No.192 メリークリスマス
本当は世界はもっと美しいんじゃないだろうか?
僕がここに、こうして何かを言葉にしている、こんなことには何の意味も無くて、でもこの意味のないことが、本当の営みなのではないだろうか? 僕が生きたということの?
本当は、もう十分すぎるものを与えられているのではないか?
何かを追ったり、何かから逃げたりするのが、全ての間違いなのではないか?
何が正しいとして、正しいことをさえ追う対象になってしまう。
全ての人が、いや少なくとも自分だけは、今の自分でいい、これでいい、もう十分だ、もう一歩も動かないと信じられたら、世界は荘厳に満ちるのでは? もともと満ちていたものが、ただ明らかになって。
素晴らしいものって何だ? 素晴らしいものを、追うことは素晴らしいか?
それが全ての、このうそ臭い間違いの始まりだ。
素晴らしいものとは、賞賛できないものではないか? 賞賛できるものは、賞賛できる類のものでしかない。
何も追わず、何も逃げず。よりよいものなんて追わない。よりよいものなんてない。もしこの僕の言うことが素晴らしく正しかったとしてもそれをさえ追わない。
今わからないものは、これからもわからないままでいい。死ぬまでわからなくていい。そのことを知らず、わからずに生きた、そういうことであっていい。
賞賛が全ての間違いの始まりだ。賞賛をするから否定が生まれる。
人それぞれ、別々の、個性とか性格とか、持っていない。みんな人間だ。たしかに、色んな顔で笑う人がいて、ある人はもうしわくちゃで、ある人はまだこどもだ。顔をしかめてずっと不機嫌に三十年を生きてきた人もいれば、まだ若い、化粧の似合わないのっぺりした顔で、恥ずかしがりやで、どうしてもおだやかに、にこにこしてしまう人もいる。
でもどっちも人間だ。別に何も違いはない。違いはないんだ。それぞれ違う、全然違う、と頑張って思い込むことにしてきたけれど。
もういいや、の一言で全部済む。何も追わなければ何にもいちいち違いはない。
みんな人間だ。それを僕たちは人間と呼んだ。
世界のどこか、誰にも見られないところで、水は凍り、松葉からどさっと雪が落ちた。朝が来て老婆は木のベンチの端に座り、やせた膝を手で撫で擦るだろう。
世界と直接話して。
メリークリスマス。
[了]