No.165 自転車置き場から
駅前に行くと作業着に黄色い腕章をした人がいて、放置自転車を取り締まっている。「放置自転車」の語はすでにきわめて一般的だし、ある意味ではこれ以上身近な社会問題はないかもしれない。それは小さすぎて社会問題と呼ぶ気にならないにしても。
駐輪場に定められたエリア、またときには有料のそこへ自転車を置くのでなければ、自転車は「放置」となる。けれども、僕はその指示をする看板などの前を通るたびに、まったくどうでもよい思念に絡まれて立ち止まりそうになるのだった。放置自転車が何であるかというのは、社会的にはまったくその看板の言うところのとおり。だけど本当は、馬鹿馬鹿しくも<<自転車の身になって考えれば>>、駐輪場に置かれることだって放置であるには違いないのだ。
真の放置はむしろ逆だろう。古い自宅の庭の納戸にほうりこまれたまま、使われることもなく錆びてゆく。誰も一瞥もくれず、また誰の迷惑になるでもない。誰もその所有権を主張しない。これが「放置」である。それに比べては、駅前の人通りの多いところに停められて、二時間で帰ってくるからね、というのはあまり放置ではない。別に自転車が主人を待っているわけではないだろうが、とにかく社会的な「放置」と人文的な「放置」はかなり食い違っている。もちろん、社会的なそれに反発することが有意義なわけではないので、自転車は駐輪場に停めるに越したことはないけれども。
なぜこんなどうでもよいことをくどくどしく言うかというと、この放置自転車に関わる精神の仕組みが、たいへん現代的な何物かを象徴しているように感じられるからだ。人はそれぞれに、人の心や自分の心を大切なものとして扱おうと原則している。それを放置などしてよいはずがないと、程度はそれぞれであっても、心がけている。しかしどうも、有料の駐輪場に自転車を停め、自分は放置などしないぞよと、いつの間にかふんぞり返っているところがある気がしてならない。そして自分には一切の疑問を持たず、社会的放置自転車のありようを軽蔑することばかりに熱心なことさえある。
もしこの馬鹿馬鹿しい例え話が許されるとして、<<自分が自転車であったなら>>、僕は駐輪場に停められるとき、きっと内心でさびしいだろう。いちいち文句を言ってはいけないから静かにしているが、本当は理屈を飛び越えてそれはさびしい。人通りの多い、社会的には停めてはよろしくない場所だが、二時間ぐらいなら大丈夫かなと推し量られて、ちょっとここで待っていてくれと、そう停められるほうがきっとうれしい。わけのわからない話をしている自覚はある。が、人が人と共に、またいくつかの物品と共に生きるというとき、管理にしたがうことを絶対にして、従わぬそれは「放置」とするのは精神の機構に大変な偏りを作り出すように思う。
あるていど裕福なご夫婦が旅行に出られるとき、飼っている犬をペットホテルに預けたりするらしい。そうして預けておけば安心だ。これは便利なことなのでどんどん利用されるべきだし、またそのようにケアすることは、一面では確かに飼い犬に重要な愛情を向けていることになるだろう。しかしそうして預けて安心していられるということは、旅行中はご夫婦はその犬のことを忘れていられるということでもある。犬とご夫婦の関係性は一時切断されてしまうわけだ。それが円滑になされるのは合理的には益のあることだが、その合理的な益というのが底深い哀しさを隠し持っている。安心して旅行にゆけるという裏側には、心配しながら――ワンちゃんのことを時々気にしてキリキリしながら――旅行にゆく、ということが本来ありえた。
そのどちらが「放置」なのか。僕はこれをどちらがどうだと決め付ける気にはならない。むしろ世間一般のそれが回復不能なまでに偏っていることに不安を覚えるのみだ。世間の誰がこのことを指摘し、あるいは受け入れたりしよう? 駅前に置かれている自転車こそが放置ではないのだ、などと。
自転車で埋めつくされた駅前より、整理されクリーンな駅前のほうが好ましい。当たり前だ。しかし好ましいものを手に入れたとして、それによって失うものがないわけではない。今もある社会的放置自転車を見て、どれだけ馬鹿馬鹿しくてもやはり僕はこう思っている。<<この自転車は今幸せかもしれぬ>>。社会システムはA区域に停めろと指示するのに、乗り手はB区域に停めたわけだ。彼がそこに停められてあるのは、乗り手との関係性によってそうなったのである。もし自転車に自我があれば、そのような些細なことを、今というこの時間をつむぎだしたものとして受け止め味わったに違いないのだ。
僕はこの馬鹿馬鹿しいことを、けっこう真に受けていて、いつまでもそのような視点を残して、人や自分を見てゆきたいと思っている。合理的な益から、社会システムは人にA物語を生きるように指示している。けれどB物語を歩んでゆく人もいるだろう。誰かとの関わり合いによって。
駅前の放置自転車が迷惑なのは当たり前である。けれどもそれ以上に、僕が言いたいのは、官製の自転車置き場に停めるよりないそのときに、その無粋と空しさをいちいち自転車に詫びろということだ。それは立派なことでもなんでもない。自転車の気持ちになれ、そしてよもやふんぞり返るな。
[了]