No.183 恋あいができないあなたへ
恋あいというのは、一つの甘美な気分を指す。
だから、「恋あいをしよう」という言葉はおかしく、違和感がある。
「気分をしよう」と言っているのと同じだからだ。
恋あいや恋人がなくても、生きていくことはできる。でも、生きていくのに、あの甘美な気分をまったくなしに生きていくのは寂しい。特にある程度の年齢になるとそう思うようになる。
それで、「恋あいをしよう」となるのだが、これは発想の順序が逆なので、恋あいが起こらない。
たとえば、乾いた木を無心で擦り合わせていればやがて火が起こる。火が起これば身体は暖まるだろう。でも、暖まりたいから、という動機で、ぼんやり木を擦っても何も起きない。ただ疲れる。
発想の順序、これが意外に重要なのだ。最重要といってもいいかもしれない。
漠然と寂しいという焦りがあって、恋あいの甘美な気分に思い当たり、「恋あいをしよう」という考えに落着する、この手続きがいけない。
もっと、先にやるべきことがあるだろう? ということだ。
恋あいより前にすることがあるだろ、というのである。
それが何である、ということは説明がしにくい。形が無いことだからだ。仮に説明しきれたとして、それもまた間違った手続きに取り込まれるだろう、というのもある。
強いて言えば、まず「自分」から出発するしかない、ということだ。
誰の人生にも、上等下等ということはないと思うけれども、今このときの「自分」について、いいとか悪いとかは、正直誰にでもあるはず。
その「自分」から始めるのだ。恋あいが起こらないのは、その自分が湿気ているからだ。
焦って、ドタバタと、習い事のスケジュールを入れてはならない。<<もっと、先にやるべきことがあるだろう?>>
部屋でコーヒーを飲んでいていい。気分を変えたければ、外を散歩するのでもいいだろう。でも外部に頼ってはだめだ。習い事でも自己啓発でも何でも、外部に頼るのは依存であって、上品な卑怯者でしかない。
「自分」から始めるしかない、としつこく言っている。
部屋でコーヒーを飲んでいていいから、自分から湿気を振り払い、自分を研ぎ澄ます。まだ何もやらなくていい。むしろ決してやるな。
まず、何もやらなくていい自分、そして何でもできる自分、というところまで辿り着く。
抜群の刀を鞘に収めて、腰にぶら下げているような状態だ。
そこに辿り着いたとき、最近の自分は何をやっていたんだ、と馬鹿らしくなっているだろう。そのとき、恋あいをすることなんて、自分には何も難しくない、なんとだってやれる、と当然に感じている。
そこから具体的に何をするかは、何でもいいのだ。
大事なことは、<<明日も自分はこのようであろう>>と思えることだ。表面的な恋あいの結果、フラれたとか一発やれたとか、そんなことはどうでもよろしい。
結果はどのようであっても、床について明かりを消して、よかった、明日も自分は今日のような自分であろう、と安らかに眠れればそれでいいのだ。
たとえば、夫婦喧嘩や痴話ゲンカに救いがないのはこの点だ。男同士が殴りあったなら、顔面の痛いのをやせ我慢しながらでも、明日も自分はこのようであろう、と思える。夫婦喧嘩や痴話ゲンカにはこれがない。明日もまたこうなのか、と思うと絶望しかない。だから二人は別れるしかなくなるのだ。
表面上の結果はどうでもいい。フラれようが笑われようが、軽蔑されようが。僕なんか全然モテずにきたので、このことの連続だった。身の程知らずに上物に恋をするので、九割方キスもできずにフラれるのである。でもそんなことはどうでもいい。キスを与えるかどうかは向こうが決めることで、僕の決めることではない。
僕はただ、眠る前に、明日もこのような自分であろう、そう思えるかどうかに徹していればよかったのだ。
そうしたら、物好きな女の子が僕のことを認めてくれて、過剰なごほうびをくれた。それで喜んでいればいいが、調子に乗ったらまたポロが出て、明日も今日のような自分であれ、と思えなくなる。
そしたらまた一からやりなおしだ。
「自分」から始めるしかないのである。
おやすみなさい。
[了]