No.197 恋圧
深く眠り、朝起きたときが好きだ。ブラインドの隙間から差し込む光は、磨り硝子に乱反射し、水色銀色の幾何学だ。全身の肉が布団のやわらかみと馴染み、寝返りをすると、冷気と暖気が乱気流のようにもつれ、ゆるやかに肌の上を流れていく。すう、すう、と自分の呼吸が枕元に音を立て、衣擦れはさやさやと耳にやさしい。細胞のひとつひとつが、生命の液に一晩浸されたかのようで、完全にやすまっており、眠るようでありながら、すぐ駆け出せるようでもある。
ちく・ちく・ちく・ちく、時計の秒針は物の音でなく時間の音。時の流れに合わせて盤上を旋回している。身を起こして布団に座り込むと、体液が重力に混ざる。もはや何も起きてほしくない、このまま過ぎろ、と安らかである。いちいち神様仏様に祈る気にさえなれない。立ち上がると世界は動き、ブラインドを引き上げるとまた世界が変わる。シャッと鳴るのはブラインドの音か差し込んだ光の音か。何が善いとか悪いとか、そんなことは嘘であった。そろばんの玉が上にあるか下にあるか、あるいはその途中のあいまいなところにあるかというようなことでしかなかったと、呆然とし安息する。
僕はこれを安息と呼んでいるのだ。安らぎというのはわざとらしいし、安心というのでは何かの商品名みたい。だから安息と呼んでいる。まさにという気もするのだ、安息の中で呼吸をすると。吸う息も吐く息も安んじてある。哲学者・西田幾多郎は、呼吸をするのも一つの快楽なりと言ったが、そのときその朝にはわかるのである。わかるも何も、当然過ぎて感心もしない。
いささか努力して、恋あいのことを考える。恋あいには何というか、叙情的な伴奏が流れる時間も必要だが、まるきり無音の、時の流れから脱落した水中のような時間も必要だ。本当はそちらが主かもしれない。すなわち安息である。その無音の安息の中で、香りから煙草の葉を選び、瑞々しいトマトの果肉を口にほおばりして、共に愉しむのが本当に二人が恋あいして生きることかもしれない。
これが、なんでもいいからごたごた言うな、全部掻き込め、カロリーを食い飛び出して働け、というのでは虚しい。むしろそちらのほうが刹那的だ。生きてゆく長い時間を、刹那的、早く過ぎろ早く過ぎろと念じて生きるようで哀しいのだ。
単に僕が骨抜きの屁垂れなのかもしれない。けれども、嘘をついてもどうにもならない。
この恋あいと安息について、どう関連しているか、うまく言うならどう言うべきか。深く眠り朝起きて、無音の幸福の生命の中に静かに目を覚ましてまどろむ。視界の端に女性がいて、硬い椅子に浅く腰掛け、彼女は絵画のように落ち着いて文庫本のページをそっとめくっている。起床した僕と目が合って彼女は静かにほほえみ、視線の重なりに互いの健やかと幸福を確認したのち、おはよう、と彼女のやさしい声が響く。食事やぬくいコーヒーは、そこからずいぶん時間を掛けて、ゆっくりやるほうが好ましい。
まるで血圧の話のようで、と僕は思った。血圧の不自然に高い人は、朝目覚めたとき、そら目覚めはよろしいが、何やら気ぜわしく起きるだろう。まるで病院の待合で長いこと待たされた者のように、何かに呼ばれてパッと立ちバタバタと動き出す。これは元気がよろしいのではない。くたびれているはずが、くたびれることを許さぬ習慣に、血液が習慣病になっただけだ。窓を開けて深呼吸をし、その香りに季節の進みを嗅ぎ取るようなひまもあるまい。
かといって逆に、低血圧というのもしんどそうだ。単に寝起きがゆるやかというのでない、肩こりや腰の不具合を抱えていて、手足足先、首筋も寒い。寝具に休まるというよりは、身体の痛みに休憩を与え、時間が来たら痛いままでも動かねばならんと、鞭を打ち込むようなところがある。それは安息ではない。安息どころか呼吸するたび、胸の狭さに緊張する、身体の筋肉が凝り固まって、肋骨がぎしぎし軋む具合だ。
恋あいというと二人で過ごす。それは当然だが、その二人は二人で、二人独特の空間を作ってそこに住む。そこに、軽薄な造語だけれども、血圧ならぬ恋圧というような、互いの心の拍動する圧力があったとして、それが高恋圧であったり低恋圧であったりすれば、二人の独特空間は安息のそれから遠ざかるだろう。
恋圧が理由でいつまでも恋あいが上手くいかないという人もいるように思う。恋には、よく人の性質によって、重いとか軽いとか言われるが、いわゆる気持ちが重いというのはそれぞれの年齢と成長で改善されそれなりに解決していくように思う。けれども恋圧のようなものは体質のようであって、気づいて療養せねば治らぬどころか年齢と共に悪化していくようにも思うのだ。
人の、いろいろな仕草。たとえば、何かお食事をされますかと尋ねたとき、善良にあっと弾むようにして、いえいえ結構です、と胸元で手を振る。この手を振る動作は、人によって勢いが違う。異性とデートしていて、何かを勧められ、いえいえ結構です、と手を振る。あがっているとか緊張しているとか、シャイだとか色々いうけれど、その動作の勢いを決定する本質はそこではない。血圧のような恋圧だ。バババッと慌てたように手を振る人は恋圧が高いのだろう。それは元気がよろしいのではやはりなかった。
食事処に行き、席を選んで僕がのろのろ座り込む。そこに給仕の女の子がやってきて、水の入ったタンブラーを置く。このとき、店の忙しさもあるにせよ、動作が急で勢いがよく、タンブラーがテーブルにゴンと音を立てることがある。水がこぼれないのが不思議なぐらいで、むしろ奇妙な熟練をさえ見る。僕は隠しているがそういう勢いのものに弱く、ギョッとして呼吸を奪われているのだ。ご注文はお決まりですか、と、まるで難詰されているように僕には感じられる。落ち着かない、安息どころではない。このような気ぜわしさは東京都会の風物みたいなところがあるが、僕はなるべくそういうところでの食事は避ける。事情は慮るけれども、それにしても落ち着いて飯が食えないのではわざわざ行く気になれないからだ。
僕は掃除機やドライヤーの音が嫌いだ。騒がしい音が苦手なのである。近所で道路の工事や建築の工事が行われているときには、我慢はするが苦労している。どうしても、気持ちを研ぎ澄ますのに無理が出てくる。今これは師走の三十日に書いているが、年の瀬もこのころになると、町の空気は落ち着いてきていて、また遠くに見える湾岸高速まで空いているのか、ひんやりと静かになって大いに助かる。日本の島全体が年の瀬の安息にいよいよ向かっているという気がしてうれしい。あくまで気のせいかもしれないが、気のせいだとしても幸福に属することだ。
僕はコーヒーを割りと贅沢していて、安物なのだが、ミルで挽いてドリップメーカーで淹れている。近所にコーヒー豆の卸があり、そこが近所付き合い程度の小売を窓口でやっていて、そこで抜群の安価で豆が買える。これを利用せぬ手はないとしてコーヒーは贅沢をするようになったのだが、さてこのコーヒーミルは電動の刃で豆を挽くものだ。僕はこの機械のガガガッという音も好きではない。特に木製ワゴンの上でやると振動が木板に響いて迫力のある大きな音になる。誰に聞いてもへっちゃららしいので僕は女々しく思えて隠すのだが、友人が来て積極的にコーヒーを淹れてくれるのを、ありがたいけれどすまない、ミルのスイッチを押すときに、機械ごと手に持ち上げて、音の響くのを避けて、さらには音を出しますと先に言ってくれと、すまないが申し出ることにした。
これではまるで僕が虚弱の神経質のようなのだが、かといって僕は大きい音が鼓膜自体に苦手というわけでもない。ヘッドフォンで音楽を聴くときは、割と人より大き目の、肺にまで届くような音量で聴いている。ある種の音楽は一定以上のヴォリュームでないと味がないし、ともすればヴォリュームこそが実は音楽の最大の要所なのではないかとこっそり思っているほどだ。このことは昔音楽の先生からデモテープをもらったときに、万年筆の達者な字で添えられていたメッセージにも支えられている。これをみなで聴くように、可能な限り、最大のヴォリュームで! と、その文体自体が音楽的な便箋に力強く書かれてあった。
このなぞは最近になって一匹の野良猫が解明してくれたのであった。まだ手毬のような小ささの子猫のときから、親猫に連れられてうちに来ては、食事をねだっては食べ終わって運動会をし、人影が差しては慌てて走って逃げていた子猫、彼女は今やすっかり慣れきってうちを常の住処とするようになった。気がつくと窓から出入りして押入れの上段にくつろいで寝ている。
この猫が教えてくれたのだが、コーヒーミルのガガガッとなる音、やはりこの猫も苦手なのだ。猫は別に隣の家のマージャンが深夜までうるさいということで眠れなかったりはしないと思うが、このコーヒーミルがガガガッと音を立てるとバッと起きて警戒する。単に大きな音ではなくて、穏やかでない、危険を思わせる音なのだろう。実際、豆を砕いているのだから危険の発する音でもある。エレキ・ギターはいくら高音が鋭く鳴っても危険の発する音ではない。
わかったことは、僕が苦手とする音は、だいたい猫も苦手だということだった。ドライヤーや掃除機の音を嫌うのはよく知られている。あれはきっと、空気の流れる音に、動物の本能が何物かの呼吸を読み取らせるのだろう。なにか強烈に息を吸い、吐いているものがある。危険だ、という反応である。コーヒーミルの音や、ドアがバタンと開け閉めされる音。戸棚の扉でもバタンという音が鳴る。僕はそれらの音が嫌いだ。見るとやはり猫も嫌いのようである。いくら慣れてきても、バタンと鳴ると耳がひゅっとそちらを向き、眠っていたのを薄目を開けて周囲の安全を確認している。
このように、動物の本能は、ある種のことを危険のシグナルだと自動的に読み取るようになっていて、そのときは自然に緊張を走らせるようになっている。それは必要な機能だし、実際に危険があるときには僕もその機能がないと困る。けれども、コーヒーを淹れるとわかっているのに、そのたびにガガガッとなってビクッとさせられることは有益ではない。それで友人にはそのときに前もって言ってくれるように頼んだのだが、友人はこのごろはもう僕には特殊な感性があると決め付けてくれているようで、よくわからないけれどもわかりましたという調子で了承してくれた。そして友人はのんきなので、了承しておきながらすっかり忘れてガガガッとやるのだった。
給仕がテーブルに水タンブラーを置くとき。あるいは濡れ布巾で拭くとき。胸元でいえいえと手を振るとき。何かに呼ばれて立ち上がるとき、何か思いついて動くとき。いくらでもある。自転車のスタンドを跳ね上げて動かすとき、鞄から何かを取り出すとき。ペン立てにペンを差し込むとき、煙草を灰皿のふちにトントンとするとき。いっそ動作の全てといってよいかもしれない。人間は鈍くなって自覚のないものだが、ひとつの動作からでも、そこに穏やかならぬシグナルを受け取り、ぴっと緊張を走らせて安息を中断するものだ。落ち着いて人人を観察しているといくらでもそのことを僕は発見する。動作のきつい人、などと僕は呼ぶが、動作のきつい人とは、近くにいるだけでたとえ何をやっていたとしても落ち着かない。
恋圧が高いとそうなる。いくら相手のことが好きで、ときめきがあり、この人を幸福にしたいという気持ちがあっても、恋圧が高いと動作はきつい。ぴっと緊張が走り安息は断たれる。こうなるとあらゆる努力も空転だ。朝起きたときから目に留めてウワッとすることになりかねない。
きつい動作ということを、いかにもわかってもらおうとして、代表例は何であろうか。僕が見つけ出したところでは、もっとも明確なのは、女性が出勤前の朝に焦って苛立たしい髪の毛のドライヤー、いわゆるブローだ。ドワーフ族がふりまわす棍棒のように、大きなブラシを振り回している。動作のきつさといい音といい、猫でなくてもまるで近づこうという気にならない。感覚を鋭敏にしてみれば気づく、それは見ているだけでもう怖いものだ。
動作に限らず、声や表情などもそうだろう。声なんか特によくある。ウンとかハイとかアノとか言うのでも、それが猫をびくっとさせるような、慌てて振り回されたような声になることはある。これは危険のシグナルとして、女性のほうがよく知っていよう。見知らぬ男からアノと声をかけられるにして、安息の断たれない声と、いかにもびくっとさせられて仰け反るような声があるはずだ。
だいたい、慌てている声ほどびくっとする。あとは不気味に、疲れてくたびれて、音色が暗くぶっきらぼうになった声。発声者に何の悪意もなくても、女性が本能的に早足で逃げ出すことはよくあることだ。
恋圧が高いと、慌てて振り回される声になり、恋圧が低いと、音色の暗いぶっきらぼうの声になる。鈍くなった人間はなかなかこのことに気づかないが、身体のほうは機能している。ぴりっと緊張が走り落ち着かない。安息は断たれる。いくら楽しもうとにぎやかにしても、それは楽しいかもしれないけれども、落ち着いていない。どうしても疲れてしまう。のんびりしようとしても、アノサァと声が掛かるたびに穏やかでないならそれはやはり疲れてしまう。
これが血圧の病気ならいくらか薬でごまかせるのに、恋圧ということだとそうもいかない。恋圧を上げようとか下げようとかしても具体的な処方はない。だからどうしようと提案することもできないのだが、それでもこのことを前もって知っているだけで、落ち着いて助かるということはあるかもしれない。そう思って僕はここに話している。恋の気持ちがいくら強くても、それだけでは益は無い、動作がきつくなって安息を断つばかりかもしれないし、考える内容がいくら正しくても、それだけではどうにもならない、声がぶっきらぼうになって彼をびくっとさせるだけかもしれない。
自覚はなくても、人がそうして周囲から危険のシグナルを受け取る本能は活発だ。いくらでも影響を受けているものだ。安物のバーに行くとカウンターで飲んでもどうも落ち着かない。好きになれない。それはカウンター向こうの若いバーテンダーの所作や身のこなしや声ことばの使い方が成熟していないためだ。仕事熱心に一生懸命、客に話しかけつつ、手早くグラスを洗ってサラシの布で拭こうとする。頑張ってはいるのだけど動作がきつい。安息の中で美酒を飲むということはどうしてもできない。
だから厳しいのだし、だから奥行きがあるのでもある。バーテンダーという職業ひとつをとっても。
熟練した板前が巨大な牛刀や光るほど重たい出刃包丁を扱うとき、迫力はあるけれどもそこに危険のシグナルはない。それよりは頑張り屋の女の子が小さなセラミック包丁を使うほうが見ていて怖い。何の意識もしなくても、人はそこに危険のシグナルを読み取っている。プロレーサーが鋭いコーナーを百数十キロで駆け抜けて、かつ数センチの隙間を縫うようにして前の車を追い越すとき、目を奪うように張り詰めるものはあるが危険のシグナルはそこにない。それよりは気の小さいおばさんの安全運転のほうが危険でひやひやする。
最近はインターネットの動画サイトが豊饒で、僕は何かと助かっている。というのは、僕は僕自身の調子が悪いとき、よく動画を見るのだ。武術の達人や、ピアノやバイオリンやドラムの名演奏者の映像を見る。別に造詣が深いわけではないのだけれど、見ていて落ち着くから助かるのだ。どれだけ動きが激しくても、その動作にきつさはない。安息というものがどのようであったのか、それらの映像はよく教えてくれる。僕はそれで息を吹き返すのだ。
不思議なものだ。達人が日本刀を振り回すより、気の短いおばさんが商店街で大きなショルダーバッグを振り回しているほうが危険に見える。危険のシグナルがある。見ているだけでまるでダメージを受けるよう。その反対に、見ているだけで回復させられるような人もいる。
できれば回復させられるような女の子になるといい。大切な恋ほど恋圧が高くなるもので、頑張るほどにうまくいかない。それで疲れて考え込むと、こんどは行き詰まって恋圧が下がり暗くなる。
そういうことがよくあるものだ。だから厳しいし、だからやはり奥行きがあるのだった。
じゃあまたね。
[了]