No.186 バイバイ・トゥデイ
今日のわたしはどうしたいのか。
昨日の英気を今日に引き継ぐことはできない。
眠るとき、今日の全ては過去になる。さようなら、とはっきり別れなくてはならない。寂しいけれど。
そして朝目覚めたときは、過去を持っていない自分としてそこに生まれていなくてはいけない。
それだと過去の全ては失われるのかというと、それは違う。
感動したことは残っているからだ。
すなわち「思い出」である。
思い出はすでに、時間の流れに無関係な、普遍のものになっている。
それは過去のものでも現在のものでもない。
だから思い出が今日の何かに使えるわけじゃない。思い出はただ思い出としてある。
過去というのは、例えば昨日何かにすごくイライラした、というようなことだ。
これを翌朝に持ち込むことを、過去を引きずっている、という。
過去を引きずることの、何が悪いのか。実は、それ自体は何も悪くない。
過去が悪いのではなく、今の話。過去を引きずっているうち、その人は今に存在していない。
過去に存在したままだ。だから、その人の「今日」が始まらない。
今日の街を歩くことも、今日に人に会うこともできない。
心の中は昨日の録画を再生していて、今日の何かを受信はしていない。
それじゃあ、昨日から今日に来た甲斐がない。あなたの眼に映る街は実体がなく、あなたと一緒にいるつもりの人は、すごく寂しい思いをするだろう。
一緒にいるつもりだったのに、ずっと一人だったなんてね。
注意すべきは、これが何も悪いことに限らない、ということだ。良いことでも同じことが起こってしまう。
昨日のイライラを今日の朝に引きずっている、それは悲しいことだと誰でもわかる。けれども、昨日はすごく楽しかった、その余波や余韻、残滓を、大切に楽しんでいるとき、このときも同じことが起こってしまう。
今日に存在しなくなってしまう。
また、一緒にいるつもりの人が、一緒にいなくなって、寂しい思いをする。
心配しなくても、大切な思い出は残っていく。強制的に残っていく。だから勇敢に、眠るときは楽しかった今日を全部過去にしなくちゃいけない。
人は寂しがりだから、だから、なかなか夜眠ろうとしないんだろうね。子供でも、大人でもそうだ。
人は自信を失くすと、考え事をする。考えて、考えをまとめる。時に人はそれに必死になる。そうしないとやっていけなくなるから。
考えがまとまって、ようやく眠れるようになる。明日から頑張ろうと思って眠る。
でも、残念で残酷な話、昨日そうしてまとめた考えは、今日はもう使えない。
それはもう昨日のことだから。それを思い出して今日に転用しようとするけど、そうして頑張るとき、人はやっぱり過去に住んでいる。今日にいない。
だから、街は貧しくくたびれて見え、一緒にいるはずの人がいない。
考えをまとめたことに意味はあった。でもそれは、そのときその日、そのときの今日のこととして考えたから意味があった。その思考の手続きと結論を、今日にだけ吸い出して、使う、ということは意味を持ってくれない。誰だって経験すること。昨日あったはずの瑞々しさがない、という感触だ。
だから、同じ考えるなら、感動するところまでいかなくては。想いが、意志が、いやらしくこじれた思念を打ち破って、全てを解決してしまうところまで。そうして、フローリングの床に大の字になって、よかった、わたしは救われたよ、というところまでゆく。人と愛し合って進んでゆける、と静かにしみじみ感動する。その感動はあなたに思い出となって残る。それはもう、今日昨日明日といった時間に流されない。そうして、大の字に寝転んだときがあったなと、いつでも思い出せるものとして残る。何に使えるわけじゃない。ただ、思い出だ。
思い出が残ったら、今日のあなたの仕事は終わり。全部忘れて、深く眠る。そしたら必ず、翌朝は新しい自分として目覚める。自分が今日という時間に存在しているのがはっきりわかる。
そしたら景色の中、誰かと一緒にいられる。
今日のわたしはどうしたいのか。本当は過去から解き放たれて、これを想うとき、これは愉快で素敵なことなのだ。なにせ、景色がある。誰かと一緒にいられる。
やる気はあるのに、真剣に頑張っているのに、気持ちが重く苦しくなる、悲しいというときは、このことを思い出して。その時きっと、あなたは誤って、過去に住んでしまっていて、今日にいない。
今日に居続けることは本当に難しいことだ。
このことを思い出して、なんて言いながら、おかしい話があって、こうして僕が話していること自体、あなたには忘れてもらわなくちゃいけない。忘れてくれ、と思っているし、忘れてもらうために僕は書いている。これはまったく、僕の本音だ。全て忘れて、深く眠ってくれることを真剣に祈っている。
ただ、何かのときにふと、もう誰の何の話だったか忘れたが、自分は誰かの話を熱心に読んでいたことがあったなと、思い出してもらえれば十分だ。そんな時間が確かにあったなと。もしそのようなことがあったら、僕はわずかながらにでも、あなたの思い出に参加できたわけだ。話の内容というより、人の話を聞くのは面白いわ、というような思い出として。それで十分。もしそんなことがあったなら、僕はあなたの普遍に参加できたのだ。それもきっと、気分のいい側のものだったと、僕は信じることにして。
あのときの二人に戻れたら、なんて恋人同士は誰でも思う。それは誰にとっても大切で貴重な思い出だ。でもその大切な思い出を、今日に転用しようなんて考えず。今日のわたしはどうしたいのか。そうしたらきっとまた思い出が残っていく。
[了]