No.177 ツートーン
ハイツ・モンは山すそに建っていて六階建てだ。白いギザギザとよく言われる。駅前や学校から見ると確かに山辺に白いギザギザに見える。わたしはそこの四階に住んでいる。父が遠い親戚から手配してくれた。地主も、あと管理会社も親戚らしい。説明されたけどわからなかった。家賃はちょっと高いけれど、父はどうせ親族にゆく金なんだからと、無理をして払ってくれている。おかげで広い。フローリングの六畳と八畳の二部屋がある。
白いギザギザ、と言われると、わたしはちょっと自慢っぽい気持ちになる。立地はすごく不便で、帰るのにいちいち川上の橋を渡らなくてはならないのだけど、それでもわたしはすごく気に入っている。近くに炭焼き小屋と、ガラス工芸の職人さんが住んでいるのもいい。ごくまれに野鹿も見れる。そして本当の自慢は、住んでみないとわからない、ベランダからの景色だ。
ベランダ正面からの景色もなかなかいい。元城下町だった路地の入り組みに、気張った甍が並んでいる。それを見下ろして、瓦屋根に太陽が銀色に反射するのもすごくいい。けれども本当に夢見心地なのは、視界の端っこ、西に広がる白い砂浜だ。ナントカという岬の向こうまで、この街の人はなかなかいかないけれど、あの岬の向こうには白い砂浜が広がっている。広がっているといってもベランダから見るとそれは海に爪の先が生えた程度でしかないのだけれど、逆にそれがいいのだ。
あんなに白い砂が自然にあるものなのだろうか。石灰岩か何かなのかな、と、わたしはよく知らないけれど、特別な砂があるのだ、ということにしている。その広がった砂浜が、視界に圧縮されているので、その白さが異様に白い。まるで失敗した特撮のハメコミのようにそこだけ白い。
そしてあのあたりの空は、このあたりの空と区切られてある。これもまた、絵の具で塗ったみたいに、日中は水色になるし、夕方には紫色になる。宝石みたいなというのでもない。それにしては透き通りすぎているというか、あそこだけ空が極端に広くみえる。うっかり眺めていると何時間でも過ぎてしまう。日中の水色はすごく不自然だけれど、あれは空の青いのに砂浜の白が反射しているからあの色になるのだ。わたしはその考えが科学的でないと気づくのに一年以上かかった。しかし科学的ではないと言われても、実際に砂浜の白が反射して水色になっているのだからしょうがないではないか。そうじゃなく、空が長いことあの白を吸い上げてきたから? とも思ったが、それもやっぱり科学的じゃなかった。
ただいまー、と言って、彼が帰ってきた。
***
わたしの通う専門学校は敷地が広いのが魅力だ。元々はもっとたくさんの学科が併設される予定だったが、競合他社が近くに参入してきたので、そこは引き下がってこのような形になったという。なぜか入学のオリエンテーリングで真っ先にそのことを言われた。学生食堂と、その外側にテラスがあって、あとは正直空き地が広がっている。文化祭のときだけこのスペースがぎっしり満ちて活用される。
わたしはそのテラスで、といっても、チェアとテーブルが置いてあるだけだけれど、そこでコーヒー牛乳を飲んでいた。紙パックのコーヒー牛乳を人前で飲むのはすごく恥ずかしい。けれどもわたしはこれがやめられない。
友達に言われてはじめて気づいたけれど、わたしはコーヒー牛乳を吸い上げるとき、心の中でチューという言葉を云っている。正確に言うとン・チューかもしれない。ノッコなんかいっつもチューだよね、それ飲むとき、と言われてはじめて気がついた。確かにチューと言っている。それに気づいてから途端に恥ずかしくなった。
紙パックと、口の中が、あの吸い上げるときに減圧する、あの感じがたまらないのだ。減圧されて、ストローの先から甘い液が口の中に噴き出してくる。ン・チューーー。たまに空気が混じってン・ヂューーーとなるが、それはまたそれで悪くない。とにかく減圧がたまらないのであって、紙パックを圧して飲むのはわたしに言わせれば邪道である。また、ストローはある程度細いほうがいいし、ストローは硬く頑丈でなくてはならない。ストローが減圧に負けてペシャンコになると、正直ものすごくがっかりする。さてそうして減圧の感触が大事なのだけれど、じゃあ別にコーヒー牛乳じゃなくていいじゃない、と言われたらわたしは答えに窮する。コーヒー牛乳でなくてはだめなのだ。でもその理由はよくわからない。牛乳なら若干近いが、それでもコーヒー牛乳には及ぶべくもない。イチゴミルクだとこの喜びはわたしにはまったく得られないのだ。
わたしはこっそり、周りの眼を気にしながら、それと悟られないように、やはりコーヒー牛乳を吸い上げて減圧していた。
そしたら目の前で、ンだとコラァ、と喧嘩が始まってしまった。
喧嘩の理由はよくわからない。うわあ喧嘩だ、とわたしは驚いた。そして正直、ちょっとときめいてもしまった。こんな、時代的というのかしら、お互いに言いがかりをつけるような喧嘩なんて、本当にあるとは思っていなかったし、それをまさか、こんな間近で目撃できるとは思ってもみなかった。しかも手元には安心のコーヒー牛乳がある。
「ンだコラぁ、文句あるならかかってこいや」
と、一方が言った瞬間である。劇場みたいだ、とわたしが思うや否や、もう一方がいきなり渾身のストレートで本当に彼をぶん殴ってしまった。野球の外野選手がボールを投げるときのようなフォーム。バチーン! と肉を打つ音が鳴った。男は仰け反って倒れ、スチールのテーブルがひっくり返り、ガシャーン! と鳴る音のエフェクトまで完璧だった。
うおおおーっ、と大歓声が上がった。なんだこの歓声は、と思ったけれど、さっき確かにわたしもおーって言ってしまった。何がおーっなのかわからない。けれども、圧倒的な賞賛感がどこからともなく湧いていた。殴るのが早すぎたのだ。早すぎて面白すぎた。そのスイッチの入力が華麗すぎて、それに大歓声が起こった。不思議なことに、そこから喧嘩は喧嘩でなくなってしまった。
倒れた男は顔を抑えて反省している。どうも、彼もそのスイッチの入力で出遅れたことを反省している様子。でも今のタイミングはちょっと無理だと思う、とわたしは彼に同情もした。早すぎるでしょう、どう考えても。もっと段取りというか、普通もっと罵りあう手続きとかがあるはずだと思う。
倒れた男の連れが、ファイティング・ポーズを取ってぴょこぴょこ跳ねていた。うわちゃあ、気の毒に、と咄嗟に思った。観衆が歓声を上げて取り囲んでいるので、彼も配役をこなさなくてはならなくなった。けれども、一方の男は落ち着き払っているというか、なんだろう、Gジャンを着て大真面目だ。大真面目に、敵を殴り飛ばす気でいる。こりゃあだめだ、とわたしはもう、申し訳ないけれど可笑しくてしょうがなかった。だってあのGジャンの人、口を半開きにして大真面目だし、めっちゃ集中してるもの。
ファイティング・ポーズのほうは、なにやらシュッシュッとボクシングのジャブのようなものを打ち始めた。ああ、そうくるか、と思ったけれど、だめだ、完全にもう戦う気が無い。はじめからもうパンチを当てる気なんてない。場の空気は急に冷えていった。Gジャンのほうもそうと知ってか、やる気をなくしたふうになった。そして、じゃりっと足元を鳴らして踏み込むと、拳ではなくて手の平を投げ込むように打った。ファイティング・ポーズの顔面がバチーンと鳴った。今度は歓声じゃなくて大爆笑が起こった。声は立てなかったけれど、わたしも正直笑ってしまった。近くにいた関西弁の男の子が、「めっちゃ怒られたやん」と愉快に言った。そう、めっちゃ怒られたというか叱られたというか。でも多分、彼には何の責任もなかったんだろうに、かわいそうな話だ。
「何やってるの!」
先生が駆け寄ってきて終幕になった。理事長とデキている、なんて根も葉もない噂を立てられている生産管理の先生だ。多毛のワンレングスに、タイトスカートを穿いていて、確かに妙な色気がある。他にもわらわら先生がやってきた。
「どっちが先に手を出したの!」
見てなかったのか、もったいない。面白かったのに……と思っていると、先生がわたしを睨みつけた。
「あなた見てたでしょう? ちょっと事情を聞くから、あなた一緒に来なさい」
そんなとばっちりが来ると思っていなかったので、わたしはエッとなった。Gジャンの男は、殴った手をむしろ傷めたのか、手をさすっていた。そしてわたしの方を見て、悪い、というふうに片手を少し上げた。
職員会議室に引っ立てられていく彼のあとを、少し離れてわたしも歩いた。しかしまあ、こんなこともあるんだねえ、とわたしは物珍しさに興奮していた。少し悪怯れて歩く彼の背中を眺めて、いまどきあのGジャンはないなあ、似合ってるけど、と思った。
わたしは勢いよくコーヒー牛乳を吸い上げた。
***
彼はジーケンと呼ばれている。ハシダテケンジというのが本名だが、ケンジを逆転してジーケンと呼んでいる人と、Gジャンを着ているからGケン、と呼んでいる人がいる。自分としてはどっちの感じなの、と彼に聞いたことがあるが、それは考えたことがなかったなあ、と大真面目に答えた。その後も少し考え込んでいた。わたしは普通にケンジと呼ぶことにしている。
職員会議室での「取調べ」が済んだあと、わたしたちは食堂のテラスに戻ってきた。取調べといっても、彼がこってりしぼられた、大目玉を食った、というだけだった。わたしは職員室側で控えて自分の出番を待っていたのだけれど、しぼられてやつれた彼が出てくると、もういいわよ、あなたも戻りなさい、と言われた。次からはもう警察に連絡しますからね、ときつく言われていたが、あきらかに先生らの側もおおごとにするのは面倒くさいというふうだった。第一、殴られた側もばつが悪すぎたのか身を隠すようにどこかへ行ってしまった。
テラスに座り込むと日が暮れ始めて、まだ造型の授業が残っていたが出席する気になれなかった。マジ悪かった、おごるわ、と言って彼は手をさすりながら購買に行ったが、コーヒー牛乳を買ってきてくれたので驚いた。あの揉めごとの最中に、よくそんなところを見ていたものだ。わたしは感心した。後になって知るけれど、彼は記憶力だけは何かあった。見たものや聞いたことはほとんど忘れなかった。
けれども、記憶力がよいと言い切るには問題があった。彼は人に言われたことは覚えているのに、自分が言ったことはすぐ忘れた。それもしょっちゅうだ。明日は友人の働いているカフェバーに行こう、と約束して、待ち合わせをすると、待ち合わせにはきっちり来るのに、どこに行く予定だったかを覚えていない。予定を立てたということ自体忘れている。俺そんなこと言ったっけ? となって、ほら昨日こう言ってたじゃない、と言ってやると、ああー、と思い出す。そして思い出して何か嬉しそうになる。そうだった、よく覚えてるな、と彼は何か嬉しそうに笑うのだが、それを自分で忘れられる人のほうが珍しい。しばらくは、彼の脳みそがどういう仕組みになっているのか考えた。よーぅ、とあれだけ威勢良くやって来るのに、やって来てからすることを知らないというのは、どういう感覚なのだろう。それは初めのうちいくら考えても謎だった。予定の消失した待ち合わせに人はあんなに威勢良く来れるものなのか。
それでも不思議なもので、付き合っていくうちに彼の性質が皮膚感覚で理解されてきた。何かの折にふと気づく。あ、ケンジはこれは忘れる。これは覚えていられるが、これは翌朝には絶対忘れてる。その感覚が身についてからようやくわかったのだが、ケンジの記憶力は点に向かってしか発揮されない。その点の続きで、こう線を引いていきます、ということは覚えられないのだ。だから何時にどこで待ち合わせ、ということは覚えていられるし、見事なほど忘れないのだが、その点の後にどう進むか、どう線が引かれるか、ということは覚えていられない。過去のことは、いくらか線上にも覚えているのだが、それもどうも、点の連打として覚えているところがある、とわたしは疑っている。
初めてケンジと話したその日、驚いたことに、わたしは彼とそのまま夜中の二時まで話し込んだ。同じく購買で買った、肉まん一個ずつだけ食べて。守衛さんに三回も注意され、四回目はもう諦められて無視されてしまった。話しすぎて顎が疲れることがある、ということをわたしは初めて知った。彼は子供のころ祖母の家で育てられ、貧乏だったので近くの池でナマズやスッポンを釣って食べていた。手ぶらで帰るとばーちゃん家に入れてくんないんだもん、だそうだ。池の管理人に見つかると、管理人は猟銃を抱えて怒鳴りながら走ってくる。ケンジはその管理人をギャングと呼んでいて、ギャング呼ばわりされたその人は実は同級生の父親だった。小学校の卒業式で父兄席に座っていたから初めて気づいたそうだ。ギャングでも銃を持ってこないときがあるんだって、なんだか胸が熱くなったんだよ、と彼はまた大真面目に言った。彼も笑い話として話しているが、ケンジはいつもどこかに奇妙な真面目さが混じっている。
「殴るの早かったよねえ」
「ん? そうか?」
「かかってこいやあ、って言われて、もう直後だったもん」
「そうか、まあそうだな。そうだったか」
「あれ向こうのほうは、もっとジリジリ行くつもりだったと思うよ」
「そうなのか。そうだったとしたら、なにか悪いことしたな」
「見てて気持ちよかったけどね、なんか」
「おいおい、人が殴られてるのに。殴ったのはおれだけど」
「手、痛い?」
「痛い」
彼がこっそりさすっている手は、甲が赤く腫れていた。そういえば、と思い出して、わたしはハンカチを持っていたので、それを水道で濡らして持ってきた。彼は立ち上がっていて煙草を吸って待っていた。
煙が風に吹かれて真横に飛んでいった。
彼に手を差し出してもらって、濡らしたハンカチを当ててみた。大して効果もないだろうけれど、どうかな――と確認しようと彼を見上げたら、彼は火のついた煙草を投げ捨てて、わたしを抱きすくめてしまった。どこから鳴ったのかわからない、紙袋を丸めるような音がした。
あれれれ、おっとお。そうくるのか。わたしは慌てた。慌てながら、さすが彼だ、とも思った。思うと可笑しかった。
彼の身体は細かったが頑丈そうだった。厳しくされた身体というようで、何か労わりたくなるところがある。
「なんで笑ってんの」
「いや、やっぱ早いなあ、って思って」
「あ、そうか」
「ううん、いやじゃないんだよ。ただね、予備動作がないから、それがおかしくって」
「おかしいかな」
「ううん、ちょっと待ってね」
考える時間をもらった。彼の身体にくっついていると、ずっくんずっくんと鼓動が聞こえた。なんだかあくびが出そうになった。それをこらえて、考えて、もう一度、彼がテラスで男をぶん殴ったところを思い出してみた。
「なんかね、許すしかないじゃない、ってなる」
「なんだそれ」
「殴ったときもそうだったよ。わたしもそうだったけど、みんなそうだった。あれはもう、許すしかなかった」
「俺は、手が痛てえ! って思ってたよ」
「いいよ、煙草吸って」
事実ケンジは煙草が吸いたかったらしく、もぞもぞと後ろポッケに箱タバコを探った。左手だから動作がもどかしそう。
わたしには身長が足りなかったので、彼のGジャンの襟首をそっと掴み、キスをせがんでみた。もう少しうまくやれそうな気がしていたのに、それは本当にせがんでいるふうになってしまって恥ずかしかった。
ん、と彼は理解してくれて、ひょいと唇をくっつけてきた。がつんとなるのを覚悟していたのに、彼の唇が綿みたいに乾いて柔らかかったので驚いた。ふんわりしていて、こちらの気持ちまでふんわりなった。わたしはこんな淡白なキスをしたことがなかった。何かが嬉しくなってきて、足先に地団太を踏みたがるような、懐かしい、むずむずした感触が来た。なんだっけこれ、と思っていると、思い出した。スキップして歩くときの直前にあるむずむずだ。
事実ケンジは煙草が吸いたかったらしく、キスを済ますといそいそと煙草をくわえた。左手はぶきっちょのようだったので、ライターを借り受けてわたしが火をともした。
ぷふーっと、鼻から煙突のように煙を吹き出した。何が可笑しいのか、口元が笑っていて、何がそうさせるのか、あるいは煙草がよほどおいしいのか、ケンジは自信満々の顔になった。
可笑しすぎて、ば、ばかじゃないの、という声が喉元まで出た。本当に喉元までというやつで、Aの母音だけ少し漏れた。呆れるのと、笑いをこらえるのとで、わたしの口は大きな半開きになり、変な形になってぷるぷる震えた。
「俺さあ、あ、いけね」
煙草を咥えたまま話したので、煙草が落ちた。それでこらえきれずに、わたしは本気で笑い出してしまった。ばかでしょ、と言ってやりたいのだけれど、言葉になる前に笑ってしまって飛んでいった。ケンジも笑い出した。あんたが笑うところじゃないでしょうが、と、それもまたわたしを笑わせた。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。いつも笑っているつもりだったけど、こんなに笑うことがあること自体忘れていた。喉がぜいぜい鳴って苦しかった。
涙の滲んだ目を擦りながら思った。許すしかないじゃない、ってなると言ったけど、自分で言っていながら、すごくいいところを突いた気がする。
俺んちに来てくれよ、とケンジが言うので、うんうん、とわたしは頷いた。いつからだろう、と考えてもわからなかったが、そのときのわたしには帰宅するという選択肢自体がもうなかった。彼の家まで歩いてゆき、着いたころには新聞配達のカブが走り回る音が聞こえた。冷凍庫から保冷剤を借りると、わたしは遠慮なく裸になって、彼の手の甲を冷やすことだけにつとめて、あとの身を彼に任せた。
***
ケンジは、ハイツ・モンをいたく気に入ってくれた。言われて気づいたが、たしか周りはちょっとしたハイキング気分になれるところがある。四階の一番奥で、あまり物音を気にしなくていいのも助かる。
ケンジはすぐにわたしの部屋に住み着くようになった。学校ではあまり近しくないふりをして、待ち合わせて一緒に帰った。
高校からの友達の、ナルには正直に話した。心配性のナルは、やめときなよ、と案の定言った。ああいうのノッコに絶対合わないって。ナルにはしぶしぶ了承してもらうしかなかったが、それにしてもナルにそう言われるのには、ちょっと待て、と言いたくなる。ナル自身、とんでもなく年上の男性と交際する性癖がある。父親のような男性と付き合って、どこどこの会社が吸収合併されるらしいよ、みたいな話を持って帰ってきた。明らかに変な遊びをしたでしょうというようなアザを作ってきたりした。でもナルは土壇場で頭がよくて頼りになる。わたしには自慢の友達だった。
わたしとケンジは約一年半をハイツ・モンで一緒に過ごすことになった。
「おーい、ノッコ。ちょっと来て」
あるとき彼はわたしをベランダに呼びつけた。いいことを教えてやる、と、何かはちきれんばかりの様子だ。
「あそこすっげえ綺麗だぜ」
ケンジの指さす先には、白い砂浜と水色の空がある。
なぜケンジは、前からここに住んでいたわたしのほうが、そんなこと先刻承知、という発想を持たないのだろう。それも、うっかりしているというのではなく、根本的にそういう発想が無い。してやったり、みたいな顔で、ちょっと褒めてもらえるのを期待している顔だ。
「ほんとだ。綺麗」
「な」
わたしは苦笑していたけれど、それがさらさら砂になって零れ落ちていく気がした。綺麗だね、ともう一度言ってみた。言えば言うほど綺麗になってゆく気がした。今日は少し風が強い。
岬の向こうに塩で出来たような真白の砂浜がある。少し内に湾曲して、地上の三日月だ、と思った。砂浜がビカビカ光るから、空が煽られて白く暈け水色になっている。あそこだけ空が広い。空の向こうにまだ空の段があって、その向こうの目の届かない奥まで空がある。
いいじゃんね、と思いながら、まずいなあ、なんか感染してるなあ、とも思った。ケンジが砂浜と水色の空に向けて指をさす。指をさすことまでは思いついたが、その先はパッとしなかったようで、何かもじもじしていた。
いいじゃんね、別にこれで。砂浜も空のことも、知ってるよ、いつも見てるよ、なんて言わなくても。わたしがこれまで見てた、あの水色と白と、いまケンジが指さしてるのとでは、何かちょっと違う。正直、わたしはあんなの見たことがないもの。ケンジが教えてくれてよかった。
なんでこんな当たり前のことに気づかなかったのだろう。わたしが見てたものと、こうして、ケンジと一緒に見るものが同じであるわけがない。なんだか腹が立ってきた。また科学的じゃないとか気にしなくちゃいけないのか。でも科学的じゃないとかいっても、実際そうなんだからしょうがないじゃない。
「あっ」
「ん?」
何か感染した、と思ったけど、わかった気がした。
点で記憶してる人ってこういう感じなのか。
へええ、なるほど、と思い、わたしはケンジを見上げた。この人の頭の中はこういうふうになっているのか。大発見というか、人それぞれ、違うもんだ。
「どした」
「ううん。なんでもない。ケンジありがとね。教えてくれて」
「ん? ああ」
「ほんと綺麗だねあそこ」
「だよな」
「風が強いね」
「うん」
ケンジが腰周りをごそごそしだしたのは煙草を探し始めたからだ。けれども煙草はさっき台所に置きっぱなしになっていたのをわたしは知っている。わたしは自覚のないケンジの手がもそもそ探し物をするのをニヤニヤして横目に眺めた。
ある日にはまた、ケンジはサーフィンをやるなんてことを言い出した。ベランダの車戸をがらがら開けて、いいこと思いついたぞ、といきなり言った。レポートを書いていたわたしは急に大きな声がきてビクッとなった。
来い、来い、とケンジが言うので、しょうがなく一緒にベランダに出ると、ケンジはまた砂浜に指をさして、ほらあそこあんじゃん、と嬉しそうだった。あそこの白と水色、あれとまったく同じ色に、サーフボードを塗ってさ。あそこでサーフィンするの。それで、向こうから、今度はこっちを指さして、自分はあのギザギザに住んでますって。あれ?
最後に行方不明になったのは、彼いわく、思いついたときはもっといいことのような気がしたのに、だそう。絶対いいはず、と夕食後まで首をひねっていた。
食器を片付けると、彼が求めてきたので、わたしは生理が終わっていることを確認してから、彼と一緒に布団にもぐりこんだ。ベッドは古かったので音がぎしぎしうるさい。近所迷惑になってもいけないので、いつからか布団を敷くようになった。彼が気張って果てたあと、わたしは彼の細く固い身体を撫でてみながら、サーフィンは悪くないな、という気がした。ケンジの身体に似合いそうだ。
「ね、サーフィンしたら、色黒になる?」
「ん? ああ、なるな」
「日焼け止め塗って。わたしケンジは白いほうが好き」
「わかった。でも白い奴がサーフィンしてても」
「いいの。それでね、」
わたしにも悪い癖がつきはじめていて、勢いだけで、それでね、と言い出すことがあった。それでやっぱり行方不明になることもあるのだけれど、このときはいいものが出てきた。
「ケンジはGジャン着てサーフィンするの。ジーケンですって名乗ってさ」
わたしは空想の中で、透き通った波を蹴立てて滑っていくケンジのサーフィン姿を描いた。Gジャンを着て、中は裸で。下だけウェアというのはおかしいだろうから、下にもやはりGパンを穿くしかないか。
ああそうか、デニムで水着を作ればいいんだ。膝下ぐらいまで、いやもっと長い、七分丈ぐらいの水着。いちおうわたしは専門学校生だった。
思い描きながら、わたしはくすくす笑った。
「すごい動きづらそう」
「いいよ、それで」
ケンジも笑ったが、そのかわり、と言って、わたしの手首を押さえつけ、わたしをもう一度押し倒した。
あれ珍しい、と思うと、何か違う様子で、ケンジはまた大真面目な顔をしていた。ケンジの大真面目な顔は面白い。そして何か心配になる。胸が苦しくなる。
「そのときはノッコ、一緒に来てくれるか」
「へ?」
「あそこ。あの砂浜と空のとこ。あそこって変だな。あそこ名前つけないとな」
「行くよもちろん。どうしたの」
困ったことに、本当にケンジはどうしたわけでもないようだった。言われるまでもなく一緒に行くつもりだったのに、何にそんなに気合が必要だったのだろう。ああでも、いいな。あそこに行ったことまだないし、ケンジと一緒にいけるならうれしい。でもサーフィンって、いきなり行ってもすぐにできないんじゃなかったっけ。それなりに難しいっていうか、練習しないと。
「あそこ、名前つけよう。いつまでも、白と水色のアソコっていうのじゃ変だ」
「白と水色の、だから、ツートーン、でいいんじゃない。そのまま」
「ツートーンか」
「うん。ツートーン。サーフボードも、ツートーン」
「ツートーン」
言ってみてわたしは気に入っていた。前からそう呼んでいたような錯覚をした。雨が降ると灰色になって消えてしまうツートーン。そういう見方をわたしは前からしていた。
ツートーンという響きを、ケンジは口の中でぶつくさ確かめていた。裸に剥いたわたしの両手首を押さえつけたままぶつくさと、失礼な話だ。ケンジは大真面目に吟味しているが、ケンジはあまりそういうことのセンスはない。でも気の済むまで吟味させてあげたいと思った。わたしは男に押さえつけられて、ツートーン、ツートーンと、何かモールス信号のような呪文をかけられている。そのシュールさに気づいてしまうと、また吹き出しそうだったが、彼を邪魔しては悪いのでこらえた。
「俺はGジャンで波に乗って、ノッコは砂浜でコーヒー牛乳を飲んでる」
「そうそう、そんな感じ。あとごめん、手が痛い」
「あっすまん」
「コーヒー牛乳、飲みたくなっちゃうな」
夜が遅くなると、このあたりは山道めいているので、お外がちょっと怖くなる。出足が鈍るところだけど、買いに行くか、とケンジが言うのに励まされて、うん、と答えた。
***
夏の終わりの日、ケンジはサーフボードを買ってきた。こういうことには下調べがいるもんだ、とケンジはどっしり言っていたが、ふとわたしが気づいて、サーフショップって夏以外も営業してるの? と聞くと、とりあえず行ってみるといって急いで出て行ったのだ。まだ朝のうちに出たのに、昼過ぎに帰ってきた。ただいまー、という声はどこか弱々しくて、ドアを開けると表情はもっと弱っていた。
「ただいま」
「どうしたの」
「なんか、すっごい怒られた……」
なぜサーフショップで怒られる。ケンジには悪いけれど、わたしは話を聞きたくてワクワクしてしまった。それでもほら、とケンジが横に抱えているものを縦にすると、それは確かにサーフボードだった。大きい。ケンジはそれをニュッと突き入れるようにして部屋に持ち込んだ。サーフボードってこんなに先が尖っていたっけ。
「すげえだろ、木製だ」
「うん、すごい」
サーフボードってふつう木製だと思っていたけれどそうでもないのかな。サーフボードは、細い木目がまっすぐ並んだもので、何本かの木材が接ぎ合わされていた。さしあたりクローゼットの横に立てかけてみると、それは思っていたよりやさしい風合いのインテリアになった。
わたしは逸る気持ちを撫で付けて、まずケンジのためにお茶を淹れることにした。ほうじ茶が切れていたので玄米茶にした。居間のほうをひょいと覗くと、疲れ果てたらしいケンジはうつ伏せに伸びて身体を休めていた。
「別に夏だけじゃないんだって、営業は。サーフィン自体、気合入ってる人は、真冬でもやるんだって」
「へええ。死んじゃわないの」
「耳栓して、ごついウェットスーツを着てやるらしいよ。あとサーフボードってすごい高い。ふつうに十万円とかする」
「えーっ。ただの板だと思ってたのに」
「な」
でも確かにただの板ではなくて綺麗に全体が反っている。特別な加工があるのだろうか。
ケンジはずるずると玄米茶をすすり、そのぬくもりをいかにも身体に染み込ませた。まったく何を打ちのめされてきたんだろう。
ケンジはマニアックなサーフショップに入ってしまったらしく、またそこが、今日は週に一度のハズレの日だったそうだ。普段は息子さんが詰めているのだが、今日の曜日だけその父御さんが店番をしている。彼はサーファーとしてはかつて有名な選手だったらしいが、ショップ店員としてはやっかいで、ぎろりと客を睨みつけては、場合によってはサーフィン道みたいなものをみっちり叩き込む。ケンジはその印象を「剣豪」と呼んだ。
そこにどしろうとのケンジが迷い込み、例によって思い付きを全部正直に話すものだから、キミちょっとそこに座りなさい、というふうになって、キミはどこの生まれだね、というところから濃厚なサーフィン講が始まってしまった。話はもちろん全ての横道を網羅してゆき、そもそもキミのような若者は、と、語るうちに剣豪さんはどんどん熱を上げていったと。ふらふらになってケンジが出てきたところに、常連客が待っていて、気の毒に、と笑ってなぐさめてくれた。それで、今日は週に一度のハズレの日なんだ、かんべんな、と笑って教えてくれたそう。でもその剣豪さんも、やっぱり技術的には今もすごい人らしい。
そのショップではサーフボードの自作教室もやっていて、ケンジが三万円で譲り受けた木製のボードは、生徒さんの製作物らしい。難ありで商品にするつもりはなかったけれど、もしキミがこれのどこが難ありなのかわかるようになったらまた来なさい。そう言われて、最後は笑顔で送り出された。
「あと何かこんなのもつけてくれた」
ケンジがごそごそと取り出したのは、何かを接続するワイヤーのようなものと、イルカの背びれみたいなものが数枚。
「いいねえ、なんか、わかんないことだらけだね」
「ああ。しかしまさか、剣豪に弟子入りすることになるとは……」
ケンジは顔を押さえて、何か本当にまいったという様子。いつから弟子入りなんて話になったんだか。またわたしは笑うのをこらえてケンジを見る。ケンジのことだから多分、また来なさいと言われたことを真に受けているのだろう。そうして点で覚えてしまったことはケンジには忘れられない。
イルカの背びれの形が愉快だったので、わたしはそれをぱたぱた煽って遊んだ。
「ボード、色を塗らないとね」
「そうだな。ペンキある?」
あるわけがない。そもそも単純にペンキで塗っていいのかしら。防水加工とか、なんか色々しなくてはいけない気がする。
それに、
「ツートーン、にするんでしょ。あの色をばっちり再現するには、ちょっと研究がいるよ」
そうだなあ、と言ってケンジは立ち上がり、またベランダに出て行った。すこし気を取り直したみたいでよかった。また煙草を置き忘れている。持っていってあげよう。
日が暮れていくにつれて、その日は天気が崩れていった。山から濃霧が下りてきて、霧だねと言っていたが、気づくと季節がおかしかった。玄関側から出て空を見上げると、霧ではなく山から雨雲が下りてきていた。普段はこんなところまでこないのに。
「ノッコ、台風が来てるって」
珍しくテレビに見入って、ケンジが報告した。ケンジの白い顔にブラウン管の光が照っている。その姿は、ほんのちょっと寂しそうに見えた。わたしはまるで義務に駆られたように、ケンジに歩み寄って、気づくとケンジを両腕で抱きしめていた。あれっ、とわたし自身驚きながら。
一瞬、ケンジと溶けてくっついた気がした。
夜になると、遠くの空に断層になった不吉な雲がぐんぐん吹き流されていた。わたしは思いついて、ケンジに色彩学の教本を与えていた。小難しいことも書いてあるが、それが逆に今はいいのだ。ケンジは寝転んでそれを真剣に読んでいる。ケンジはあまり勉強ということをしないけど、試験になると成績はいい。問題をひねられなければ記憶力はいいのだし、何しろいったん取り掛かればその最中は余所見をする性質がなかった。
ごめんねケンジ。わたしはたまにこのことを思い出す。わたしの唯一の後悔だ。台風が来ているならむしろ、喜んで海に出ればよかったのだ。台風が直撃するのでは困るけれど、近くを通るだけなら。サーファーならそうするものらしい。でもわかんないじゃんね。台風が来たらふつう海には行けないって思うよね。
ごめんね。
わたしとケンジは、ハイツ・モンで一年半を一緒に過ごした。買ったばかりのサーフボードは、翌年の夏までおあずけになった。けれども夏の前に深い春が来て、わたしはケンジが交通事故で亡くなったという知らせを受けた。そのときわたしは部屋の掃除をしていて、確かにケンジの帰りが遅いなという気だけはしていたのだった。
***
見慣れない番号から着信があって、無視していたけれど、三度も着信するのでさすがに出た。真昼間のお天気のよい春に、受話器から聞こえてくる声は場違いに深刻なふうだったので、わたしは少し距離を感じてそれを聞いていた。
――瀬尾さん? わたしです。川原です。同じクラスの。これ連絡網なんです。あの、学校のね、同年の、橋立健二さんって知ってる? あの人、死んじゃったんだって。交通事故で。さっき教務部から連絡があったらしくて、これ回してくださいって。
「え?」
ボンと音が鳴って、鼓膜が張ったみたいになった。音が消えてしまって、耳鳴りが始まる。受話器の向こうから、川原さんの声は、うるさいほど聞こえてくるのに、何を言っているのかが聞き取れない。
「死んじゃったってどういうこと? 亡くなったってこと? どこで? いつ?」
自分の声も、やたらに大きく、のっぺらぼうに聞こえた。意味が伝わっている気がしない。
――さあ。なんか夜中に、走り屋っていうの? なんかそういうので競争していて、事故ったって。
わかった、うん、ありがとう。はい。わたしは電話を切った。そして慌ててベランダに出た。空は抜群に晴れ渡っていた。もう、さっきの電話が夢か何かの空想だった気がする。
わたしは目を凝らして、ツートーンを見た。遠い。岬の向こうに、今日は特にはっきり見えるけれど、それでもやっぱりだいぶ遠くにある。わたしはその海に、次に白く光る砂浜に、ケンジの姿を探した。
わたしは呆然となった。呆然となりすぎて、笑える余裕まであった。部屋にもどると視界がすうっと暗くなって、どうしよう、と焦りだす。けれどもいくら焦っても、具体的にできることがない。それでまたベランダに駆け出した。ベランダに出たら空気が急にのんきになる。ツートーンをじっと見た。白く光っていて目が痛くなってきた。
そんなときに、ふと気づいたけれど、あのサーフボードを持って、あそこまで歩いていくのは無理だ。タクシーで? というのも何かおかしいし、電車で行くにも大変そう。バスが通っていたりしないのかな。いやきっと海水浴場行きのバスぐらいは出ているだろう。ケンジはどうするつもりだったんだろうか。
何もすることができなくて、いっそお茶でも淹れて飲んでやろうか、なんて考え始めた矢先。再び電話が鳴ってびっくりした。咄嗟に、ケンジからかも、と思った。でも理屈でいえばそんなはずはなかった。わたしは頬を押さえて、ちゃんとしろ、と自分に命じた。それでも、確認する一瞬には気が変わって、すべてのことが間違いでいいから、ケンジからであって、と祈った。そんなことがあってもいいじゃないか。連絡網だって何かのいたずらかもしれない。
着信はケンジからではなかった。それを認めたとき、一瞬に落胆して、直後にはアッと取り直した。
「ナル!?」
――あ、ノッコ! よかった、つながって。連絡きた? 教務からの?
「うん。うん来た」
自分で答えると、身体の奥がうねって震えだした。うっ、うっ、と声が漏れるのを止められなかった。首を横に振る自分が抑えつけられない。いや、いや、と叫びだしたい気持ちがせりあがってきて、その気持ちはわたし自身を恐怖させるほど荒れ狂っていた。
――ノッコ、いま家でしょ? いい、よく聞いてね。あたし今から、そっち行くから。あたしが行くまで待ってて。何もしなくていいからね。何もせず、あたしが来るまで待ってて。
わたしは頷いて、ウン、ウンと言ったが、その声もよく出なくなった。電話を切ってツーという音だけが残ると、わたしはその場にへたりこんで正座になった。だめだめ、何よそれ、わけわかんない。ほんとわっけわかんない。わたしは何に向けるでもなく罵ってみせて、それだけがなんとか自分を落ち着けてくれた。奥歯が勝手にがちがちぶつかる。耳にはナルの冷静な声が残っていて、それだけが頼もしくて救いだった。
わたしはハーッと怒ったように息を吐いた。立ち上がって、ナルが来るのに前もって玄関の鍵を開けておくことにした。
***
ナルが来てくれて、真っ先になぜかわたしを褒めた。よーしよく待ってたね、偉い、と。なにそれ、と思わず笑ってしまった。さすが、とんでもなく年上の男性と付き合ってきただけある。
わたしがフラフラとお茶を淹れようとすると、いいよそんなのと言ってくれて、ナルは大学ノートと青いボールペンを取り出して、わたしに説明してくれた。
「ここが今いるところでしょ。で、新幹線でここまで行って、ここから乗り継ぎ。特急があったら特急のほうがいいかな。んでここまで行って、ここからローカルで二駅。わかる?」
うんうん、とわたしは頷きながら、この短時間によくここまで調べられるものだ、と感心していた。久しぶりに会った気がするナルは、少し肉付きがよくなったのか、肩幅が広くなったように見えた。肉感的になったというか。
住所や電話番号は教務部に聞いたらしい。
「それで、明日がお通夜で、明後日がお葬式だって。ノッコ、喪服とか持ってる? あと数珠」
「持ってない」
「そりゃそうだよね。じゃあ、どうする? とりあえず、お通夜のほうに行く? お通夜のほうは、そんなに形式張らなくていいって言うしさ」
「うん。ごめん、任せる」
「うん。じゃあさ、とりあえずお通夜にいく段取りにしてさ。まあお葬式をどうするかは、そのとき考えようか」
「うん」
「あんたそういえば、向こうのご両親とかに会ったことは?」
わたしが首を横に振ると、そうだよね、とナルは言った。
そういえば、ケンジにも両親というものがいるのだ。今まで考えたこともなかったし、言われても今さら想像はしにくかった。ケンジは何か、そういうものではなく、ふらっと単独で存在している気がする。でもそれはそういう気がしていただけか。わたしにも両親がいるのだし、向こうにもそれはあるはずなのだ。
「わたしどうしたらいい? 数珠と喪服と、買いに行ったほうがいい?」
「数珠とかは百円ショップとかでも売ってるらしいよ。喪服のほうは、あたしがなんとかする」
「持ってるの?」
「あたしは持ってないけど。あのねぇあんた、うちら一応、服飾やってんでしょうが」
「あ、そうか」
「とりあえず、心当たりに相談してみるから待ってて」
「うん」
ナルは電話に立ち、ちょっと迷ってから、ウーンそれじゃあさ、悪いけど、と言って、わたしにお茶を淹れるように申し付けた。わたしはハイと答えた。何かやることがあったほうがわたしも助かる。
夜、ひさしぶりに宅配ピザを取った。おなかは空いていなかったけれど、ちゃんと食べないと連れてってあげないとナルが言うので、がんばって食べてみると、急におなかが減ってきて慌てて食べた。そういえばナル煙草吸わないねと聞いてみたら、やめたの、と言った。今の彼氏さんがそういうことにうるさいらしく、もう色々言われるのが面倒すぎて、やめた、ということだった。
「一応さ、聞いたんだけど、彼と同じクラスの人たちから、有志を何人か募って、クルマで乗り合いで行くみたいだね。でも聞いた感じ、まあよそのクラスだし、なんか泣いちゃってるコとかもいくみたいだからさ。断っといたよ。あんたそんなんと同乗して行きたくないでしょ」
「うん」
「だからうちらは電車でいくけど、あんたお金はある?」
「一応。大丈夫だと思う」
「香典は五千円ぐらいだってさ」
「わかった」
「あと喪服は、黒いワンピースのやつ、先輩が貸してくれるって。なんかね、お通夜だと逆に、きっちりしすぎた喪服にするのはよくないんだってさ。まあそういうのわかってる人だし、センスある人だからこれは大丈夫。明日、駅まで持ってきてくれるってさ」
「うそ。それすごい助かる」
「ね、いい人だよね。あと数珠は割とコンビニでも売ってるって。あとは黒い靴と、黒い靴下と。いやストッキングか」
こうしてナルとゆっくり話し込むのは、ずいぶん久しぶりのことだった。懐かしくて身体が温まる気がした。こうして久しぶりになってしまったのは、きっとわたしが悪い。わたしがずっとケンジとばかり一緒にいて、ナルのことを忘れてしまっていた。それがこんなときになったらすぐ、ナルに甘えてばかりになるのだから、まったく卑怯な話だ。
あとでちゃんとナルに謝ろうと思った。頬杖をつくと、うとうとと眠気がやってきた。
***
あずき色の座席に座り、ひたすら電車に揺られていた。気を抜くと自分がどこへ何をしに行くのかを忘れそうになった。お通夜に参列しにいくはずだったが、それよりもわたしは、ケンジのふるさとに一人勝手に行く、というような気ばかりしていた。先ほどまで車窓はいかにも住宅街だったのが、どんどんと広い田畑ばかりになってきた。
新幹線の乗り場までナルは見送ってくれた。あたしも一緒に行こうかと思っていたけれど、大丈夫そうだね、と言って、ナルは留守番をしてくれることになった。万が一、警察とかも来るかもしれないしさ。そういえばケンジは事故で死んだのだったから、確かに警察が何かの捜査をする可能性はあった。
それにしても、ケンジはなぜ事故なんかしたのだろう。ナルからの聞き伝では、走り屋というのと競争していて、というのは本当のことらしい。ケンジは車を持っていないくせに、運転させたらすごく上手だったそうだ。そんな話をわたしは聞いたことがなかったから、そうだったんだ、と驚いた。あくまで聞いたところによると、前の車が運転をしくじったところに、後続の車も巻き込まれたらしいということ。でも、誰がどこから聞いた話なのかもわからないので信憑性はない。
ケンジのことだから、競争だとか、そういう馬鹿をやらない、とは言えなかった。挑発されればすぐに引っかかってしまうところがある。でも、と思って、わたしは新しく気づくことがあった。不思議だ、わたしはケンジが怒るところを一度も見たことがない。初めて見たのが男をぶん殴るところだったけど、あのときもケンジは別に怒っていたわけじゃなかった。大真面目に殴っていた。
そもそもわたしは、ケンジが頭に血を上らせているところを見たことが無い。ふつうの人は、頭に血が上ってそういうスイッチが入るものだろう。でもケンジは、スイッチのほうが先に入る。勝手に入る。まるで彼の意志ではないみたいに。彼に前もって、そう義務付けられてあるかのように。ケンジ自身、それに戸惑って、子供みたいなところがあったもの。
だから、いらいらしながら、死んだわけじゃないわよね。ケンジは。そう思うと、それはそうだろうという気がして、少し気持ちが楽になった。実際そのことは間違いなさそうに思えた。
目的の駅についた。空気が少し冷え込みはじめていた。
ナルがくれた案内書きには、タクシーを使ったほうがいいと書いてあったけど、思ったよりも早めに着いたので、歩くことにした。駅前にタクシーは二台止まっていたけど、運転手はちょっといかめしくて怖かった。駅前から、葬儀を示す橋立家の指さし看板が出ていて、とりあえずそれを辿ってゆけばよさそうだった。わたしは正直、まずケンジが生まれ育ったところを歩きたいと思っていた。祖母に育てられたとは言っていたけど、このあたりもきっと無縁ではないだろう。
このあたりの町が、ケンジを作った、と思いながら歩くことにした。途中でストアがあって、少し寄ろうかなと思って、その瞬間身体がビクッとなった。それでそのまま歩き続けた。
わたしは習慣で、コーヒー牛乳を買いそうになった。けれども、それを吸い上げながら歩くことを思うと、なぜかそれは悲しみに勢いよくつながった。悲しい。悲しいに決まっている。本当はケンジとここを歩きたかったに決まっている。いったんその悲しみを起こしてしまったら、まともに立って進める気がしなかった。でもこんなところで泣き崩れている場合じゃない。そんなことでは、ここへ来れるように尽くしてくれたナルに申し訳が立たない。
ちゃんとして帰るんだ。泣くのはその後でいい。
石垣を組んだような上に田んぼがある畦が続いていた。灌漑か下水かわからない溝を覗き込むとけっこう深く、水の奥に赤いザリガニがいた。ザリガニなんか見るのはひさしぶりだ。生きているのか死んでいるのかわからない。水は透き通っていた。
なんの変哲も無い、といったら怒られるのかな、でもふつうの町だ。でも町ともいえないし、村とも言えない。農村というのでもない。こういうところは何て呼べばいいんだろう。特に何があるわけでもないけれど、空気がおいしくて気持ちよく、なんだか好きなところだなと思えた。ケンジのふるさとだから、なのかもしれないが、まあ別にそれでもいいだろう。わたしはここはいいところだと思う。
鉄錆のきいた、古い栄養ドリンクのユニークな看板があって、レトロでかわいいな、と、いちおう専門学校生らしいことを思いながら歩いた。そしたらいつの間にか行き過ぎたらしく、犬を連れたおばさんが、ちょっとあなたぁ、とわたしを呼び止めた。一応、格好は喪服だと受け止めてもらえたらしい。
橋立さんところは、あっちよ。あの分水器のとこを左ね。少し方言に訛った声だった。わたしは咄嗟にその訛りにケンジの口調を探したが、似たところは見つからなかった。ありがとうございます、と礼を言って踵を返し、その分水器とやらのところまで戻るところにした。たぶんセメントの苔むしているあれがそうだろう。それにしてもいよいよ、ケンジの実家に向かっているという気がまったくしなくなってきた。橋立家に向かっているというのはわかるけど、それがケンジとどうも結びつかない。
でもこんなものなのかもしれない。わたしは、人生経験という単語を思い出して、その語感が気持ち悪かったのであわてて打ち消した。黄色い蝶々が、まるで油断しているようにわたしのそばをてんてん跳ねて飛んでいった。
二回曲がって進む先に、黒白の鯨幕があった。のどかな風景の中、そこだけさすがにきりっと張り詰めた空気がある。ついに来た、来てしまった、と思ったが、やはりどうもしっくりこない。時計を確認すると、まだ五時前だった。通夜の受付は六時からだったので、まだずいぶん時間がある。
先に行って覗いてみたかったけど、喪服姿だと気づかれてしまうだろう。わたしは辺りを歩いてみることにした。
子供のころのケンジは、どこで遊んでいただろうか、そんなことを推理しながら歩くことにした。
日が沈むと、西の空は眩しいほど赤くなり、東は対極に藍色に沈んだ。田んぼにカエルが合唱を始めた。カエルってこんなに大声で鳴くものだったっけ。数が多いから競って強気に鳴いている、というように聞こえる。
受付開始のすぐに行って目立ってしまうのもいやなので、もう少し時間を遅らしていった。鯨幕に近づいていくころには夜になった。強いライトが備え付けられて、短いが行列が出来ている。飾りつけというのもおかしいけれど、設営が立派な気がした。明日の葬式もここでやるのだろうか。わたしは子供のころ曾祖母の葬儀に出たけど、それはなんとかホールというところでやったはず。地域によってやりかたが違うのかもしれない。このあたりは古い造りの立派な家が多いから、こういう儀式はしっかり執り行われるのかもしれない。
空気にお線香の香りが混じった。
黒塗りの、ハイヤーみたいな車がやってきた。葬儀屋さんの車かしらと思っていると、後部座席からお坊さんが出てきた。年配の、しかし体格のいい、頭をしっかり剃ったお坊さん。光沢のある緑の衣に、金色の袈裟をつけていた。宗派はわからないけれど、お坊さんはあんなに派手なものだっけ。参列客の注目がお坊さんに集まるのを狙って、わたしは列の最後尾にそそくさと立った。周りは知らない人ばかりだ。当たり前だけど、わたしは何かひとりだけもぐりで忍び込んだ心地だった。
そういえば、わたしとケンジの関係は、ほとんど誰も知らないのだ。わたしの側ではナルしか知らない。ケンジもたぶん、人にそういう話はしなかっただろう。ナルにだってわたしが報告しただけだ。実際にどう過ごしていたかなんて知るはずもない。
わたしとケンジの関係は、わたしとケンジしか知らない。あんなにたくさん笑って、忘れようもないほど、なんだろう、濃い時間があったのに。あれを誰も知らないのか。それはとても不思議なことに思われた。わたししか知らないし、説明しても伝わるようなことじゃない。そう思えば、実はずいぶん貴重なことをしていたもんだ。それが貴重だったということも、もうわたししか知りえなかった。
祭壇の据えつけられた応接室で、ケンジのお母さんらしい人がうずくまって泣いていた。お坊さんのお経を邪魔しているけど、耐えられない、といったふうに。健二、健二、と、わたしとまるで違う発音で名前を呼んでいる。それはいったんわたしのことを離れて、ただ息子を亡くされた母御さんとして痛ましかった。
花に囲まれたお棺があった。あの中にケンジが入っているというのは、ちょっと信じられない。遺影はモノクロに加工したものらしく、ずいぶん昔の写真、まだ子供みたいなケンジの写真だった。
焼香の順番がきて、わたしは前の人の動作を真似て、それらしく合掌した。後ろに人がつかえていると思うと気ぜわしくて、なんだか冥福を祈るどころじゃなかった。流れに押し出されて、親族の方に頭を下げる。出てみるとあっという間だった。これで終わりか、と少し拍子抜けもした。
出てから気づいたが、肝心な焼香をするときにわたしは数珠をつけるのを忘れていた。
振り返ると、お坊さんのお経は終わったらしく、空間にごそごそと動きがある。応接室に入っている人たちは、親族か、近所の人か、とにかく身内に近い人たちのようだった。わたしの割り込めるような空気はまるでなかったし、健二さんとお付き合いしてました、なんて、今あの様子のお母さんに切り込めるようなものではなかった。
また、そんなことをする必要があるとも思えなかった。ここにいる健二は、そういうのとちょっと違う。
わたし自身にも、今ケンジの死に向き合っているという感じが正直なかった。でも、やるべきことをやったという気持ちがあって、ふう、とわたしは一息ついた。気分は確かに、少し晴れた。お葬式とかは、こういうことのためにあるのだろうか。
時計を確認して、ナルの案内書きを確認する。駅まで急げば、なんとか今日中に帰れる時刻だった。
***
ハイツ・モンに帰ると、ナルは本当に留守番をしてくれていた。チャイムを押すとハーイと返ってきて、ドアが開くとエプロン姿のナルだった。なんだか堂に入ってるな。申し訳ないけれど、お妾さん、という語が浮かんでしまった。
「おかえり、どうだった」
「うん。一応、ちゃんとやってきた」
部屋に入ると、台所からの湯気で暖かかった。時計はもう一時を回っている。なんとかぎりぎり帰ってこられた。
テーブルにはすでに作られた料理が、サランラップをかけられてあった。それも、何かけっこうな量だ。仰け反って台所のナルを振り返ると、
「ああ、ついでだしさ。たくさん作っちゃえって思って。あんたこの後、ちょっとゆっくりすんでしょう。そんとき、食べるもんないと困るからね」
わたしは思わず、ふふふと笑った。なるほど、という気がした。ナルは年上の男性が好きだけど、たぶん年上の男性もナルのことを好きになるんだ。こんなにされたら、そりゃあいいコだってなるよね。わたしは少し笑うことができて、元気になった。
まだ時間は掛かるけど、ちゃんと前に進んでいける気がする。
ナルのおかげで、ハイツ・モンは活気づいていた。
「疲れてるでしょ。ゆっくりしてて。あ、あと冷蔵庫にコーヒー牛乳あるよ」
わたしは、早くも寝転んでしまおうとしていたところ、がばっと身体を起こした。今たしかにコーヒー牛乳はすごく飲みたい。ンチューと吸って、減圧、甘い汁が口中に吹き出してくる。その甘さに浸りながら、これからのことを考えたいと思った。
冷蔵庫の扉を開けようとすると、扉が重かった。がばっとパッキンが空気を吸うと、冷蔵庫が開帳されて、わたしは思わず転けそうになった。コーヒー牛乳の紙パックが並んでいた。二十個か、いやもっとある、ちょっと数えられない。
まるで業者の冷蔵庫だ。
「はは、ちょっとやりすぎ?」
エプロン姿で笑うナルを見上げて、わたしも笑おうとしたが、わたしはもう胸がぎゅんぎゅん熱くなった。身体の中を特別な体液が駆け巡った。
気がつくとわたしは立ち上がって、ナルの手を握り締めていた。
「ナルありがとう。ほんと、最高の友達」
わたしは握った手をぶんぶん振っていた。わたしなりの気持ちが、ナルの手にぶつかってしまう。
……あれ?
あれ、と思わされたことには、ナルの顔が奇妙な形に固まっている。口を大きな半開きにして、何かちょっとプルプルしている。
なんだろう、わたし何か、そんなにおかしいこと言っただろうか。
ナルの変な顔は、見慣れないけれど、わたしは何かそれを見たことがある。
「冷蔵庫、ぬるくなるよ」
「え? あ、ああ」
ナルが顎で指して気づかされたが、冷蔵庫を閉めるのを忘れていた。コーヒー牛乳がたくさん入っている。
そうだ、わたしはこれでさっき感激したのだ。確認して、バタンとそれを閉める。
が、閉めてしまうと、コーヒー牛乳が飲めないので、もう一度開けて、ひとつを取り出してもう一度閉めた。
よし。
「ノッコさあ」
「うん?」
「なんか、変わったよね」
「そう?」
「独特のオーラが出たっていうかね」
「うん」
「なんか、タイミングが早くなった」
空気がミシッとなった。話を続けようとしたナルが、わたしの様子の異様に気づき、わたしが固まった以上に固まった。
あは、あはははは。あはっはっは。あっあっはっはっはっは! わたしは奇怪な笑い声を上げ始めた。
肋骨から下全部が、びょんびょん痙攣した。それが始まってしまうと、もう面白くてしょうがない。あっはっはっは、あーっはっはっは。笑いたいから笑っているのじゃない。自分の笑いがおかしい。そもそもこれは、笑っているのか何なのか。
ナルが変な顔になるのはわかるし、釣られて笑うのもわかるけれど、もうわたしにはどうしようもなかった。説明する余裕がない。息を止めようとしても筋肉が跳ねて息が爆ぜる。咳をしてもそれが笑い声になった。自分の声のでかさがうるさい。
タイミングが早くなったか。そうか、そうだろうなあ。
「ナっ、ナル、面白い、でしょ。タイミング、が早いのっ、てっ」
なんとか説明しようと、ナルのあたたかい肩に手を置いたけれど、そこからはもう、わけがわからなくなった。ケンジが、と言って、その後が続かない。ケンジが、ケンジが、という主語だけしか出てこない。
すごく話したいのに。ナルにはわかってもらいたいのに。
「いい人だったんだね」
ナルがそう言って頭を撫でてくれると、わたしの顔は、自分の筋肉で壊れるかというぐらいくしゃくしゃになった。
「ケンジ……」
このあとに、別に予定はない。わたしはなぜか急にそんなことを思った。確認したのかもしれない。
このあとの予定は空っぽだった。信じられないぐらい空っぽだった。
ついにわたしがワーとなって泣き崩れると、ナルが一緒になって座り込んで、背中を撫でてくれた。わたしは大声でひたすら泣いた。泣いて、子供みたいに、ケンジは帰って来る、と思い込んで、そのたびに裏切られて泣いた。
「ごめんね、前に、やめとけとか、あたし言っちゃって」
いい、そんなこと全然気にしてない。わたしはそれが言いたくて、でも言えないので、首だけ横にぶんぶん振った。
「いい人だったんだね。本当に、いい人だったんだね」
ナルがそう繰り返すと、ナルの声ももう泣いていた。それもまた悲しくてわたしは泣いた。
そう、ケンジはいい人だったんだよ。すごい、いい人だった。もう二度とないぐらいに。
っていうか、もう二度とない。二度とないよ。わたしケンジが大好きだった。
大好きだった。今も大好きだ。
でも、そんなこともう、どうでもいいから。どうでもいいから、お願い。
ケンジ、どうか、帰ってきてよ。
わたしのことはもういいから、どうか生き返ってきて。
わたしは死んで祈ろうとして、全身の力を祈りに振り絞った。自分の喉の、もはや声帯でもない、わけのわからないところから鳥の鳴くようなピィーという声が出るのを聞いた。それを受けて、ナルの両腕がわたしをがっしり抱きしめた。
そこからの記憶はもうない。気づいたらわたしはちゃんと布団で寝ていた。枕元にケンジの匂いがした。
***
何時間なのか何日なのかわからない時間が経って、わたしは目覚めた。布団にまっすぐ仰向けになっていた。
部屋中が金色に染まっていた。かすかに首を傾けて、ベランダを見ると、やはり金色の陽光がきらきら揺れていた。部屋ごと光る水の中に没したよう。
わたし死んだ? そう思って、ゆっくり呼吸をしてみると、わたしは呼吸していた。ただ身体がまったく動かない。動かそうと神経を送っても、かろうじて指先と爪先だけがぎしぎし動くだけだった。それだけでも全身に深刻な疲労が起こる。人間の身体はこんなにまで疲れ果てることがあるものなのか。無理に身体を起こそうとしたら、身体をおいて魂だけにょっきり出てしまいそうだ。
喉が渇いていた。いや、喉がどうというより、全身、髪の毛や爪にいたるまで、水分が枯れきっている。自分の身体が干し肉みたいだ。
コーヒー牛乳が飲みたい。今コーヒー牛乳を飲んだら本当に生き返るというやつだ。
でも。
このまま死ねないかな。そんなことしたら、ケンジに悪いように思うけど。まあでも、いいじゃんね。悪いっていっても、あいつが勝手に先に死ぬほうが悪いんだし。
わたしは幸せだった。
部屋の中にケンジの気配を探してみた。目玉を動かしても探してみる。やはりケンジはいなかった。どうも本当に、もう帰ってこないらしい。
気が利かない話だ。いい話なら、ここで枕元に、やさしくたたずんでいるものだろう。
「ケンジ」
かすれているが、なんとか声が出た。やっぱり返答はない。もし目に見えないケンジがいたら、答えられなくて申し訳なさそうな顔をしているだろう。
でもわたしはここに一人でいるだけだ。ケンジはもういない。
これだけ疲れ果てると、人間は腹が据わるものらしい。ケンジにもう会えない、ということを確認して、おお、と思った。おお、やっぱり、まだ悲しいぞ。まだまだ、ぐいぐい悲しい。ケンジに会いたいもんね。ずっと会ってたもんね。たぶんわたしは、これからもずっとケンジに会いたいんだろう。時が悲しみを癒すなんて嘘だ。わたしはこれ、たぶん一生ずーっと悲しいよ。
しかし、悲しむということにも、身体の中の、どこかの筋肉を使うようだった。わたしはそれを何度か確認して、へへえ、と面白い気分になった。筋肉がもう使い果たされているので、もうどれだけ悲しくても、悲しむことができない。涙を出そうにもポンプがないのだ。これは面白いぞ、ある意味無敵だ。いくら悲しくても、これなら怖くない。ちょっとずるい気もするけど。
ふ、ふ、ふ、とわたしは笑った。そして、なんとか両腕を布団からひっぱりだして、それを前方に広げた。まだはっきり残る、ケンジの幻影に向けて。おいでケンジ。ごめんね、意地悪ばっかり言って。もう大丈夫。もう何も怖くなくなった。
おいでケンジ。いつもみたいに、わたしを好きにしていいからね。そういうときの、ケンジの真面目な顔見るの好き。今まで内緒にしてたけど。
今さらでごめんね。わたしケンジのこと好きだよ。
身体の上に、ケンジの感触が戻ってきた。細くて硬い身体。つい力が入ってしまう両手。それらを感じながら、わたしは目を閉じた。唇の上に、乾いてふんわりとした、綿のようなキスが触れた。
このまま目を閉じていたら、きっと死ねる。何度も繰り返せば、やがて目を覚まさないだろう。こうしてケンジに抱かれたまま、死ねたらわたしは幸せだ。それがたとえ幻覚であろうがなんであろうが。
ナルのことが気に掛かった。あんなにわたしを支えてくれて、励ましてくれたのに、このまま死んだらナルに悪すぎる。ナルは絶対怒るし、それ以上に泣いてくれるだろう。そう思うと胸が苦しかった。
あと、せっかく学校に行かせてくれて、高い家賃も無理して払ってくれているお父さんにも悪い。お父さんがそうまで頑張ってくれたのは、間違ってもここでわたしが死ぬように、ということではなかったはずだ。このまま死んだりしたら、これ以上の親不孝はない。それだけでも地獄行きにふさわしいぐらいだ。
でも、ごめんね。ごめんねナル。ごめんねお父さん。お母さんも。わたしもう、ここから起き上がる理由がないや。ケンジの感触を振り払って起きるの、ごめんなさい、わたしにはもう出来ない。どうしようもないわがままだって、わかるけど、ごめんね、もう悪い子にならせて。わたし、なんだかんだで幸せだったよ、本当に。
目を閉じてケンジに抱かれていた。幻影だと気恥ずかしく思える一方で、これ以上確かにケンジに抱かれている感触はない、とも感じていた。意識は途切れてゆき、途切れるほどに、ケンジの感触は真実になっていった。
けれどもそこで、あ、という声があった。わたしは思わず、ぱちんと目を開いてしまった。
鼓膜にまだ声が残っている。
今のはケンジの声? それともわたしの声?
ケンジの声を幻聴したのか、それともわたしの出した声をケンジのそれと聞き間違えたのか。わからなかった。わからなかったけれど、その声が向けられた方向はわかった。わたしは首をひねってそちらを見た。
クローゼットに立てかけられたままのサーフボードがある。木目が出たまま、まだ色を塗っていない。
ツートーン、に、しないとね。ケンジ、どうするの。ケンジこれ塗れなかったね。
わたしが代わりに塗ってあげようか。
ああそうか、ようやくわかった。ケンジ、約束したもんね。これにきれいに色塗って、一緒にツートーンに行くんだもんね。ケンジそういうの絶対忘れないもんね。忘れないもんね……。馬鹿。あのとき言い忘れたけど、やっぱりケンジは馬鹿だったよ。
よく、死んでも忘れないとかって言うけれど、本当に死んでも忘れないんだ。
わかった、じゃあ、わたしが代わりに塗ってあげる。ツートーンのあの色に。待っててね。ケンジは本当に死んじゃったんでしょう。わかるよ。だからわたしが死ぬまで待っててね。
一緒に行くんでしょう。電車で行くのか、バスで行くのか、わたし調べておいてあげる。ケンジは覚えられないだろうから、念のためこう言っておくよ。山の裾、白いギザギザだよ。六階建ての、ハイツ・モン、その四階の、一番奥だよ。
一緒に行こうね。わたしも絶対忘れないよ。
それまで、ちょっとだけさよならだね。
ばいばいケンジ。わたし、何かわかったよ。ツートーン、あんなに綺麗なのおかしいもんね。だからあのとき、ケンジはあんなに真剣だったんだ。
さっきまでは死ねると思っていたのに、途端に、いかん死んでしまう、という調子になった。これは本当にまずいかもしれない。
でもなんとかして、冷蔵庫までたどり着かねば。吸って吸って、減圧してやる。今までにない強烈なやつを。そう思うと力が出た。あのコーヒー牛乳の大群を、全部飲み干してナルをびっくりさせる。わたしは布団から這いずり出していた。
[了]