわないな、と捉えていたものだったが、自分が没頭しているうちはまったく気にならなかった。いつもより大きく音が聞こえるのに、気にはならないのだ。わたしはまるで自分の粘膜を、自分の武器、使うべき物としてひたすら使った。そうしてキユ先輩を果てさせることができたら、そのたびわたしは充足感を得た。よしキユさんをいかせた、と、わたしは何度も確認し、そのたび喜んだのだ。その充足感がどういう意味なのかわたしにはわからない。ただその充足感に向けて、わたしはわたしの限りを尽くした。そうしてお互いに、体力がカラカラに枯れると、真水を飲んで休み、お互いに話をした。なぜとはなく、お互いに子供の頃の話をすることが多かった。キユ先輩にも子供の頃があった、ということは、当たり前だが不思議な感触だった。そうしているうちに体力が少しでも戻れば、お互いにまたお互いを果てさせようとする作業に入り込む。
その結果、今日のわたしはこのありさま、関節が軋んで粘膜がひりひりして、歩くのがせいぜいで、急かされても小走りになることさえできない。でもわたしはこの四日間で、ずいぶん鍛えられたように思う。何が鍛えられたのかわからないし、何ができるようになったわけでもないけれど、この疲れきって空っぽの身体に、いくらでも力が湧いてくる気がする。
――これからわたしは何をしたいんだろう?
ローザは未だ麻痺を残した皮膚と粘膜を、卯月の夜風に晒し、ただ鍛えられた自分の力強さだけを確認し味わっていた。日中に温まった春の空気は夜半に冷たさを取り戻して東西に流れ、冷ました湯のように身体を洗い流してゆく。
固形燃料から立ち上る白い煙が水銀灯を包むように立ち上り一つの光柱となった。
――ふらふらだけど疲れてなんかいない。何がしたいのかは、まだよくわからないけれど、とにかくわたしは何だってやれる。
―――だから誰でも、何でも、かかってきてくれてかまわない。
そう豪語が湧いてくる自分に、ローザは違和感がなかった。
いつもどおりの学生らしい宴会の中に、新入生が入り込むことで、固まりすぎた日常感に少し薬を注してくれている。ローザは安物だがくせのない白ワインを飲んでいた。頭上を見上げるとごくわずかに花びらを残した葉桜と、その向こうに黄色い半月が光っている。ローザは目を細めていた。
ズエちゃんという愛称の、同級生の女子、これはコズエという名前からズエちゃんと呼ばれる愛称なのだが、そのズエちゃんが酔いに任せて、ローザの肩に体重を寄りかからせて甘えてきた。ズエのそのやり方は、いささかわざとらしく親睦を深めるというような気配で、周りも見てみぬふりをする程度の、酔ったふりをする彼女のいつものやり方なのだったが、ローザはその寄りかかってくる体重をいつもよりも重たいものとして苦しく感じた。今までは、この酔ったふりのやり方を、困ったものだと肩をすくめるだけにしてローザは捉えていたのだが、ひりひりと鋭敏になったローザの今日の感覚においては、どれやらそういうことではないようだった。ただ肉体としてしんどいのだ。体重のかけ方が無神経なんだ、とローザはその感触を発見した。悪い子ではないのだけれど。そう前置きしてローザは確認する。こちらの身体のことを思いやってはくれていない。そうか、わかった、ズエのこれは、いわゆる「乱暴」なんだ。
それぞれが呑み進んだ宴会の中ごろで、ズエが注目を集めるように挙手をした。ひとしきり盛り上がり中だるみに入りかけていた宴会の空気は、ひとまずズエに注目し囃し立てるようであった。
「わたし、ゲロっちゃいまーす。わたし今、禁じられた恋してまーす」
それを受けて周囲からは、エーともオーともわからぬざわめきが起こった。具体的な話を聞く前から、誰もが半ばは彼女を引きとめ、半ばはけしかけるようだった。
――わたしとしては、付き合っているつもりの人だったんだけど、向こうではそのつもりではなかったらしく! あはは笑えるよね。しかも相手には、もう八ヶ月も付き合っている彼女さんがいらっしゃるのでした! 先に言えっつーの。そんなわけでわたし、だまされました。だまされたのに、あいもかわらず、呼び出されたら会いにいっちゃいます。もうわたし、ダメでーす。
――えー何よ何よ、それ。
――そういうのやめときなって。ズエちゃんお人好しだから、そういうのすぐ騙されるんだよ。気をつけたほうがいいよほんと。
――そういうのってさ、あたしも経験あるんだけど、あ、もうずっと昔のことよ。で、経験あるんだけど、結論から言うと何もいいことないよ。自分が損するだけ。いくら我慢して、相手の言うなりになっても、男がつけあがるだけなのよ。だから今すぐ縁切ったほうがいいわ。
――まあでも、ズエちゃんがそうしたくてそうしてるんなら、しょうがないんじゃない?
――オー大人の意見。
――いやでもさ! そういうのは、ちょっと女の子のことわかってほしいんだけど! こういうとき、女の子って、一人で思いつめると、もうどうしたらいいかわかんなくなるものなんだよ? だからあたしらで、背中押してあげないと、ズエちゃんかわいそうじゃない。
――それ、体の関係はあるんだろ? だとしたら、とにかく避妊だけはちゃんとしたほうがいいよ。ピル飲んどいたほうがいいかもしれない。
――あーわかる。そこ、結局一番重要だもんな。
――ズエちゃん、結局その人のこと好きなの?
――で、ぶっちゃけ、その人って誰? 俺らの知ってる人?
――そんな人好きでいても何もいいことないよ。やめときなよ。
――でも、好きになったら、そういうのってどうしようもなくないか?
――とにかく、ズエちゃん、自分でちゃんと考えたほうがいいよ。結局ズエちゃんが自分で考えて決めるしかないんだからさ。
ローザはそれらの話を半ば以上聞き流しながら、初めはキユ先輩のことを思い出し、途中からはあちこちで動き回る新入生たちを見ていた。ローザはキユについて、繰り返し肌を重ねている最中での、真剣でまっすぐな目つきを思い出す。ローザにとってはキユの身体を受け止めるだけでも大仕事で、そのときにキユを観察するような余裕はほとんどなかったが、その中でも合間に視界に確認できるキユの姿、額から汗を流し、ローザを突き揺さぶることに集中しているキユの姿を見ると、ローザは胸を打たれたのだった。そんなに頑張ってくれなくていいですよ、とローザは申し訳なく思った。そして同時に、なぜそんなに頑張ってくれるんですか、と思うと、そこでわけもわからず胸が締め付けられるのだった。
ローザの視線は今、新入生のうち一人、痩せているというよりは少し弱々しいというふうの、新入生の男子の一人を見ていた。飾りのない白いシャツを着て、水銀灯の光を照り返し、誰にも気づかれないような控えめさで、実はかいがいしく動き回っている。散らかったごみを片付けているのだ。上着を着ていないのは、隣で丸まって寝入ってしまった同じ新入生の女の子の肩にかけてやったかららしい。その表情はローザから見ても幼くて、いかにも世間ずれしていないふうであった。そしてひっそりと健気で、懸命であった。
あの彼と寝るとしたら。ローザはそんなことを考えていた。おそらく彼は、そういうことに慣れてはいないだろうし、もしかしたら初めてかもしれない。そこはわたしがリードするとして、わたしは唇を、その内側の粘膜を、彼の身体に這わせてゆく。それを受ける彼はおそらく堂々とはしていられず、困ったようにわたしを制止するだろう。わたしはそれをやさしく押さえつけて、一方的に彼に悦びを与える。どうせするなら、今の彼にはそういうものを与えたい。ただ慈しまれ愛されるだけの側ということを、受け入れさせて屈服させ、誰にも聞かれるわけにはいかなかった、性愛に浸る彼の声を、繰り返し彼に上げさせたい。
あれ? なぜわたしはこんなことを考えているんだろう。ふと我に帰ったローザは、自分が色情狂めいた空想に耽っていたことに気づき、自分を小さく笑った。わたしすっかりへんたいになってしまった? そういうことではないはずなんだけど。そう訝って眼を閉じてみる。すると鼻腔の奥には、喧騒と酒気の空気に混じって、ごくわずかに夏の夜の匂いが感じられていた。そしてふと思い至ったところでローザは納得した。わたしは彼を応援しているんだ。そして頑張っている彼に、ご褒美を上げたいと思っているらしい。それが、今すぐ実際にやれることとは、かけ離れているにしても。
――わたしはわたしの粘膜を使って、男にご褒美を上げられる。応援し、祝福することができる。そうか、そこが変わったんだ。そこに自信がついたのを、わたしは鍛えられたと感じているんだ。
「ねぇ、ローザはどう思うの?」
突然同級生に呼びかけられて、ローザはエッと息を呑んだ。見ると、ズエは語り疲れたのかあるいはただ甘えたくなったのか、先輩の膝元に丸まって、泣いているのか、少し嗚咽を上げているようだった。同級生と先輩の複数の視線がローザに向けられていて、ローザは困った。どういう話になったのか聞いていなかったし、そもそも――と、ローザには新しい自分が立ち上がってきていたのでもあった。
「わからない。わからないというか、知らない。どうすればいいのかなんて」
ローザとしては、それは無難に答えようと努めた上での答え方だった。しかしその声は、ローザ自身あれっと首を傾げたくなる具合に、ローザの背中のほうから、穏やかに静かに響いた。それを受けてローザの周りには、ごく一瞬だがシンと水を打ったような沈黙が起こった。複数向けられていた視線が、そのまま戸惑うような色合いになった。
ローザは自ら起こしたその奇妙な静けさの現象に、自分も沈黙するしかなく、自分自身そんなつもりじゃなかったというふうに内心で肩をすくめたが、引き続き向けられたままの視線について、困った、でもまあいいか、と全てをただ受け止めるだけにして、時間が過ぎるのを待つことにした。静けさの中に一人浮き立ったローザは、それより今わたしが言ったことと、起こした気配はなんだったんだろう、ということに興味を引かれた。
ローザは瞼を静かに閉じる。視界が閉ざされると、やはりまだ身体の関節は軋み、粘膜はひりひりと熱を持っていた。ローザはその痛みを確認して、どうすることもできないのでただ耐えている。――私は何がしたいんだろう。先ほどの疑問がもう一度立ち上がってきた。わたしはキユさんとまた愛し合いたいのか。それはもちろんある。じゃあ白シャツの新入生の彼、彼とも寝たいのか。それも悪くはないけれど、それは寝たいというのと少し違う。わたしは彼のような人を応援していて、今夜頑張った彼にご褒美を上げたい気持ちがある、というだけだ。
今はもう記憶も薄くなった、名取とのこと。その別れ。そして自分の無能ぶり、不甲斐なさに、本当に歯軋りしたあのときのこと。そしてキユさんに助けられたこと。役職の現場でまた、やはり自分は無力だったこと。それが悔しくて泣いたこと。その後、キユさんに思いがけず口説かれて、そのまま想像もしていなかったような四日間を過ごしたこと。その続きとして今、自分がここにいること。ズエが泣いていて、わたしは正直それに共感できていないこと。一方で、ひっそりと働いている新入生の、名前もまだ覚えていない彼に、性愛を与えることを空想したこと。
――私は何を……、と、ローザがもう一度考えたとき、色んなことがピンと音を立てて、ただ一つの連なりに収まったようであった。その連なりの整合性も、いちいち確認はせぬままに、ローザはハッとして目を開けた。
――そうか。わたしは、活躍したいんだ。
うつ伏せて泣いていたズエは、今になって悪酔いが回り始めたらしく、友人らに肩を支えられて、手洗いに連れてゆかれるようだった。ローザはそれを見送りながら、やはり少し心配になる。だが自分までそれに付き添うのは無為なことだったので、ただその後姿を眺めた。ズエのことは、困ったところがあるにせよ、やはり嫌いではないようだった。コンロの火も落ち、酒も尽きてきて、それでも喧騒をやめようとしない、それぞれに甘えんぼうな風景がローザの見渡す限りに広がっている。ローザはその光景を不意に、ああこういうの、好きだ、と思った。今の自分は何も嫌いにはなれないらしい。
活躍。その言葉を拾い上げて、ローザは生まれて始めて体験するたくましさで、自分が勇気付けられるのを感じていた。何をするにしても、だ。何をするにしても、誰と寝るにしても、そんなことはどうでもいい。ただわたしは、活躍したい。そうして今夜みたいに、わたしは、自分を使い果たして、毎夜ボロボロでありたい。
ローザは自分を突き上げてくる勇気に、立ち上がりたい気分になった。今ローザが座っている位置で、ただ立ち上がるのみであれば、それは周囲から見れば挙動不審の類になるだろう。しかしローザは自分に正直に、ただ立ち上がった。股関節が軋み、股ずれは粘膜を傷め、膝は危うげに笑う具合であったが、そう、こうして立つのがふさわしい、とローザは信じ、膝に手もつかず、力ずくで立ち上がった。そして少し葉桜を見上げ、まっすぐ立ち尽くしていた。
「春ですね。もう、終わりますけど」
ローザがそう呟くと、やはりその声は不思議な響き方をして、周囲の数人に冴え冴えとした沈黙の空気をもたらす。ローザの振る舞いは、挙動不審であったが、気配は荘厳であった。低気圧が近づいているようで、風は徐々に湿度を孕んできている。ローザの言うとおり、まもなく春は終わるのであった。
[了]