No.196 ジコチュー
恋愛相談をしにくる女の子がいる。真面目で、弱気で、自信はないけど、頑張りたい女の子。彼に好きになってもらいたいんです、どうすればいいでしょうか、そのためならわたし何でもやってやるつもりなんです。いい女になりたくて……本当のことを教えてください。どんなに厳しく言ってもらっても、わたし大丈夫です。
真剣だ。僕は気圧されてしまう。よほど好きな人ができたんだろうな、と思い、僕も一緒になって真剣に考える。アイディアが必要だ。アイディアを出さなくなった僕はもうただの生ゴミである。だからアイディアを出さねばならない。誰でも考えつくことは要らない、それは彼女も考えつくのだ、だから僕はもっと素っ頓狂な、バカにしか思いつかないことを……
そうして、アイディアをひねり出し、アドバイスもして、彼女を見送る。頑張ってな、と何のひねりもなくエールして。
しかし実は、こうして一連のやりとりをしている中で、僕は内心、まあ厳しいだろうな、と感じている。無理、と決め付ける気にはならないが、状況はよくない。彼女の魅力が彼を射止める、ということには中々ならないだろう。それは言っても詮無きことだし、言ったところで彼女は引き下がるわけでもないから、無益に僕はそれを言い出しはしないけれども。
なぜ僕がそのように感じているか。なぜ「厳しいだろうな」と感じているかというと、やりとりをした僕自身、彼女といてあたたまるものがなかったからだ。彼女と居たいと思えないし、彼女と寝たいとも思わなかった。彼女に触れた気がしなくて、また会いたいとも思わなかった。彼女の側もそう思っているだろう。彼女はとても善良な女の子だから、僕に感謝はしただろうし、再び呼び出せば慌てて駆けつけてくるかもしれない。
けれども……と僕は思っている。厳しい、状況は実はよくない。
この頑張っている女の子に、「ジコチュー」という指摘を向けたら、果たして誰が納得してくれよう。ジコチューなのはお前だ、と僕のほうが言われそうな気がする。けれどもジコチューについて、自己中心性とは何なのか、ということを正しく考えたら、僕はこのことを本当は指摘せねばならない。
自己中心性とは、目の前の人を活性化しないことを言うからだ。
頑張ってな、と彼女を送り出したとき、僕の気持ちに嘘は無い。そして僕がどう思っていても、思いがけずうまくいくこともあるものだ。どうせならそうなってほしい。仮にうまくいったとして、その報告のメールなんかはこないだろう。それは彼女の性質から前もってわかる。もしメールが来るとしたら、うまくいって付き合ったのに、別れてしまったとか、そういうときだろうな、と思っている。
それでもうまくいってもらいたい。完璧な人間でないとうまくいかないわけでは決してないのだから。ジコチューで結構、ジコチューでも相手がやさしくて、他ならぬ彼が彼女を助けてくれるかもしれない。僕もかつてそうやってジコチューを修正されてきた。
自己中心性について話そう。
「じゃあ九折さんを口説いていいですか」
先の少女の何がジコチューかというと、簡単に言えばこうだ。なぜ僕の目の前にやってきて、他の男の話をしているのだ、ということだ。僕を呼び出して僕に話し、僕に心をまったく向けない。相談しに来たのだから、その話は出てもいいわけだが、それにしても心をまったく向けないというのは本来のありようではない。自己中心性がなければそんなことはできないものなのだ。自己中心性とは目の前の人を活性化させない人のことを言う。彼女は真剣で真面目だが、目の前の僕に向けて何か活性化をはたらこうとしただろうか?
みんな、弱気だけど頑張っている女の子が好きだ。ちょっと涙目にでもなればみんなが応援団になってしまう。頑張って! とおばちゃんのように応援したくなる。庇護の心がくすぐられるのだろう。けれども、それが物事を見にくくしてしまっている。それがまた、彼女をスポイルしているのでもあるのだ。
逆ならわかりやすい。僕が女の子を呼び出して、「好きな女がいてさぁ」と、メソメソとして相談する。アドバイスを求めて「厳しく言ってくれ」と唇を噛む。涙目になる。僕がそんなことをしたら、気色わる、の一言でおしまいだろう。それが男女逆転するとまるきりお花畑になるのは、みんなして頑張る少女に幻想を持っているからだ。
でもその幻想は誰の益にもならない。
この頑張る少女について、不快、と思う人はまずいないだろう。けれどもそれは、勇気を持って言うならば、自分もその少女に本気で向かっていないからだ。本気で向かっていないから、少女の心が自分に向かっていないことも気にならない。彼女と関係性を築こうとせず、善良な取り巻きとして仲良しのムードを作るに留まっている。また一般的にはそれでいいとされているし、一般といえば僕もそれでいいと思うところだ。
けれども、こうして頑張る少女がいたとして、本当にみんな彼女のことが好きか? わたしこのコ好きだなぁ、とあたたまるところがあるか? このコにまた会いたい、友達になりたい、と本当に思うか? そうは思っていないはずだ。
それで、そこなのだ。まったく重要なのはそこ。そこにいる全員が、彼女をいいコ、善良なコ、頑張ってほしいと思っていながら、好きだなぁとはあたたまっていないし、また会いたいとも、友達になりたいとも思っていない。だから「厳しいだろうな」と僕は判断するのである。こんなもの、彼女の想い人も同じ反応をするに決まっているではないか。「本当にいいコだし、頑張ってほしいって思うんだけれど、付き合うって気持ちにはなれないなぁ、ごめんね」。
同じ恋愛相談で、いい女になりたくてという話で、まったく違うアプローチを受けたこともある。考え込んで、ハッと顔を上げて彼女が言ったのは、
「じゃあ九折さんを口説いていいですか」
だった。
むむう、と僕は唸らされてしまった。なかなか粋なことを考えたものだ。
同じ恋愛相談だったとして、どうだ。どちらのほうが本当はイケそうで、どちらのほうが実は厳しそうか。何かそれ好きだな、会いたいな、友達になりたいなと思うのはどっちだ。
口説かせてください、というほうのアプローチは、目の前の人を活性化させることに主眼が置かれている。こんな魅力的な発想に至れる少女が、男に愛されないわけがない。
「俺に抱かれない女は全員バカだ」「どんだけジコチューなのよ」
たとえば飲み会の席で、気の強い女性が、僕の目の前で語る。大きなサングラスを目に掛けていそうだ。
「あたしカレシがさあ。ナルシストっていうか、すごいジコチューでさあ。ちょっと最近、マジでやってられないってなってて。なんで男って付き合うとみんなああなるの? 何か前もそうだったしさあ」
なぜ彼女は、目の前にいる男のことを無視して、突然、個人的な自宅にいる自分の彼氏のことを話し出すのか。付き合うと男はみんなああなるということは、目の前にいる僕もそうなるということで、すなわち目の前の僕も今非難されているということなのか。僕は謝罪して、自分の性質を改めます、と申し出るべきなのか。
そもそも、その「ああなる」ってどうなることなんだ。彼女にはわかっていても、僕にはわからない。
前もそうだったと言うけれども、その「前」って何なんだ。彼女自身はよくよく知っている、何か過去のことを指しているのだろうけれども、周りの者はわからない。それを読み取れない僕が低能ということなのか。
ジコチューなのは誰だ?
自己中心性について考えると、このように僕は指摘せねばならない。
「おっと、いきなり穏やかでないのが出たね。伺いましょう。その前に、鬼のようにからあげを注文していいかな」
「あ、あたし生春巻き食べたい」
「生春巻きね。ナマ、ナマが食べたいと。あのナマで棒状で皮に包まれてるやつが食べたいと」
「なにそれ、あんた皮に包まれてるの」
「う、まあその、平常時は……」
「それチョーウケるんですけど。でもみんなわりとそうだよね」
「まあとりあえず、お話伺いましょう。ジコチューということで言えば、俺も人には負けんからね」
「ジコチューなんだ」
「まあな。競技があればオリンピックに出てた。日本代表で」
「あーでもなんかそれわかるかも。そういうオーラ出てるもん。ジコチューの」
「出てる? そういうオーラだけ出てる? からあげ食ったら死んでいい?」
このようなとき、僕はジコチューうんぬんについて、彼女について思うことを正直に語ったりはしない。なぜかといえば、そんなことは誰にも求められていないからだ。僕は何の先生でもないし、友人でさえない。さあこれから飲みましょうという一人の馬の骨でしかない。
その馬の骨に求められることは何だ。せっかく飲むのだから、みんなで景気よく飲むために、景気のいい空気を作ることではないか。
僕は目の前の人の活性化に向かうのである。
僕にはお気に入りの冗談口がある。
「俺に抱かれない女はバカだ」
これは我ながら、傲慢で馬鹿っぽくて気に入っている。反省や思想の匂いがなくて好きだ。どうせフラれて帰る夜なら、このバカめ、バカはそっちよ、と笑いあって帰りたい。
「俺に抱かれない女は全員バカだ」
「どんだけジコチューなのよ」
このとき僕が気にかけるのは、相手が笑ってくれるかどうかだけだ。笑って、陽気になり、活性化してくれるならなんでもいい。
「俺に抱かれる女はバカだ」
こんなのじゃ誰も活性化しない。だから要らない。どっちが正しいとかどっちが本当とかの話じゃない。僕がどう思うかではなく、目の前の人を活性化できるかどうかなのだ。
自己中心性はトリックじみている。そしてジコチューでなくなるということは、大変むつかしい
自己中心性は難しい問題だ。根が深いというのもあるし、その現象自体がトリックじみているところがある。単純な知能の問題ではないらしく、心理学の実験からは、面倒くさいので詳細は省くが、おなじ三歳なら人間よりサルのほうが発達しているというレポートがある。三歳時点だとサルのほうが人間の子供より「オトナ」なのだ。だから頭が良くても自己中心性が解決されているとは限らないし、真面目で良識ある人なら解決しているかというとそうでもない。
あなたの自己中心性についての理解は間違っている。たとえばそう指摘してみたとして、このやりとり自体が自己中心性の問題にぶつかることがある。
「どうしてですか? ジコチューというのは、人のことを考えず、自分のことばっかりになる人のことでしょう?」
もし正面から行けばまずこのように衝突する。
「自己中心性というのは、自分の思っていることが絶対になってしまう、ということだから」
「はい。だから、やっぱりそうじゃないですか。自分のことばっかりになる人のことでしょう」
「あなたは今、ジコチューってこういうものだ、と『思って』いて、それが『絶対』だと思っているでしょう」
「えっ。でも、それはそうじゃないですか。自分が絶対じゃないというのはわかりますけど、これは、単に言葉の問題として。ジコチューというのは、自分のことばかりで人のことを考えないってことじゃないですか。あの、結局何が言いたいんですか?」
こういう不穏なやりとりになる。こんな不穏なのはいやだし、そもそも誰も活性化しないので、僕はまずこんなことを人に話さない。単純に話したら解決するというものでもないし、このトリックじみたところを突破するには人それぞれの機会に突き当たる必要があるだろう。
僕はこのトリックじみたところを突破する有効な表現を見つけるのに苦労したのだった。それでようやく発明したのがこれ。自己中心性とは、目の前の人を活性化しない人のことをいう、と。
人に迷惑をかけてないから大丈夫、ということではない。何も悪くないから大丈夫、でもない。ジコチューではないということは、それだけですでに愛があるということだ。目の前の人に心を向けるということの。
そしてジコチューでなくなるということは、大変むつかしい。目の前の人を活性化することは難しい。問われる力量自体も厳しいのに、まずそこへ心を向けることさえとてつもなく難しいのだ。
僕が誰かをナンパした、フラれた、あるいはOKされたとしても、他人から見ればどうでもいい。三十分もしたら忘れ去られることだ
女性が男性に告白するとき、あるいは男性が女性をナンパするとき。それなりに勇気が要る。まず思うのは、ウザがられたらどうしようということ。あるいは周りに笑われたり、冷やかされたらイヤだなということ。だから最近は告白なんか、メールで済ませようとすることが多い。そのほうが勇気が要らないし、相手がウザがっても断るに断りやすいだろう。相手にあまり迷惑をかけずに済む。
それで、みんなメールで告白しながら、本当は何か違うと、そのメール告白を軽蔑している。
ここには、まず自意識過剰ということがある。勇気が要るように思えるのは、この自意識が膨張していることによるのだ。
たとえば何かの会合の終わり、みんなが帰るまえにガヤガヤしている。そこにいる一人の女の子に歩み寄って、僕が、このあとお食事に付き合ってもらえませんか、と申し出る。周りにいる連中はどうなるか、へええ、と面白がって、ヒューヒューと冷やかすだろう。さすがにヒューヒューというのは古いが物のたとえだ。
僕はそのときどうするか。決まっている、片手を上げて観衆のエールに応えるのだ。
ごめんなさい、今日はちょっと、と言われる。まあ大体そう言われる。周囲には、アーアという、残念と安心の半々になった奇妙な歓声が漏れる。ざんねーん、と観衆の女性には言われるかもしれない。このとき僕はどうするか。特にどうしようもない。やはり片手を上げて観衆に応じるか、胸の前で十字架を切るか、あるいは「さあ、帰ってエロ動画を検索だ!」と拳を突き上げて見せるしかない。あるいは去り際に思い出して、「心の傷が癒えたらまた誘います」と告げておく。気の利く奴が誰かいたら、「めっちゃ傷ついてるやん」とツッコミを入れてシメてくれるかもしれない。
このとき、自慢じゃないが、僕のナンパは成功している。負け惜しみが99%だが、1%は本当だ。そしてその1%が大事である。目の前の人が活性化してくれればよい、と僕は言った。そのことに嘘はないのだ。ナンパ行為を受けるか断るかは彼女が決めることであって、僕が決めることではない。僕がそこに関心を持つのは汚らしいことだ。(ただし僕は汚らしいのでちょっとだけ関心を持つ。祈る)
こうして見てみれば、なんだ、ナンパだろうが告白だろうが、別に何でもないわけだ。ところがこれが自分のこととなると入れ替わってしまうことがある。何が入れ替わるかというと、自意識だ。自意識過剰になり、自意識が膨張すると、第一に大切にするべきことが入れ替わってしまう。
自尊心を守ることが第一になってしまう。そんなクソみたいな自尊心を……と誰でも思うはずだが、当人はそれが肥大してしまっているのだから事情が違う。その自尊心が一大事になっているのだ。本来は、そうして矮小な自尊心をプロテクトすることのほうに恥を知るべきなのだが、自意識過剰になるとそれも狂う。そんなことはどうでもいいから、とにかくプロテクト、という発想しかなくなるものだ。
そして当然、そういう奴のほうが陰で笑われている。バカにされているし、友人も本当に友人とは思っていない。
怖いな。言ってて自分で怖くなってきた。
自意識過剰の沈静のために、他人の立場になって考える。このあと食事に、と男が女をナンパする。これを他人の眼から見たらどうか。僕であったら、あっコイツやりやがった、しまった負けた、と内心で思っているだろう。そして低劣も極まる話、フラれてしまえ、と咄嗟に思ってしまうはずだ。(これは本当に恥ずかしい)
それで、うまいことフラれやがった。よかった、と実は安堵を覚えるだろう。もしそこで女の子が「はい、素敵なお誘いをありがとう」なんて言って、二人してデートに行ってしまったら、僕はいよいよ強烈な敗北感に曝され、内心で慌てて自己弁護と防御を始めなくてはならない。そうならなくてよかった、と、器の小ささ全開で安心しているのだ。
その後どうなるかというと、忘れる。面白いことがあった、面白いやつだなったな、と思っているが、そんなものは帰りの電車に乗る頃にもう忘れている。忘れるといえば、誘われた当の女の子だって、そのころにはもう忘れているだろう。言われたら、そうだったわねと思い出すだろうけれど、そうでなければいちいち覚えていない。
どうでもいいことだからだ。
この「どうでもいい」ということ。このことが、いつも真理としてひとつある。自意識過剰になると忘れ去られる真理がこれだ。ときに人は、この真理を何十年という単位で忘れ、あるいは覚えていても理解はされず、自意識をプロテクトすることだけに長い時間を生きていく。
どうでもいいことなのだ。これは僕の思想ではない。ただ純然の事実だ。僕が誰かをナンパした、フラれた、あるいはOKされたとしても、他人から見ればどうでもいい。三十分もしたら忘れ去られることだ。覚えているとしたらフラれた当人だけである。当人だけが、それを大事にして、ゴミ箱に捨てればいいものを、何日でも何年でも持ち続けていく。それをようやくゴミ箱に捨てても、他人は揃ってフーンとしか言わない。それが三十分でも三年でも三十年でもフーンとしか言わない。
こんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるか。この宇宙全体で、本当に僕だけがそれを気にして、一人でしんどい思いをするのだ。しかし自意識過剰になると、本当にこんな馬鹿馬鹿しいことの中で本当にしんどい思いをして生きることになる。
自己中心性の中にいると、このことがわからない。他人からみたらどうでもいいということが、理屈ではわかっていても、自分としてはそうならない。自分が思っていることが絶対、になってしまうからだ。ウザがられてフラれて冷やかされて恥ずかしい思いをする、その自尊心の低下の苦しみが「絶対」になる。これが「絶対」である以上、他人からそれを見たら――つまりは相対的に見たら――ということは、いくら考えても心に取り込まれてくれない。あるのは唯一、傷つきたくない、ということの「絶対」だけだ。
僕がそうナンパして、1%を成功と言い張る理由。それは目の前の人を活性化できたからだ。一緒に歩けなかった彼女は、三十分後にはそのことを忘れているだろう。おかしな人もいたものね、と最後に思って。
けれども、活性化の作用は彼女に残っている。
彼女の携帯が鳴って、久しぶりの友人からのコール。出てみると、みんなで集まっているからあなたも来ない? というお誘い。現在の時刻と、明日の予定を考えて、普段ならウーンと考えるところ、彼女は活性化に背を押される。
「行く行く。すぐ行くから待っててね」
フラれたうんぬんのことはもう終わった。三十分が経ったあと、手元に残しているのは僕だけだ。あとは僕が捨てればそんなことは世界から消え去る。明日の朝刊に載ることはない。
かくして、活性化だけが残るのだ。いいじゃないか、ハッピーエンドで。だから僕のナンパは成功なのだ。
99%の失敗は、僕の自己中心性にとっての失敗である。1%だけが、僕の人間のまっとうな部分での成功。だから99%のほうは要らない。ゴミ箱だ。
ジコチューになるというのは、この99%が100%になることなのだ。
(ただし本当の本当に僕が万事ヘッチャラでやってると思うなよ。俺にやさしくしろ。過保護に甘やかせ)
目の前の人に心を向ける。ただこれだけのことにしたって、とてつもなく難しい
自己中心性は「甘え」にもつながっている。甘えというのは、自分と他人との境界が曖昧ということだ。自分が思っていることを相手も思っていると思っている。自分が傷ついて重大なことや、自分が考えて重大なことは、相手にとっても重大なはず、とどこかでいつの間にか思い込んでいる。子供が母親に向けて泣いて甘えるように。
子供が傷ついたとき痛みに泣くのは、子供の痛みは母親の痛みに等しいからであり、境界がないからだ。子供が血を流していたら実際に母親も痛い。このことで子供は救われる。子供は世界を信頼できる。またそうしてまず信頼を育ててしまうからこそ、誘拐犯など悪い人にもひょこひょこついていってしまうのでもある。
子供はまずそういう発達の過程を辿るから、甘えているのが正しいし、傷ついたら痛みに泣くのが正しい。ただしそれは子供の話であって大人の話ではない。
たとえば僕が事故に遭い、傷ついて血を流したとしても、駆けつけてくる救急隊員は、個人的には早く帰りたいなと思っている。それは僕の痛みは彼の痛みではないからだ。課された職務として僕の救命に全力を尽くしてくれる。僕はその時点でまず、この社会という仕組みと、人人が職務に精励するという文化があることに感謝しなくてはならない。
そしてそこから、救急隊員は、何なら手を抜くことだってできるはずなのだ。人の命は大切にする、とは習っているし、習ったからこそそういう仕事をしている。その理念を信じてもいるが、それでもなお、そのときの気分によって、もういいか、と手抜きすることは可能だ。
ところがその可能な手抜きをせず、また職務に義務付けられたところを超えて、全身全霊をもって人の命を救おうとすることがある。人はそういう部分を持っている。自分の痛みではないのになぜ、という疑問がある。疑問があっても、人はそういうところを確かに持っているのだ。その説明しがたい部分を人は愛と呼んだ。なぜ自分の痛みでもないものを助け、自分の職務範囲を超えて奮起し、赤の他人の痛みを我がことのように感じてアドレナリンを出すのか。それは彼が「いい人」だからではない。彼の愛によるのだ。だから僕は意識朦朧の中でも、彼と彼の愛に感謝するだろう。あるいは愛ということに向けては、人間存在に感謝し、賛歌を想うかもしれない。
その愛が、ときに起こり、ときには失われる、その現象が生まれたり消えたりする理由は、今もってなお誰にもわからない。理由がわかるなら、愛は万人に常在することになり、世界はその日から完璧な平和になるだろう。
僕が誰かに恋をして、その女の子に電話する。声をかける。そのとき僕にとっては何か重大なことがあるのかもしれないが、相手にとってはそうではない。早く帰りたいなと思っている。救急隊員と同じく。
あなたが誰かに告白するときもそうだ。彼もそうだし、周りもそう。早く帰りたいなとか、明日の朝早いのしんどいな、とか思っている。他人だからだ。あなたにとって重大なことは、他人にとって何も重大ではない。
ただ人間には、それを飛び越える部分がある。あなたの声と姿と振る舞いに、本当のものが何かあったら、人はそこに愛の現象を起こすことがある。他人の境界を越えてくることがある。そのときあなたは彼と彼の愛に感謝するだろう。人間賛歌を想うかもしれない。その人間賛歌こそジコチューの対極だ。それは観衆に拍手を湧き起こさせ、互いの生き方をそこから大きく変えさせもする。
目の前の人の活性化へ。そこに向かうしか、ジコチューでなくなる方法はない。迷惑をかけなければいいなんて寝言を二度と言うな。それが寝言に過ぎないことをあなたは本当は知っているはずだ。
この、目の前の人を活性化させようという心、目の前の人の生を豊かにしようという衝動は、ときに自身の理解を超えてまで起こる。それを愛と呼ぶが、それは究極の話であって、いきなり理解を超えた神業物を求めるべきではない。それよりは入り口、序の口から、まず目の前の人を笑わせて。目の前の人に心を向ける。ただこれだけのことにしたって、とてつもなく難しいんだから。
[了]