No.166 マシ/小説
日本海に面したある寒村で僕は切り立った断崖の旧道を進んでいた。産業廃棄物処理工場から無数に地蔵の並ぶ山道を抜けて、視力を失った老婆が来ぬバスを待ち続ける停留所の少し先に車を停めた。老婆はキッとこちらを見たが眼はくぼんで暗がりで何も見えていないようだった。
僕が連れているまだ幼げの少女は名をマシという。僕は彼女をあぜ道の踏み切りで引っ掛けた。僕は地図にあるがよくわからない武将の城について彼女
を捕まえて尋ねた。マシはぐいと真黒のボブカットをこちらに突き出して地図を覗き込んで路を指で辿った。マシは心に防壁を持っておらず、勝手に急接近して
きては、自分で驚いて少し怯えた。彼女が踏み切りに立っていたのは、行く路の先にカラスの群れがギアギアわめいて空を円く飛んでいるからで、誰かが死んだ
んだとおもう、こわいと言っていた。それで車の助手席をすすめた。マシは少し躊躇してエッとなり、しかしすぐに、お邪魔じゃないんですか、と笑顔を見せ
た。マシは退屈な田舎に退屈していたようで、助手席に乗ると想像力に眼が光った。ひとなつこいねと僕は笑って聞いたが、それに応えた彼女の声は方言のなま
りがはげしく何を言ったのかよくわからなかった。マシはすぐに気づいてすばやくシートベルトをした。
税金国道とこのあたりの人は呼ぶのらしいのっぺりとした道をゆくと、両側に大きなパチンコ屋があり、両方とも巨大なシャッターが閉じていた。鉄錆
びのはげしい生コンクリート車が四台も停まっていた。小さな交差点を左折すると、猟の帰りか農夫が散弾銃をぶら下げてすれ違い、名水百選の看板を抜けると
山道になった。上っていくと遺跡があり、それは城ではなく別の時代の藩士らの墓地であった。それはそれでかまわないので僕は彼女を連れて歩いた。墓はすべ
て恐ろしく苔むしていた。地がすべるのでマシの手を握って歩くと、健やかな彼女の手はこちらの倍ほども握り返してきた。
転べば骨ごと落とされそうな鋭い切り口の石段があって、段を上りぬけると信じられないことに売店があった。色の褪せきったパラソルに勝手にレトロ
になったラムネの広告がぶらさがったままある。樹脂のテープルの端に栗鼠の親子が駆けた。カウンターに中年の女が、客自体をもの珍しそうに、全身をうらみ
がましくして立ってこちらを見つめていた。バヤリースの瓶ジュースを二本買った。ちゃんと冷えていて驚いた。飲みながら歩くと背後から中年の女はやはり恨
みがましく立っていてこちらを見つめていた。ここは元々観光地だったか、それを目指していたのだろうかと疑問に思うと、それより前にマシが応えた。小学生
が見学に来る。ここの絵を描いたりする。ここ教育長さんの先祖のお墓らしいん、とマシは瓶に唇を吸わせて話した。
飲み終わった瓶をくずかごの木蓋におくと、マシもその横に両手で瓶をそっと並べた。透明の瓶が恋人のように並んでくっつくと、底に残った汁気もあり、色香を放って情交を強く思い出させた。
色鮮やかなジョロウグモが六匹も巣を張っている立て札があった。立て札によるとこのあたりは一応ハイキングコースになっているらしかった。渦岳
(うずたけ)、という小山の表示があり、表示は岳なのに絵は池が描かれていた。それを眼で追うと、マシが補足した。ここ昔からトトノエさまが出るゆうらし
いん。トトノエ? 何それと聞くと、知らんけど、とマシは応えた。マシの話し振りからはそれは妖怪のようなものであるらしかった。渦岳の池の脇には蓮華畑
があり、そこを踏み荒らすとトトノエさまが怒って出る。マシの兄がそれを見たことがあるという。男の子らは腕っぷしの勝負で決着をつける儀式の場所にこの
蓮華畑を使うことが昔からあり、そのことの中で兄はトトノエさまの出たのを見たそうだ。ふうんと僕は応えたが、マシは、でもあの子ら何でも言うしね、と疑
うふうだった。トトノエはともかく僕は蓮華畑が少し気になった。見上げると雲が厚く流れてきていて不安だったが、渦岳まで600mという表示を信じて歩い
てみることにした。
パチパチと広葉樹が高く鳴って、雨が降ってきたかと思うと雹だった。少ししてゴンゴロンと重い雷も鳴った。マシを連れて、来た道を少し戻って廃屋の庇に駆け込んだ。安息の地だったのか、無数のアカガエルが跳ねてゲコゲコと逃げた。
廃屋は元茶屋だったらしく、土ぼこりの激しいショーケースの向こうにラーメンの蝋細工が見える。水色おかめの人形が倒れたまま微笑んでいた。しばらく土に白い雹がてんてんと跳ね、すぐに雨音に変わって夕立らしい激しさとなった。
すでに割られている廃屋のガラス戸に肘まで差しこみ、指先を伸ばすと内鍵に手が届いた。開錠すると戸はカラカラと素直に開いたので、僕はマシをそ
の中に連れ込んだ。ねばつくドアノブを強引に押しまわして開くとかつて食堂だった広間があり、イスとテーブルは隅に追いやられて重ねられていた。子供らか
浮浪者が寝泊りしたことがあるらしく、中央には焚き火の焼け焦げと、しおれたネズミ花火、市販焼酎のガラスコップがあった。さびれきった建物は、不思議に
新しい建物の匂いがあり、こまかい埃を光らせていた。
ベランダへ抜けるガラス戸口の前に並んだビニルを張ったままのイスに座ると、見る見る空は黄色く変色してゆき、やがてパッと青紫に輝いた。ベラン
ダはその向こうのシイの梢にひどく侵食されていて、それを刈り込めば一応少しは海が見渡せるらしかった。隣にマシがちょこんと座り込んで、慎ましやかに無
邪気にしているので、僕は彼女の体に手を伸ばした。厚みのあるブラウスの胸元へ手を這わせてみると、明らかに犯されたことのないその感触は、清潔に保存さ
れた箪笥の引き出し、その畳まれた生地へ手を差し込んだ心地だった。
マシの体の柔らかみにぐいと力を入れてみると、やにわにこちらが心配になるほどにマシは体をのけぞらせた。高圧で息を詰まらせ、その圧変化がメ
キッと音を立てた気さえするほど。急にマシの体は火がついたように熱くなってゆきこちらへしなだれかかってきた。マシはこちらの両肩にすがり付いて早速爪
を立ててくる具合で、もう一度その乳房を触ってほしそうにこちらに突き出していた。マシに触れるたび、マシは気の毒なほど体をよじり、それでも決して声を
上げなかった。汗というよりは蒸気が吹き出るようで、熱気がこちらの体を貫通していった。
マシにその手を使うよう誘導してみると、マシのそれは愛撫とは呼べないしろもので、大きく開いた手のひらの肌を、こちらの肉の中に刷り込もうとす
るばかりのひたすら情動的な動きをした。またそれは磁力を持ったかのように、一度くっつけてしまうと剥がそうとしてもなかなか剥がれてくれなかった。唇や
舌を使わせても同様だった。時々は痛みも走ったが、僕はやがてマシの素直な情交に飲み込まれ、このようなことは別に気持ちよくなくてもいいのだと思い始め
ていた。マシは命をなげうつようにしてその肌をこちらの肉へ刷り込もうとするばかり。それを受け入れているうち、炉にふいごを吹き込むとゴウとなるような
具合で、こちらもごうごうと熱くなっていった。またその熱が高くなるほど、また触れればマシの体を気の毒なほどよじらせた。お互いの服を剥ぎ取ってゆくた
び自意識は自然に消えていった。
ふと我に返ったのは、ヘリコプターのンバラバラバラという巨大なプロペラ音だった。いつの間にか夜の更けた暗闇の中、一音ごとに大気が上下するよ
うな激しさに驚いていると、駐屯地の、とマシが言った。それでハッとさせられたが、マシの声は急に透き通るような女の声になっていた。マシ、と名を呼ぶ
と、マシはようやく落ち着いた体を暗闇でほどこうとした。複雑に絡まりあって、態勢をほどこうにもしばらく体の末端がどこへいったかわからなくなってい
た。
マシ、と再び名を呼んだ。マシは僕の膝の上に乗る形で、しかし真暗で、慌てて手探りで僕を探しているようだった。ヘリコプターの音が遠ざかってし
ばらく、お互いの顔つきを指でなぞって確認しようとするまごついた時間の中に、クリーム色の光がさっと差し込んだ。雲間から満月の月明かりであった。月明
かりって本当にあるんだなと思い、正面にマシの顔を見た。
マシはとてもうれしそうに笑っていた。僕の内に咆えたつような歓喜が起こった。
手探りで服装を整えた。マシのブラウスのボタンを留めてやると、すぐにまた脱がせたくなり、指先が震えた。僕はやにわに、いやつまらなくていいん
だと心に唱えて、やはりマシの服装を整えてその髪を手櫛で梳いてやった。マシがこちらをじっと見つめてはにかんでいることは暗がりを通してもわかるように
なっていた。山道を手をつないで早足に歩き、売店前の外灯にたどり着くと日常に一息ついた。水銀灯の明かりにサッと灰色の影がひとつ飛んだ。コウモリかと
思ったがフクロモモンガかもしれなかった。
助手席にふたたびマシを乗せて彼女を送り届けにゆく。道中で大きな馬の一頭にすれ違った。奇妙に落ち着いて歩いている夜の馬は、のどかな表情に笑
わせるものがあった。また逃げとる、とマシが言うのには、近くの乗馬クラブの管理が甘いらしく、夜に逃げ出しては近隣の畑を荒らすらしい。牛飲馬食といわ
れるように、大量に食い荒らすため、今けっこうな揉め事になっているということだった。
空港のように広い駐車場を備えたいわゆる道の駅という施設の裏側に車を回し、ジャングルジムの上に時計のついた児童公園でマシを降ろした。時計は
もう十時半を指していた。マシは車を降りるとそそくさと運転席のほうへ回り、窓を叩いた。窓を開けるとマシの顔がすぐ近くにあった。
――なあ、また来てな。うち待ってるん。
僕は快く返事をして、直後には思考が駆け回るのを自分ながら覚えた。そしてムラッとなって、
――今度一緒にバーガーキングに行こう。
と言った。そうして両手を強く打ち鳴らした。うふふ、なあにそれ。知らんけど待ってるん。僕がマシの胸元に手を伸ばしてみると、マシはやさしくそ
の手の甲を叩いて諌めた。窓から身を乗り出してみると、マシは少しあたりを伺って、唇をくっつけてきて、またあの磁力のほとばしりを僕に味わわせた。マシ
はいつの間にか堂々としていた。
名残惜しさに手を振りながら、じりじりと車を進めてマシと別れた。マシの姿が視界になくなると、体にどっと力を使い果たした重さがきた。
それからしばらく車を走らせた。どこでもいいので宿のあるほうへ。来た道の中継点をカーナビゲーションの履歴にあさって、適当に繁華の区域に目的地を定めた。
奇妙なことが起こる。山道を走りトンネルを抜けて、目的地まであと10kmほどとなったころ、この道はさすがにおかしいと訝りながら進んでゆく
と、企業の大きな門があって、それは化学プラント工場だった。しかも住所表示を見ると、県は日本海側ではなく瀬戸内海側になっている。時刻はいつの間にか
午前四時前になっていた。けれどもマシと別れたのはまだつい先ほどの感触である。おかしいと思ってナビゲーションを確認すると、目的地設定は道から外れて
やや海の上になっていた。
何度確認してもそうで、僕はひょっとして白昼夢というやつかと思い瞼をしぱしぱ開閉した。
やむを得ず敷地内へ車を進ませてゆくと、左へうねったカーブがあり、抜けてみると巨大な化学プラントがあった。青白い単色の強烈なライトが幾何学
的にくみ上げられて、大きすぎる、まるで要塞のシャンデリアだ。大丈夫かな、と全てが不安になって車を停めた。そうして停止させると、体をずっしりとした
熱が包み込んでくる。
全身の肉に、マシの指先が刷り込まれていた。その一筋ごとが青あざになったかのように熱を持って疼いている。これではどうせ眠れないに違いなかった。粘膜の全ては内から引きずり出されて大気に地続きに触れている。マシとの情交はとうてい白昼夢ではありえなかった。
……トトノエさま?
僕はそう思い至って、すぐ自分の馬鹿らしさに笑った。
しかし奇妙な納得もある。いいかそれで、と思い切ってみると、こんなところで時間を無駄にしているひまはなかった。誰にも見咎められないように祈
りながら進んでゆくと、光る化学プラントはますます巨大だった。マシが僕のことなど忘れてしまいますように。僕もマシのことをこれから忘れにゆかねばなら
ず、せめてトトノエさまの話だけ残しておこうと思った。
[了]