No.157 S子の場合
S子は二ヶ月だけランジェリーパブに勤めており、当時十九歳だった。ひさしぶりに会うと、彼女は髪を伸ばしていて、細い髪が手入れもされないまま、一本ごとに綺麗だった。彼女は僕を見つけると、大きな声で僕を呼び、大きく手を振った。その笑顔を見ると、ああ変わってないな、と僕は安心した。
S子の隣には彼氏がいる。いいところの大学に在学中で、S子の二つ年上らしい。見るからに好青年だな、というふうだったが、僕を見てわざわざ立ち上がって挨拶をしたので、実際に好青年だった。彼は近々、インドからネパールまでバックパッカーの旅をしたいという。それについて、S子がインドに行ったことある人を知ってるよ、ということで、僕を呼び出したのだった。
××グリル、という愛想のない店名だったが、老舗であって、メニューにある洋食はみな魅力的だった。僕はビーフテールシチューを頼んで水を飲んだ。ビーフテールシチューは一皿3000円もする。
彼に話を聞いた。なにやら彼は、自分は努力家なのだが、いまいち根性やセンスに自信がないのだ、ということらしい。友人がクラブ・ディスコにハマってしばらく行方不明になったことがあり、最近になってDJとして活躍し始めたそうだ。彼はそのDJになった友人と久しぶりに会い、その変貌ぶりにショックを受けた。そして自分も何かしなくてはならないと思い立ち、漠然と憧れていたバックパッカーとしての旅に出ることにした。彼は、僕にわざわざ足労を願ったことに恐縮しながら、そう自分のことを説明したが、説明は奇妙に整っていて、ひょっとして練習してきたのかな、とも思った。
バックパッカーの旅に出たところで、君が求めているようなものは得られないような気がするが……と苦笑しそうになったが、水を差すのも野暮だと思い、言わなかった。あるいは逆に、彼のようなタイプには、そういう体験が有効にはたらくということもあるかもしれない。
――まずインド現地にいったら、初日、親切な人に呼びかけられて、握手して、ぼったくりホテルに連れて行かれるんだ。まずそれで人間不信になる。そしてカレーを食って腹を壊して丸二日苦しむ。次は駅で切符を買うのに四時間ぐらい並んでイライラする。そして鳴り続けるクラクションと牛糞の匂いと、無限に湧いてくるイカサマ物売りやこじきに、イライラを通り越してついに「もういいわ」とあきらめがついたとき、自分の歩調が野良牛みたいになる。そしたらまあ、なんというか、インドと合意できた、という体験になるかな。あとはガンジャ・クッキーでも食べてバッドトリップで死にたくなるぐらいで。俺は二週間ほどバラナシのガンガーのほとりにいたけど、こじきの子供らをガンガーに投げ込んで遊んだり、野良猿とケンカしたりして、あとは毎日おなじガキの作る名人芸のチャイを飲んでた。そういう感じだよ。
彼はそれを聞きながら、おおげさに相槌を打っていた。頭はいいらしく、話の飲み込みが早い。いいですねぇ、熱いですねぇ、というような感心の仕方をするのだが、それを受けて、まあ確かにセンスはないのかもしれないな、と内心で肩をすくめた。話の意味は通じているのだが、雰囲気は通じていないようだった。S子はあまりそれらのことに興味がないらしく、ただ二人が話しているのを聞き流しているのが楽しい、という様子でクリームソーダを飲んでいた。
ビーフテールシチューは、驚きのうまさで、僕が今までに食べた中で二番目にくるうまさだった。
彼がちょっと失礼しますと言ってトイレに立った。一息ついて、僕はS子に、久しぶりだなあ、と挨拶した。S子は照れくさいのか、上目がちに、ねー、超ひさしぶりだよねー、とはにかんだ。
S子、前よりバストがデカくなってないか? 僕が実際そう見えてならないS子の胸元に視線を落として言うと、違うの、とS子は強く言った。
前は、ブラの選び方とかよくわかってなかったの。それで、教えてもらったり買ってもらったりしたらこうなったの。ほらっ。
彼女はそう言って、タンクトップの首元をひっぱって、その中を僕に見せた。おっと、と僕は思ったが、ああやはりこいつは変わってないな、とも思った。その胸元は、確かに前よりもきれいに豊かに整えられてある。濃い赤の飾られた布地も、派手だがおかしくなかった。
彼と付き合ってどれぐらいなのかと聞くと、ンー、ちょうど半年、ということだった。僕は、お前さ、と意味ありげに前置きして、
――お前さ、彼、すごくいい奴みたいだけど、彼とお前じゃ話が合わないんじゃないのか?
と尋ねた。S子は、ウン合わないね、と興味なさげだった。
――まあでも、いいんじゃない、と思って。あいつ、すっごいイイ奴なんだもん。
そうか、それはまあそうだろうな、としか僕は答えられなかった。S子は元気だった。僕はますます、S子という女をはっきり思い出してきた感触だった。
彼が戻ってきて、バックパッカー関連の話題が一段落すると、特に話すこともなくなった。彼は話上手ということはないらしく、頑張って何かを話そうとするのだが、彼が話しだすほど余計に空気が気詰まりする具合だった。
会計を済ませて、このままどこかへ飲みにいきましょうか、と生真面目に申し出る彼を、ああすまない、今日俺は読まなきゃならない本があるから、ちょっとあそこの純喫茶に寄って、それを読み込むことにする、とさえぎった。本のくだりはもちろん嘘だったが、純喫茶って最近はもう貴重なんだよ、と付け足したことは嘘ではなかった。
一人で純喫茶に入ると、期待したようなマンガ本は置いていなくて、僕はやむをえずまったく興味の無い週刊誌を読んでいた。確率は半々だな、と思っていたのだが、その半分が当たったらしく、S子がやってきた。こちらまでニヤけてしまうような、ニマニマした顔で、僕の名前を呼びながら、両手を差し出して歩いてきた。僕は顔が赤くなるのを抑えながら、ボーリング場でやるそれのように、彼女の両手に自分の両手を打ち重ねた。
彼女がそのまま座ろうとしたので、僕は自分の座っていた側、奥のシート席をゆずった。
「大丈夫なのか? 彼おいてきて」
「大丈夫、今日これから仕事って言ってあるから」
「仕事、って、彼は知ってるの? お前がランパブで働いてること」
「知ってる」
「大丈夫なのか」
「大丈夫。あたしがランパブで働くっていったら、泣きながら反対してくれたけど、説得した。彼、おおげさだからね」
「まあ、きょうび貴重ではあるけどな、彼みたいなタイプ……」
「いやいや、そんなことないよー。何をおっしゃる」
彼女は陽気に、少し強い調子で言った。
「そんなことないよ本当に。むしろ、彼みたいな人ばっかだよ。メロドラマ、ってあたしは呼んでるんだけどね、メロドラマはやめていただきたい」
「メロドラマ?」
「そうだよ。そりゃさ、反対してくれるのは、まんざら嬉しくないわけではないけれどさ。その反対のやりかたが、結局泣き落としかよ! ってのは本当にやめていただきたい」
「うーん、それはたしかにイヤだなあ」
「でしょ? そんでね、言うまでもなくわかってもらえてると思うんだけど、そういうときの涙って、なんか独特の自己陶酔とか、アピールとかも入ってるじゃない。こんなに愛してるんだぞー的な。それされると、正直ウゲッてなっちゃう」
「まあ、言うまでも無く、そういうのはあるね。俺も気をつけないとな」
「あなたはそういうことしないじゃない。どうせアレでしょ、反対するなら反対するで、どうせあの手この手を、また面白おかしく考えようとするんでしょ」
「……いやいや過大評価、過大評価。俺だってもうおじさんだから、すぐメロドラマになっちゃうかもしれん」
「いーやそれは無いね。あなたに限ってそれだけは無い。あつかましいぞ」
「うーん、無いのかなあ」
「無いよ。それで、しつこくて申し訳ないけど、なんか最近のほうが、本当に泣き落としのメロドラマ君ばっかりだよ」
「うーむ、こちらこそ申し訳ない。男性の一人としてお詫びする」
「ね。彼なんかさ、お金が要るなら俺があげるから、とまで言うし、通帳とかカードとか押し付けようとするんだもの。そんなのランパブで働くよりよっぽど不健全だと思うんだけどね」
「ところで、お金要るって、何に使うの?」
「温泉旅行いくの。友達と和室でダラダラするの」
「うーん、健全だなあ。ランパブで稼いで温泉めぐりなんて、こんなに健全なことはないよ」
「でしょ? どうせ行くならリッチにたっぷり行きたいと思ってさ。うふふ、うらやましいだろう」
「うらやましいな、文句なしに。そして、なんというか、あらためて彼氏さんが気の毒だな」
「まあねー。でも彼は彼で、やりたいようにやってるわけだし、あたしもちょっと逆に理解するようになってきたの。彼さ、あんなだから、ひとつひとつ、何か違うんだよなぁって、前はイライラしたりもしたんだけど、ひょっとしたら、それを何か違うって思ってるのはあたしだけなのかもしんないし、あるいはさ、そうやって何か違うこと、ズレたことを重ねて、それでもやっていくってのが、彼の人生なのかもしんないじゃん。なんか最近はね、それでいいんだって思うようになった」
僕はマンデリンのコーヒーを飲んでいたが、彼女の注文したチョコレートパフェを見て後悔した。運ばれてきたパフェにはシリアルが使われておらず、純正の生クリームと黄桃が乗っかっていた。
それでさ……と僕は言いかけて、なにやら湿っぽい調子になりそうでためらわれた。
それでも押し切って尋ねるほど、僕はS子にこのことを聞きたかった。
「それで結局さ、お前は、彼と付き合うっていうこと、彼が恋人っていうことに、異存はないわけなのか」
ここに示されたS子の回答は鋭かった。
「うん。あたし気づいたんだけど、付き合うのと、恋愛を、そのまま重ねる必要はないんだよ。だから彼でいい。彼と付き合ってて楽しい」
S子の、どこか引き締まった表情を眺めて、僕は胸を打たれる具合だった。変わっていないと思っていたS子は、そうではなく、奥深い変化をしていたのだった。
「なるほどなあ。それはとても正しい気がしてきたよ。時代的に」
「時代的に?」
S子がパフェを食べる手を止めて興味を示したので、僕は思うところを説明した。食べながら聞いてくれたらいいよ、と言うと、S子は素直にそうした。
――今この時代はさ、時代丸ごと、恋愛に興味がないんだよ。だから、恋愛のことについてどれだけ考えてもリアリティが出てこないの。昔は、東京ラブストーリーとか、ねるとん紅鯨団とか、あったんだけどね、今はなくなった。「あいのり」も終わってしまったしね。今、書店に平積みされている本といえば、この不況を生き抜くための意表をついた方法、みたいな本ばかりだ。そういうものしかないってことは、そうでないものは売れないってことで、それは要するに、時代が恋愛に興味を持っていない、ってことなんだ。
そしてね、恋愛について考えても、リアリティが出てこないようになってさ、そういうリアリティのないことを考えると、人間は弱っていってしまうんだ。だから最近は……と、ここまで話したところで、S子は何かに驚いたように僕を手のひらで制した。もう片手は、口にスプーンを差し込んだまま止まっている。
長音の音程を、後ろにいくほどずり上げるようにして、あー! とS子は頷いた。周りが心なしギョッとするほど声は大きかった。
「わかったー! そういうことなんだ。あのね、っていうか、ごめんね、話の途中だけど、あたし話していい?」
僕が合意するまでもなく、S子は自分で確かめるように話し始めた。
――あのね、あたしの友達には、すごいかわいい女の子がたくさんいるの。すっごいイイ子たちばっかりでさ、やさしいし、純粋だし、楽しいし、センスもいいし仕事もできたりするから、あたしは尊敬しまくりなわけ。それなのに、なぜかそういうコに限って、彼氏ができないわけよ。最近の男たちは、脳みそ腐ってんのかな、なんて思ってたけど、そういうことなんだ。わかったよ。
S子の話は、高揚しすぎていたせいか散り散りだった。話の後段でまとまってきたところのやり取りは、僕なりに言葉を整えようと差し挟んだところから、このようだった。
「恋愛にセンスがあるコのほうが、彼氏ができない、ってことか」
「そう! 世の中で? っていうとおかしくなるけど、世の中で言われてる一般的な恋愛じゃなくて、そういうの飛び越えて本当の恋愛が、わかってしまうコはさ、自分が誰かとデートしたり、告白されたり、エッチしたりしても、これは『恋愛』じゃないってわかってしまうんだよ。だから、そこでハイOKです、ってならないんだ。そんで、おうち帰って、恋愛について考えるうち、元気なくなってきちゃうんだよ。なんだっけ? 今の時代、恋愛のことを考えても……」
「リアリティが出てこない」
「そう、それ。それで、考えることにリアリティがないから、疲れて元気なくなっちゃうの」
ふと気づくと店内に奇妙な騒がしさがあった。何事かと思って見遣ると、恰幅のいい中年男性がカウンターの手前に倒れこんでいる。意識ははっきりしているようだが、震えるように自分の背、腰に手を当てている。
話を中断して駆け寄り、話を聞いてみると、どうやらぎっくり腰のようであった。男性が無理に身体を起こそうとするのを、無理すると後遺症になりますよと諌め、とまどっている店員に救急車を呼ぶように言った。男性は痛みに脂汗を流しており、おしぼりでそれを拭こうかとも思ったが、もう余計なことをしてもしょうがないという様子であった。
数分もすると救急車のサイレンが聞こえ、店内を安堵の空気が流れた。僕は店員に、交差点まで出て救急車を誘導するように言った。誘導しないと、住所だけじゃ救急車ってなかなかたどり着かないんですよ。そう説明すると、そうなんですか、と驚いて店員はエプロン姿のまま外へ飛び出していった。
屈強な救急隊員らがやってくると、愛想のないほどの手早さで、男性を担架で運び出していった。隊員の一人は男性の財布を借り受けて、代わりに飲食代の支払いまでした。
僕とS子はしばらくその光景を眺めていた。
しばらくすると先ほどの店員が、僕とS子のテーブルへやってきた。すいませんねぇ、助かりました、わたくしこういうこき、どうしたらいいかまったく知りませんで、と、安堵に無邪気にほころんでいる。
お礼に何かサービスするというので、僕はグレープフルーツジュースを、S子はピーチスカッシュを頼んだ。店長というわけでもなさそうなのに、そんなことをして大丈夫なのかと訝ったが、わたくしはオーナーの親戚でこれをやっていますので、ということだった。
「それで、ごめんな。話の途中で腰を折ってしまって。それで何だっけ」
「ううん、いいことだよ。ピーチスカッシュ飲めることになったし」
「そうだな。それで……」
「それで、だよ。ねえ、それで時代的にはさ、恋愛って、もうできなくなったの?」
「そんなことないよ。ただ、多分、才能が要るんだ」
「そうか、才能かー」
「時代の後押しがないんだから、個人の才能にしか頼れない、っていうことなんだろうね」
豊かなものを手に入れて体験するということでは、たとえば裕福なお金を得るということに似ている。時代が好景気なら、大手企業に入ってそれを手に入れられる人は増えるだろう。逆に不景気なときは、その入り口はずいぶん狭くなってしまう。だから不景気のときには、裕福なお金を得るためには、個人の才能で起業するしかないのだ、という局面が出てくる。
それが時代というものだろうし、不平不満を持つことでも、腐って愚痴るようなことでもない――と、僕は頭の中で文脈をまとめたが、S子に話すことはせず内に収めた。S子にはその才能があり、すでにそれを開花もさせている。
「お前はさ、どうせ、恋愛は恋愛で、また別口でやるんだろ?」
「どういう、ことでしょ。なーんか失礼なこと言われた気がするけど、まあ、そうだよ。だってあたしはさ、付き合うのと恋愛って重なってる必要は……あ、ジュース来たよ」
***
夜道をS子と並んで歩くと色々と驚かされた。背が伸びた気がしたのは単にS子がヒールを履くようになったせいだが、姿勢がピンと綺麗になっていた。仕草が奔放で子供のようなところはそのままだったが、気力が満ちていて清潔だった。細い身体にバネが入っているようにしなやかに見える。
S子はびっくりするほど僕の近くを歩く。いかにも無防備という気配なのだが、それでいて甘えてくる気配がまったくない。S子さ、と呼びかけると、ン? と大きくこちらを見上げる。その眼がじっとこちらの眼を見る。これも、見つめる時間はごく僅かなのに、ものすごくはっきりと見つめられた印象が残る。こういう女だったな、と僕は思い返しながら、そもそも女と並んで歩くというのは、こういうことだったなと、これはずいぶん長く忘れていたものを思い出す感触だった。
全てが懐かしく感じられた。
そして僕は、そうして女と歩くのが好きだったのだ。
「ね、前に教えてくれたじゃない? 性的に、閉じてる人と開いてる人がいるって」
「よく覚えてるな」
「うん。それでね、ぶっちゃけ、彼氏はその、閉じてるタイプの人なんだよ。だからあたし、彼とまだしてないの」
「そうなのか。というかその前に、あんまり人のプライバシーを勝手に話しちゃだめだよ」
「あっそうか。ごめんね、無神経だった。でも聞いてもらっていい?」
「うん」
「今までにさ、エッチしようって空気になって、トライはしてみたんだよ。でもさ、なんていうか彼、セックスする前に、なんか別のことしてしまう、みたいな感じなのね。あの通り、マジメな人だからさ」
「別のこと?」
「うん。多分ね、なんかすごい、あたしのこと愛そうとか、結ばれようとか、すごい大変なことを考えてるんだと思う。うまく言えないんだけど、それって頑張ってくれてるけどさ、むしろセックスから離れてるじゃない。気持ちが。でも彼は真剣っていうか、必死だから、あたしもそんなときに口出しできないし」
「そうなのか。でもそれじゃ、お前の場合……」
「そう。濡れないの。濡れないし、空気もおかしくなるし、濡れてないのを見て彼もがっくり落ち込んだりしちゃうしで、一旦やめて仲直りしよう、みたいなことになるのね」
「そっか。それはまさに、性的に閉じてるってやつだな」
「そうなんだよ。あたし、そのことも彼に言ったのね。なんていうか、性的に閉じるってことがあって、それが開いたら大丈夫になるからって、彼に安心してもらおうと思って。そしたら」
「そしたら?」
「誤解された。彼、自分が『男らしく』ならなきゃダメなんだ、って思い込むようになっちゃった。今回のインド旅行とか、それが理由の一つでもあるんだよ」
僕は思わず声を上げて笑ってしまった。男らしさ、という単語が奇妙にユニークなものとして響いたのだ。
「男らしさ、かあ」
「ちょっとさ、それはさすがにナイでしょ」
「そりゃまあ、男らしさを手に入れよう! なんて精神ほど、男らしくないものも無いからな」
「そうそう、そうなのよ。うまいこと言うね、相変わらず」
「まあでもそういうことなら、野暮だけど、ローションとか使ったほうがいいのかもな」
「あー、そっか。そういう方法があったんだね。うーん、ローションかあ」
「それならお前もあれじゃない、ローション使うこと自体に濡れる、って感じになってうまくいくんじゃない?」
「それはあるね。でもいいのかなあ? なんかそれだと、せっかくの彼氏なのに、なんか純粋にエロだよ」
S子は、その彼とうまくいかないときのことを自分なりに説明しようとした。僕はその彼女の説明に、あらためてS子の感性の直截さを見たようにも感じた。
――なんかね、彼なりの愛情たっぷりのモードで押し倒されると、彼の輪郭がぐずぐずになるの。子供みたいになるっていうか。愛撫してくれるんだけど、彼自身が不安だからか、あたしはまるでその不安を肌に塗り込められているみたいになって、あたしまで不安になってくるのね。思わず、どうしたの? って心配したくなっちゃう。うまく言えないけど、カッキリしててほしいんだよ。彼がやさしい人なのは、もう十分わかってるんだからさ。そこがカッキリしないで、ぐずぐずに輪郭がなくなってしまうと、なんか精神的にくっついちゃってダメなんだよ。あたしがいて、あたしが彼に抱かれるわけだから、彼は彼としてカッキリあってほしいわけ。そうでないと、あたしがあたしの気持ちになれないじゃない? それだとあたしはダメなんだよ。カッキリした彼とカッキリしたあたしを触れ合わせたいの。なんか矛盾してるけどさ、あたしはくっつきたくないんだよ。
S子の言っていることは、甘えについてのことだと思われたが、僕はそれを言葉にして伝えることを避けた。すでにS子の感性に確実に捉えられているものを、わざわざ言葉にする必要はないと思われたのだ。
S子は夜空を見上げるようにして歩いている。
「なんとか、うまくわかってもらえる方法はないかなあ」
「難しいな、これは話してわかることじゃないし。わかってからなら、話してわかるんだけど……」
僕はハッとして、あやうく見逃すところだったS子の顔を見直した。きれいに整った顔、その大きな眼から、はらはらと涙が流れている。
泣いてるじゃないか、と僕は慌てたが、気の利いたハンカチなど持っておらず、しかたなく親指の腹でS子の両目の涙をぬぐった。涙はいいけど泣き声は嫌い、と昔のS子が言ったことを思い出しもした。
僕は自分の中にS子の心がどうしようもなく織り込まれてくるのを感じていた。
「なんで泣いてるんだよ」
「泣くでしょ、そりゃあ」
「まあそうか、そうかもしれんな。悪かった、なんか気がつかなくて」
「いいよ。正直あたしもわけわかんないから。あたしなんで泣いてるんだろうね」
「なんでだろうな」
「あたし来月でもう二十歳になるのにだよ」
地下鉄の入り口にたどり着くと金曜の雑踏であった。僕とS子は無言のうちに、まだ帰路につきたくないと思い交わして、あてもなくビル街の路地を歩いた。どこか行きたいところあるかと訊くと、温泉、と答えるので、それは友達と行かないと怒られるぞと返すと、じゃあ海、とS子は答えた。
「このあたりには、まともな海岸なんてないからなあ」
しかし僕はそう言って直後、――本当にそうか? と疑う気分にもなったのだった。
五叉路に続く車道に列をなしていた黒タクシーの一台、その窓を僕は叩いた。若い運転手は訝しげに窓を開けた。このあたりに、海に出られるところってあります? そう尋ねると、海ですか? とだけ運転手は答え、後部座席のドアを開いた。
S子の手を引いて乗り込む段になってから、本当に行くんだ? とS子は笑った。眼にはまだ涙の跡があるものの、声には活発な陽気さが戻りつつあった。僕は胸の底がじわりと温まるのを感じ、それによって一層励まされるようにも感じたのだ。
S子にはS子らしくあってほしいし、自分は自分らしくありたい。人に話せない真摯さで僕はそのように願っていた。
すいませんね、こんな夜に、海に行くとか変なこと言い出しまして。僕がそう運転手に恐縮すると、いやあそうでもないですよ、と運転手は気楽だった。意外とね、釣り客の人とかがいるんですよ。夜中とか早朝とかにでも。あと中にはね、自殺するっぽい人とかもいるから、そういう人のときは、わたしらもお断りするんですけど。あ、あとそれで、あまり産業道路の奥に行ったらお客さん帰れなくなるかもだから、手前の交差点で一回停めますね。
運転手の口ぶりは軽妙だったが、釣りや自殺、産業道路という単語はこのとき聞きなれないものとして僕には受け取られた。それによってか僕は、今からS子と一緒にまったく知らないところへ行くのだ、という巨大な錯覚をした。
運転手の勧めどおりの交差点で降りると、分厚い海風が吹いていた。埋立地の道路幅は異様に広く、岸壁を覆う防波堤もいかつく要塞のようであった。道路を黄色く照らす外灯も、普段見かけるそれの三倍ほども高くあるように見える。
侵食に表面が荒々しいセメントの防波堤によじ登ると、右手にはおそろしく暗いヨットハーバーがあった。左手にはコンテナヤードがあり、闇夜のガントリークレーンが遥か彼方の恐竜めいて並んでいる。入り江に押し込められた波は構造物の床下でドプンと深く酔う音を立てている。
大気に潮の微粒子が満ちていた。
「あのさあ」
「ん?」
「まず、ありがとうね、こんなとこ連れてきてくれて」
「いやいや。まあ、連れてきたって言っても、まさしくこんなとこだし」
「ね、本当に、いつか教えてくれた通りね。危なかった。覚えてる? 恋愛って、うまくいく人とうまくいかない人がいるだけだって」
「そんなこと言ったっけか」
「言った。そんで、うまくいく人は、どんな恋愛でもシンプルにやるって。純愛でもエロスでも不倫でもシンプルだし、フラれても別れてもシンプルだって。それで、それをややこしくしてしまう人は、もう何でもかんでもややこしくしてしまうものだって。だから、恋愛がうまくいかない人になるんだよって」
「そうか。覚えてないけど、なかなかいいこと言うな」
「本当にそうだよね。あたしの彼氏はたしかに、なんでもややこしくしちゃうよ。そんでわたしもついさっき、ややこしくなろうとしてた。なんでだろうね。人ってややこしいことが好きなの?」
「好きじゃないよ。ただ、答えが見えなくなると、そういうふうになる」
「答え? 答えが見えないって?」
「いやいや、そう言われると、なんかカッコイイこと言ってるみたいで恥ずかしいんだけど」
風が強く、僕は声をやや張り上げねばならなかった。
「当たり前の答えが、仮に目の前にあってだよ。それがパッと見、答えに見えないことがあると思うんだよ。そうなると、混乱しちゃうじゃない。別のところに答えを探しにいっちゃうじゃない。多分それでややこしくなるんだ」
「その話、あたしすごい満足!」
このときS子の力強い声は、まったく僕の想像の外にあった。僕の意識はぽかんとした一方で、直後、背筋だけがぞくぞくっと強烈に震えた。
防波堤から半ば飛び降りるようにして降りたS子は、僕を手招きし、同じく降り立った僕の手を握り、それを大きく振るようにして歩き出した。行こ、と照れくさげに言ったS子の言葉には、彼女には珍しい、自分を鼓舞する演出の響きがあった。
振り回される僕の手の向こうに、S子の清潔な手のひらが生々しくある。それは確かにS子の言うように、カッキリしたS子の感触として僕に受け取られていた。
「行くって、どこに行くの」
「帰るの。ローション買って、あたし帰るんだよ」
[了]