No.191 セックスと嘘と集中力
レストランで、ウェイトレスさんがガラス窓を拭いている。僕はそれを眺めるのが好きだ。ぐっと伸び上がって、膝裏にスカートが短くなる、それも好きで正直見てしまうけれども、慕情の起こるのはそれだけではない。
彼女が集中しているからだ。
集中と熱中とは違う。集中は頭の冷えて冴えることだが、熱中は頭に血が上っている。背後に客の立ち上がり、会計レジに向かう気配がある。ただちにそれに気づいて作業を中断し、レジに向かう彼女が集中力だ。テキパキしている。
ガラス拭きに「熱中」していたらそんな気配には気づかないだろう。レジ前からオーイと呼ばれて初めて気づき、あすいませーんと応えてドタバタ駆けていく。テキパキしていない。そして不思議なことに、こうしてドタバタしているほうが忙しそうに見える。実際、当人にしてみれば忙しく感じるだろう。忙しそうというのは、あわただしくて、見ていてあまり気持ちのいいものではない。
運転のヘタなおばちゃんは、ハンドルにしがみついて車を運転する。話しかけないで、と必死だ。これも熱中している状態。本人は必死だけれど、それでサイドブレーキが掛かったままアクセルを踏んだりする。事故につながる。それよりは、もちろんアイルトン・セナのほうが集中している。きっとゆっくり走っていても、感触から車体と路面の状態まで掴んでいただろう。
集中力のない女に、男は恋をしない。はっきり言えば、集中力のない女と、男はセックスしたいと感じない。ただし飢えている男は別だ。自信のない男はその自信の回復のために、若くて美人で目立つ女なら何でもいいと発想する。いや若くて美人ならそれだけでもいいか……と僕もそういう気がしてきたからあまり偉そうなことは言わないでおこう。若くて美人というだけで恋をしなければ男はダラシナイという側面の確かにある。けれども、ハッとして清潔な気持ちで、ああいう娘と二人で夜を過ごしたいなと思うのは、やはり集中力のある女なのだった。。
これは当たり前のことなのだ。袴姿で胸当てをして、弓をぐっと引いている髪を結んだ弓道の少女。凛々しく的を見据えている。清潔だ。集中している。上等なホテルの一室で、向かいに座らせるならやっぱりそういう女の子がいい。誰がわざわざ、コンビニ前でジャージ姿であぐらをかいている女を選ぶのか。そっちの趣味は例外としてはアリだが、それはひとつの悪趣味に逸脱してのスリルを求めてのことに過ぎない。
書道をしている少女などもそう。正座をしてキリッとして、大きく筆をふるってかっこいい。女からみてもかっこいいはず。ハイブランドだけど上品なバッグをあげるなら、どうせなら彼女にあげたい。喜んでくれるさまも嘘がなくて清潔だろう。誰がわざわざ、夫婦喧嘩を特技にしている女を選ぶか。
ショートパンツを穿いた美人女子大生が、ノートを開いてショーペンハウエルの文を書き写している、それに比べて、携帯ゲームをいじりながら発泡酒をガブ飲みしている女のどこに色気があるのだ。
いや、ゲームをしながらガブ飲みするの、楽しいんだけどね。やるなとは言わないし、それどころか僕もやる。一緒にやろうぜとさえ言いたい。でもそっちに男が惹かれるかというと惹かれない。今はとりあえずその話をしよう。
集中力のない女と、男はセックスしたいと思わない。思わないというか、感じない。感じられないのだ。なぜなら、いかにも連想が、セックス中の彼女の集中力のなさを想像させるからである。
集中力のないセックスを、僕はパチスロセックスと呼んでいる。楽しいのかもしれんし、気持ちいいのかもしれん。熱中するところもあると思うのだが、全体は怠惰だ。それでも気持ちいいから、習慣になったり、やらずにはいられなくなったりするのかもしれないが、いかんせんそれでは寂しい。豊かに何かの満ちる感触がまるでない。かといって、僕はパチスロの全てが悪いと思っているのでもないのだけれども。楽しいことがまるでないよりは楽しいことがあったほうがいい。楽しいことは多いほうがもちろんいい。でもそれとは別の、やはりキリッとした集中力のシーンも欲しいのだ。人間の全体性である。
集中力とは何か。集中するということはどういうことか。これは、んっ? となって、それでも頑張って理解してもらねばならないところの話だ。わかりにくいが重要なのである。集中とは、何かをすること、ではないのである。いや、何かをするにはするのだけれども、その何かに向けてゴーッと加熱してゆくことではないのである。むしろ何かあることをするにして、その他のことは一切やらない、決してやらない、ということが集中なのだ。拡散させないということである。拡散の反対が集中だから。
自分が何をやっているか/何をやってはいないか。むしろ、その何をやってはいないか、というほうが重要になってくる。
理屈では余計にわかりにくいかもしれない。
たとえば、あなたが茶室で誰か来客を待っているとする。あなたは、この「待つ」ということにも集中できる。待つ、というのは、行為としては何か具体的なものを持っていない。だから余計に難しいし、それだけに集中ということが浮き立つだろう。
あなたは茶室に正座して、「待つ」のだ。その間、自分の能力をどこかに拡散してはいけない。客が来たらこんなことを話そうとか、そんなことをつい考えてしまう。が、考えた瞬間、あなたの能力はそれに向けて拡散してしまっている。
そういうとき、あなたの身体はもうダラッとし始めているのだ。集中していないから。
ただ「待つ」ということができない。つい他のこともしてしまう。ここに、集中ということの難しさがある。待つんだー! と、自分に気合を入れてみても無駄なことだ。いくら気合を入れたって、待つのはただ待つということでしかない。それはもう、集中しなくては、という意識のほうへ能力が拡散してしまっている。
本当に難しいのだ。集中ということは。状態としてはシンプルだし、むしろ原理的にいえば、やることが減るわけだから楽になるはずなのに、その楽になるはずのことができない。何かに自分の能力を拡散させてしまう。集中するために瞑想しようなんてのも嘘で、瞑想したってそれは自分の能力の拡散だ。「待つ」なら「待つ」だけをすればよいのである。要するに、客はいつか勝手にくるので、それまで本当に何もしなくていい。ところが、この本当に何もしないということができない。おっそろしく難しいものだ。
「待つ」ということが、いくらなんでも、ということなら、「話を聞く」ということにしてみよう。人の話を聞くというのも、何かをしているようで、具体的な行為としては見えにくい。「話を聞く」は、「話を聞く」でしかない。それだけでよいし、それだけでいいのだから楽なはずなのだが、むしろこれが難しくてできない。聞いた話についてあれこれ考えたり、自分の言いたいことを思いついたりする。自分が話し出すのは、話を聞き遂げてからでいい。それまでは集中して、「聞く」だけをやる/それ以外はやっていない、ということが大事なのだが、大事とはわかっていても、これがなかなかできないのだ。それでダラッとなる。聞き流す、ということを始める。
集中というのはそういうことだ。自分の今やっていること、やるべきこと以外に能力を拡散しない。いわば、その他のことは全てサボるのだ。このサボるというあたりに、生真面目な人ほどやりにくいということも見えてくるだろう。
その、自分が今やっていることというのは、複数になっても構わない。講義を聴きながら、ノートを取る、という二つに分かれてもかまわない。ただそうしながら、この講義は役に立つなあとか、役には立たないなあとか、どちらを思ってもそれは拡散だ。
嬰児が言葉を覚えたり、幼児が算数を覚えたりするのに、驚異的なスピードを見せるが、その理由もひとつはここだ。彼らは与えられた目の前のそれ以外に、能力を拡散しない。拡散させる先をまだ持っていない。その点、集中ということについてはどうしたって嬰児なんかには勝ちようが無い。
われわれが英語を習ったとしても、英語を説明する文章は日本語だし、いちいちの単語や文章を日本語に変換して確認してしまう。でもそれは「英語」を身につけることからみれば拡散だ。能力が散逸している。だからなかなか英語は身につかないし、しんどい上に、たいてい身につけるのは「英語と日本語の詳しい接続」だ。だから英語の勉強なんてふつう面白くないし、やっているうちに身体がダラッとしてくるのだ。
集中というのはそんなもので、難しいのだ。ただときに、ごくありふれたところに、その集中が自然に起こることがある。ウェイトレスさんが窓拭きをしているときがそれだ。窓拭き以外のことは何もしていない。だから綺麗だ。窓拭き以外のことをしていないから彼女も楽だし、ドタバタしておらず静かだ。静かだから、周りに別のことが起こったらすぐ気がつく。
女が男の話を聞く。別に男女でなくてもよいけれども。とにかく、そうして話を聞きながら、途中で割り込むようにして、「いや、だけどさぁ」と反駁する。ありふれた会話の風景。それも会話には違いないが、誰もが感じているとおり、こういうシーンには色気もなければ胸に響く清潔な気配は何も無い。
極端な話、聞き手がジョン・レノンだったら、もっと静かに聞いただろう。聞く以外のことは何もしなかっただろう。
静かだ。
集中力のある女、集中できる女が、ただ静かに、人の話を聴き、にこにこ笑ったり、聞き終えて、あなたのこと好きよ、と言ったりする。清潔で、胸に響く。ありふれたことしかしてないはずが、何か妙にかっこいい。
そういう女が、キスしてくれたり、フェラチオしてくれたりする。視線を重ねてそらさない。他に拡散する先が無いのだから視線が余所へいく理由もないのだ。それで、唇と口腔を使って、男に愛と快楽を与えることに「集中」する。拡散しない。他のことは一切やらない。テクに自信が無いとか、女らしくないかしらとか、能力をどこかへ拡散させない。集中。ゆっくりでも激しくでも、愛撫は静かで、頭に血が上らないのに、やたらに響いてくる。
窓ガラスを無心に拭く少女のように、愛撫をするのだ。窓ガラスを拭くのに、誰が難しいことを考える? テクがどうとか、自信がどうとか考えない。この後に続くプレイも考えない。頭に血を上らせることなんてない。
一部、世間的に誤解があるようなので指摘するべきだが、セックスということに鼻息を荒くする女は、よくエロいとか言われて自分もエロさを自認するが、それは嘘だ。本当は何もエロくないぞ。
ひんやり集中して愛と快楽を与える少女のほうが一万倍エロい。何しろ彼女は、愛と快楽を与える以外のことはそのとき何もやらないのだから。男の側も集中できれば、他の誰かとはできない高みがその夜に起こる。視線を重ねて、静かに、静かに。
恋人同士と合意契約しなくても恋人同士になってしまう。
集中というのはそういうことだった。
どれだけバカな話を書いていても、僕は書くときは書く以外のことはやらない。
顔を真っ赤にするのは書きあがった後でいい。
集中の少女も終わった後でそんな感じだ。
じゃあ、また。
[了]