No.161 ラブ・ポップス2011
ある思い出について話したい。彼女の名前は、仮名にするとして、彼女の生い立ちから、ソニアと呼ぶことにしよう。ソニアは十七歳だった。僕はもういい年齢の大人だった。
デートをして、ひっそりした夜のビル街を歩いていたときのこと。時間いっぱいまで付き合ってくれたソニアは、別れ際、突然キスをしてくれた。右を見て、左を見て、誰も見ていないことを確認して、すすっと踏み込んできて、ほほえみながらぐいっときた。僕は彼女がキスをする瞬間、そのほほえみをほどいて、女の顔をするのも目の端に見た。ソニアの肌からは化粧品の匂いがした。ソニアは大きなイヤリングをするのが好きで、ちゃらちゃらと音がなるほどそれを着けるのが好きだった。ラメのはいった華やかな色の日本の化粧品が好きで、それをおおげさにつけるのがソニアのよくやる遊びのようだった。
突然のことで戸惑ったが、僕が戸惑うことさえ許さないほど、ソニアのキスは洗練されていた。外国で育った時間が長いからかもしれない。唇をしっかり押し当ててくるようでいて、乱暴さがない。唇を開いて深く粘膜を絡ませることもするが、それがなぜかいやらしくない。そして、そうして洗練されているのに、冷たくなくて温いのだ。わけもわからず、時間とともに、胸がジーンと熱くなりしびれてくる。彼女の唇から、いかにも彼女が、彼女自身を僕に「与えて」いるということがひしひし伝わってくる。ちょっとでも疲れていたら、こちらが不覚にも落涙しそうなほどだ。僕はそのように、彼女が大胆に無邪気に、彼女自身を僕に与えて躊躇がないのを受けて、心の中で思わず、
――なんてやつだ。
とつぶやいた。僕は圧倒されたのだ。ひれ伏したといってもいい。なにしろソニアのキスは、こちらの心の位置を急激に神聖なラインに引き上げると同時に、騒がしい情動をクワイエットにしてしまうのだ。なぜかこのとき僕は、クワイエットquietという語を呼び起こされたので、そのときのままクワイエットと書き述べている。
ソニアはきっと、その気になれば、僕を欲情の極点に導いて解放するという、そちら側のキスもできるのだと思う。今考えれば少しおそろしいぐらいの彼女のキスだったが、彼女は何か特別な信仰でも持っていたのだろうか。そんなことを本当に思わせるような、キスの使い手だったのだ。彼女の唇にかかると、僕の心はいつにないところの振り幅にまで動かされて、僕自身がその心を捉えるより早く、どんどん彼女が持っていってしまう。
彼女は長い長いキスを与え、それを終えると、照れて笑った。頬が赤らむのを隠すつもりもないらしい。僕が自分でも掴みきれない感動と、それによって呆然としていたとき、僕の表情が彼女に理由を尋ねていたのか、ソニアは、
――寂しがると、いけないと思って。
とはにかんだ。それを受けて僕は、もう一度、なんてやつだ、と思った。ソニアは六車線ある国道を走って横断し、対岸から大きく僕に手を振って、遠いこちらからもわかるぐらいの笑顔を見せて、タクシーに乗って空港へ行ってしまったのだったが……
年の瀬になると、誰もがすることとして、僕もこっそり、この一年がどのようだったかということを心にまとめようとする。結局まとまらないのは前もってわかっている気がするのだけれども、それでもそのようなことを一度はせずにいられない。そして思いがけず早く進む日付に追い立てられて、来年の一年はどのようにしようか、というようなことを、野心とともに、かつ出来たら穏やかな気持ちで考える。この年の瀬のぎりぎりに考える来年のことは、翌日のことであっても不思議に未来のこととして確かに捉えられたりするから不思議なものだ。錯覚に過ぎないのだけれども、年越しのこっけいな荘厳さにかこつけて、僕は自分の錯覚を許すことにしている。
ポップスが――という言葉に僕はとりつかれた。この年末に、この年の締めくくりのものとして、自分の運営するウェブサイトに、僕なりの小文を載せたい。今年はいろいろな発見が、それも重大きわまる発見がいくつもあり、それに振り回されながら、そのポップスうんぬんのことにもとりつかれたので、今ここに書き進めているところに到達するだけでもやけに苦労させられたのだった。今はようやく、落ち着いた気分で書き進められているけれども。そして今ここにある文章の体が、いい具合に僕らしくないというのも僕自身に面白く受け取られている。これでいい、書いている僕からは奇妙なものに映るが、読み手の側からはそうでもないものだ、こういうバターンは。
すぐにも来る2011年に向けて。僕は恋あいのことばかり考えて生きているわけではないけれど、自分のウェブサイトの趣旨が昔からそれなのだから、そこに小文を載せる以上、それを中心の題材として書かなくてはならない。これはけっこうな制約なのだが、これはまたいい具合に僕の「書きたい」という欲求に工夫の義務を強いてくれるのだ。だからなんだというわけでもないが、僕は今まさにそういう年末を過ごしているのだった。
さて色んなことが絡み合って、僕はここに、ラブ・ポップス2011と題した小文を書くことになった。どのように書き上げるのか、プロットなんてまったくない。ただ確かに、ラブ・ポップス2011という題目は、僕の求める新しい年への思いにぴったり合致しているものだ。ではその話を書き述べるに先立って、野暮なご挨拶はここに申し上げておくことにもしよう。みなさま、よいお年を。
男も女もウソをつけ。世界を明るくするためのウソを
恋あいというものを捉える時代的文化は、われわれの身の回りで、まったく大きく変わってしまった。ちなみにここ最近で僕はついに、恋愛という熟語を避けて、読みづらさを承知であえて恋あいという表記を使うことにもした。恋愛という熟語自体があまりに野卑に使われてクタビレてしまっているので、もう文章作品の中では使用不可能になったと見切ったからだ。恋愛、もうこの熟語だけで何かバカバカしい感じがしてしまう。ついでに言うと、僕は嫉妬のことを悋気(りんき)するという言葉に言い換えることも最近多い。嫉妬も悋気も意味は等しいのだが、言い換えをする理由は同じ、嫉妬という言葉ももうバカくささが染み入ってしまって使い物にならないからだ。
ちなみに国語には悋気講という便利な言葉もあって、ファミリーレストランなどで彼氏の愚痴を言い合って不毛なところに、これは悋気講だわなと指摘すると、たいていの女性は面白がって携帯電話で語義を検索して、なるほど確かにと笑って心地よく反省する。
▼悋気講【りんきこう】
江戸時代、庶民の女房たちが集まってひらく無尽講。集まると夫の浮気話などを言い合い、うさをはらしたところからいう。
さて、その鳴り止まぬ市井の悋気講が、この一年はさらに甲高くなったような気もするということ、その騒がしさも背景に置くようにして進めたい。まず今ある時代的文化における恋あいの捉え方、世間においてはそれは「恋愛」という熟語を当てはめるべきだけれども、これの捉え方は、いったい誰の希望で今のような捉え方になったのだろう。その捉え方がどのようなものかについて説明的に言い出すと、キリがないしグッタリしてくるから差し控えるけれども、とにかく全体的にこじんまりしている。若い女性らも率先して、ロマンスの才能のない実直な男性に、プロポーズされて早くに結婚したいわ、と望んでいるように見えてならない。それは本来、若さを失ったオバサマ方が推奨してくるものであって、若い側が積極的に求めていくものではない。
男性側にしてももちろんそうだ。若い男性は、そもそも自信なんて持ちようがないのだから、その自信のなさを、隠蔽するのではなく変形して、おちゃらけてかつ真剣に女性を口説くものだ。ボクは将来堅実で有能な人間として社会に貢献したいとか、その支えとしてキミにいて欲しいとか、そういう口説き方をするものではない。俺は君を笑わせて泣かせてイカせてみせるぜベイベー、さあ深夜だがクリームソーダを飲みに出かけよう、だけど割り勘でヨロシクな、ごめんな、と、そんな感じで、本来若い男は女を口説くしかないのである。なにしろこの資本主義社会の中では、よほどの才能でもないかぎり、若い男が堅牢な自信を持つ方法なんてないのだから。
もちろんそれを受けて女性の側は、男性の空元気を見抜いており、それでいて彼が、そのようにしてでもみっともない自分を見せず、女を笑わせて楽しませられる男として振る舞い続けようと、頑張ってくれているんだなと、そこまで見抜いて、わかったいいわよといって中古車の助手席に乗ってくれたり短いスカートを穿いてきてくれたりするのである。
そのあたり、最近はまったくどうなってしまったんだと疑問に思う。今のポップス音楽を聴いているとすごくよく思うのだが、なにもかもずいぶん弱音ベースだ。弱音を吐くことが歌になってしまっている。歌詞の問題ではなく声の問題なのだが、まあこれもあまり言うと誹謗になってしまうか。
人に弱音はあっていいと思う。またそのような歌もあってもいいとは思うが、そればかりというのはどういうことだ。そうではなく、本当は弱音ばっかりなのに、それを隠して頑張るから、若い男女は面白いのだ。平たく言えばそれは「ウソ」なのだが、そのウソの部分に強さや個性が表れるのである。何しろウソなのだからそれは面白いに決まっている。ウソといえば、舞台や映画や小説なんかも全部ウソであって、そのウソこそが真実に肉薄するから面白いのだ。
このことは正確に説明するのは困難だ。ウソといっても、自信のなさや弱音を、ごまかしたり隠蔽したりするというのとは違う。そうではなく、まず自信のなさや弱音を、自分で絶望的なまでに受け入れて、それがあまりに絶望的であるがゆえに、しょうがない、せめておちゃらけてやろう、とひっくり返るのである。そこに出現するおちゃらけのウソは、自分を見つめて透徹した上でのウソだからいとおしいし、なにしろそれがなんのためのウソかといえば、せめて女を笑わせるためのウソなのだから男らしいではないか。
そしてその、踏み越えたウソの上で、さらに素直でなくてはならない。女に冷たくフラれてショックだったとしたら、それはショックを受けなくてはならない。そこのところをごまかすと、これは自分を守るためのウソになる。自分を守るためのウソというのは、見ているだけでみじめったらしいものだからよくない。これは世界一よくない。
そして、さらにその次。ここが肝心なのかもしれぬ。ショックを受けるべきは、きっちり受けるべきだとして、そのショックに負けてはならない! 寸分もたじろいではいけない! ボッコボコにされても自分の心は降参してはいけないのだ。ここからがウソの出番である。男は顔面をぶん殴られたとき、こないだの歯医者の次に痛ぇぜ、と余裕のふりをしなくてはならないように、女にフラれてショックなときも、ちょっと待てよ俺は前世ではイケメンだったんだぜ? というようなカッコイイ切りかえしをしなくてはならない。そのようでないと、自分が生きている世界が死ぬし、彼女が生きている世界までひとつ暗くなってしまう。
なんと言えばいいのかわからないが、とにかく、すべてが逆転している。弱音を吐いていいのは、おそろしく強いと思われていて、誰も怖くて近づけない一匹オオカミの不良ぐらいのものだ。そういう男が、「お前を食わせていくことでしか、俺はもうまともな人間になれないんだ」と弱音のプロポーズをしたら、それは表現力がある。世界はひとつ明るくなるだろう。執行猶予中の彼が、そのまま世間的幸福に進めるかどうかは怪しい話だとしても、それでも今のネットスラングでいうところのドキュンが、そのまま見た目どおり心根まで粗暴で野卑であるというような話よりはずいぶん希望があり明るい。
僕が何の話をしているかといえば、ポップスの話だ。男も女もウソをつけ。自分を守るためのウソではなく、世界を明るくするためのウソを。方便のウソなどではなく、ただ無意味に愉快なウソを! それが単なるやぶれかぶれになったらもちろん痛々しいだけだが、これはなかなか面白いウソだと、自分でもワクワクできるところにたどり着いたら、そこにはポップスが発生する。誰が弱音なんか聞きたいものか、開き直ってお祭りのような、そんなバカなの声が聞きたいに決まっている。2011年、そのようなラブ・ポップスは鳴り響くか。弱音を吐く連中をほったらかして、僕はこう高らかに人差し指を突き立てて、無責任にウソを宣言するのである。
「鳴り響くに決まっている!」
われわれは今、浮世を現実だと誤解している
冒頭にソニアの話をした。ネット・スラングの精神から言えば、彼女はただのクソビッチということになるのだろうが、残念ながら実際にはけっこうな良家の子女だ。彼女の実家を見てびっくりしない人はそうそういるまい。僕が彼女と初めて会ったとき、彼女は百二十万円の腕時計をしていた。それをそう目立って感じさせないのだから育ちの良さが普通ではないのだ。彼女の友人はみんな彼女を尊敬しているし、冒頭に示したとおり、彼女の精神の根底はうたがいなくやさしさで出来ている。彼女のことを否定しようと思うと、この世界全体を否定してかからない限りは難しいだろう。
僕は彼女にキスを与えられた。彼女自身を、なんの躊躇もなく与えるような、慈愛の行為のそれとして。僕はそれで恋をしたかといえば、恋なんかしていない。恋なんかしてたまるか。ただそのキスにひれ伏しただけだ。思い出はどうしようもなく残った。もう一度会いたいと思うかといわれたら、思わない。思うが思わない。
素敵なソニアの話を受けて、「まぁ、素敵なラブ・ストーリーねえ」と言われたら、僕はそのオバサマの気配にげんなり肩を落とすだろう。僕はそのようなときに肩を落とすことをごまかせないタチで、そのために人生は損失続きである。このソニアの話に、模範解答といえる反応をした、僕の友人Tのコメントはこのようだった。
「うわぁ、いいなぁ、それにしてもソニアちゃんすげえな」
そのように言ってくれたなら、そりゃ一瞬でも俺の女なんだからすげえ女に決まってる、と、僕もウソをつくことができる。
2010年が終わろうとしている。僕は今、蛍光灯を新しく替えた自室で、慣れない無闇の光に照らされながら、この一年の最大の発見はやはり、虚構と現実の摩り替わりについてであった、ということを確認している。それは大江健三郎の一冊の書との衝撃的な出合いによるものだった。僕はその書が、まさに今の僕のためだけに、僕宛てに書かれた親しい手紙のようにして受け取られることを体験した。人生に大きく関わる一冊の本が誰にでもあると言われる。そのようなことがあると聞いてはいたし、僕も今までそのようにして本に出合ってきたつもりでいたが、本当のそれはそんなに生やさしい現象ではないのだと、僕はこの年の終盤に思い知らされたのだった。僕はこの師走に、鳥肌を自分で撫でさすりながら、それを読み進めていた。
僕はそのことを、忘れないように、記念碑に句を刻む心をまねて、ここに一つの重大な句を残しておきたい。大江の著作を介して出合った、ウェールズの詩人R・S・トーマスの講演の有名な一節。
――しかし危険なのは、きわめて多くの者たちにとって、想像力が、真実でないことをいうという事と同義的であることだ。
「現実」という言葉。現代のわれわれがこの語を使うとき、およそそれは前向きな心では使われない。われわれはひたすら、例えば憎らしい上司とやりとりをし続ける仕事、そこに起こるストレスのようなものを指して、――それが現実だからね! と、シニカルに否定的に使うのである。またそこには、悲観主義の暗い悦びがあることも、正直に眺めれば見逃せないこととしてあるだろう。
だが僕は、来たる新しい年に向けて、今日こそ強く思うのだ。そのようなくだらないものが、果たして本当に、われわれが心血を注いで向き合うべき「現実」なのか? であればその「現実」という言葉はやはり、人々を悲観させるためにしか機能しないものということになるけれども……
僕は生来少ない勇ましさを奮い立たせて、このように言いたい。それは「現実」ではなく「浮世」だと。われわれは確かに浮世を生きている。浮世のことなしには実生活は成り立たないであろう。だが浮世は浮世であって現実ではない。現実とはもっと、人を励まし勇気づけ、その雄大さで人を骨髄から打ち震わせるものだ。このことが、今なめらかに読み手に伝わることはなかろうと、口惜しくも認めざるを得ないのは、今は誰もが現実を生きていないからである。
たとえば、浮世の昨日のこと。その昨日のことを、ありありと思い出せと言われたとして、あなたはそれを実際やるのに、記憶を掘り起こすような作業をして、随分てこずるのではないか? さらにはそのようにして頑張ってはみたものの、結局はよく思い出せない、あるいは思い出したくもないのかもね、などと韜晦して、作業をやめてしまいさえするのではなかろうか?
それに比べて、子供のころに焼きついた、特に理由のない、しかしまぶしい思い出の光景はどうだ。それが一つの草はらであれ丘であれ、あるいはただの坂道であれ、もしくは人々の集いや何気ない街並みであれ。その思い出に残っている光景は、なぜか部屋の額縁に掛かってある絵画のように、すぐにでも心から取り出せるではないか。脳生理学の言うように、記憶がしょせん時間とともに減衰するばかりのものであれば、このような記憶の格差が生じることは説明しきれないだろう。
あるいは、自分が深く愛した映画などでもそう。なぜあなたは、昨日のことさえすんなりは思い出せず、それを思い出せたとしても楽しげではない表情をするのに、昔観た映画のことを語るときには、それを今観たばかりのように語りうるだけでなく、むしろ語りながら、その映画を再体験しているかのような、生き生きとした調子で語りうるのか?
それは結局、そのようにして残ったものこそ、あなたが体験した本当の「現実」であるからだ。それが思い出として残っており、時間が経っても「古く」はなりようがなく、当時のままの手触りで呼び起こしうるのは、それが本当にあなたの体験した現実だったことの証である。浮世は時間に流されてゆくけれども、あなたの心の本質がはたらいて体験した「現実」は、時間に押し流されず、普遍のものとして思い出になり残されてゆく。そのとき心の額縁に掛かる普遍の絵画たちは、もはや実生活か物語作品かをさえ区別していない。
僕はこのことを、自分の体験に重ねて、たしかに人の心のはたらきの本質はここにあるのだと断言することができる。なぜなら僕は、ソニアの唇に触れたとき、それと同時に本当の「現実」にも触れたからだ。そのとき「現実」は、確かに現実そのものとして僕に触れ、僕を骨髄から打ち震わせたのだった。そのときにやってくる、自分がまさに今ここに生きているという実感は、もはや日常に知られた程度の喜びのものではない。まさに、ひれ伏すばかり、というようなものだ。不覚の落涙などせぬように、せいぜいこらえるぐらいはできたとしても。
ときに一つのキスでさえ、人をそのような高みに引き上げ、浮世でなく現実を教えて震わせる。この現象を、確かにあることだとしながら、どのように取り扱うか人は悩んできた。悩んだ結果、さしあたり、人々はそれを「恋あい」と呼んでいる。ついては、当然のことではあるが、このことも合わせて書き述べておこう。――「恋あい」は現実にある。「恋愛」は浮世にある。
思い出せぬ昨日のこと。これは時間にすぐにでも押し流されてゆく、哀しい浮世のできごとだ。一方、どのように時間が経っても、古くなることもなければ、もはや忘れることは願っても叶わないということがある。それはもう時間や空間の尺度を失ったもの。たとえばソニアのキスが僕にとってはそのひとつだ。それが本当の「現実」である。われわれはそれぞれに、どのようにしてこの「現実」を手に入れてゆくかということに心血を注いでいる。心の額縁に普遍の絵が掛けられていくとしたら、その画廊が完成することを、当て所はないにせよ、目指してわれわれは生きている。浮世を豊かに有利にしてゆくことは、本来のそれを十全にやるための政治に過ぎない。もちろんその政治が確かなものでなければ、本来の営みがはかゆかないということはあるにしても。
さて果たしてここにおいて、それでも時間に押し流される、哀しい浮世がゲンジツなんだ! 私の生の本質はその浮世の自己政治のストレスに他ならない! と踏みとどまる者はいるのだろうか? そのような主張さえ、僕が自慢話のように話した、ソニアの思い出よりも、たわいなく時間に押し流されてしまうであろうというのに……
われわれは今、浮世を現実だと誤解している。だからポップスが聞こえてこない。だが勇気をもって認めるべきは、浮世を現実だと誤解することの単純な理由は、その者が現実に触れていないからだということだ。その雄大さに骨髄から打ち震わされる、そのこと自体がなくては現実を認知できない。
そこで現実を手に入れるにはどのようにするべきかという一般論はない。浮世からの離脱には、ウソということだけが活躍しうると、ヒントは示しえたにしても、それは微弱なヒントに過ぎないだろう。だから僕はそれ以上、無力な説明はせずにいる。
そして、僕はただ来る新しい年が、かつてないラブ・ポップスの響くものであれと、祈るのではなく、やってやろうじゃないか、と吠えているのである。なにしろ僕は、誰かにソニアのようなキスを与え、その骨髄からを打ち震わせるようなことはできないのだ。だから僕は、今こうしてこれを書いていて、来年にも書いてゆこうとしている。
[了]