No.178 大切なことと赤青のランプ
ひとつ、こういう空想をする。ある石造りのフロアがあって、そこに歴史が降り積もっている。アンティークの丸テーブルとチェアが並んでいて、端整な人人がそこに静かに着席している。天井からは最低限の明かりが落ちている。年齢も人種もさまざまだが、全員に不思議に言葉は通じる。青い目の人もいれば民族衣装の人もいる。誰一人としてふざけた空気をまとわせておらず、シンとして目に静かな光をたたえている。
針一本が床に落ちてもその音が響き渡りそうだ。
あなたはその中央に立たされて、意見発表を求められるのだ。会場から静かに問いかけの声が起こる。「人が生きるということに、大切なことは何だろうか?」と。会場の意識は全てあなたに向けられて、研ぎ澄まされている。全員が真摯に耳を傾けて、あなたが語りだすことを待つ。
そのときあなたは、どのように、何を語るだろう。
もしこの話が、前向きな受け取り方で聞いてもらえるのだとすれば、なにとぞ、慎重に聞き取ってほしいと僕はお願いしなくてはならない。僕が今触れようとしていることは、日常にはまったく触れられないことだ。ともすれば一生、このようなことには触れないものである。
多くの場合、特に日本人はということなのだろうが、このようなシリアスなプレッシャーがかかる場面で、ごにょごにょと奇妙なことを言う。
エー自分はこのような場面で話すにはまったくふさわしくない人間なのですが――
とか。
そしてそこから、小心者のひょうきんさを気取って、演じて、話し出す。アノ〜わたしが思うのはですねぇ、みたいに、芝居がかった声を出す。
むかし誰もが実家で聞いた、電話に出た母親の声が高くなるのと同じように。
あるいは、どこかで教わった無難な話に逃げる。今も戦争が絶えないとか、世界平和とか。やっぱり愛だと思いますとか、助け合う心だと思いますとか。
マザーテレサは、愛の反対は無関心だといいました、とか。
多くの場合、自分もそのような方法を採るし、他の誰かもそうする。でも結局それは何をしているのか。これを僕は、慎重に聞き取ってくれることをお願いするよりないのだが、それは結局、<<茶化している>>というだけなのだ。張り詰めた空間に水をぶっかけて、まずグズグズにしようとする。だらしない空間に引き込もうとする。それで、まったくしょうがないなあ、とか、まあいいんじゃないの、とか、ごまかされることを狙うのだ。
むろん、そういうことでかまわない空間も存在する。全員が酔っ払った結婚披露宴なんかで、別に本当に染み渡るスピーチなんか必要ない。僕が言っているのはそのことではない。
僕が言っているのは、そういう振る舞いが、自分では何か熟練しているつもりでも、あるいはこなれて世間によく馴染むつもりでも、実はやっていることは<<茶化している>>だけだということだ。そのことに、気づいてくれ、と求めるのが、今僕の話しているところの、うそ偽りない本意である。
いまここに仮想した聴衆たちは、1ミリも迎合してくれない。たとえあなたが、照れくさそうにエーと頭を書いて、マザーテレサがどうこうとか、親がどうこうとか昔の先生がどうこうとか言ったって、彼らは眼の色を深くしたままシンと話を聞いているのみである。大切なこと、という主題から1ミリもずれてはくれない。それどころか、あなたは何を話している? という問いかけの視線さえ向けてくる。あなたが今しているその話と、振る舞いは、あなたにとっての「大切なこと」につながっているのか? と。
そんなことではだめだろう。ここも、また僕は、慎重に聞き取ってくれと求めるしかないが、こんな状況の、どこに逃げ場があるのだ。もう逃げ場がないのは明らかではないか。
そうじゃないだろう。あなたも本当は必ずわかっていのだ。<<あなたの話は、そこにいる聴衆の心に染み入ってゆかねばならない>>。あなたはそういう話をしなくてはならない。「大切なこと」を聞かれているのだから。
あなたは、大切な話を一生せずに生きる、と心に決めた者ではなかろう。であれば、必ずこのことを知っているはず。真摯な聴衆に向けて、あなたの大切なことの話は、染み入ってゆかねばならない。よくあるテレビ番組のような、よく出来た善い話というのではなく。本当に犯しがたいもの、他とは比較できないものとして。そうでなければ、せっかくあなたが話す甲斐がない。また真摯に心を傾けて聞いた彼らにとっても甲斐がない。
こういう話をすると、頭の善し悪しの話かよ、とか、話芸のあるなしかよ、というふうになって、悪うございました、とカチンとこられる人がいる。けれども僕は、決してそういう話をしていない。
同じ状況に、たとえばまだ年齢が十にもいかない、少年を立たせてみる。少年はなんらスピーチの準備をしてきていない。頼れる先生や両親もこの場所にはいない。それでも立ち上がらされて、「大切なこと」への意見発表を求められる。
プレッシャーで、少年は目に涙を滲ませるかもしれない。どうしていいかわからず、固まって、だれか助けてくれる人をつい探してしまうだろう。けれどもここの聴衆は、そんなことで1ミリも身じろぎしない。ただ彼から何が語られるのかを、年齢の差別なく、ただ聞き遂げようとする。
――ぼくは、
とやがて少年の声。すでに震えている声が響く。
――ぼくは、ともだちがすきです、
場内はなお水を打ったようにシーンと静まるだろう。
少年は話が続けられない。少年はもう泣き出す寸前になる。それでも必死に語ろうとする。
――ともだちが、いるから……
震える声。
その声の響きの向こうに、聴衆は一瞬、少年の友達らが朗らかに笑う幻影を見た。
――たいせつ、たいせつなこと……
少年が目を擦る。このとき聴衆の誰かは、すばらしい、と惜しみない賞賛の拍手を彼に送るだろう。その音が響き渡れば、聴衆はいっせいに同様の拍手を起こして沸き立つはず。
このときの少年の意見発表を、誰が、不十分だったと謗ろうか? 「ぼくは、ともだちが好き、ともだちがいるから、たいせつ、たいせつなこと」。このことは、彼のいま生きていることの中で、純潔きわまる真実だろう。彼はたしかに、大切なことについて話した。そしてそれは、聴衆の心に染み渡った。聴衆の多くは、共感し、ともだちは、たいせつなこと、という思いを新しくしたに違いない。少年の語ったことは実に犯しがたいものだ。そして他と比べることのできないものだ。
大切なことを語るのに、頭がよい必要はない。それ以上に、<<語り口が上手である必要はない>>。だれも倫理学の話をしろなんて言っていないのだ。「大切なこと」をただ話すのに、何が上手で頭のよい必要があろうか。
いまや、ほぼ全ての大人が、この少年ほどにも、真摯に何かを語ることができない。<<茶化す>>ことばかりに長けている。中にはそれをこそ見せつけあって自慢にしている風潮もある。それが悪いとは僕の指摘するところではない。ただそれは<<茶化している>>だけ、逃げ回っているだけだ、と指摘するのだ。この少年ほどにも、自分と人とに真剣に向き合う根性がないから。
歴史の降り積もる石造りのフロアで、「大切なこと」について語るのを求められる。そのようなことがあったとき、ほぼ全ての人は、それに向けて準備をするはずである。話題の準備も、心の準備も。
けれども、何を前もって準備などする必要があるのか。どこか借りてくるのであればともかく、自分の大切なことを語るのであれば、必然自分はそれを持ってきているはずだろう。それをその場で取り出せばよいだけだ。ともだちを語った少年のように。
ここに準備が必要な気がもしするならば、それはもうあなたは大切なことを語ることから逃げている。ごまかすのには準備がいるけれども、<<まこと真実を自分の内から語るのに準備はまったく必要ない>>。
あなたはまず、自分に向けられる意識と視線を、全て受け止めて静かに立たねばならない。<<あなたの話は、そこにいる聴衆の心に染み入ってゆかねばならない>>のであるから。そして、<<語り口が上手である必要はない>>。<<まこと真実を自分の内から語るのに準備はまったく必要ない>>。
必要なのは勇気だけだ。少年が示してくれたようにである。
――わたしは今まで、全てを茶化して、ごまかして生きてきました。
たとえば、そのように語りだせばいい。それがあなたの内でまこと真実であるなら。そんなことで誰もあなたを笑わない。
僕が何を言っているのか、やはり、慎重に聞き取ってもらえることを、僕としては求めたい。僕はあなたを非難してなどいない。僕はあなたに、<<あなたは人の心に染み入る話をすることができる>>と言っているのだ。そういうものがあなたの内側にあると言っている。それを茶化す人がいるとすれば、それは僕ではなくあなた自身だ。
そのときあなたの心は大切なことに向かってはいない。体裁を整えることに向かっている
もし僕が、街頭インタビューをする者であったなら、あなたはそれに応じた答え方をしてよい。あなたにとって大切なことは何ですか。そうですねぇ、やっぱり家族ですかねぇ。これでいい。けれども、僕は自分が人と話すのに、街頭インタビューのようなやりとりになることを寸分も求めない。僕はこのところ急速に周囲にそういうやり取りの目立つのを感じている。それはよもや、現代の日常において人に気づかれるようなことではないけれども。
やはり、慎重に聞き取ってもらえることを求めて、あるいは信じて、僕はこのことを言う。いまや人人が、たわいない会話の折にでも、<<体裁を整える>>ことの習慣は、おそろしい強度のものとしてある。仮に脳内にそのようなスイッチがあり、ON状態でそれが点灯するとすれば、彼らは発語しようとするそのたびに、その赤いランプを光らせている。あくまで原理的に言えば、これは僕が口うるさく言っていると捉えられるべきではない。口うるさく<<体裁を整えよ>>としているのは赤いランプの光る側だ。
ここにあらためてあなたに、「あなたにとって大切なことは」と問う。街頭インタビューのようではなく、もちろん問い詰めるものでもなく。ただ単なる問いとして。僕の側がそれを真摯に聞き遂げんとするとして。あなたはこの問いに例えば、
――やっぱり、愛し合うこと、慈しみあうことなんじゃないでしょうか。それによって人は支えあっています。わたしもそうして、支えられてある者の一人であるはずです。
と答えるかもしれない。
けれどもこのとき、この答えは実に上等で洗練されているけれども、その手前に重大な引っ掛かりがある。
なぜあなたは、大切なことについて答えたというのに、この答えの味わいそのものは、こうも無味乾燥なのか。これが大切であるということは、あなたの価値観的思考において、たしかに適合するし、一分の矛盾もあるまい。けれども、なぜここに、いかにも大切なことだということの気配、あの犯しがたい神韻がないのだ。なぜあなた自身にも、胸がじんわり熱くなるようなことが起こらないのだ。大切にする「べき」ということにはむろん僕も合意できよう。けれどもここには「大切」という「現象」がない。
一匹の野良猫が、通りすがりにユーモラスな表情を見せたという、ただそれだけのときでさえも、あなたの胸には少しぬくもりが起こるはず。それほどにあなたの心はささやかにもよく機能するものなのに、なぜ「大切なこと」に向けて答えたときには、そのぬくもりが起こらないのだ。
あなたが問いかけを受けて、答えようと心を応じさせたとき、あなたの心は本当に大切なことへ向かっていたのか?
このようなことがあるから、また今や、このことのほうが全てを占めてさえいるふうだから、この口うるさい言いようがいかにも不快に受け取られようとも、僕はこのことを言わざるを得ない。問いかけを受けた瞬間、あなたの脳には<<体裁を整える>>ことの赤いランプが爛々と光るのだ。そのときあなたの心は大切なことに向かってはいない。体裁を整えることに向かっている。
僕が言いうること、また願いうることは、もうこのことしかない。どうかあなた自身、その感触に気づいてほしいと。間違いなくあなたは、そういうことを本当にやっているのだと。
――あなたにとって大切なことは。
――あのね、聞いて。さっき、猫ちゃんがね、歩いてたの。おっかしい顔をして。
まだこのようなやり取りのほうが、本質的に成立しており、味わいを取り戻している。大切なことに触れたときの、犯しがたい神韻がある。
このような、体裁の整っていないやりとりを、あなたは長い間しておらず、また周囲にも聞いていないのではなかろうか。
現代の風潮の中で、人人が無意識に<<体裁を整える>>、そのようにしてしか人とやりとりできないことの、無自覚の強度はとてつもないものだ。
勇気を奮って、僕はこのことも言おう。問いかけについて答えるとき。あるいは問いかけがなくても、人とやりとりするとき。人と自分とに向き合うことを恐れて、<<体裁を整える>>。あるいは、体裁を整えても、場の緊張感を突破できないと見るときは、<<茶化す>>ことによって、場の緊張感そのものを堕落させようと試みる。この方法は、もともと老人のものなのである。
この年功序列のシステムの中で、老人は自動的に権威の座に据えられる。この権威の老人が、知恵の上に老成していればよいけれども、そうとは限らない。知的にも徳にも低いことはありうる。それでは権威が失墜してしまうので<<体裁を整える>>。また、体裁を整えてもその場を突破できない見込みであれば、<<茶化す>>ことによって、その場自体の緊張感を堕落させる。それによって老人の権威は保たれる。
代表は政治家だ。彼らは実に<<体裁を整えて>>くるし、追い詰められてくるとその場を<<茶化す>>。老人になればなるほどそうなる。それこそ彼らに、今の日本に大切なことは、と問いかけてみれば明らかだ。彼らは第一に体裁を整えるスイッチ・ランプを赤く光らせるだろう。そしてそれでも、自分がトンチンカンになるとなれば、場の緊張感を茶化しにくるはずである。こちらはさしずめ、青ランプということなのか。とにかく彼らは、そのような悲しい技術を、むしろ自分の長けたこととして自慢する気配まである。
しかし我々があえて好んで真似をするべきものではない。このような方法が必要なのは、権威を守るべき老人か、もしくは我を張った自分をなんとかして守り抜こうとする事情の深い者だけである。
<<あなたの話は、そこにいる聴衆の心に染み入ってゆかねばならない>>。またそのことは、あなたに出来ることであるし、そのためのものがあなたの中に必ずある、と僕は示した。赤青のランプを光らせなければ。茶化すことも、体裁を整える習慣も、それは逃避だったと気づくことができれば。
あなたは何を準備する必要もない。準備はむしろ、赤青のランプを活性化するのみである。あなたはただ、人に向き合い、あなたの話が彼の心に染み入ることだけを思っていればよい。茶化す逃避の習慣をやめ、体裁を整える習慣を断て。それは実に、実に勇気の要ることである。
[了]