No.182 ウェイスティング・マイ・プレシャス・タイム
いろいろ工夫して書いているけれど、だらしない、すぐに限界を感じる。
もともと、工夫することが得意じゃない。
一応、考えてはいる。できるだけ、役に立つように。面白く読めるように。発見がありうるように。読んでくれる人の何かの足しになるように、と。
けれども、根本的な矛盾がある。それは、恋あいが上手くいってない女に興味を持ってどうするんだ、ということ。そんなのは不健全だ。男が興味を持つのは、誰よりも光っていて、誰よりも上手くいっている、抜群の魅力に満ちた女であるべきだ。
そうでない女に肩入れするなんて気色の悪い話である。
これは何か、冷たいことを言っているように聞こえてしまうが、実は違う。肩入れされることが、救いになるとは限らないからだ。それなりに、役に立つ視点や、面白みのある発想は、提供できるかもしれないと思う。けれども、肝心なところにパンチが入らない。
魅力もないし、上手くもいってない、そんな女に興味はない、とはっきり示されるほうが、本当の意味で救いになることはある。むしろ本当の救いはそちらにしかない。
だから、僕なりに今は工夫してやっているけれど、僕は内心、この工夫こそが自分の冷血ぶりを証明している気がして、後ろめたいのだ。
本当は、僕は工夫が得意じゃない。
いろいろ見えることがあるつもりで、もし実際に見えていたとしても、それがどうした、もっともつまらんことだ、と思っているところがある。
そう気張らんでもいい、という気もするんだけどね。でもまあやっぱり、工夫なんかしてたら、イイ男じゃないなあと、僕は情けなく思っている。
自分はどうあるべきか、男として、女として、あるいは一人の人間として。
それを考えるとき、どう決めるのも自由だ。
けれども、ほんのわずかでも、それについて「打ち合わせ」したらオシマイだ。
打ち合わせをした瞬間、それはもう本当の自分じゃない。
弱くて、浅ましいものだ。
自分とは何か、どうあるべきか、と打ち合わせをしたらもうオシマイだ。なぜこんな当たり前のことがわからない?
ヘヴィ・メタルの歌詞に、"Wasting my life(time)"というのがよく出てくる。僕はこれが好きだった。今も好きだ。「人生(時間)を無駄にする」ということ。
インペリテリの「ラット・レース」の中にこんな歌詞がある。和訳は僕が適当につけてしまうが、まあだいたい合っているだろう。
Sometimes I feel like I've been wasting precious time
(オレは貴重な時間を無駄にしてきちまったんじゃないか? と時々感じる)
Life passes by when you're slaving to the grind
(石臼引きの奴隷をしているうち人生は過ぎ去ってしまう)
What really matters when I cross the finish line
(自分が今死ぬってときに本当に大事なことって何だ?)
Am I wasting my life?
(オレは人生を無駄にしちまっているのか?)
この後、歌曲は荘厳な和音を帯びて、聞き手を神々しい絶望に突き落とす。「ラット・レースに巻き込まれちまった」「悪魔のレースを走らされ」「第一レーンで身体をつぶされている」「オレの人生、オレの人生、人生!」というふうに。
僕は、ウェイスティング・マイ・タイムの中に、プレシャスという語が入った連なりを、音の響きとしても特に好きだ。「プレシャス」という響きは、「貴重」という意味に直接つながるような清潔感がある。
――ウェイスティング・マイ・プレシャス・タイム?
オレは貴重なオレの時間を無駄にしているのか?
貴重な自分の時間を無駄にしないにはどうすればいいか。
決まっている、自分が自分でいることだ。
努力や工夫をすることじゃない。
努力や工夫をしてたら悪魔のレースに取り込まれる。
自分が自分でありつづけるしか方法はない。
自分とは何か、どうあるべきか、と打ち合わせをしたらもうオシマイだ。
それは努力と工夫だからだ。
なぜこんな当たり前のことがわからない?
こんな野蛮な言い方だけど、これこそが実は、僕の本当の本音の本音だ。
じゃあ、手放さないと決めてしまえばいい。それで永遠になくならない
心臓にひとつの宝石を飾るとする。ネックレスみたいなもので。
そんなもの、他の誰からも見えないだろう。死ぬまで自分だけしか知らないし、死ぬまで自分だけで抱え続ける。
これを選ぶときに、何の打ち合わせが必要なのだ。努力も工夫も要らない。自分がこれだと思うもの、美しいと思うもの、自分が好きだと思えるものを選べばいい。
考えたり、検討する必要も無い。どうせ誰に見えるものでもないんだ。ちょっと心臓に手を当ててみればわかる。
何を頑張る必要も無い。宝石を手放すまいと頑張る必要は何もない。そんなネックレスがあること自体、外側の誰からもわからないし、触れられもしないんだ。自分が手放さない限り失われることはない。
じゃあ、手放さないと決めてしまえばいい。それで永遠になくならない。
それで、お前はおかしいとか、間違ってるとか言われても、知ったことか。
宝石は手放さないともう決めてあるんだ。
僕は女にちょっかいを出すだろう。若くて元気で肌が綺麗、となったら見せつけているバスト、その胸元へ手を伸ばす。
それは、正しいとか間違っているとかいうのではない。僕の考え方というのでもない。そんな可変性を持ったものではない。心臓に飾られてあるものであり、僕の意志だ。
それを正しいと思う35億人には褒められるかもしれない。けれども僕は一ミリも嬉しくならない。間違っていると思う35億人には非難されるかもしれない。けれども僕は一ミリも悄然としない。何をどう言われたって、嬉しくも悲しくもならない。僕の心臓と宝石、僕の意志には何の関係もないからだ。別に頑張るところは何もない。
女の子が拒絶したり、走って逃げたりしたら、無理強いはしない。それも、別に正しくないし、間違ってもいない。その正誤を決めたがる人がいるのは知っている。決めたらいい、どうぞと思うけれど、僕の意志には関係ない。そうですかねぇ、と表面上はそれぞれになびいてみせるけれど、正直ウソだ。本当は何も気にしていない。
恋あいは何であるかとか、人とは、男女とは何であるかとか、いろいろ言われる。恋あいは一般に善に分類されている様子。男は女にやさしくて、女は結局控えめで、人は人に向けてやさしい方がいいと言われる。僕もそれがわからないわけではない。僕はそこまでパープリンではないのだ。善悪や是非を聞いて、またその仕組みや論理を聞いて、なるほどそうか、と理解はする。ニーチェのキリスト教批判なんかも、なるほどと僕は思う。
でもだからって、「打ち合わせ」はしない。寸分でも打ち合わせしたら、それはもう自分じゃない。自分の意志じゃない。打ち合わせ、「協議の結果」しかそこにはない。
ウェイスティング・マイ・プレシャス・タイムだ。
協議の結果を、出すだけ出すのはいいけどね。
打ち合わせが必要なこともある。打ち合わせは理解する必要がある。女の子にちょっかい出しすぎ、と言われたら、その意見を理解できないのはただの馬鹿だ。
ただ、それと僕の心臓に掛かった宝石は関係ない。僕は女の子にちょっかいを出しすぎな奴なのか。そうなると、僕はきっと、協議の結果を受けて、女にちょっかい出しすぎな奴です、と前もって名乗ることにするだろう。それでちょっかいを出す。何を頑張る必要も無い。拒絶されたり逃げられたりしたら無理強いはしない。無理強いするタイプの宝石を僕は選ばなかった。
ただ<<別次元>>ということ。僕の意志は、合理的でも非合理的でもない。理に照らすということ自体をしない。理に照らすのも努力と工夫のひとつだ。別次元のことなので、理に照らすなんて方法は外側の次元でしか通用しない。
何が何でも、自分の意志が通る、と思っているわけではない。そんな甘い話はどこにもない。ただ通じようが通じまいが、僕の意志は僕の意志だ。それが通用しない状況においては、通用しない僕の意志、が僕にとっては重要になる。僕が僕であるというのはそのことだけにあるから。
僕の意志には理由が無い。女の子に喜んでもらえたらいいな、と外向けの僕は思っているけれど、その動機から意志が発生しているのじゃない。動機から発生していたらそれは「打ち合わせ」だ。女の子に喜んでもらうには? という打ち合わせの後に、意志が発生することになる。それは意志じゃない。「協議の結果」だ。
こうして生きる僕が、他者からどう評価されるのかは知らない。高く評価されたほうがありがたいけど、本当のところは、何もまったく気にしていない。心臓に掛かった宝石にはどこまでも関係ないからだ。高く評価されても露ほども喜ばない。低く評価されても露ほども落ち込まない。表面上はなびいてみせることもする。でも正直、それはウソなんだ。
その表面上のウソ、あっちになびいてこっちになびいて、正しいことはなんぞやなんて、「打ち合わせ」をしてから行動ばかりしていたら、そのとき僕はもう僕ではない。
ウェイスティング・マイ・プレシャス・タイムだ。
どう評価されても、どう扱われても、かわらん。東西南北、好きに向かう。女の子にちょっかいを出す。それはいいことでも悪いことでもなく、合理でも非合理でもない。
ただこうして歩くと、夜景が綺麗だ。どこの下町のさびれた外灯の並びだって、透き通っていても濁っていても、かけがえなく綺麗に見える。綺麗に見えるためにそうしているのではないけれど。ただ本当に綺麗なんだ、夜景が。
[了]