No.172 彼氏・結婚ができないあなたへ
彼氏とか結婚とかいう概念は、契約とその制度のことに過ぎず、恋あいそのものとは関係がない。大嫌いな相手とも結婚はできるし、それを彼氏にすることもできる。必要なのは合意と手続きだけであって恋愛感情ではない。
とはいえ、それらの契約や制度をあえて利用することで、二人が照れ笑いしながら、お互いのやがて帰ってくる居場所を、作りやすいのだというのであれば、ぜひ利用されるべきである。あくまでそれが、二人の関係の、人間としての主成分でないということだけ保たれていれば、制度が二人を汚染はしないであろう。
家庭的で、おしとやかで、半歩下がって男を立てるような……という女が、かつては嫁として、また交際相手として上等だとされてきた。今でもそんな男はいるのだろうか? そう考えてみたが、いや、それは思ったよりも多くいる。この点に関しては時代が進化したと捉えるのは誤りである。ボブ・ディランが、料理もできない女は女じゃねえ、と歌うことは決してないだろうけれど、わが国のHIP−HOPにおいては、肉じゃが作れなきゃ女じゃねえ、と歌う可能性がある。表面だけ先進的であったり、逆に表面だけ古風であっても、その内面はまったくわからない。
その上で、やはりおそろしくコンサバ(※保守的)というか、どこで聞いてきたんだというような、古めかしい男尊女卑を恋愛観の主軸においている男は少なくないと、僕の見知ってきた限りでは指摘するべきだろう。男だけでなく女もである。見た目や普段の雰囲気からだまされてはいけない。お前はお前の考え方でいいんじゃん? と耳にピアスだらけ、みたいなやつが一番あぶない。言うことはリベラルだが、彼は実際に交際すると、女に立ててもらわなくては気がすまない、DVを駆使してでもそうさせる、というようなことはよくある。女性のほうも、DJやってました、今はホステスで店を渡り歩いて、放浪するように生きています、みたいな人でも、結婚したら絶対わたしは働かない、女は男に食わせてもらうものでしょ、と鋼鉄のごとく信じていることがある。
特に年齢がゆけばゆくほどそうだ。それが悪いというわけではない。ただ多くの場合、本人はそのコンサバの性質に自覚がないものである。それでよくややこしいことになる。
真にコンサバであれば、女は旦那の稼ぎが悪くてもそれに不満を言うようなことは決してないし、色気づいた格好にこだわって勝手に出歩くなんてこともしないものである。何がどうなっても内助の功、黙って旦那の支えに務める。ときに頬を張り飛ばされても文句は言わないものだし、そもそも自分で男を選り好みするのではなく、男から選ばれるか、親にあてがわれたものを謹んで受けるばかりのものである。
それで男のほうも、上辺は家父長としてエバっているが、内心では女の方が根性あるなぁと思い知らされていて、そういう女の振る舞いに、内心ちょっとビビっているのだ。そして何がどうなっても、この女を最終的に、無碍に捨てることはできないな――捨ててもきっと一言も文句を言わないのだろうけど――と、最後の仁義をだけ守ってきた。よほどの理由がないかぎり、ヤボテンの男もそこまで冷血漢にはなりきらぬものである。
昔の人は我慢強かったのだ。自衛隊に行った友人がある金言を僕に残したが、彼いわく、「忍耐力は訓練で鍛えるもの」だそうだ。気持ちの問題ではないらしい。昔の人は鍛えられていたのだろう。とはいえ現代の我々にはついていけない話である。
コンサバの雰囲気のいいところと、リベラルの都合のいいところだけを、つまみぐいするというのはちょっと難しい。彼はちょっと厳しくて、ちょっとわたしを拘束するけれど、稼ぎはいいし、上等な洋服を着て週に一度はワイン会に出るの、みたいなことは、主義思想の問題ではなく、生産力として無理がある。個人としての生産力というより、現代の、国としての、あるいはひょっとしたら世界全体としての、生産力として無理がある。中産階級がそこまで遊べるほどには、残念ながら我々は富を生産していない。
だからこそ、みんないわゆるセレブに憧れるわけだが、僕の周りの金持ち男は、セレブ目当ての女こそを最下等に扱っている。彼らは自分の膨らんだ財力を少しもてあましているところがあるが、これは自分には過剰なので、分け与えるなら誰か健気な魂の持ち主に与えたいと望んでいる。間違っても計算高い女とは付き合わないだろう。
そうなるとあるいは、女の計算高さも読み取れない、人格の幼稚未熟な、だまされやすい男を狙えばいいのだ……となるが、そうなると話は一気に暗くなるので、僕はそういう話を考え進めない。実際そういうマキャベリズムに徹底した、特殊部隊のような女性もチームのようにしているけれども。
(※コンサバというのはコンサバティブの略で、保守的という意味だ。死語、懐かしい言い方。対義語はリベラル。ほとんど和製英語としての使われ方。)
全体の風潮についての一般論についてはそんなところだろう。そこについての僕の結論としては、そこそこにコンサバで、そこそこにリベラルで、世の中全体の生産力を考えて……という、実につまらないものなのであった。そこは要するに自覚の問題というか、自己客観視の問題ではなかろうか。自分のコンサバぶりを自覚していないとややこしくなるし、世の中全体の萎れた生産力を自覚していないとこれもややこしくなる。セレブ志望のミエミエの計算高さも、自覚があればひとつの主義とは思うが、ミエミエのそれに当人の自覚がないのでは周囲は苦笑いになってしまう。
さてここからは僕の考える話。ある女性においては、自分はコンサバもリベラルもまさにそこそこだと思うし、生産力が萎れているというのもわかっているつもりなのだけれど、なぜか知らないがてんでうまくいきません、という人がいるかもしれない。そういう人に向けて、まあ僕のような変人でなければ指摘もしないだろうというような、まったく別の側面を指摘してゆきたい。いかにも人文的な方面からの指摘だ。相変わらず、役には立たない読み物のように楽しんでもらえたらよいとして……しかし本当に物の役に立たないと僕は思っているわけではない。
箇条書きのようにして示していく。なぜあなたは、それなりに男に言い寄られるくせに、恋人として射止めようとはされないのか、その原因について。
1.宗教観の問題
日本人は無宗教なりと安直に捉えるのは大間違いである。日本人のそれは、生活習慣の中に溶け込んでしまって無形化しているだけで、精神はむしろどっぷり宗教に犯されている。これもまたその自覚がないだけだ。だれが鎮守の森を伐採して自転車置き場にしようと言い出すか。あなたは路地裏に祀られてある祠(ほこら)や社(やしろ)にさえ、石を投げつけて笑ったりはできないはずだ。仏壇に鼻くそを擦り付けることもできまい。食事の前後に、子供が「いただきます」「ごちそうさま」と言わなかったら不安になるし、ちゃんとしなさいと叱り付けるはずだ。お盆なんかに至っては、先祖の御霊が帰ってくるとかいう理由で、会社まで休みになるのである。
日本人は無宗教ではなく、むしろ何でもかんでも有難がる。節操がないほどだ。だからクリスマスには教会に興味をもち、その一週間後には神社に初詣するのである。共産主義の教本が、宗教は精神の麻薬として宗教を全面否定し弾劾した、そういう無宗教とはまったく違うのだ。針供養、なんて物品にまで霊性を覚える日本人が、笑わせるな、という話である。死後の世界なんてないと思いますけどね、というやつに限って、夜中にお墓に一人で肝試しにいかせるとビビって半泣きで帰ってくる。死後の世界がなければ墓石なんざただの石であるのに。
諸外国にも「肝試し」ってあるのだろうか? バンジージャンプとかではなく、「おばけ怖い」のイベントとして。
とにかく日本人は、そのように信心深いのだ。整っておらず、でたらめに信心深いのである。だから個人によってその信仰のスタイルが思わず大きく偏っている。ここの差異でNGが出ると、男は女を自分の恋人には決して選ばないのだった(例によってその自覚はない)。
お付き合いや結婚は、宗教観を無視しては成立しない。先に言ったように、社会的に婚姻に必要なものは、合意と手続き、すなわち捺印と書類の提出である。けれども「結婚」という語を受けてイメージするときに、いきなり書類を想う人はまずいるまい。神前式か教会式か、どちらにしても宗教的な場を伴ってイメージがあるはずである。これだけでも、その関係性が宗教観に深く関わっていることは明らかだ。
具体的に言うとこうなる。たとえば伊勢神宮や清水寺に旅行にいくとなったとき、それをただの観光名所として捉える人と、ただの観光名所ではないだろ、と捉える人がいる。この両者は、宗教観の違いから、共に永くゆこうという関係には結ばれない。
伊勢神宮は、衝撃的なまでに美しいところだ。昼過ぎにはそれこそ観光としてのオバサマたちが多数到着して、大声でしゃべってブチ壊しにされるところがあるけれども、まだ早朝のひっそりしたころに一人で入ったりすれば、その美しさと荘厳により、自分に違和感を覚えるほどだ。ましてあの空間ではおそるべき純度で、千年以上の昔から神事が継承され繰り返されているのだ。ここに僕の覚える心は、第一に「畏れ(おそれ)」である。何がそこにあるのかはよくわからないが、固唾を呑んで、自分は余計なことをしないでおこう、と思わされる。静かに、言われているとおりの様式で振る舞おうとする。
清水寺は、あれだけ有名な観光地であるのに、法相宗を前身としていて、未だ密教の寺である。密教とは何かというと、教義を何としているのか、中で何をやっているのか、どういう修行があるのか、外部には明かさないということである。清水寺の中で実際に僧侶が何をしているのかは明かされていないのである。清水寺の本尊は千手観音だとされて、観光客にも公開されているが、僕はあの観音像を本尊だとは信じていない。あの寺の構造で、あの位置に、あのようなサイズの本尊があるというのはおかしい。中に本当の本尊があるのではないか。僕はそう疑っている。密教とはそういうものだし、過去には実際にあの高い舞台から、求道の苦悶によって思いつめた僧侶が何人も飛び降りているのだ。そのような場所は僕にとって単なる観光名所ではないし、やはりそこに覚える心の第一は「畏れ」である。また率直なところ、僕はあの清水寺という場所そのものが、日が暮れていくに従って何か怖く感じられてくる。観光地としても美しいところだが、僕などは内心何かを怖がっているのだ。
そのような僕が、誰か女性を旅行に誘ったとして、伊勢神宮と清水寺に連れて行くとする。それで、
「マジで? 中で神事とかやってんだ。神社の人も大変なんだねー。でも見せてもくれないんじゃ意味なくない?」
「清水の舞台ってめっちゃ高いじゃん。こんなところから飛び降りたら絶対死ぬよね。昔から自殺ってあったんだねえ、お坊さんのくせに」
こんな調子ばかりが続いて、デジカメを振り回し、SNSにアップロードするばかりでは、何がどう間違ってもその人と人生の時間を共にしようとは思わない。彼女の何が悪いというわけではないのだ。ただ宗教観の違いなのである。
この宗教観の違いというのは、性格の違いというのより根が深い。どうしようもない、と言い切るべきかもしれない。性格の違いなんて違っていて当たり前だし、その両者がお互いに与え合うからすばらしいのであるが、宗教観がまるきり違っていた場合は互いがどう努力しても実りがない。僕が彼女をぶん殴って、貴様は神前に畏敬を持たんのか、と怒鳴りつけたとして、彼女は感激しようにも、何のこっちゃワケがわからんだろう。僕と彼女はそこに同時にいるのだが、実はまるで同じ場所にはいないのだ。一人は神殿にいて、もう一人は観光名所にいるのである。こんなもの、どう努力しても結ばれるはずがない。
むしろその違いを互いに知らずに契約上だけ結ばれてしまったら、それこそ互いにとって悲劇だ。
この宗教観というのは、年齢や成熟に直接関係がない。たとえ十五歳の少女でも、早朝の伊勢神宮に連れて行ったら、
「こういう場所に来れて、よかった、うれしい、と思うけど、わたしみたいなのが来てホントによかったの?」
と不安がることがある。普段は友人とプリクラを撮って、親しくしてくれる友人にこっそり涙を流したりする彼女だが、そういう普段とはまったく別に、宗教観というものは彼女にあるのだ。
そしてこの宗教観というのは、言われたからといって俄かに変えられるものではない。変わることもあるのだろうが、意図的にそうしようと企んだからといって変わらない。なぜならそれは、宗教だから。意見なら変わるが、宗教はそう簡単に変わらない。観光名所と思っているものを、神殿だ、と自分の本音にまで言い聞かせることは不可能である。
だから狙っている彼の前で、彼に佳い女だと思ってもらおうとして、表面だけ宗教観の深いふうを装っても無駄だ。そのインチキくささというのは明瞭にバレるものである。だからもうどうしようもないのだが、僕が指摘しているのは、そういう違いが実は、その人の彼氏・結婚の出来るできないを決定しているのだということだ。
年が明ければまた初詣がある。みんなで集まるという人も多かろう。その中で、それをただのイベントと捉えている人もいれば、実はこっそり厳粛な向き合い方を隠し持っている人もいる。そういう彼の神前の振る舞いが、何かいつもと違って静かで綺麗でかっこよかったとしても、その彼に憧れてアタックするときにはこのことが思い出されるべきである。
彼はなんでもない地味な女とあっさり付き合ってしまうかもしれない。その二人はなぜそうあれたかというと、二人で伊勢神宮の黎明の御裳濯橋を一緒に渡れるからなのだ。
2.頭を下げられない女
僕の知人が夜の仕事をやめ、同い年の彼氏と住み始めた。若さによって、何の手探りもせずにいきなりの同棲生活だった。彼と彼女はとても気が合っていた。デレデレで、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだ。彼のほうは、自分には釣り合わないほどの美人を射止めたということで、幸せです、あと少し図に乗らせていてください、というふうだった。彼女のほうは、いわゆるホの字というやつか、彼のことしか見えないというふうで、目をきらきらさせて頬を紅潮させていた。
とある個人的な関わりから、彼女は僕のことを信頼しきっていた。知恵のいることは全て僕に頼ろうという具合で、言われたことはそのまま鵜呑みに信じるのだった。彼女いわく、「だってそのほうが明らかにトクだもん」とのことである。計算高いやっちゃなあ、と思っていたが、素直に頼って信じられてしまう分、僕も無碍にはできなかった。またその彼女の信頼振りを見て、彼のほうも、この見ず知らずの年上の男だが、全幅の信頼を寄せるというふうだった。また彼自身、そうして先達の言うところを愚直に受け取る健気さを持っていた。
その二人から、正面きって、二人が永くやってゆくにはどうすればよいか、ということを聞かれた。恥ずかしそうに笑っていたが、ふざけているのではなかった。僕は改めて二人を見て、直観的にまずこう言ったのである。――彼のほうは、人に頭を下げる態度を持っている。が、お前のほうは持っていない。これが後になって、ものすごい障害になる。だから頭を下げなさい。特にケンカなったらすぐ、どっちが悪いとか話し合いとかはどうでもいいから、お前のほうから頭を下げなさい。と。
彼女は一度、軽くのけぞって、ああ、……、と合点した。合点はしたが、ぐぐっ、と答えあぐねる様子であった。それは予想されていた反応である。彼女は気位の高い女であった。善良なところもやさしいところも人並み以上に持っているが、気位の高さはそれより尖るところがあった。
「うん、自分が悪かったら、頭さげるよ」
「俺はそうは言ってない。ただ頭を下げろと言った」
「自分が悪くなくても」
「悪くなくてもだ」
「……」
短い時間だったが、彼女の中で格闘があった。僕は重ねて、お前は頭を下げる態度を持っていないから、それが後々すごい障害になる、その障害で必ず別れる、と言った。
「たとえばお前は、知恵の欲しいときはいつも俺を頼ってきて、それできっちり話を聞いて、ありがとうって言うじゃない」
「うん。だってありがたいもん。マジで」
「でもそれについて、俺に頭を下げられる?」
「……うーん。あー」
「でしょ」
「うーん。うん、だめ、わたし頭さげらんない」
「そう。それのことを俺は言ってる。これはお前の、性格とかじゃなくてね」
性格の問題ではなかった。気位が高いにしても、そういうことの問題でもない。ただ彼女は、「頭を下げる」という態度そのものを与えられずに生きてきた。頭を下げるということは誰かに習うものである。自分の意志や思想で発露するものではない。
彼女はそれを習ってきていなかった。
「じゃあお前は、その頭をさげられないっていう性質だけで、彼とやがて別れてしまう。やがてというか、近いうちにそうなる。言っても詮無いことになるが、心構えにはなるだろう」
「……うん」
ここで彼のほうが、マジっすか、と興味を示して入ってきた。笑っているのは、今まさに愛し合うことの無敵の中にいる彼が、話の内容を信じきれないということと、またそれより単純に、こういう切り口で人が話すのを聞いたことがない、ということに興味を惹かれたことによるものだった。
「こいつはさ、気位が高いし、ケンカになったら、すげえタチの悪いモンになるんだよ。だからまあ、なんというか、最大限に大目に見てやってくれ。まあお前の女だから、俺の口出しするところじゃないけど……」
「いやいや、ホントありがたいっすよ。しかしマジっすか。そうなると、自信ないなあ」
男が男にアドバイスなんて気色悪いのでするべきではない。この程度に収めた。ハートは熱いが知的に高い二人ではない。ただ僕は、頭を下げられるかどうか、ということだけを二人に言い残した。彼らは確実にそれを受け取って覚えていてくれた。
しかし二人は、二ヵ月後にきっちり別れた。それも、目も当てられないような、見苦しいケンカを重ねて。彼女は最後まで彼に頭を下げることはできなかった。それがその哀しいばかりの別れにつながったということも、彼女自身よくわかっていた。けれども彼女はもうそのことを思い出すのもイヤだというふうだったので、僕はもうそれに触れなかった。
彼女はこの先もずっと同じ別れを繰り返すだろう。けれども、僕は彼女に問われるまで、おせっかいに指図はしない。僕の予想が絶対だとも思わないし、たとえ予言が的中して彼女は別れを繰り返すのだとしても、それが貧しいことなのかどうかは結局僕には決め付けられない。
ただ僕は、頭を下げるということについて、それを人に習っておらず、その態度自体を持っていない人がいるということを知っており、その態度を持っていない人は、彼氏・結婚といったことが極めて困難になる、ということを知っているのみである。
1から2へ、この順序で話したことには、むろん意図がある。頭を下げるということは、単なるマナーに留まる振る舞いではないからだ。それは宗教的な振る舞いである。神仏やその神殿に向き合ったとして、我々はその作法を正しくは知らなくても、まず間違いはないこととして、それに向けて頭を下げる。なぜという理由はない。ただそういう態度だけを、自分はどこかで習ってきた、だから間違いのないものとしてそうするのだ。
任侠の大親分だって、頭は下げるのである。なぜ頭を下げるのかといえば、ケジメだ、としか答えてもらえないだろう。そしてその言は的を射ている。
頭を下げない人間は、我が強いだけで人間が強いわけではない。どのような武道の高位者も、血みどろにまで戦ってやろうと決意すればこそ、その相手に向けて一礼、頭を下げるものである。また、少しでも何かしらの道場に通ったことのある人はご存知だろうが、道場生はまず道場に入るにおいても礼をするものだ。それは場所に向けてその神聖さに礼拝しているのである。
日本人は、いや日本人だけではないのかもしれないが、そこに神聖さを認めるとき、頭を下げるのである。それ以外に理由はない。自分のほうが悪いからだとか、感謝しているからだとか、そういう陳腐な理由からではない。たとえ戦場で敵国の兵が死んだとしても、その戦いぶりがあまりに勇敢で心を打つまでのものがあったら、彼が戦い生きて死んだという事実に向けて、戦士はその神聖さに表敬の礼をして頭を下げたはずである。
神聖さがあるということは、救いがあるということだ。殺し合いにしてさえそうで、些細なことからのケンカでもそうだ。そこに人が神聖さを認めて頭を下げたなら、それが醜いばかりの痴話喧嘩であったとしても、まだ救いが残る。お互いに罵りあうような醜い二人だけど、こうして一緒にいる間は、それに向き合ってきたんだよね、ということに立ち帰れる。
頭の下がることがなければ救いはない。だから先の彼女は、気位の高さと若さでケンカをして、罵り合って、救いがなかったから別れた。別れた後にも、救いのある物語は残らなかった。
頭を下げるということは重大なことなのだ。こういう言い方は汚らしいところがあるが、思い切って言えば、街中ですれ違う人たちの中で特に不快な人を見たまえ。道端に唾を吐くばかり、常に何かを罵っているような老人や、眉毛を整えること意外に興味のない若者、まともな能力をまるで発揮せずに自給だけ求めている給仕など、彼らを見たらその我の強さと、彼らがいかにも頭を下げない人種だということが見て取れるはずである。
隠してもしょうがないから正直に言うが、僕は高校中退で職を失った友人に、頭を下げることだけ忘れるな、と言いつけている。頭を下げることにだけ意地を張っていれば、お前は最終的にホームレスにはならないと。頭を下げることさえ忘れなければ、どこかで誰か気のいい人にいつか拾ってもらえるからと。不本意にホームレスにまで転落した人は、頭を下げることができなかったからそこまで行き着いたのだ。いくら若くても話は同じ。いくら若くて綺麗なねーちゃんでも、頭を下げることができなかったら、巡りめぐって必ずとんでもないところに行き着く。それは救いがないからだと。いかにも乱暴だと分かっているが、僕はそう決め付けて語ることがある。頭から決め付けているとわかってはいるが、このキメツケが間違っているとも僕には思えないのだった。
頭を下げることは難しいことだ。所作としてはおそろしく簡単なのに、こだわると一生かけてできなくなる。マジありがととか、超うれしいとか、口で言うのは簡単なのに、頭を下げるのはむつかしい。神聖さに関わるところまで心がゆかねばならないので難しいのだ。
思いつくタレントの中で、頭を下げられる人、下げられない人、というのを見分けていくのも面白い。面白いし有効だ。友人との会話の折に挟み込んでもよいかもしれない。タレントの中で、いかにも人に頭を下げられない人っていうと、誰をイメージする? というふうに。
善良さとは関係がない。いかにも心を開いて生きているふうで、ハキハキとしている、笑顔も爽やかで、人に感謝する気持ちを忘れない。そういう女性もいるが、それと頭を下げるということはまったく違う。そういうハキハキの女の子は一見するとモテそうだし、事実モテもするが、誰かにロマンチックな求められ方をしているかというと、していない。彼女は頭を下げていないので、神聖さに関わる女とは受け取られていないのだ。だから言い寄られ方もどこかイージーでポップである。また得てしてそういうハキハキの女の子は実はものすごく臆病だったりする。
わたしなんか、と自己嫌悪や自己卑下が激しいタイプであっても、頭を下げられるとは限らない。自分を低く扱うなら、誰にでもしっかり頭を下げればよさそうなものだが、そういうタイプほど理屈に偏って頭を下げることをしない。できないものだ。口で色々言うのは簡単であって、女はやっぱり慎ましくあるべきとか、男の人を立てるものでしょ、なんて女の側が言っていても、いざ男に頭を下げるかというと下げない。それはもう、世界平和を熱心に唱える人でさえ、頭を下げない奴は下げないのだ。
だからこれはもう、その態度を態度として持っているかいないかなのだ。頭を下げるのは難しい。誰だって、ここ最近で誰にしっかり頭を下げた? と尋ねられたら、しばらく考えて、あまり下げた記憶がない、となるはずなのだ。それは自分が、ここしばらく神聖さに届かずに暮らしているということであって、哀しいことである。
頭を下げるということが何なのか。僕がこのことを考えさせられ、無しでは決してやってゆけないと思い知らされたのは、十年前のインド・ヴァラナシ、ホテルプージャの屋上のテラスレストランでだった。イギリスから来た一人旅の老紳士は、人生の総決算のように世界中を周っていたのである。ニホンにも行ったことがアリマス、大好きデス、とおっしゃっていた。うつくシイ、文化デスネ、OZIGI……、と言われて、綺麗に低頭されて、それを保持されたのである。僕はその所作に改めてハッとさせられた。真剣に、失礼のないように、僕はこの人に向き合わねばならない、と思った。せっかくここでこうして出会ったからには。ガンジス川を見下ろしてシタールの聞こえてくる、それはやはり神聖な夜の出会いであった。
2−2.拍手をしない女
神社参拝の作法に、二礼二拍一礼とあるように、拍手というのも神聖さに関わる所作である。カシワデ、と言うと大仰になるので、ここでは普通のハクシュということに注目したい。
僕たちは、思わず拍手をする、ということがある。演劇や音楽などの舞台芸術については特にそうだ。幕引きに、義務付けられたようにする拍手ではなく、思わず拍手してしまった、という感触のもの。舞台の芸が妙境に至ると、僕たちはそれを神業と見る。そこに神聖さを見出すことに躊躇しない。その神聖さに向けて思わず拍手が沸き起こる。頭を下げる、頭が下がる、ということと一緒だ。凛々しい顔で出陣する兵士を見送るには、頭を下げてもよいし、拍手で見送ってもよい。
拍手をする機会のない生活は哀しいものである。思わず拍手をしてしまった、拍手が巻き起こった、という空間に寂しさはない。たとえばあなたが万座の中で、恋あいについて語るとする。するとその語りを受けて万座があなたに思わず拍手を巻き起こす。そのような空間に嘘はない。○○ちゃんの考えスッゲーわかる、とか、自分の考え方でいけばいいんだよ、とか、それぞれが遠くから自我を振り回すような空間ではない。現代は自宅で娯楽を大量にむさぼれる時代だが、それだけでは哀しいのは自宅では拍手をする機会がないからである。
拍手をするのは難しい。頭を下げるのと同様に。頭を下げるよりも、機会が少ない分さらに難しいかもしれない。けれどもその機会がないわけではない。積極的に拍手をする人間でいようとすれば、実はそれなりにタイミングはある。
集団の中で拍手すると、自分が拍手を先導する形になるから、勇気が要るけれど、けれどもその勇気こそ身につけてしまえば最高の宝になる。
ただしくれぐれも、酒に酔った勢いで乱雑な拍手をしないように。
彼がおごってくれるとなったら、「やったあ」と言うだけではなく、ごく小さく音を立てる程度でいいから、拍手をしてみましょう。チンパンジーのようにではなく。拍手は神聖な何かに向けて「送る」ものだ。それだけで人の印象はずいぶん変わる。
3.頭が弱い
頭の弱い人と共に生きてゆくわけにはいかない。そりゃそうだよねと思ってもらえるだろうが、僕は実は、この頭が弱いという理由が、今ある彼氏・結婚できないの最大派閥ではないかと疑っている。なぜ自分は彼氏・結婚ができないのだろう? そう思うところのある人は、自分についてこのことを疑ってみる価値がある。頭の弱い人が、前もって自分の頭の弱さに自覚はないものである。
一番多いのは、占いにハマる人だ。宗教なんか全部インチキじゃん! と言うわりに、自分は有名な占い師さんにこう言われたの、みたいなことを重要視する。僕は確言してもよいが、こと恋愛に関する限りは、占いの内容に関わらず、そうして占いにハマって頼りにしている、というだけでまずまともな男に構ってもらえない。男の側は愛想笑いしながら内心で「怖っ」と思うだけだ。
占いは面白いし、僕も好きだし、あなどれないところもあるけれども、それを頼りにするのは莫迦である。もし占いが頼りになったらそれは科学だ。鉄は空気中で酸化します、という予言は科学だから頼れるが、あなたは今年中で結婚します、という予言は科学ではないから頼れない。当たり前だ。
そうではなく、根拠も再現性もない占いの結果をそれでも放り込むことで、物事が動き出すことがある、それが経験則的にあなどれないという、その面白みが占いだ。そこにはユングの言うところのシンクロニシティ、共時性がはたらいているのかもしれない。けれどもユングだって共時性は因果律の対極にあるもので、この宇宙には因果律の軸と別に偶然という軸があるのかもしれない、と指摘しているのだ。その偶然と因果律を混同してはやはり莫迦である。共時性、偶然というのはあなどれないし、そのことから占いもあなどれない。けれども占いを因果律で捉えるのはただの誤解で、むしろ占いのほうも冒涜している。
占いにハマる人は、ワンクリック詐欺にかかってパニックになったりする。真に受けるからだ。何を真に受けるといって、理の通ったことにではない。印象的に言われたことだけを真に受けるのだ。だから、そんなワンクリック詐欺なんて大丈夫、と諭しても、でも……と怖がる。デカデカと威圧的な文字で、○万円請求します、と出たことだけを真に受けるのだ。
こういう人は、印象的に言われたら全部信じる。占いもそうだし、マルチ商法もそう。霊感商法でも高級布団の催眠商法でも、何でもかんでも引っかかる。本人は頭が弱いので、正しいことを丁寧に話されても理解できないのだ。それよりも、もっと印象的なことを言ってくれ、とだけ求めている。
暗い話になるので言いたくないのだが、そういう人はいま本当に増えている。いわゆる出来ちゃった婚の中にもこういう人は多い。彼女らの頭は保健で習った知識は受け付けず、よくわからない男の「大丈夫だぁって!」という声だけ受け付けるのだ。また、そういう女を見つけては、威圧してよくわからなくして喰うことばかり熟練している男もいる。そんなセックスをして何が楽しいのかわからないが、やってる本人は楽しそうでもなく憑り付かれたように喰った人数だけ増やしている。
やっぱり暗い話になった。よそう。もう少し、身近にありふれた話をする。
頭が弱いというのは、たとえばこういうパターンが多い。いささか偏見的なところも混じるが、簡略のためとご容赦いただきたい。
偏食がちである。偏食という語がわからず、好き嫌いのことだ、と説明が要る。V系が好きで、好きだけれども寝転んだりダラけた態勢でそれを聴いている。聴いているというか、流している。それを、マジ超おすすめだよ、とよく友人に勧める。化粧が濃くて、特にマスカラでしっかり目を強調している。だらしない声しか出さない派と、アニメ声しか出さない派がある。またパチスロで散在する派と、ネットゲームの課金で散在する派がある。有名になったライトノベルは(途中まで)読むが、その他の物の本は読まない。人並みに読書ぐらいは……という発想が根本的にない。
イライラしがちである。人にはそう見られていないが、イライラの電圧は高いし、すぐそうなりやすい性格だ。結婚願望は強い。好きだ、という前提で言い寄られると、とんでもない男にもかなり心を惹かれてしまう。好きと言われることばかり好きで、それ以外に男に用事が無い。
匿名掲示板や、ウェブニュースのアンケートなどを割りと信じる。信憑性ないでしょ、とは分かっているのに、なぜかどこか信じている。
浮気する人だけは絶対だめ、というのがまるで口癖のよう。体の浮気は許せても、心の浮気は……というのも口癖になっている。
お笑い芸人の笑いは、ベテランになればなるほどわからない。何が面白いのかちょっとわかっていない。いわゆる一発屋のようなものを、一発限りで好む。タレントに関してはイケメン好きが多い。本当に、イケメンにキャーキャー言う。
努力を蓄積した経験が無い。蓄積はないのだが、自分はけっこう頑張っていると思っている。実は真面目だとも思っている。周りに努力を蓄積する人がおらず、またそういう人がいても自分と比較して焦るということがない。
若いうち、何か自分は楽に生きていけるような気がしている。顔がいいし、と正直思っている。金銭への欲求は強いが、就労について、世の中の役に立てる人間になりたい、という発想は持たない。尊敬する人はと聞かれると、「親っしょ」と答える。
これに、先ほどの占いとかスピリチュアルとかを加えると、まあよくある典型例になる。このサンプルについて、「あれ? わりと当たってる?」と感じた人は、自分はひょっしたら頭が弱いのではないかと疑ってかかるべきである。
だいたい女性というのは、ただでさえそうなりがちなのだ。頭の弱いほうへと誘導したがる男が多すぎる。女はバカなほうがかわいいというが、それは健気さや素直さを指してのもので、男とは違うバカさを持っている、と表現しているのだ。間違っても本当のバカではない。しょっちゅう交通事故を起こす女を好んで娶る男は絶対にいない。
何をどうすればいいかというと、目を覚ますべきである。頭が悪いではなく、頭が弱いというのは、頭に入っているバネが伸び切って機能していないことを指す。数学的な頭のよさではないし、知識の多寡でもない。
よく、料理の出来る女がいいという。これには、共同生活をする実際の事情もあるのだが、それ以上にこのことがあるのだ。料理のまるで出来ない女は、頭が弱い可能性が高いのである。
料理といっても、休みの日に時間をかけて、お菓子を作りました、みたいなものではない。夕方の六時に買物にゆき、八時までに一汁三菜を作れるか、ということだ。それも限られた予算を按配して。
料理のレシピなんかは、インターネットで調べればよいことである。また、華麗な包丁さばきなんか誰も期待はしていないのだ。そうではなく、段取りと作業の滑らかさが問われる。スーパーに行って、ああ今はアジが旬だった、じゃあ一緒におろしポン酢用に大根を半分買って、今日のほうれんそうは高いから小松菜のおひたしでごまかして、ああ鰹節も切れていたな、味噌汁の具は豆腐の残りがまだあったし、刻みネギを冷凍しておいた。あとはビールも飲むだろうから明太子を買っておこう。あの人はたらこは炙ったのが好きで明太子は生が好きだ。そういうことを三十分の買物で判断できるか、ということが問われるのである。
米を炊くのに一番時間が掛かる。が、まず米を研いで浸水させ、その間にアジのワタをとってゼイゴもとって塩を振ってしばらく置く。そうして炊飯のスイッチを入れる。手鍋で味噌汁を作りそうになるがおひたしを先にするから思いとどまる。湯を沸かして、その間に残っていた洗物を片付け、と、このころにアジに浮いた水をペーパータオルで拭いてグリルに入れる。途中で裏表を返して十五分か。小松菜は先に根元のほうを茹で、その後で葉の部分を茹でる。水で〆て手で絞り、切って整えてゴマをふって鰹節をかける。味噌汁は昆布と鰹節でダシを取る時間が十分ある。もう完成させられるが、お味噌を入れるのはアジが焼きあがる直前で十分だ……
と、このようであるから、総合的な料理、台所の仕事というのは頭が弱くてはできない。ひとつのメニューを取り上げて、カレーが作れますとか、肉じゃがが作れますとか、そういうことではないのである。そんなものは本を見ながら、まったく小学生でも作れるのだ。書いてあるとおりにするだけである。
いわゆる料理ができる人というのは、これらの総合的な作業を、惚れ惚れするほどの手際でこなす人のことを言う。矍鑠としたおばあさんなんかは、昔の積み重ねが違うので、孫の相手をしながらでもこれをこなせる。
僕のような性格だから、こいつはこんなに口うるさく言うのだ、と思ったら大間違い。僕はここに書いた程度のことは一通りこなせるが、料理なんかまるでしたことのない男のほうが、知らないだけ横柄に口うるさく言うものである。結婚したとたんにお母さんと比べてどうこうだと言い出した、みたいなことはよくある。そういうのはどうしようもないが、とにかくここでは頭の弱いうんぬんの話。料理が出来ない女について、男が警戒するのは女の頭の弱さである。
ちゃんとした料理屋で板前さんを見ると気分がいい。学歴が高いわけではなかろうが、頭に入っているバネがちゃんと機能していることがよくわかる。客からの注文が飛び込むたびに、それに応じて作業手順が再構築されるのだ。口頭で「アイヨー」と返事しているだけだが、頭はたくましく機能していて、見ていて頼もしい感じだ。頭の弱さなんか欠片もない。逆に大学教授でも頭の弱い人はいくらでもいる。
頭が弱いということが、彼氏・彼女ができない理由の、実は最右翼だ。疑っておくに越したことはない。
――好き嫌いをせず何でも食べる。ジャニーズやV系は卒業した、たまにこっそり聴くけどね。今はむしろ古い洋楽に惹かれている。けど人に話す気にはなれない、なんだか気恥ずかしい。化粧はしすぎたら恥ずかしいし、しなさすぎても恥ずかしい。化粧よりも気持ちがシャンとしてないといけない。電車で読む本を買っていたら本棚に溜まってきたけど、いい年をしてちょっと程度の低い本ばかりで情けない。
――恋愛でイライラする人が多いみたいだけど、そういうのってちょっと怖いな。結婚願望は人並みにあるけど、まだそれを考えてよいほど自分がちゃんとしていない。パチンコは行ったことがないしネットゲームもいじったことがあるぐらい。ネットのものって何か怖くないかな。前にネット越しにいきなり好きだって言われたことがあるけれど、いきなり好きだっていうのはおかしいし怖いじゃない。浮気するしないについて色々いわれた。でもそういうのはケースバイケースだし、許すっていうのも許さないっていうのもおかしい。わたしは裁判官じゃないもの。
――お笑いってやっぱりベテランのほうが面白いな。舞台を支配する力を持ってるし、みんな独特の空気を持ってる。新しい人は、面白い人もいるし笑うけど、好きになるのとはちょっと違うから不思議。イケメンというのもいつの間にか卒業した、かっこいいなぁと思うけど、やっぱり好きになるというのとちょっと違う。
――それはやっぱりわたし自身の変化だろう。才能と積み重ねで、すごいところまで到達した人にわたしが憧れるからだ。中学では高飛びを頑張って、高校では勉強を頑張った。でもやっぱり、すごい人たちと比べると、努力の密度も根性も違うなあ。なんだか焦ってしまう。自分も頑張らないと。このままで、自分がまともに生きていける気がしない。どうしても腰が入っていないというか、根本的に不真面目だ。偉そうなことは何もできないけれど、わたしは人の役に立てる人間になりたいな。
さしあたり、そんな感じであれればいいわけだ。そういう女性に、料理できる? と聞いてみて、人並みには、と返ってきたら、その女性は男の趣味によらず、素敵で立派で佳い女性、ということになる。誰が彼女にプロポーズしたとしても不思議に思わない。
この辺がいわゆる「普通」というところだと思うのだが、これがもう普通ではなくなっている風潮がすでにある。もともと「普通」なんて概念はあってなきが如しの幻想だが、そういう話ではなく、今はそれぞれに独自の「普通」をこさえているようである。
「普通」なんてどうでもいいし、料理なんてのもどうでもいいが、頭の弱いのだけはいけない。勉強せえと言うしかないが、何もなしに勉強することなんてまず不可能なので、勉強が必要な世界へ自分を放り込め。頭が弱いとして、考えて込んでもしょうがない、弱いものは鍛えて強くするしかないのである。頭のバネの逞しさの問題なのだ。
4.「好きな人になら
これはこれだけで一本の別の話をするべきところだ。だから詳しくは後日に預けて、ここでは短くまとめる。
「好きな人になら、○○なんだけどな」という文脈は、一部の女性に愛好されている。尽くすタイプなんだけどな、大胆になれるんだけどな、女らしくなれるんだけどな、など。
この文脈はもっともではあるのだけれど、その上で、是非とも使わないことをおすすめしたい。この文脈には甘みがあるのだが、その甘みには性質のよくない幻想も含まれている。
だからこれを、男性の声で言い換えると、途端に馬脚を表したふうになる。「好きな人になら、オレ、尽くすし、一途だし、すげえ男らしくするんだけどなあ」。こんな奴は男らしくないし、こんな奴に一途になられても迷惑である。男なら、どの女が好きだとか寝言を云ってないで、目の前の女に最大限やさしくしろというのである。
僕は昔、どんなタイプの女性が好みかという質問が、順番として回ってきたときに、「女なんか、だいたいみんなかわいいだろ」と放言した。これは一部の女性には唾を吐かれ、一部の女性には拍手されるものである。
そりゃあ僕だって、身の程知らずにも女を選り好みするところはあるけれども、好きな人になら、なんて間違っても言わない。禁句であり、決して用いてはならない文脈だ。どれだけ内心で汗を掻こうとも、女はだいたいかわいいし、まあその意味では見境なしだな、と言い放っていなければいけない。目の前にいる女が一番好き、というのでもいい。唾を吐かれることもあるが、それはしょうがないしひとつの名誉と思わねばならぬ。
「好きな人にならなぁ〜」と、渾身の思いをこめて言う女がいる。すごくわかるし、聞いていてほほえましいのだが、そういう文脈を駆使して幸せになった人を僕は一人も見たことがない。本当だ。それよりは、ポーダーシャツを着てポップな雰囲気を出しているくせに、「どの男性にも、やはり女からは及ばないところがあるので……」なんてヌケヌケという女のほうが、男に強烈な訴えかけをする。そういう女の子に、ろくでもない男が言い寄って、またその女の子がフンフンと健気に話を聞いていたら、「もういい、それなら俺がもらう」みたいな男がワンサカ出てくる。ワンサカ出てきて取り合いになる。それで男は、キミのことが好きだ、キミのためになら〜みたいなことを言うのだが、「特別のご好意はとてもうれしいです。身に余ります。でもわたしは、男性には、広く大きくやさしい人であってほしいんです。生意気ですか?」なんて言い出すのだ。この頃には男は完全に屈服している。自分はとんでもない女に出会った、人生の運命を感じる、というふうになっていく。
「好きな人になら」の文脈を使うぐらいなら、ここに書いた逆のほうを丸暗記するほうがまだいい。そしてマシーンのように逆を言うほうがまだいい。それぐらい、「好きな人になら」の文脈はよろしくないのだ。聞こえはよいし理にも情にも適っているはずが、結局それは女を幸福から遠ざけるようにしか作用しない。
それは結局、愛とは何か、愛の荘厳、神聖とは何か、ということにつながっている。どういうことかというと、「好きな人になら○○」というのは、当たり前すぎるのである。好きな人になら尽くせる、というのでは当たり前だ。その当たり前を熱心に言っているところがすでに深く哀しいのであった。その逆、好きな人でもないのに○○、ということに愛が問われてくる。好きな人にやさしくする気持ちは誰にでもわかるが、好きな人でもないのにやさしくしたら、その気持ちは誰にでもはわからない。そのわからないものを説明するために愛という言葉が生まれた。
好きな人でもないのに○○、というほうに、人は神聖さを見つけるのだ。もちろん、凡人である我々に、好きな人うんぬんの選り好みをなくしきることは不可能だろう。しかし、その好きな人にならという文脈から、あなたはいくらかはみ出していなくてはならない。好きな人でもないのに○○という、理にも情にも適わない、理や情を超越した神聖な何かを持っていなくてはならない。
男が女に惚れるとしたらその点なのだ。そこに「好きな人になら○○〜」という文脈を持ち込んだのでは逆効果になる。はみ出していない、神聖でない部分だけを強調する形になる。またその強調したことに、自分も囚われてしまう。
「あいつうっとうしいからハブろうぜ」
寄ってたかってこんなことを言っている男は神聖か。この男とこそ共にゆこうとあなたは思うか。
「ハブるとか言ってんじゃねえよ、うっとうしくても仲間だろうが」
あなたはどちらに神聖さを見るか。
5.積極性とエネルギーの問題
最近では恋活とか婚活とか違和感無しに言われる。じっさい精力的に活動している女性もいるが、まあ、あまり芳しい結果は聞かない。方法論的なことを別にして言えば、僕の受けた印象では、せっかく精力的に活動しているのに、成果だけつまみぐいしようとしているからだ。どうせやるなら、自分の人格ごと変革するほどでなければ結果は得にくいだろう。またやっている当人もあまり面白くないはずである。
僕は今でもたまに、迷惑な話、女の子をナンパすることがあるが、それがさしあたり向こうからも笑える話程度に受け取られるのは、そのことが僕にとってそこだけ摘まみ上げた動きではないからだ。普段はずーっと引きこもっていて、何事にも積極的にいかない、心を閉ざしているのに、かわいいなと思った女だけに素晴らしいアプローチはできない。そういう横着をするとなぜか向こうにバレるものである。かわいい娘にもそうでない娘にも、あるいは男にさえも、おう元気そうだな、いいな、と話しかける気風でなければ、ナンパなんてできないのだ。かわいい娘にだけなんて虫が好すぎる話だろう。かわいい娘をナンパするエネルギーを1とすれば、こちらの全体に満ちているエネルギーは10でないといけない。そんなエネルギーを10も満たしていれば、ああこの人は、こういう人(バカ)なんだ、ということでまだ許されうるのである。
年を取って自信を喪失してくると、このエネルギーが枯渇してくる。最低限1必要で、本当は10あるべきなのに、0.2ぐらいしかありません、ということになってくる。そしてエネルギーが少ないから、この少ないものを、効率的に、合理的に使おうとする。ますます虫の好い発想になって、関わった男の候補魅力性とゲット可能性を掛け算して攻略の優先順位を算定しはじめたりする。理屈としては最大効率たりえるかもしれないが、自分の魅力の全てを減殺しているので結果的に収穫が無い。仮に手練手管で男をオッとその気にさせたとしても、何かの偶然で若いピチピチの女が、気まぐれに「ごはん食べにいこ!」と彼の背中を叩いてしまったら、男はウワアアアアとなって、やっぱりこういう女がいいよう、と泣き始めるのだ。そういうことのないようにと祈るしかないが、それではあまりに哀しすぎるというものである。
エネルギーなんて、こんなものは気合一発だ。あなたの中には核燃料が入っているので、臨界させればエネルギーはいくらでも出る。エネルギーが出ないのは余熱だけでやりくりしようとしているからだ。加齢というのはエネルギーの減少を指すのではなくエネルギーの制御を言う。若造よりも技術が進化しているのだ。
まあ本当に若い奴は、爆発事故も辞さないので、エネルギー量だけで見たら絶対に勝てないけどね。
それはいいとして、これは年増に限ったことではない。若い人も仕組みは同じ。恋には積極性が必要である。それも、恋にだけ積極的になることはできない。そんな虫の好い話は通用しない。全体性において積極的にならねばならない。それは人格丸ごとを変化させるということだし、人格を真に成長させるということでもある。
目の前に当該の女性がいたら、また嫌われるが、僕は彼女の脇腹にバシンと気合を入れねばならない。お前の大好きな、恋の話をしているんだろう、と。女は恋をして変わる、恋を経て成長するのではなかったのか。その成長というのが、たとえば全体において積極性の人間になるということではなかったか。それを、もう成長は要りません、果実だけください、とはどういうことか。努力しますからと言っているが、そんな虫の好いものは努力とは言わない。
たとえばあなたが二人の受験生からラブレターをもらったとする。一人は志望校に向けてあまりに熱心に勉強していて、体に気をつけてね、と思わず心配させられる男だ。彼からのラブレターは簡潔で、この受験が終わったら僕と会ってください、好きです、会ってそれを言わせてください、追伸・必ず合格してみせます、と書いてある。もう一方の男は、受験勉強とかマジだるいんですけど、そんで息抜きにネトゲとかしてると、クランとか入っちゃうから、そうなるとこっちも放置はできないんだよね、みたいなことを普段言っている。その彼から、エッと思わされるぐらい分厚いラブレターが来る。僕と会ってください、会ってもらえたら、自分も本気で受験に向かえると思うんです、想いが苦しくて張り裂けそうです、みたいなことが書いてある。
あなたはどっちの男のほうに、会ってあげたい、望むならキスぐらいは許してあげたいと思うか。どちらのほうが「熱烈」か? どちらのエネルギーのほうが豊かで、希望に満ち、女に積極的たる正当性を持っているか。問われるのさえ馬鹿馬鹿しいだろう。
それで前者の彼が、志望校に見事に合格してみせて、あなたに向けて合格通知を晒し、
「あなたのおかげです。あなたを口説くのにふさわしい男になりたいと思って、その一心で、自分は変わることができました。ありがとうございます。あなたのおかげです。僕はあなたのことを愛しています。僕のことは忘れてしまっても、あなたが一人の人間を変え、強く鍛えたということを、どうか忘れないでいてください」
なんて言ったらどうよ。
思い出した?
積極性とエネルギーの問題だ。あなたのエネルギーは全方位に向けて放たれる。必要なところに必要な分だけ、集めて効率よく、なんてことはできない。十年前のあなたはそんなことを決して考えなかったろう。さんざん考えたつもりかもしれないがそれは老いぼれの貧しい発想だ。まずその老いぼれの自分に恥を知れ。
男にラブコールを送るなら、友達の家で友達と旅行のプランを立てつつ髪型を新しくしながらコールしろ。あなたはずっとそうしてきたはずではなかったか。
自分のやがて帰るところ
1から5まで箇条書きにしてみた。あまり世間の恋愛講では取り上げられないところに触れたつもりだ。宗教観があって、頭を下げる態度があって、頭がしっかりしていて、好きでない人にもやさしく、積極的でエネルギーがある。こういうことであれば、彼氏・結婚ができないということはまあないだろうという、たいへん健全な結論に至った。
「さそり座ってちょっと大きすぎて、こわいね」
「今日は本当に、ありがとう。ありがとうございました。助けられちゃったよ」
「大丈夫、来月中には仕上がるよ。みんな協力してくれるスケジュールもできた」
「お付き合いはできないけれど、そんな顔されたら悲しいよ」
「今から持ってってあげるよ!」
こんな女の子に、彼氏ができないとか結婚ができないとかいう苦悩がそうそうあるはずがない。こんな女の子にぶつかったら、多くの男が夜中に一人、机に肘をついて頭を抱えることだろう。恋の悩みである。本当は一人ではなく、同じようなことをしている男が一人の女に向けてたくさんいることになるが。
恋あいなんてどうでもいいではないか。そういう気がするし、近年の風潮はまったくそのようで、むしろ面倒くさい、やりたい人だけやればいいんじゃない、というふうだ。それもよくわかる、けれども、僕が思っているところとは雰囲気がやや違うのである。
恋あいなんかでなくてもいいが、なにかこう、自分のやがて帰るところがほしいではないか。実家や田舎の話をしているのではない。自分のたましいの帰るところの話をしている。人間はいつ死ぬのかわからない。死んだあともどうなるのかはわからないが、もし仮に生きているうちに見つけた、この場所とこの人たちとこの空気の中にであれば、自分は無限の時を過ごしても構わないと思えたなら、それは自分の魂の帰るところを見つけたのではなかろうか。たましいがそこに帰るのかどうか僕は知らない。知らないが、たましいがもし帰るのだとすれば、帰るべき場所は見つけたわけだ。
そうしたら、生きた甲斐もあったし、苦労した甲斐もあったんじゃないか。何のために生きたかといえば、その帰る場所を見つけるため、作るために生きたのだと。気恥ずかしくてイヤだが、僕は本当にそう思っている。
帰るところなんてひとつじゃなくていいんだろうけどね。死後にたましいの自由が許されるなら、きっと生前に縁のあった全てのところに帰れるだろう。それを天国と呼ぶのか浄土と呼ぶのかわからないが、きっと天国や浄土があったとしても、それは別世界というわけではあるまい。むしろ僕たちがそれぞれに知る、よく知りすぎて苦しいほどの、あの懐かしく切ない場所のことだ。ぜひそう手配するように、僕は天上に申し込みたい。
それで、僕は欲を掻いて、その無限を過ごしても構わないと思えるような、場所や人に、もっと出会い、触れることはないものかと、厚かましく望んで生きているのだ。何を馬鹿なことをという気もするが、これはまあ僕の勝手だ。
そうして無限を過ごしてよい場所、やがて帰る場所は、きっと恋あいに関わって生まれることが多いだろう。恋あいでなくても生まれることはあるだろうから、その意味では恋あいなんてどうでもよいし、またいっときでもそうして帰りうる場所が生まれたなら、生きているうちそれが失われてもかまわない。かまわないというか、失われるのだ。人は老いるし、死んでゆく。健やかに長生きしていても、色々ままならないことも多い。
恋あいが、仮につまらないと思えたとしても、彼氏・結婚ができない理由なんて、それよりさらにつまらないものだ。そんなものは、気づくなりさっさと取っ払えばいい。そう思ってこれを書いた。
人の恋あいに口出しをする趣味は僕の性格の根本にない。それなのになぜこんなことをいつも長々言うのかと、自分でも不分明だったのだが、最近になってようやくわかった。僕は人がそれぞれに、自分の帰りうる場所を探すこと、それを作ろうとすることが、どうしても好きなようなのだ。それに手助けをしたいと勝手に思っているらしい。その点においてのみ僕は他人について無関心でない。
それだけのことだと知って、僕はこのところ気分がいいのだ。じゃあ、またね。
[了]