No.156 結婚したければ東大に入れ
中学のときは、そこそこよかったんです、成績。でも高校に入ってからはさっぱりというか、中の下です。普通の高校です。
そういう女子高生が有名私学や国公立大学に入るためにはおよそ1500時間の受験勉強が必要になる。1日5時間としたら300日、1日10時間としたら150日だ。逆に言えば、それだけの時間勉強をすればいいだけで、大学に落ちる人は、その時間が実際できなかっただけ、ということになる。
ごく単純な意味において、僕はかわいい女子高生には、大学への進学を勧めたい。資金面を除けば、必要とされるのは1500時間の勉強だけなのに、その後の人生に関わる影響はずいぶん大きいからだ。今はだいたい、二人に一人ぐらいが大学に行く、という統計データが出ていたと思うが、単純にここで二分割されるなら、進学組に入るほうがいい。特に、大学に行く意味がわからない、行きたい理由が無い、という人にこそ、イヤイヤでも大学に入るほうがいいと、僕は勧めたく思っている。
なんだかまた、おじいさんみたいな話をしているな……本当はギャングになれと勧めたいところだが、まあでもこの当たり前のことを言う大人が最近は少なすぎるように思える。せめて僕ぐらいは、このことを女の子らに堂々と勧めておきたい。
大学に行く理由について。理由は、ない。本当は無いわけではないが、高校生に説明してもイマイチわかってもらえない。高校生の時点でそれがわかるような奴には逆に説明の必要もない。またさらに言えば、せっかく若い高校生なんだから、行けといわれたら素直にハイとだまされてしまえ、と言いたい気持ちもあるのだが……
それでも一つ、これは僕の視点として重要に思える理由としては、まっとうに言えば外部につながるということ、世界につながるというようなこと、それを体験するためだ、ということになる。そして悪く言えば、田舎に殺されないためだ、ということになる。
平易なところにおいてはまず、高校卒業後、同年代の男女が何百・何千と集まる機関は実際のところ大学しかない。これがまず、実は貴重なのだ。あなたはその中で、自動車部の連中が、廃車の部品から一台の自動車を組み上げるのを見て「へー」と深く感心したりする。こいつバカなんじゃないかと思える教授が、一方でどれだけ大量で濃密な読書をしているを知って驚いたりする。文学部の院生が古文書の解読をしていて驚く。友人が二カ国に留学したりする。あるいは知り合いが槍ヶ岳で滑落して死んだり、先輩が海外の大学で論文を発表したり、友達の彼氏がベンチャー企業を立ち上げた、というような話を聞く。テレビや新聞を介さず、直接触れてそれを聞くのだ。大学の中にいれば、それらはごく日常的なことでしかなく、その立場においては何も思わないのだが、これは大学に行かなかった人にはともすると生涯触れることのない情報なのである。
この当たり前のことが、実はとても貴重だ。これは侮辱するつもりで言っているのではないが、それでも動かしがたい事実として、田舎の部品工場で事務仕事をしているおばちゃんは、これらの情報に触れたことがない。だから、どんな人が国際会議の通訳をしているのかとか、どんな人がパソコンや自動車の設計開発をしているのかとか、どんな人が遺跡を発掘して飛行機を操縦して原油をクラッキングして歴史はこうだったと学説を立てているのかとかを、知らない。要するに、この世界が今どのような人の手によって運営されているかに触れる機会がないのだ。
それを知らないことは、罪でもなければ恥でもない。どうでもいいと言えばどうでもいいことだ。ただ、単純に興味がないだろうか? 僕は、若くて活力のある人間は、ごく無邪気にそういうことに触れてみたいという興味があるはずだと思っている。思っているし、その上でその後の社会的立場も、大卒ということで有利になるのだから、やはりこれはこっちのほうがトクであるように思う。
またこのサイトでは、僕は恋愛ネタを取り扱っているので、必然的にこういう話になるが、そういう世界に直接触れてきた人のほうが、男を見る目が大きくなるのは当然のことだ。単純に言うと、男にだまされにくくなる。俺は車に詳しくて改造が得意なんだぜ、とかっこつける男がいても、大学の自動車部に知り合いがいたら、なんとなくその男がどの程度のカーキチなのかはわかってしまう。趣味としての車いじりと、大学で工学を専攻して自動車部に所属していて卒業後はホンダの設計部に入った、という本職とのレベルの差を、漠然とではあれ知っているからだ。また男の側もそのことを本能的に知っていて、東大卒ですという女にうかつな嘯きはしないものだ。そうしてだまされなくなることが、幸福に近づくことになるとは限らないにしても……
よくある話、田舎の圧力でもしあなたが、よく知らない誰かと不本意に結婚させられそうになったとき、それがイヤならイヤだと、抵抗し拒絶する方法をあなたは持っている必要がある。親戚や町内会の手練手管はいろいろスゴんでくるだろうが、「それは違う」とあなたは突っぱねる「根拠」を持っていなくてはならない。その根拠こそ、あなたが直接触れてきた「世界」の体験に他ならないのだ。
大学に進学するというのは、学問をしにいくわけではほとんどなくて、実際にはそのような、外部の世界に触れに行くということなのだ。大学の授業が、後に社会に出てから役に立たないとか、社会と大学が切り離されているとかよく言われるが、それは当たり前であって、むしろそのこと自体が貴重なのだ。大学というところは、生活と癒着していないのである。
高校を卒業して、働くか進学するかということは、狭い世界に「飛び込む」か、広い世界に「触れに行く」かという、二者択一になっている。
「俺は東大に入る」ということより、「俺はラーメン屋で大成功する」ということのほうが、はるかに野心的で難しい
大学に行く理由が無い。だから必死にイヤイヤ受験勉強する理由が無い。これを当事者である彼女はきっと、「だって意味なくね? 大学とか」と表現するだろう。それについて僕は反論するなら、これはもう反論すること自体に気が引けてしまうところがあるが、そういうところの「意味」で言えば、働く現場のほうがもっと「意味なくね?」と感じられるだろう。毎日毎日、顔も見たくない上司の顔を立てながらの伝票入力ばかりなのだ。昇給はしないし、昇給しても上限はごく手近に設定されている。それでも、生きていくためだ、働かなくては食えないんだ、とやる気を出してはみても、これは要するにお金さえあればそのような仕事はやりたくないわけで、やはり根本的には「意味がない」と捉えているわけではある。だから早々、「早く結婚して仕事辞めたい」という発想に流れ着いてゆく。そのことは別に悪いことではないし、全員がそうなるわけではもちろんないが、それでも全てを眺めてみて、僕は知り合いの若い女の子に積極的にそうなってほしいとは思えない。ロマンがないではないか。
「1500時間も勉強とか、無理っす」と自嘲的に笑う女の子も多い。そういうとき、僕はつい意地悪なところが出て、「じゃあその1500時間を勉強以外の何に使おうか」という切り返しをしてしまう。そうなると、もちろん彼女は答えられない。別に意地悪をしたいわけではないのだが、しかし何をするにしても、何かに抜きん出るためには勉強は絶対に必要だ。手に職をつけ、職人になっていくというなら、その1500時間は後に訓練の時間として費やされるから整合するが、それでも広義にはやはり勉強しているわけで、なんにせよ楽ちんでリッチな生き方というのはなかなか出来ないのであった。
極端な美人ならそれが可能かというと、それがそうでもなく、身請けされるように金持ちと結婚した女の子も、結果的にハッピーにはなってない。そういう例を僕はたくさん見てきた。極端な美人は夢を持ちそれに向かうということが一生得られないことがある。男は誰でも彼女とヤリたいのに、彼女は誰ともヤリたくない、ということになるのだ。
一方で、そもそも自分は、人に抜きん出て何かがしたいという、野心そのものがない、という女性もいる。それよりは、つましい生き方でいい、自分はその中で美しく生きる道を探っていきたい、という人もいる。これは、貧弱なのかもしれないが、純朴で無垢だ。こういう生き方を選んでいく女性に向けて、僕は何も言うことがない。順当に幸せになるだろうし、僕としても彼女を尊敬しない理由はない。
「大学は、やっぱ頭のいい人が行くところでしょ」という見方について。これは単純に誤解である。東大や京大はさすがに、少しは才能がないと入れないが、それを除いては別に高い知能を求められるところではない。そうではなく、大学というのは、「粘り強く勉強した人が行くところ」だ。就職などでは、今でも大卒の学歴は評価されるが、それは頭がいいとか学問がどうとかを評価されているのではない。1500時間ほど、粘り強く勉強したことがある、ということを単純に評価されているのだ。ただそれだけのことであって、それ以外は何もない。
むしろ大学に行くというのは、それこそ東大でも京大でもそうだが、本当に頭のいい人に会いに行く、見にいく、ということに近い。本当に頭のいい奴というのは、勉強して大学に合格するのではないのである。アクビをしながら大学に合格するのだ。東大に上位で合格しておきながら、内心では、正直なぜこの試験問題が解けないのかわからない、一回聞いたことってそんなに忘れないだろ? と訝しく思っている。本当に頭のいい奴というのはそういう次元にいて、それに比べると、猛勉強して東大に入るような人はまったく頭がいいとは言えないのだ。そしてまっとうな神経をした人なら、東大に入ってそういう本当に頭のいい奴に直接触れて、ああ俺はかなわない、この土俵で勝負したらダメだ、ということを悟る。そして、自分が頭がいいなんて、一生思わないようにしよう、という重大な見地を得るのだ。それもまた、例の貴重な「世界に触れる」ということの一つである。
「勉強が好きな人が行くんでしょ」という見方。これもやはり違う。勉強が純粋に好き、というような人は、いるにはいるが極少数派だ。そうではなく大学は、勉強が好きと言い切れる自信はないものの、「勉強の必要性を感じている人が行く」ところである。そして、勉強が必要なら必要で、これをイヤイヤではなく、楽しんでやる方法を身に付けるために行くのだ。車の運転なんかと同じで、まるで出来ないとそれはストレスでしかないが、出来るようになると、しんどいながらも楽しみが出てくるということがある。そうなりたい、と思って行くところだ。勉強が純粋に好きな人間などほとんどいない。その証拠として、立場的に安泰した部長クラスの人間は、仕事あがりにはキャバクラに行ってばかり、帰宅して熱心に勉強しているなんてまず聞いたことがないだろう。
「学歴で人間が決まるわけじゃないじゃない?」という意見。このような意見は、常にどこからともなく湧いてくるが、これについては僕はコメントしない。当たり前すぎるからだ。
「成功するかどうかは、学歴に関係ないじゃない」という話。これも当たり前のことの一つだが、これについては若い人は誤解をしていることがよくある。というのは、学歴なしに社会に出て成功するなんていうことは、東大に入ることより一万倍難しいことだということだ。言い換えれば、「音大には入れないから矢沢永吉になる」と公言しているようなもので、これはその自覚がないならば、無知蒙昧の大言壮語になってしまう。
考えてもらえば分かるが、東大も京大も毎年何千人という人が合格して、そのほとんど同数が毎年卒業している。要するに、ウジャウジャいるわけだ。それに比べて、すばらしい蕎麦屋とか衝撃のラーメン屋とか、天才と呼ぶべき刀鍛冶とかイギリス王室から声のかかる美容師とか、そういうのはウジャウジャはいない。これはそういう成功が、東大に入ることなどよりはるかに難しいことを示している。若い人には気づいていてもらいたいものだが、「俺は東大に入る」ということより、「俺はラーメン屋で大成功する」ということのほうが、はるかに野心的で難しいことなのだ。そのことに気づいていない男に、あなたはついていってはいけない。
僕の知る限り、若い女性で、野心的でない人は少ない。多くの人は野心的で、少ない一部がそのことを自覚しており、大部分はそれに気づいていないように思われる。自分ではつつましやかに生きるつもりでいる人も、その設定しているつつましさが、まったくつつましくない、ということがよくある。結婚相手は、年収が○百万円ぐらいあれば十分でー、という話をするが、その金額の多寡に触れる以前に、それは相手の男性が堅牢な企業に勤めており、またそのまま勤め続けられる、しかも両親の介護にお金がかからない、という前提に立っている。しかし現況、そのような例はもう贅沢なのだ。多くの会社は、これからいつでも倒産・リストラが起こっておかしくないし、稼ぎ手が負担する老人介護の費用はこれからどんどんえげつなくなってくる。「平凡なサラリーマン」はもう過去の話なのだ。どうせならそこはもう、初めから公務員を狙え。それなら倒産やリストラだけでなく、中国企業への勤務という可能性からも逃れられるだろうし、介護施設への裏口手続きなどもできるかもしれない。
僕にはトヨタに勤めている友人がいるが、彼でさえ結婚したらお金にもう余裕はなく、子供二人を産めばもう借家暮らしかもな、というような話をしている。親と同居するなら別だけど、とかなんとか……
とまあ、苦しい話は探すまでもなく雑草のように辺りにあるが、そんなことを取り上げていては気が滅入るばかりである。いくら議論しても、結局は勝つ奴が勝つだけなのだった。
本題に戻ろう。僕は野心のある女子高生が好きで、彼女らに一流大学への進学を勧めている。そして、東大に入ることは、美容師として自分の店を持ち成功するよりも、はるかに容易でつつましいことだと言っている。何をしに大学に行くのか? それは世界に触れにいくためだ。あなたはそのことに興味がある。それに触れ、自分のさまざまな「基準」を広い世界に合わせて拡張しなおしてゆく、そのことも自分の野心に不必要なことでは決してない。そのために必要なのは1500時間の受験勉強ということだった。
東大卒の女なんて、と気後れする男もいるだろうが、そもそもそんな男にあなたは興味がないだろう。
ここまで話して、大学に行くか行かないかはあなたの自由だ。僕はその自由に差出口をするつもりはない。ただ一部の人にはこの話、そもそも「自由」ではなかったはずなのだ。生活的な文化圏において、自分は大学に「行かない」「行けない」者だと、なんとなく決め付けている人がいるのである。僕はそういう女子高生に正当なアナウンスがしたくてこのことを話した。まったく大きなお世話というやつだが、なにしろ対象が青少年であるからには、大人としておせっかいをすることもまあ悪くはないだろう。
抱きたくなる女子大生が増えることも、まったく僕の希望にかなっているのでもある。それは言うまでもないことで、この段はここまで。
気力に満ちた高学歴の女子大生には太刀打ちできない
いまどきはもう自慢にもならなくなったが、僕は友人やらこのウェブサイトを介してやらで、高校生の女の子と直接会って話す機会がある。先方からなんとなく興味を持ってもらえて、僕がそれにちょっかいを出して、というようなことがほとんどだが、そうして会った女子高生に、なんとなく進学を勧めることが多い。そんな話をするつもりはなくても、彼女らは彼女らで思いがけず自分の行く先を案じていることが多いものだ。周りに相談できる大人がいないのか、あるいは本当のことを話してくれると信用できる大人がいないのか、僕がその話を受けることがままある。
僕はいつも、やりたいことがないなら大学行きなよ、と言う。家庭事情が困窮していなければ、勉強すれば別に早稲田でも慶応でも入れるよ、という話をする。すると、なぜか一部の女の子は、「本当ですか?」とまず驚いて戸惑う。まるで考えもしなかった、という様子でだ。そして目を輝かせて確認してくる。本当も何も、当たり前のことなので、1500時間勉強したら入れる、1日10時間やれば5ヶ月だ、と話す。少女は考えこんで、それでも自信がない、というようなことを言う。僕はそれを受けて、まあ300時間だけやってみたらわかるよ、自信のあるなしなんか関係なしに、と応える。彼女はそれを受けて、もっともだ、と納得するようである。いろいろ思いは輻輳しているが、ああこれは彼女、結局やりだすな、ということが僕のほうからは見えている。自信がなくてもやる奴はやり始める。
そうして他愛無い話をして、後日、勢いのよいメールをもらうことがよくある。九折さんに言われて以来、勉強がんばってます、やれる気がしてきました、急に勉強しだしたので、友達がびっくりしています、というようなことでだ。明らかにお礼や感謝を伝えるつもりで打たれた文面は、逆に勢いづきすぎた彼女をよく示すこととして、その肝心の感謝や礼の文言が抜けている。しかしもちろん、そんなことはかわいいことなので、そりゃよかった、年明けまで今と同じ気持ちでいられたら、絶対に入りたいとこ入れるよ、とだけ僕は返信する。がんばれ、というようなことは言う気になれない。すでにがんばっているし、むしろ自分がもっとがんばらないとな、と冷や汗をかかされる。このあたりでもう、僕は彼女をつまみぐいする気を失っている。生まれて初めてのその種の美しさの中にある彼女に水を差したくないのである。大学に入ったら若い男にヤラれまくるんだろうなと思うと妬けるところもあるが、まあとにかく、彼女の翌年が華やかな春になることを願って、忘れる。
そうして忘れてから、大学生になった彼女が突然メールをくれる。これが、大学に入ってすぐとかではなく、一年生の終わりごろ、ということが多いようだ。合格の喜びから、入学直後のイベントラッシュがあり、テストがあり夏休みは合宿があり……と続く中で、ようやく落ち着いたころに思い出してメールしてくれるのだろう。このとき送ってくれるメールには、たいていお詫びの言葉が入っている。今さらの報告になってすいません、ということがまずあり、あのときは本当にすいませんでした、ということが二つ目にある。彼女自身、当時の自分を思い出すと、だらしなくてどうしようもない状態で、自分のことばかり考えていて、今思えば失礼なことばかりしたように思う、ということだ。そんなことは全然なかったよ、と僕は返すが、もちろんそんな古いことを僕はつぶさに覚えていない。そうして大学生になった彼女と直接会ったりすることもたまにあるが、思い出される過去の彼女と引き合わせると、第一に違うのは気力の充実度だった。過去の彼女は、何かができると思っていなかった。現在の彼女は、何かができると思っている。それは実際に、彼女が1500時間の受験勉強をして、自分の人生を切り拓いたからだ。生きるというのは、そうして切り拓いていくことだ、と彼女の体液や細胞が知っている、というような気力の満ち方。
僕は彼女のその気力の満ち方を見て、きれいだな、と思い、同時に、あのとき会えてよかった、お説教くさい差出口も、思い切ってしてみてよかったな、と思う。
その裏側で、怖いことだな、とも少し思う。あのとき僕がなんとなく会って、なんとなくうっとうしい差出口をしていなかったら、今のこの気力に満ちた彼女はいなかったかもしれないわけだ……
僕は文脈上、「若い女性」という言葉を使うが、このときの気力に満ちた彼女が、まさにその「若い女性」だ。以前の彼女は、若いというより幼い女性だった。幼い人間は、自分で何かを切り拓くことを覚えて、若い人間へとステージアップするように思われる。そして、どこかで居心地がよくなって、切り拓くことをやめたところから、人は老いるのだとも僕は捉えている。
本当に貴重なことは、彼女がそうして、自分の人生を切り拓いた、その切り拓くということを覚えた、ということなのかもしれない。それは別に大学受験などではなくてもいいのだろうが、僕の知る限り、十八歳の卒業生にはいまいちその他の道筋が見つからない。僕が知らないだけかもしれないが、僕は僕の知らないことを人に勧めることはできない。
つい忘れがちな、本サイトの趣旨に返って。今さら言うまでもないだろうが、こうして彼女が気力を満たした若い女性になり、しかもいやらしい側面では高学歴の女子大生ということにまでなってしまっては、そうでない者はちょっと勝負しても太刀打ちできない。彼女が天狗で高飛車にでもなってくれればまだ望みはあるのだが、残念ながらそうではなく、自分と向き合った時間を過ごした彼女はおおよそそうでない者より謙虚で人の気持ちが汲める人間になってしまっているのだ。
若くさわやかな男性がいて、彼には野心もやさしさもある。彼はもちろん、自分の人生を切り拓いていこうとする者であるが、その彼はどのような女性を尊敬し、選ぶか。それは言わずもがな、その切り拓くということを、共にできる人間だ。その外側からいくら憧れても無為なことである。
生々しい話もひとつしておこう。僕自身も一応は国立大学を出ているから、友人らには一応高学歴と呼ばれていい連中がたくさんいる。実際はアホばっかりなんだが、まあそのことは置いておこう。その彼らはぼちぼち結婚してきているが、その相手は大学時代からの交際相手というのがとても多い。女はアホなほうがかわいいやんけ、と毎晩キャバクラに行っていた奴も、結局大学時代の交際相手と結婚した。なんだ結局、男も女を学歴なんかで選ぶのね、と見当違いの批判というか反感を持つ人も世の中にはいるのだろうが、まあそれには取り合わないでおこう。僕はただ野心ある女の子に向け、フェアネスのため僕の見てきた事実を正直にアナウンスしている。
今回は我ながら反省すべきほど安易に、キャッチ力だけを求めてこの文にタイトルをつけた。そのことをお詫びしつつ、それでもそれは、誇張ではあれまったく的外れなことではないのだ、と勇気をもって付け足しておくことにする。
今僕がこれを書いているときも、あなたがここまで読んでくれているときも、どこかで一人の少女が、ふとやってみようかなと、1500時間の初めの1時間として、勉強机に向かっていることだろう。そうして一人一人、それぞれの生き方をいつの間にか決定している。なぜか笑えるような語としてある、決定的瞬間というやつだ。
僕の知る限り、このような話を受けて、グラリと心が揺らぐ女の子は少なくない。やはり高校生の女の子なんてそんなところは純粋なのだ。そのグラリには不安が伴う。その不安に、なぜか一歩踏み込んでしまう人と、慣れた手口のように引き返す人がいるが、これが何で分かたれているのかは僕は知らない。
まあ引き返す精神など理解する必要もなかろう!
僕にはお説教するつもりは何もなく、ただひょっとしてこれを受けた一人が、人生を野心にふさわしい華やかな方へ、拓いてくれたらいいことだなと願っているのみなのだった。
[了]