No.185 恋人触媒イマジネール
人は人に会うときに、その人の「想像力」に会っている。それがなかったら、面接かお見合いだ。面接やお見合いは、人の経歴と「意見」を聞くのである。
人は人と会いながら、何をしているか。想像力を出会わせているのだ。想像力で、バトルしている、と言ってもいい。
それなしに人と会うということは成立しない。表面上は面談していても、心は互いに出会っていない。
そして想像力が出会わないなら、やりとりはメールとチャットとスカイプだけで構わない。「意見」を聞くなら、それで十分だし、そちらのほうが便利だからだ。
想像力、これは、ほんわかしたものではない。厳密に理論付けることができる上に、奥行きは人間の真相に関わるまで深くある。
でもここでは、その真相に至るところまでゆかなくてもいいだろう。ただし、あいまいな、ふんわりした言葉としては決して使わない。
なぜ恋あいが起こらないのか? 別に恋あいというのでなくていい。恋あいなんてかなり時代おくれの感がある。
けれども、「出会えてよかったなあ」と思える二人、というのは時代おくれではない。今もなお、それが全てだ。「出会えてよかったなあ」。別に恋人にならなくても、夫婦にならなくてもかまわない。一夜限りであろうが友達どまりであろうが、そんなことは関係ないのだ。ただ「出会えてよかったなあ」と思えたなら貴重だ。
そうでなかったら、人は人に出会ったことにはなっていない。本当だ。
人が出会うということは、互いの想像力が出会うということで、両方が、あるいは一方がでも、想像力を生き埋めにしていたら、人は出会うことができない。
面談で口頭で通信している、みたいな具合になる。
そのとき、その人の周りには、「意見」ばっかりがひしめいていて、何をするにも疲れてしまうだろう。そもそも、人に会いたいという動機が発生しないはず。
僕だって、ここに僕の「意見」を書き連ねれば、うるさい死ね、と思われるだけだろう。
人は互いの想像力に出会い、互いにそれをせめぎあわせて遊ぶのだ。
ふんわりした話じゃない、卒業論文にできるような厳密なテーマであった。
僕はあなたについて、このコやるなぁ、とこっそり思っている。あなたのほうも、この人やるね、面白いし頼もしいね、なんて思っている
あなたが友人らと一緒にいる。その中には僕もいるとしよう。だらっとした空気があって、何をするでもない状態。夜中によくそうなる。ここにはまだ何も「面白いこと」は起こっていない。
ここに、ある先輩が、あなたに向けて無茶をいう。
「○○ちゃん、何か面白いことやってよ」
あなたはエッとなるだろう。そんな、面白いことって、突然言われても……と戸惑う。すぐに行き詰まった空気になるが、そこに僕がこうしゃしゃり出る。
「じゃあ、ハスラー、やって」
ハスラーとはビリヤードをする人のことだ。
「ハスラー?」
「うん。『気が散っているハスラー』、をやって」
「気が散っているハスラー……?」
ここからあなたの想像力がはたらきはじめる。「気が散っているハスラー」に向けて。
健全で活発な想像力の持ち主なら、すでに「面白いこと」が描かれ始めているはずだ。
気の散っているハスラー、である。
「……はい、じゃあ、わかりました。『気が散っているハスラー』、やります」
あなたは挙手をしてそう宣言する。周囲は面白がってあなた注目する。いわゆるショートコントのようなものが生まれだす。
せっかくなので、想像力ということを厳密に見よう。構造として重要なことなのだ。
まず、この筋書きの冒頭には、面白いことは何も起こっていない。面白いことやってよ、という投げ掛けがあっても、まだ面白いことは起こっていない。
そして、「ハスラー」と提案した時点でも、まだ面白いことは起こっていない。
「ハスラー」という語を受けたとき、あなたはそれについてまず「空想」をする。無自覚に、自動的にだ。口髭を生やしたイギリス紳士みたいな人が、正装して、キューを慎重に前後に振っている。そういうものを「空想」する。
この「空想」されたハスラーは、「何も間違っていない」。このことが性質として重要になる。この「空想」は何も間違っておらず、「当たり前」のイメージだ。
だから、まだこの「空想」の時点でも、面白いことは起こっていない。当たり前、というものしかない。
そこに、「気が散っているハスラー」ということが提出されて、初めて想像力がはたらきはじめる。ハスラーというのは、ふつう気が散っていないものだ。気が散っているハスラーというのは「間違っている」。でもその間違っているものが存在したらどのような様子だ。どのような振る舞いをするか。そこにはもちろん滑稽さがあるだろう。
と、ここで初めて、「面白いこと」が出現している。まだショートコントが実演されていなくても、すでに面白いことは始まっているのだ。
だからこのことを対話的に示すと、このようになる。
「ハスラー、やって」
「ハスラー?」
「うん。『気が散っているハスラー』、をやって」
「気が散っているハスラー……?」
……。
……!
「……はい、じゃあ、わかりました。『気が散っているハスラー』、やります」
文中のビックリマークが想像力だ。もちろんこの場合は、あなたのビックリマークを促すために、気が散っているハスラーというアイディアを、僕の側が発明して提出した、ということになる。
この時点で、いかに素人芸であっても、形式的にショートコントが成り立ち、一応の「面白いこと」が描かれるのは明らかだろう。ハスラーがブレイク・ショットを打たんとしている。しかし何かが気になる様子。チラチラと余所見をしている。それはもう滑稽だ。
ここに、あなたの側で、もっと想像力のはたらきが進みゆけばどうなるか。ハスラーはキューを振りながら、真面目な顔をしているけれど、何かが気になって、ちらちら余所見をしている。しかし、いかん集中しろ、と自分に言い聞かせる様子。唇を噛んでいる。首を小さく横に振る。いくぞ、いくぞ、と動作を高めていくのだが、また肝心なそこでちらっと余所見をしてしまう。
それでも、ついにはヤケクソ気味に、ブレイク・ショットをうりゃあと打つのだ。そして打った直後、余所見をしていた方へ向き直り、もう辛抱たまらんというように、
「あの、充電器刺さってないですよー!」
と大きな声で言う。
「プールバーで何充電しとんねん」
と僕は応じる。
そこに笑いが起こる。「面白いこと」が出現した。最近はお笑いブームが続いているので、このような例が一番受け取られやすい。
互いの想像力が出会うということ、互いの想像力が、せめぎあい、バトルする、ということを見よう。まず僕は、あなたの想像力を起動せんとして、「気が散っているハスラー」というアイディアを発明した。ハスラーだけなら何もない。集中しているハスラーなら間違っていなくて面白くない。でも気が散っているハスラーは間違っている。この、間違っているという成分が、あなたの「空想」にあるハスラーのイメージを捻じ曲げるのだ。それはあなたの想像力のはたらきだ。
あなたの想像力によって生まれた、新しいハスラーのイメージ。何の間違いもない空想のハスラーはそこになく、あなたの想像力によってすでに捻じ曲げられた、そこには滑稽なハスラーの姿しかない。
空想における間違っていないハスラーは、万人にそのイメージを共有されるものだろう。けれどもここにある新しいハスラーのイメージは、今生まれたもので、まだあなたしか持っていないものだ。
だから、あなたの「作品」なのである。
僕からの喚起を受けて、あなたに起こった想像力のはたらき。その作用は、あなたの中で加速し、進化していった。ハスラーをイメージしたとき、自然と、彼だけではない、彼の周囲の空間についてもイメージは進んでいるものである。手に持っているキューにしてもそうだし、ビリヤード台を抜きにしてハスラーをイメージすることはほとんどない。
あなたの想像力の進みゆきは、「あの、充電器刺さってないですよー!」というところに結実した。そこまで進んだのである。今度は、このあなたからの喚起を受けて、僕が応じる側になる。
「プールバーで何充電しとんねん」
いわゆるツッコミ役として僕がそう応じたのは、さっきと逆転、僕があなたの発明を受け、想像力のはたらきを喚起させられている。「気が散っているハスラー」も滑稽だが、「プールバーで充電」も滑稽だ。お上品に気取っているはずの空間に、充電というような野暮ったいものは似つかわしくない。ここでもすでに、当たり前のプールバー、間違っていないプールバーへの空想はすでに変形されている。充電にまつわって滑稽になってしまったプールバー、これは僕の側の作品だ。
これが想像力のバトルである。想像力が出会って、互いにせめぎあっている。こんなことは普段は決して認知はされないことだ。けれども事実、その現象は起こっている。
この一幕の後に、果たして誰が出会ったことになるか。冒頭、「○○ちゃん、何か面白いことやってよ」と投げ掛けてきた先輩は、ひょっとしたらあなたに気があったのかもしれないが、すでに出会いの当事者ではない。出会ったのは僕とあなただ。ハハハ、と気安くみんなで笑う空間がある。けれどもその中で、僕はあなたについて、このコやるなぁ、とこっそり思っている。あなたのほうも、この人やるね、面白いし頼もしいね、なんて思っている。
と、いうわけで、ふんわりした話ではないのだ。
人が出会うということは、互いの想像力が出会い、バトルし、せめぎあって遊ぶことなのだ。
公害を撒き散らして「高級車」オンボロプジョーは走る。これをロマンチックという
男が入念なデートコースを設定してきて、女をエスコートする。女性にとっては気分の悪い話ではないが、どこか一抹の不安がよぎる。
入念に設定したものほど、当日のアクシデントやトラブルで、頓挫することがよくある。そのとき彼は消沈して、「どうする?」とあなたにアレンジを丸投げする。
あなたは、「そうだねえ」と、気持ちをフォローに向けるものの、内心では失望しているはずだ。こういうときの、機転をこそ見たかったのに、と思っている。何か息苦しい空気がやってきて、不本意にも、デートは時間の無駄という感触を帯びてくるのだ。残酷なことである。
このときの、「機転を見たかったのに」というあなたの気持ちは、あなたの本能が、彼の想像力に会いたがっていた、ということを示している。入念なデートコースは、何も間違っていないが、入念な空想でしかない。でもそれが頓挫したからには、そこに起きるべき発明がみたかったのだ。
そしてその発明を起こせない男に、あなたは会っている感触を得られないのである。それが息苦しさと、時間の無駄というような残酷な感触をあなたに起こさせるのだ。
あなたに入れ込んだ男が、あなたをハイクラスホテルのロイヤル・スイートに招待する。実際、ロイヤル・スイートは広いし、空調も完璧だし、調度品も豪華だ。すごい! とあなたは思わず興奮する。
けれども、内心のどこかが冷え冷えとしている。嬉しいんだけど、何かちょっと……と思っている。彼のほうが鼻息を荒くしているので、そのことは口に出せないけれども。どうやらこれが、彼が全力で用意した「ロマンチック」らしい。彼と、セックスするのは、別にイヤじゃないんだけど、とあなたは思っている。別にこの人のこと嫌いじゃないし。
ただ彼がギラギラウットリしているようには、実は自分はときめいていない。期待に応えられていないようで、むしろあなたの側が申し訳なく感じている。
でも、どうしても覆せない事実があるのだ。
ロイヤル・スイートは確かに素晴らしい。素晴らしいが、それは誰と来ても素晴らしいのである。一人で来ても素晴らしいし、女友達と来ても素晴らしいだろう。
だから、今その彼と来ている、ということに特に意味はないのだ。どれだけ残酷なことであっても。彼の想像力に触れてない以上、あなたはどうしても彼と出会うことはできないし、彼という人間の、個性やきらめきに触れることはできない。そして、そういうことなら、どうせならイケメンと来たかったな、ということになる。それは単純な話、イケメンも調度品として上等だからだ。
ロマンチックというのも、想像力に掛かって出現するものだ。想像力が担っているのは、何も笑いだけではない。胸に来るものの全ては想像力に担われているのだが、まあそこまで言い出すと本当に難しい話になってしまうので、できるだけ平易に留めよう。
お金持ちのオジサンが、フェラーリであなたを迎えに来ても、それはロマンチックではない。相変わらず鼻息が荒いのはオジサンの側だけである。単に「豪華」ということに過ぎず、空想の対象でしかない。
それよりも若い男が、オンポロのプジョーであなたを迎えにくる。うわぁ年代物だなあ、とあなたはびっくりするだろう。聞くと、
「ダチから一千万で買った」
「えっ、これそういう車なんだ? アンティーク……」
「違う。そいつは、やりなおしが必要な時期だったから」
「……!」
「いいの、俺にとってはこれが高級車なの。もうじき壊れると思うけどね。さあ、気合入れろよ、サスが硬いから、ボーッとしてるとすぐ酔うぞ」
「……はい!」
トランスミッションをローに入れたら、ガガガッと古い機械の音がする。公害を撒き散らしてオンボロプジョーは走るのだ。でもあなたは、「高級車だ!」と手を叩いて喜んでいる。
これをロマンチックというのだ。「高級車」ということが、またしても「間違っている」ということに注目されたい。
疲れきっていて、心を弱らせている人にとっては、想像力というのは「面倒くさい」
想像力が、死滅するということは信じたくないが、生き埋めにされているときはどうなるか。人間は疲れるとまず想像力を失うものだ。
「気が散っているハスラー、をやって」
「え? ハスラーは、気が散っていないものじゃないですか?」
本当に、こんなシラーッとしたやりとりになる。
「なんで充電器が出てくるんですか?」
そうだね、としかもう答えられない。気が散っているハスラーは間違っているし、充電器が出てくる必然性はないもんね、としか。
ここに想像力のバトルはない。せめぎあいはない。人と出会った感触なんてあるものか。「出会えてよかったなあと思える二人」からもっとも遠い。
疲れきっていて、心を弱らせている人にとっては、想像力というのは「面倒くさい」。聞きたくない、要らない、という反応になるのだ。
例えば合コンの終わりに。メールアドレスの交換をするのが定番だ。最近は、メールアドレスぐらいは気軽に教えてもらえるようになった。それはオープンになったというよりは、好ましくないメールは無視すればいい、ということにみんなが慣れたからだ。まあでも、そのことの是非はどうでもいいので置いておこう。とにかく、メールアドレスぐらいは普通は教えてもらえる。
僕は女の子のたむろっているところに、フラフラと歩み寄っていくのだ。いぇーい、おつかれー、という調子である。
「この季節、赤外線ってあったかいよな」
「? そうだね」
「気が合ってよかった。じゃあみんなで赤外線の交換だー」
そう言って僕が携帯電話を高々と示せば、ああ赤外線ってそっちのことか、と諒解されるだろう。そうだー交換だーと乗っかって、場を盛り上げてくれる女の子もいるかもしれない。
中には、本気とお遊びの半々で、エーどうしよっかなーと渋る女の子もいるかもしれない。
「いいからいいから、俺が欲しいのはお前じゃなくてお前の赤外線だから」
「何それ、無駄にサイテーなんですけど」
「いいから出せよ。テメーほら、いいケータイしてんじゃねえかウラァ」
「む、むかつく」
「そんなこと言いながら、赤外線感じてるんだろ? ん?」
「はいはい、感じてます感じてます。あ、終わったよ」
「あ、どうも、ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします」
こういう、「間違った」やりとりが起こりうる。
想像力のバトル、せめぎあい、ということについて。女の子の側に、油断のならないやつもいる。
「おお、キミの赤外線をびんびんに感じるよ」
「あんまり奥まで入れちゃだめだよ」
思わぬ反撃を受けて、うっ、と僕は焦るのだ。
「だ、大丈夫。俺の赤外線は超みじかい」
「あんた本当にバカだよね」
危ないところだった。男女において、通常は男が先手で女が後手だが、その後手から思わぬ反撃がくることがあるのだ。
バカ呼ばわりされて、そのまま引っ込んでいていいのか。でもこういう女に限って、性根は凛々しく清潔だったりする。危ないところだったぜ、と僕が内心で汗を拭いているところ、そろそろお開きだ、という空気になって、集団がほどけていく。
そこで、つんつん、と肩をつつかれる。振り返ると、さっきの油断のならない女が立っていて、すっと握手を求める手を差し出してくる。
「今日はありがとう。お疲れさま、面白かったよ」
彼女の綺麗な手のひらと指から、しんなりした力が伝わってくる。視線をしっかり重ねてきてくれて、その手のひらの力と眼の表情を見ていたらわかることがある。あんたに誘われたら、一応デート行くわ、と言ってくれている。
こういうとき、男はかっこいいことは何もできない。ううう、とたじろぐことしかできない。
男どもは帰り道、反省会をしながら歩いている。わいわい言っているが、僕の耳には入ってこない。適当に相槌を打ちながら、ああ、佳い女だったなあ、と、すでに心は奪われているのだ。何はともあれ、今夜があって、あのコに出会えてよかった。向こうにも、そう思ってもらえてたらなあ……なんて真剣に思いながら歩くのであった。
合コンというようなありふれたシーンでも、表面ではなくその裏側で、そういうストーリーが起こっていることがある。誰かと誰かが、ささやかに、しかし本当に出会っていることがある。
というよりは、そういうことがなかったら、いくら合コンの回数とにぎやかさを増大させても不毛なことである。じきに飽きるだろう。
人が出会うということは、表面上はどのような形態でも、やはり想像力の出会い、そのバトルとせめぎあいでしかない。
さてそれで、人間が疲れている場合だ。疲れて心が弱っているとき、このようなことは「面倒くさい」になる。要らない、というどころか、うっとうしい、不快だ、ということになる。人の心は、疲れるほど二元論と正論ばかりを求めるようになるものだ。そこによりによって、「間違っている」という土台の想像力なんか、うっとうしくてしょうがない。
「赤外線ってあったかいよな」なんて、何それ? ということになる。チョー面倒くさいんですけど。メアド聞きたければ聞けばいいじゃん。そこにそんな余計なことしても、何の意味もないし。
そう言って怒られてしまう。デートに呼び出したければ呼び出せばいいじゃん。付き合いたいなら付き合いたいって言えばいいじゃない。浮気するぐらいなら初めから付き合わなければいいじゃない。なんなの、ワケワカンナイんですけど? みたいになる。
そう、それで、困ったことに、何を「正しい」として、何を「間違っていない」としたら、正しいのはその疲れている彼女のほうなのだ。さあお前の携帯を俺のためにパックリ開くんだ、なんて言っている僕には正しさの欠片もない。
心が疲れきってしまうと、「意見」しかなくなる。意見しか出なくなるし、意見しか聞こえなくなる。特にメールやチャット、あるいはツイートなどのデジタル短文ばかりでやりとりをしているとそうなる。デジタル短文には想像力の作用が乗っからないからだ。
疲れているからデジタル短文のやりとりになるのか、あるいはそのやりとりが人を疲れさせるのか。わからないけれど、たぶん相互に強化するのだろう。近年の通信端末の発達と文化は、この疲労と想像力の生き埋めを劇的に加速するものだ。
ここにもまた、ひとつ厳しいことがある。時代は殺伐としているから、誰もが疲れがちになっているし、想像力の生き埋めは、明日にも自分のことになりえる。それを踏まえて、生き埋めをどうするか、ということも考えたくなるのだけれど、思い切ってそこは突っぱねる必要がある。
疲れている場合をベースにして考えると、疲れてしまうからだ。厳しいことだがしょうがない。
何しろ僕自身、今ここで少し考えただけで、露骨に疲れてきたんだから……
同じ考えるなら、太鼓をドンドコ叩きながら考えるのだ。出会えてよかったなあと思える二人になるには、想像力の出会いしかない。そのためには、「間違っている」ことが必要だから、さあどんどん間違えようぜと、アホウの太鼓をドンドコ叩くしかないのである。
「正しいこと、間違っていないことを、いくら熱く語られても、正直耳に入ってこないの、ごめんね」
お笑いブームが続いているけれど、近年のブームの形式には、よろしくないところがある。人人の想像力を活性化するのに、むしろマイナスの作用をしているのだ。
それは、観客が、客席から舞台上の芸を、評価・批評するという形式である。この形式が定番になって、じっくり人心に染みてしまっているところがある。テレビ番組で大きなお笑いのイベントがあると、その批評のようなものがどっさりインターネットに投稿されるだろう。
でもそれは、もう純粋な観客ではないのだ。かといって、舞台に参加しているプレイヤーではもちろんない。観客席にドッカと座りながら、何か参加もしている、という奇妙な様相を呈している。
それが、どこか不健全だ、どこかおかしいと、誰もが薄々は感じているはずである。
こと、自分のこととして、想像力が誰かに出会うということであれば、その当人がプレイヤーであるはずである。このことがすっぽり抜け落ちている人が今や少なくない。
よく女性が男性に求めるのに、面白い人がいい、と言われる。それは当然だと思うが、これも厳密に言うと、「自分と面白いやりとりが出来る人がいい」ということであるはず。その、プレイヤーとしての自分を組み込まずに、切り離して「面白い人」なんて単体で存在しない。存在するとしたら、それは観客席から見物する気分でいるのだ。
それの何が悪いともいえないが、少なくともそれでは、「出会えてよかった二人」ということにはならない。
自分がプレイヤーなのだ。面白い誰か、ではなく、面白い二人、にならなくては。
どれだけお人形さんのように綺麗でも、ポカーンとしている女に佳い女はいない。当たり前だ。見た目が綺麗というだけで寄ってくる男はいるだろう。けれどもそんな男、精神安定剤にはなっても、女の側が内心で辟易しているはずだ。
「かかってらっしゃいよ」と構えておくこと。男が先手で女が後手だ。でも女の側もしたたかであってかまわない。
「誰かわたしに想像力で勝負しにくる人はいないのかしら」
そう思っているのが一番いい。
「想像力なら誰にも負けるつもりはないわ」
「正しいこと、間違っていないことを、いくら熱く語られても、正直耳に入ってこないの、ごめんね」
そう思っているのがいいだろう。
「趣味は何?」と聞かれたら、なんでそんなこと聞くのかしらね、とほほえましく思っていていい。
「音楽鑑賞と、読書と、あとはちょっと人には話せないことばかり」
「え、何? 人に話せないことって」
そんな食いつき方をしてくる男はもう見捨ててしまっていい。想像力のバトル、せめぎあいについてくるつもりがない。
疲れきっているか、プレイヤーの自覚がないのだ。
人に話せないことばかり、なんて、ウソに決まっているじゃないか。
「音楽鑑賞と、読書と、あとはちょっと人には話せないことばかり」
「おお、やばいな、気が合いそうだ」
せめてこのくらいはあってほしいし、
「音楽鑑賞と、読書と、あとはちょっと人には話せないことばかり」
「囲碁か!」
「なんでよ!」
本当はこうなるほうがいい。
二人は想像力のプレイヤーとして出会うのである。
(それにしても、元気がなくてはやれない。本当に)
ジョークが必要とされていない空間なんて世界にどこにもないし、想像力のせめぎあいが出会いにならない空間というのもどこにもない
女はどうすればいいのだろう。
男はまだ、先手の側だから、自分の積極性によって、想像力の出会いを仕掛けていくことができる。けれども女の側が、どのように器用に応答して、男にそのプレイを仕掛けてみても、まるで無反応ということだったら、どうすればいいんだろう。正直、周りの男性方は全滅です、という人だって少なくないのではと最近は思える。
その場合は、すまない、全面的にあきらめろ、としか僕には言えない。
ウソをつくよりマシだと思うから、素直にそう言うしかないのだが、せめてといえば、あなたまで疲れてしまうことのないように。ジョークが必要とされていない空間なんて世界にどこにもないし(法廷を除く)、想像力のせめぎあいが出会いにならない空間というのもどこにもない。あるとしたら特殊な空間で、たまたまあなたがその特殊な空間にいるのかもしれない。だからそこを出て世界を目指せ。と、僕は無責任にも言うしかないのだった。日本国内にも世界はある。
「出会えてよかったなあ」と思えること。ただそれだけが重要であって、これさえあれば他の形式は何でもいい。誰にとっても明らかなことだろう。
ただその、人が「出会える」ということは、想像力のはたらきに掛かっているのだ。ただ面談して自己紹介することは出会いではない。繰り返して面談するうち、間違っていない人、真面目な人、いい人、というのは理解されても、出会えてよかったなあというところに到達しない。
それだと、もったいないよね、とつまり僕は言いたいわけか。たぶんそうなのだろう。元気を出そうぜと頑張って言いたい。何を頑張ればいいのかを示さないのも無力なので、せいぜい僕なりに説明してみた。
想像力ということには、本当はもっと奥行きがある。人間の真相、根源にまで至りうるものだ。青空を見上げたときに、それが眩しく見えることもあれば、貧しくつまらないものに見えることもある。これも想像力に関わって起こっていることだ。人の生ということについて、生きる実感があったり、なかったりすることがある。喜びが喜びでなくなったり、苦しみが苦しみでなくなったり。全てのことに、想像力というのは関わっているし、全ては想像力が担っているとさえ言えるのだ。
でもここではそこまで深入りすることもなかろう。ここでおしまいだ。
もっと元気を出して、もっと間違えろ。もっとアホウになれ。脳みその性能が悪いとアホウと言われるが、脳みその性能が本当のいいのも、やはりアホウと言われるのだ。
僕もアホウと言われるから、きっとどっちかのアホウだ。どっちでもかまわない。おやすみなさい。
[了]