No.158 会話の構造
人が会話するとき、また特にそれを聞いている側として、実際にはどのようなことが起こっているのか。それを明らかにするために次のサンプルを示してみる。
――映画とかはごらんになられますか?
――映画……あ、こないだね、終戦のローレライ? だったかな、そういう映画をみたの。彼氏と一緒にね。そしたら、シリアスな戦争ものだと思っていたのに、かなりマンガチックなSFものだったの。それでわたし、途中でエーッてなっちゃって、そういう心がまえしてなかったから、楽しめなくて。それで映画館でたあと、彼氏はノリノリで楽しかったみたいなんだけど、わたしのほうは「そりゃないよー」って感じで言いあいに。たのしい言いあいだけどね。あとでしらべてみたらその映画、アニメ関係の製作者がつくった、みたいな作品だったみたい。
このやりとりがあったとき、その聞き手はどのような情報を受け取っているだろうか。聞き手の立場を想像してそれを安直に書き述べてみれば、次のような具合になりうる。
「彼女は終戦のローレライという映画をみた。しかしたのしめなかった。それは内容がマンガチックで、その心がまえをしていなかったからだ。彼女には彼氏がいる。彼氏はその映画をたのしめた。彼はその映画のジャンルについて説明不足だった。映画はアニメの製作者が作ったらしい」
そのまんま、である。そしてこの聞き手が受けとった情報にかさねて、さらに話がつづくとすればどのような問いかさねがありうるだろうか。
――最近は、おもしろい映画がすくないですよね。
――彼氏さんは、マンガチックなのもOKなタイプですか。
――僕のほうは最近、○○という映画をみたんですよ。
このようなところが平凡にありうる。このような会話の進みゆきがあったとして、それは別段おかしいものとしては意識されない。
しかし僕がとらえるところの会話の本来というのはそうではない。実際に僕がこのやりとりの中から受けとる情報は次のようである。
「彼女は映画のタイトル等をはっきり覚えておくタイプではないみたいだ。平凡なデートコースをふつうに楽しむことができる人だろうか。シリアスやSFというようなジャンルの認識とそこに当てはめる言葉に正しい知識とセンスがある。心がまえというところからは、映画等をただ眺めてたのしむというよりは、がっぷり食いついてたのしむところがあるのかもしれない。また鑑賞した作品の感想についてはごまかして語りたくはない性格か。たのしい言いあいはよいが、とがった言いあいは苦手だというところがあるかもしれない。また、それがたのしい言いあいだったと補足しないと誤解をまねくかもしれないということを想像できるだけ、頭がよく相手の立場を想像して話すことが自然にできている。また観た映画の製作陣をあとで調べてみるぐらい、物事の奥まで興味をもつところがあるといえるか」
この僕としての聞き手のやりかたで、その後段をつづけるならば、問いかさねは次のようになりうる。
――その感じだとひょっとして、彼氏に誘われて一緒に映画にはいくものの、その見方というか、感性は全然ちがうって感じ?
――その感じでいくと、今までに、これはすばらしかったっていう物語作品はある? 映画に限らずとも。
――なるほど。とすると、ひょっとして、あなたには実はガンコなところがあったりする? 見た目で誤解されてるけど、みたいな。
情報を受けとる聞き手のやりかたとして。言うまでもなく後者は、そこにある話の意味それだけではなく、その裏側、その人の発想の仕方そのもの、その「心の構造」ごと受けとろうとしている。
そしてそのやりかたにおいて、受けとった情報はまだ可能性でしかない。彼女はそういうタイプ「かもしれない」という推測の形で、その情報を受けとっている。
だからこそその先に、問いかさねが生まれる必然性があるのでもある。平易には、「平凡なデートコースでも全然楽しめるタイプ?」というような問いかさね。そこで彼女からYesの回答を得れば、推測でしかなかったその情報は、さしあたり正しいものとして認めうることになるし、Noの回答を得たばあいは、「わりと彼氏にリードされたいタイプ?」「彼氏にはあまり言いたいこと言えない?」というような問いかさねが生まれうる。
そのようにして、このやりかたでの会話は無限に連鎖してゆく。そして表面上の話題がどのように移りかわっても、聞き手が受け止めている情報は相手の心の構造についてのみだ。会話のすべては彼女という存在を解きあかして知るための手がかりとしてそれぞれに光る。
その追求は、彼女を知ること、理解することにそのまま重なっている。
これはたとえば俳優が、台本を読んで自分の担当する役柄を理解しようとすることに似ている。台本に書かれているのは断片的なセリフと固定の所作だけだ。そのときどのような表情なのか、どのような声調なのかというようなことは、およそ俳優の役作りにゆだねられている。俳優はその役作りのために、断片的なセリフと所作から、ありうる人物像を確かに自分のものとして掴もうと、台本を熱心に読みこむ。
僕はそのようなやりかたで人の話をきいている。
そこでの話をきくということは、創造的な営為だ。
その人の心の構造を、地図のように書き留めていく
僕は町を歩くのが好きだ。僕がいま住む町には、おどろくほどうまい蕎麦屋がある。都内を何十軒もまわったが、ここ以上の蕎麦屋はまだ見つかっていない。中華料理のうち大連料理の店もある。ここは半額サービスが充実していて、価格に比較するとものすごく上等なものを食うことができる。料理人はもと国営ホテルの料理長だ。また銀座から隠遁してきた日本料理屋が路地裏にあって、ここは価格と比較すると奇跡的なレベルの料理を、六畳間の合板テーブルでだが、いただける。あとは全国屈指の、マニアックな酒飲みには桃源郷のようなバーもあるのだが、これは宣伝を禁止されているバーなので詳しくは言えない。神社にいくには交番裏のほそい道をぬけるのが実は一番はやく、格安の八百屋にいくにはブックオフの横をぬけたほうが、遠回りだけれども野良猫のおおい楽しい道をゆける。四十年の歴史をもつ純喫茶が閉業したのが痛恨で、また料亭に玉子をおろしていた卸問屋が閉業してそこの玉子を買うことができなくなったのも最近の痛恨事だ。まだコーヒーの卸問屋がサービスとしての小売をやってくれているから、市場価格の半額以下のコーヒー豆を買うことができるのがありがたい。また僕はこの町の通りに独自の名称をつけてわかりやすく把握しているのでもある。バンブー通りを抜けてインマヌエル交差点を右折しようか、という具合に。
このような話はいくらでもあって、この調子で僕は自分の住む町を語ったとすると、それだけで一冊の本になる分量となる。僕はそれだけこの町を歩き、知り、たのしんできたわけだが、これをもって僕はこの町を愛している、と表現することは不自然ではあるまい。
さて僕はここで注目をもとめたいのだが、僕はこの町を「愛そう」と決意などして、いまの結果にいたったわけではないということである。ただ歩くのが好きで、歩いているうちに知り、楽しみ、ふと気づくと語りつくせぬほどにこの町に親しむことになった。そこに特別に切り出した「愛情」があるわけではない。ただこれからも僕はこの町を歩くだろうし、それが楽しみだし、まだまだ知らないことがあるかもしれないと、ふだんは通らない道筋のあたらしい側面などをさがすだろう。
この僕と町との関わりあいはごく自然なものだ。一方、僕はこの町に住むことになったゆえんとして、この町に知人がもともと住んでいたのでもある。この知人は、この町にそのとき四年間住んでいたが、食事はおもにチェーン店の牛丼屋やラーメン屋であった。そして彼は、この町には何もないです、と言っていた。それは彼の趣味ということもあり、性格ということもあるかもしれない。ただ確実に言えることとして、同じ時間をそこで過ごしたからといって、同じように歩き、知り、楽しんで、ふと気づくと愛している――というわけではない。
知人が四年間をすごすより、僕が一週間をすごすほうが、この町をある意味でよく知り、よく楽しみ、愛しはじめるということはありうるわけだ。そしてそれは、実際まったくそのようでもあったのだ。僕は今自分の住むこの町について、下町のくたびれたところもあるにせよ、魅力を見出すまでに三日もかからなかった。なぜそのような違いが出るかについては、僕は強調して繰り返すべきであろう、「僕は町を歩くのが好きだ」。
人を愛することと町を愛することは似ている。その構造をあるき、知り、楽しんでいるうち、それは語りつくせぬほどのものになる。ただしそこに四年間を居座ったからといって、それを愛することになるかは人それぞれとなる。四年間の結果としての「何もないです」という回答はありうるし、僕と町との関わりのように、三日もかからないということもありうる……
じっさい僕が人の話を聞いているときは、その人の心の構造を地図のように書き留めていくようなのだ。それぞれの道が交差してつながりあい、それぞれに機能している、そして一部には工事もしているだろう。その全体を地図にしてゆくとして、地図に書き込むことは無限にある。航空写真のように精細にしてもなお、どこにキンモクセイの木があるかというようなことを、むしろ一番大事なこととして書き込んでゆけるはずだ。
なぜこの町のこの道路は渋滞するのだろうか? 暮らしのなかでそのような疑問を持つことは誰にでもあるはず。そしてその疑問を解くときに、当然のこととして、その道路に関連する全体像を思い浮かべて「謎解き」をはじめるはず。それと同じこととして、――なぜこの人はこの話題になるとイライラするのだろうか? というような疑問を持つことが起こってくる。そして全体像を思い浮かべて「謎解き」をはじめ、もしそこにアッという発見があれば、それをヒントに、その人自体の発展につながる視点を提出しうるかもしれない。それはその「町」をよく知っている者として、乾燥した他人事の意見としてではなく……
気恥ずかしさを押し殺して、僕は自慢話のような、この話をする必要にもかられる。僕がこのようなやりかたで人の話を聞くうち、その話し手の側が、――本当に話を聞いてくれている! という感激で、落涙さえすることがある。それは話し手にとって長らく喪失していた「会話」ということの充実、コミュニケートの回復となり、人生をまるごと励まされるささやかな救いとなることさえあるようだ。人は人として生きる以上、恋愛をふくめての、人とどう関わりあって生きてゆくか、というテーマを常にもっている。一部の人は、その回復した会話をもって、――このように関わりあいたいのだった! と、本来のところへ帰れることがあるようである。
僕はそのような落涙と大きな回復を目の前にみたとき、ただ神妙な気持ちになる。なぜ人にとって、理解されるということはそんなに重要なのだろう。まるでそれ自体が、生きる意味そのものであるかのように。そしてそのときも、しみじみという具合に思うのだが、僕はそこに切り出したような愛情を持ち込んで特殊な営為をしているわけではない。僕はよく歩き、よく知り、よく楽しんだだけだ。ただ僕は、この町の魅力をしらずに四年間を過ごした知人をもったいなく思うように、その人の魅力をしらずに長年をすごすやりかたの人をもったいないと――切実に――思うのである。
会話とはそこにいる他人を友人にしてしまうもの
読み手の一部に反発されてしまうことを承知の上で、僕がさいきん感じることの正直なところも、ここに申し述べておきたく思う。
会話が崩壊している。暮らしの近辺、あるいはテレビの各チャンネルを見やっても、僕がここに示したところの「会話」というものが見当たらない。誰もが言いたいことを言い、言ったことをフーンと聞いているだけだ。ときおりカン高く「意見」というようなものが提出されることがあるのみで、そこには聞き手による「謎解き」や、全体像を精細に知るためのマッピングというような取りくみはない。People talking without speaking / People hearing without listening / という、サイモン&ガーファンクルがうたう歌詞があるが、いつの時代にもそのようなさびしさはあったにせよ、近年のそれは過去のそれとはモノが違うというような迫力を感じる。
それどころか、このような僕の話自体、高電圧の有刺鉄線に触れたように、バチン! と弾きかえされるのではないかという怯えが僕にはある。すこし前、キレやすい十代というフレーズがあったように、人々の不満レベルは上昇し、寛容の閾値は下降している。
――はぁ? なんなの? ナニサマですか? 人の会話にお説教とかマジうざいんですけど?
このような反発――ほとんどは内心のものでしかないにせよ――に、僕の話などは弾きとばされてしまいそうだ。この高電圧をくぐりぬける方法を僕は知らない。ただなんにせよ、人はもう会話の仕方がわからないという次元でなく、むしろ会話「しない」という仕組みと生き方をさえ、なかば完成させつつあると、僕は指摘しておきたい。彼らにおいては、逆説的に、すでに自分たちは「やりかたを持っている」というふうなのだ。だからここまでの話を、知性的には余裕をもって理解はしても、まるで前もってそう決められていたかのように、――わかるけど、そんなこと正直、やってられないよね、と決着する。自分はこれからも自分のやりかたでやっていくから、と確認するのみである。すなわち僕の見立てにおいては、会話の崩壊というのは、未熟の結果ではなくむしろ成熟の結果といいうるわけだ。僕にはそれを難詰する勇ましさはないが、どうかわかってくれ、と頭を下げて頼みこみたい気持ちがある。
本来の「会話」がどのようなものだったか? それを忘れぬようにとして、どのような光景を心の額縁にかかげていればよいものだろうか? それを僕なりに精一杯しめして、この話を終わることにする。それが説得力のあるものになりうる自信が僕にはない。ただ願わくばこのようなことが、めずらしいことではあるにせよ、こそばゆいだけの寓話ではない、たしかにありうることだと身近に受け取られてほしいと思う。
僕は銀座のあるバーでこのような経験をした。僕とある女性が話すうち、僕は徹底した謎解きの態勢になった。
話が深く進みゆくうち、長らく見捨てられていた彼女の内側の道路が、急速に工事され、あたらしい道として開通してゆくようであった。それは町全体の回復である。彼女はもう指先の震えを隠す意志さえ捨てていたが、それでもせつせつと、何年間も逃げとおし、ごまかしてきたことを告白し、そのことを今日このときからやりなおしていく、と決意して唇を噛んだ。このとき僕はなにもできることはなく、言うべきことも持っていない。僕は彼女の激しい改革を、せめて立会人として見届けるのみだ。
彼女の決意が無事になしとげられ、緊迫の中にもようやく一息つける空気になったとき。僕は気恥ずかしく、まず周囲の客に詫びようかと考えた。というのは、彼女の語る調子が、小さい声ながらもただごとならぬ声であるため、その気配は周囲を圧し、沈黙させてしまっていたのだ。ここはもう全員して沈黙するしかない、とマスターが無言の術でそれを支援したところもあったかもしれない。僕と彼女の会話、彼女が語るところを僕が謎解きしてゆく経過を、沈黙の周囲はしずかに聞いていた。それは貞淑な傍聴人たちというふうであった。僕と彼女はカウンターテーブルに並んですわり、傍聴人たちに囲まれているのだ。
彼女はまだ決意に唇を噛んでうつむいている。
どのように詫びてまわったものか、と僕は考えあぐねていたが、その前に空席を二つはさんだ隣の客、五十代と見える横広の紳士というべき男性が、いつのまにか注文した洋酒をふたつ、おずおずとカウンターテーブルにすべらせるようにして、僕たちの前に差し出した。僕はエッとおどろいて身体をのけぞらせた。
「いい話だったわ」
横広の紳士は、ウインク手前の不敵な笑顔で、僕をニヤリと見たのである。
恐縮して僕がモゾモゾと頭を掻いていると、僕の景気の悪さに業を煮やしたか、奥のテーブル席にいた若い男の二人組が、――いや! いい話だった! とことさら強くいい、空間ごと煽りたてるような野太い拍手を打ち鳴らした。連鎖する拍手はまるで見本のような大団円となり、厳しさに凍るようであった彼女の涙のひとしずくをいっきに氷解した。そこにいる全員は突然彼女の親愛なる友人たちのようだ。
僕は照れくさく手持ち無沙汰のまま、内心でしきりに確認していた。
会話とはそこにいる他人を友人にしてしまうものなのだ。
彼女は赤くなった目のまま精一杯ほほえんでみせ、すべての人に頭を下げていた。
[了]