No.184 佳い女の根性
僕は学生時代に、一応、プロの指揮者に指揮法を習い、プロの声楽家に発声法を習っていた。真面目な生徒ではなかったけれど。
そこで、一般にはあまり知られていないことがある。全てのカリキュラムの中で、「音楽の作り方」というのを習うことはないのだ。レクチャー無しなのである。同じ曲を演奏しても、上手い下手があるのは歴然だけど、その上手い下手について講釈する教程は無い。
教えられないのだ。
音楽には理論がある。和音の進行や、リズム、レガート、作曲法や、指揮法を振るバトンテクニックだって、厳密な理論があるけれど、その理論を総合した中に、音楽の作り方というのはついに無い。何が「イイ」のか、何をどうすれば「イイ」になるのかは教えてくれないのだ。
だから不思議なことに、教程の全カリキュラムをこなした人でも、音楽そのものについては素人のままなのだ。彼らはズブの素人として指揮台に立つのである。
これは実話だ。学生指揮者をしていた僕は、はっきりとこのことを知っている。五十人ほどの部員がズラッと並び、指揮者でござい、と自分はその前に立つのだが、おそろしいことに、自分はズブの素人なのだ。
だから、「シャレにならん」のである。ズブの素人が前に立つということは、これを読んでいるあなたが立つということと同じだ。そこに「何の経験もないんでわかりません」という言い訳は通用しない。何十人も集まっての時間をそんなメソメソして無駄にはできない。
本当に、そのズブの素人のまま始めるしかないのだ。誰にも相談できず、ただ自分がリードしていかなくてはならない。
一番大事なもの、大事な「そのもの」については、レクチャーが存在しないものだ。習えないのである。
だから、習ってからそれに取り組もうと考えていると、その思い込みのせいで、一生何事にも取り組むことがなくなってしまう。
僕の友人も、先日、営業部門に転属になって、泡を吹いている。彼も勤続十年目の中堅社員のはずだが、業務のど真ん中、「商品を売ってくる」ということには素人のままだ。何のレクチャーもない。ただ「売ってこい」とだけ言われる。ノウハウがないなんて言い訳は許されない。プロなんだから。
ズブの素人のまま、「営業でござい」と客先に飛び込むしかないのである。「シャレにならん」と、友人も今ごろ感じているだろう。
今でなら、お笑い芸人の舞台、なんてのがわかりやすいかもしれない。あなたはお笑いイベントにエントリーして、ピン芸人として舞台に立つのである。くれぐれも、舞台の上で何をやればいいとか、客の笑わせ方とかは誰も教えてくれない。理論はあるが、そのものは教えられないのだ。あなたはズブの素人のまま舞台に立つ。他のみんなもそうしている。あなたは真暗な舞台袖にいて、そこにスタッフから声が掛かる。「○○さーん、出番です」。あなたは「お笑い芸人でござい」と万座の舞台に一人で飛び込まねばならない。好奇の視線が一斉に注がれる。あなたもそのとき、「シャレにならん」と背中に冷たい汗をかくだろう。今までお笑いに詳しいつもりだった自分なんか何の役にも立たない。
アルバイトと違うのはこの点だ。アルバイトは習った業務をこなせばよいのだし、わからないことがあれば隣のベテランに聞けばよい。
でも物事が本質に至ると、その誰かに聞いて教わる、習う、ということができなくなる。ズブの素人が自分で発明してゆかねばならないのだ。
人は大人になるに従って、経験を積んでゆかねばならないが、最大のピンチは、この種の経験をしたことがない場合だ。「シャレにならん」という中で、それでも「○○でござい」と堂々として、自分の発明でやりくりした経験が。
しかもそれで、やっぱり成功もしなくてはならないのだから厳しい話だ。
人が豊かに生きることの厳しさはここに尽きるだろう。真面目なだけでもだめだし、受験勉強だけでもだめ。かといって不貞腐れてダラッとしているともっとだめになる。
お笑い芸人でござい、と舞台に立ったあなたは、まずドンズベリするのである。想像してみればわかる、あなたは最もみっともない形で、テンパってアガって空回りして、しかも何か防御的で、面白いどころか客をイヤな気分にしてしまう。それはもう、思い出したくもない記憶になるだろう。それであなたは稽古に励むようになるのだ。一ヶ月二ヶ月、一年、五年と。
それで、五年の稽古を経て、面白くなるかというと、ならないのだ。むしろ勢いがなくなって、前より面白くなくなっている。一方で、才能のある奴はどんどん先に行く。才能ということにあなたは直面するが、ここで才能を諦めてしまったら、人生全てを諦めることになってしまう。
そこからいよいよ、本当の意味での、勉強も研究も始まる。
優秀なサラリーマンは、このことをよく知っている。男はまっとうに生きていれば、このことを強制的に叩き込まれるのだ。「シャレにならん」という中で戦うことを強要されるシステムがある。
女性はこれを教わるシステムがない。むしろ、及び腰になって引き下がらせるシステムばかりある。不公平なことだ。
優秀なサラリーマンに、あさってのイベント、ピン芸人として出場するように、と命令する。彼は「まじかよ」とゲンナリするだろう。しかしマイッタするふりをして、すぐに前向きに取り組み始めている。そして当日、思いがけず、そこそこの品質を舞台に作ってみせるだろう。「お笑い芸人でござい」と出てきて。尻込みしておらず、どれだけ低レベルでも、みっともなくはない、というものを示してくる。
彼はそういう中で戦うことに慣れているのだ。シャレにならん中で、それでも怖気づかず、素人だろうが何だろうが、その場の発明でやりくりしてゆくことに慣れている。肝心なものは習えない、教わって何とかなることなど何も無いと、骨身に染みて知っているのだ。
鍛え上げられていて、根性が違うのだ。優秀なサラリーマンはまったく泣き言に逃げない。
***
女性が友人に内緒でこっそり佳い女を目指すのも同じことだ。「いい女でござい」とのたまって、野郎共の集団に向けてニッコリ笑ってみせるしかない。初めは確実にドンズベリするだろう。しかしそうやって鍛えるしかないのだ。どうせ取り組むなら早いほうがいい。それと承知して立ち向かっていくなら、いちいち落ち込んだり傷ついたりしない。
びくびくして及び腰になって、でも勉強してわたしもそのうち……と考えていると、取り組みは一生やってこない。どこかで習ったり教わったりできないのだ。「シャレにならん」ところへ自分を放り込んで、その中で自分で発明するしかない。
佳い女とはどんなものか、と分析することはできるだろう。ウェブ検索したらゴロゴロ出てくる。でもそれは何の役にも立たない。目を覚ますべきは、そんなものを検索している女は全然佳い女じゃないということだ。いくら検索しても実体は素人のままだし、耳年増になるだけである。
それよりはミニスカートを穿いて、男を優しくからかいに行くことだ。何のノウハウも無しにである。
佳い男になるというのもまったく同様で、僕はそれを思うたび、うわぁ帰りてぇ、となるのである。佳い男というのはあまりに無理があるので、面白い男ということにする。でもそれにしたって、面白い男でござい、と吹聴して女の前に立つのはシャレにならんものがある。明らかに冷たい針のような女の視線に突き刺され、うわぁ帰りてぇ、となるものだ。
でも前向きに取り組まないとね。
誰にもコツを教わったりしない。
じゃあ、また。
[了]